機関誌『水の文化』31号
脱 水(みず)まわり

町家の暮らし

杉本 節子さん

財団法人奈良屋記念杉本家保存会事務局長
料理研究家
杉本 節子(すぎもと せつこ)さん

杉本家の10代目を継承し、京の食文化を守る活動も行なっている。
http://www.sugimotoke.or.jp/

うちとこの家は、蛤御門の変で起きた元治の大火のあと、再建されたもの。棟札によれば、1870年(明治3)の上棟です。杉本家は1743年(寛保3)に奈良屋の屋号で呉服商として創業しました。1767年(明和4)に烏丸四条下ルから今の地に移り、京呉服を仕入れて江戸店(えどだな)で販売する、他国店持京商人(たこくだなもちきょうあきんど)として繁栄しました。

奈良屋の江戸店は千葉にあって、私の祖父の時代に株式会社に組織替えして百貨店になりました。平成に時代が流れ、商いは杉本家の手を離れました。土地も建物も会社の資産でしたが、1992年(平成4)財団法人を設立し今日にいたっています。

みなさんが町家と聞いて思い浮かべるのは、ウナギの寝床のように間口が狭い家。でも、うちとこは表通りに面して店を構え、居室棟を奥に平行して建てて、両方を幅の狭い玄関棟で合わせる「表屋づくり」という形式なんです。

町家町家と言われるようになったのは、バブル期以降。古い建物がどんどん壊されて、景観を大切にする京都としては大問題。失われてみて、初めて「町家を保存しよう」と官民の心が一つになっていきました。

でも、みんな「うちとこって、町家やったん?」という調子。普通にあった暮らしだから、そんな呼ばれ方、せえへん。意識したこともなかったんですね。

表通りから見える虫籠窓(むしこまど)の部屋は今は洋間になっていて、私の祖父母が結婚したときに改装しました。普通、店(みせ)の間(ま)の2階は奉公人の居室。でも、洋間にしたときに天井を上げたので今は物置ぐらいにしか使えへん。町家といっても、こうした暮らし方に添った改装もされてきているんです。

でも、走り庭にあるオダイドコには、使われなくなって久しい竃もそのまま残されてます。嫁いで50年経つ私の母が、「お嫁に来たときには、もう、お竃戸(くど)さんに火を入れてへんかった」と言うてますから、使わないものをよく残したものです。商売をしていたときは奉公人もたくさんいましたから、このオダイドコが大活躍したんやないですか。奥には米蔵と炭小屋、漬物小屋もあって、大勢の食事を賄うための蓄えが備わっていました。

敷地内には井戸が幾つもあります。

「毎朝の井戸神様へのご挨拶が大変ではありませんか」

と言われることもありますが、うちとこは初代の新右衛門のときから西本願寺の熱心な信者で、三代目新左衛門秀明から七代目新左衛門為一まで、直門徒(じきもんと)となって本山勘定役を務めました。ですから、神サン事は一切しません。神棚もないし、オダイドコにも荒神様を祀りません。お正月のお餅もお鏡でなく、お仏壇の御荘厳として五つ重ねにした輪取り餅を供えます。

でも、八坂神社の氏子でもあるんです。同社の夏の祭礼で、毎年7月の祇園祭は一年中で一番楽しみなハレの行事です。当財団では、屏風飾りをして多くのお客様をお迎えします。また、当家がある矢田町が保存する伯牙山のお飾り所となります。

「歳中覚(さいちゅうおぼえ)」は、三代目によって書き始められたという暮らしの手元控え帳。二十四節気(にじゅうしせっき)にのっとって暮らしていたころの大切な記録です。古い家の保存はなかなか大変なこと。でも、町家を残すのはもちろん、料理研究家として四季折々の食やしきたりも伝えていきたいと思っています。



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