機関誌『水の文化』40号
大禹の治水

富士山と酒匂川
足柄の歴史再発見クラブの活動

扇状地河川の宿命として、明治、大正、昭和、平成になっても水害が続いた酒匂川。〈足柄の歴史再発見クラブ〉は、足柄の郷土史を子どもたちに伝えたいという想いがもとになって結成されました。副読本『富士山と酒匂川』を手引きとして、足柄平野開拓史の現場を案内していただきました。

編集部

  • 現在の酒匂川流域。●と▲を組み合わせた地点から撮影した写真。流路が固定されて開発が進んだ。

  • 現在の酒匂川流域。●と▲を組み合わせた地点から撮影したのが、上の写真だ。流路が固定されて開発が進んだ。

    土地理院基盤地図情報(縮尺レベル25000)「神奈川、静岡」及び、国土交通省国土数値情報「河川データ(平成20年)、土地利用細分メッシュデータ(平成18年)」より編集部で作図 この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の基盤地図情報を使用した。(承認番号 平23情使、第630号)

  • 現在の酒匂川流域。●と▲を組み合わせた地点から撮影したのが、上の写真だ。流路が固定されて開発が進んだ。

田中丘隅(きゅうぐ)のバトンを渡す

神奈川県にある足柄平野は、気候も温暖で農産物も豊富、小田原に近く海の幸にも山の幸にも恵まれた暮らしやすい地域である。しかし1707年(宝永4)、富士山の宝永噴火をきっかけに酒匂川の氾濫が常態化。災害常襲地帯となる時代があった。富士山の噴火による降灰で川床が上昇し、堤防が決壊。大規模な洪水が頻発する激甚災害地となったのである。

災害復旧にあたった田中丘隅は、災害の記憶を忘れず自衛するようにと、文命社と川丈(かわたけ)六地蔵を祀った。

〈足柄の歴史再発見クラブ〉は、そうした足柄の郷土史を子どもたちに伝えたいという想いがもとになって、2006年(平成18)1月に結成された。会長の佐久間俊治さんは、「足柄の郷土史から学んだことを若い人たちに伝えていくことは、大人の責務です」と結成の動機を語ってくれた。

その成果の一つが、小学生、中学生の副読本『富士山と酒匂川』。この本を手引きに、足柄平野開拓の現場を、河川工学者の島谷幸宏さんと環境宗教学者の岡田真美子さんとともに案内していただいた。

足柄平野の開拓の大恩人 大久保忠世・忠隣

扇状地である足柄平野を大水田地帯に変えたのは、大久保忠世(ただよ)と忠隣(ただちか)親子だ。

戦国時代の小田原は後北条氏が治めていたが、1589年(天正17)に真田家との領土争いを発端に、豊臣秀吉による小田原征伐を招き、1590年(天正18)に、後北条氏は滅亡。家康の関東移封に伴って、豊臣秀吉の命を受け小田原城に4万5000石を与えられたのは、三河国額田郡上和田(愛知県岡崎市)の徳川家譜代の名門で武断派筆頭・大久保家の嫡男の大久保忠世だった。

息子の忠隣は本能寺の変(1582年〈天正10〉)に際して、「生涯第一の艱難(かんなん)」と家康が後年述懐する伊賀越えに同行。甲斐・信濃平定に尽力し、1594年(文禄3)忠世亡きあと小田原城の2代目城主になった。甲斐・信濃平定に尽力していたころ、家康の命で大蔵長安こと、のちの大久保長安(ながやす/ちょうあん、とも)(注1)と出会うのである。

忠世は秀吉の小田原合戦で荒れた足柄上・下郡147カ村を復興するために検地を行ない、大口にまだ土手がないために網目状に流路が広がる酒匂川の川筋を平野の東側に一本にまとめて、新田開発するという壮大な計画を立てた。忠隣は父の遺志を継ぎ、上流からの水勢を弱めるために春日森土手、岩流瀬土手、大口土手を築き、現在の酒匂川の基礎をつくった。

春日森土手は、酒匂川の水勢を釜淵と呼ばれる段丘崖に当てるための誘導の役割を果たし、岩流瀬土手は釜淵に当たった水勢を千貫岩と呼ばれる段丘崖に誘導して、大口土手に直接当たらないようにする重要な土手。大口土手は、千貫岩に当たった水勢を迂回させて、足柄平野に酒匂川が緩やかに注ぐように考えてつくられている。この治水システムは、武田信玄による釜無川、笛吹川の場合とよく似ていて、影響があると思われる。

忠隣はまた、酒匂川左岸に全国でも珍しい形(拝み石)で組んだ酒匂堰を、右岸の大口土手付近に穴水門堰、根又堰、武永田堰などをつくり、足柄平野に用水路網を巡らせ新田開発に注力した。足柄平野では用水という言葉は使われず、堰(せぎ)と呼称する。用水を堰というのは、足柄と山梨、長野の一部だけ。甲州に縁の深い大久保長安の影響もあるのではないかという。

1591年(天正19)の検地から約50年後の1640年(寛永17)には、反別収穫高が214%を超える。忠世と忠隣親子は、足柄平野と酒匂川にとって恩人というべきだが、晩年に悲劇を迎える。忠隣は本多一派との対立から、大久保長安事件(注2)を発端に失脚させられ、彦根に移封となる。

(注1)大久保長安(1545〜1613年)
父の大蔵大夫が猿楽師として武田信玄に召し抱えられたことをきっかけにして、黒川金山などの鉱山開発や税務など武田家に従事。武田家滅亡後は家康に取り立てられ、相模国小田原藩の初代藩主となった大久保忠隣と親交を持つことになる。大久保姓は忠隣から与えられたもの。
甲斐が家康の領地となったとき、内政再建を所務方として行ない、釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田開発、金山採掘などに尽力した。八王子千人同心の創設、全国の金銀山の統轄や、関東における交通網の整備、一里塚の建設など江戸初期の国土開発を一挙に推進した。死後に金の横領で私腹を肥やしたという疑いがかけられ、遺体が磔に処された。

(注2)大久保長安事件
徳川幕府成立後、忠隣とその与力といえる大久保長安を中心とした武断派と、本多正信・本多正純を中心とした文治派が派閥を形成し対立。正純の与力であった岡本大八が有馬晴信から賄賂を受け取った事件により、本多派は一時、勢力が衰退したかにみえた。
一方長安は、全国各地の鉱山奉行を務めており、鉱山開発のコストを削減することで自分の取り分を増やし、富を蓄えた。取り分は出来高制の範囲で合法的だったが、本多派は、その巨額に着目し、長安は私腹を肥やし謀反を企てていたと家康に讒言。埋葬されていた遺体を掘り起こし、岡本大八が処刑された安倍川河原で磔に処した。長安の7人の男児と腹心も処刑となり、長安の庇護者であった大久保忠隣も失脚させられた。

宝永噴火で激甚災害地に

酒匂川に文命宮が祀られた端緒は、富士山の宝永噴火にある。

大久保が1609年(慶長14)につくった酒匂川の外形は、約100年間、維持される。しかし99年目に富士山の噴火が起きた。貞観噴火に匹敵する大噴火であった。

1707年(宝永4)10月4日に起こった宝永地震の49日後、11月23日(いずれも旧暦)に富士山が大噴火を起こした。梅の実ほどの軽石や砂や灰が、16日間も降り続き、山北町の上のほうは約1m、開成町の町内には40cmほどの降灰(スコリア)があったという。

当時の様子は収穫高から推察できる。富士山が噴火したのは、現代の暦でいう12月16日。その年の収穫は既に終わっているから噴火前を基準にみると、38年後の1745年(延享2)で3分の1にも達しない。住民は、その間、小高い丘への避難生活だった。収穫高が、噴火前のレベルに回復するのは明治になってから。実に170年以上かかっているのだ。足柄平野の先人達は、想像を絶する労苦を経験した。このことにより、歯を食いしばって頑張るDNAが足柄平野に培われたのかもしれない。

激甚災害への幕府の対応

初代会長を務めた大脇良夫さんは、この災害に対する幕府の対応は非常に素早かった、と言う。

「1708年(宝永5)1月1日の早朝に噴火が収まりますが、3カ月も経たないうちに、幕府は次々と政策を打ち出します。一つには、当時の小田原藩主の大久保忠増は被災地への食料供給などの対策を実施しましたが、藩レベルでは手に負えないと知るや、幕府に救済を願い出て、周辺一帯を一時的に幕府直轄領とします。幕府は、小田原5万6000石を吸収する代わりに、上げ地といって美濃、三河、伊豆、赤穂を代地に提供しました。

二つ目は、伊奈半左衛門忠順(いな はんざえもん ただのぶ)が現地駐在の復興大臣に就任します。江戸詰でなく現地駐在が大切です。三つ目は、全国の大名領や天領に対しては、石高100石に対し金2両の臨時復興税を徴収します。このぐらいのスピード感だから、みんなも納得するんですよね。48万8770両が集まりました。ところが実際に被災地救済に充てられたのは、約13万両。トホホと思いますが、江戸の御殿の修復に流用した。荻原という非常に優秀な財務大臣がいて、どうせ必要ならとやっちゃったのです。

臨時復興税は、酒匂川の川底いっぱいに溜まっていた噴火砂を浚う御手伝普請に使われました。最初に岡山藩から170人ぐらい来ます。次に北九州の小倉藩、越前の大野藩、熊本の新田藩、鳥取藩。全部で500人ぐらいの人たちが来て働いてくれました。

1711年(正徳元)の大洪水で大口土手が決壊し、新流路には堤防がありませんから、雨のたびに流路が変わって大変でした(下図)。間もなく川筋が落ち着き、東側の村々は安泰になり、酒匂川の旧流路も田んぼになりました。元は川ですので肥沃な土地で、東の村々は『このままでいい』といい、西側の六カ村は『とんでもない』と反対。深刻な東西対立になりました。このときの絵図の原図は明治大学に保管されています」

流路を元に戻すのか? このままにするのか? 最後の裁きには、大岡越前守が登場。大岡裁きの末、川筋を元に戻せと命じられ着任したのが田中丘隅である。

決壊した酒匂川の新流路

決壊した酒匂川の新流路
1720年(享保5)10月「相州酒匂川本川通川除御普請御願絵図」より、編集部が作図(明治大学博物館 瀬戸家資料)
赤色部分が移転を余儀なくされた、大口水下水損六カ村。

土手の復興と文命社創設

田中丘隅は『民間省要(みんかんせいよう)』という本で、「徳川の世になり120年経つけれど、家康公の精神が揺らいで非常に由々しい事態に陥っている」と訴え、酒匂川災害の復興工事についても提言。江戸の業者による手抜き工事を厳しく糾弾、酒匂川の特性を熟知する地元を活用すべし、と言った。丘隅は2代目大口土手をつくって治水事業を行なったあと、岩流瀬土手と大口土手に文命社を建て、文命宮と碑をつくって祭りを行なうように指示し、土手には桃、李(すもも)、梨、栗、柿など、実のなる樹木を植えるように命じたほか、川丈六地蔵も祀った。集まるときには堤防上に石を持ってくるようにとも命じたが、石を持ってくる習慣は1970年(昭和45)ごろまで続いていたという。

これらのことを丘隅が指示したのは、治水の要所を意識して忘れないようにするための工夫だったのだ。

受け継がれる治水家魂

しかし、田中丘隅のつくった土手は、8年後には潰れてしまう。56人の水死者を出し、史上最大の被害となった。これについて大脇さんは、

「このときは酒匂川だけでなくて、関東の川という川がほとんど氾濫するほどの大暴風雨だったのですが、言いわけになりません。まず、田中丘隅様がつくられた土手だから大丈夫だろうとの油断があったと思います。次に、時間帯が午前4時で、寝込みを襲われた。現代風にいえば、ゲリラ豪雨で避難する時間が無いほど急激な洪水だったのでしょう」

1735年(享保20)3代目大口土手を、丘隅の婿養子 蓑笠之助が復旧する。丘隅と笠之助の仕様の違いは土手の材質と工法だった。丘隅は赤土を使ったが、笠之助は車地(人力のクレーン)を使って巨石を積み、城の石垣のように頑丈な土手を築いた。

「今から約200年前の1802年(享和2)に大洪水が起きて、岩流瀬土手も大口土手も表層は全部崩れましたが、土台底部は残ったと伝えられています。材質と工法の違いが、明暗を分けたのではないかと思います」

なお、川音川の合流点に大掛かりな三角土手を築いたのも笠之助ではないか、といわれている。

現代の水害に生きる丘隅の精神

田中丘隅は水防命令書を発行して、水防組合をつくらせ、どこの堤防をどの村が守るのかを明確にした。水防を日常生活の一部にして習慣化することで自衛するという丘隅の思惑は、1938年(昭和13)の水害時にも役立っている。

九十間(くじっけん)土手は曽比(そび)と中曽根を含め、現在もかろうじて残る三つのかすみ堤(ここでは足柄地域の表記に準ずる)の内の一つ。その九十間土手が決壊の危機を迎えたのは、1938年(昭和13)の梅雨の出来事である。

6月中旬から降り続いた長雨で、酒匂川は増水していた。27日の深夜から28日の夕刻にかけての豪雨に加え、さらに降り続いた雨により、30日の正午過ぎから九十間土手の南端からじわじわと決壊が始まった。

通常は堤防を守るために置かれた〈川倉〉(水制工)の残骸にぶつかった本流が、中土手を直撃し始める。中土手が切れると開成町南部から小田原市まで水浸しになる。死守せねばならない重要な最後の砦である。地元住民による〈川倉〉の撤去と松の木による木流しが敢行されたが、危険はますます高まり、半井神奈川県知事は、ついに赤羽工兵隊と横浜消防隊に救援要請を出した。

「しかし中土手を守り抜いたのは、地元住民パワーだったのです。大きな鋸を体に縛り付け、激流の酒匂川に命綱なしで飛び込んで〈川倉〉を切り倒したのは、地元吉田島の15人だったのです。危険であるが故に、工兵隊がためらう中を飛び込んでいった15人のことを郷土の誇りとして、子どもたちに語り継ぎたいと思います」

このとき壊れた九十間土手は1941年(昭和16)に丸2年を要して復旧された。2009年(平成21)は大口土手が築かれて400周年、2011年(平成23)は九十間土手修復70周年の記念の年。こうした節目には、必ず過去の経験を生かす記念のシンポジウムが行なわれてきた。そして、〈足柄の歴史再発見クラブ〉メンバーが運営の強力なスタッフを務めている。

2011年(平成23)10月22日に行なわれた〈酒匂川かすみ堤 九十間土手修堤70周年を考える小田原・開成の住民の集い〉で大脇さんは、1938年(昭和13)の大水害以降、酒匂川の防災意識が次第に希薄になったことを指摘している。

その理由として、①三保ダム完成(1978年〈昭和53〉)による洪水調整機能への過信、②都市化によるかすみ堤消滅で遊水地機能が失われたこと、③そして流域市町村(静岡県、神奈川県3市、5町)の連携意識の低下、の三つを挙げている。特に、①の洪水調整機能については、酒匂川全水量の3分の1にしかならないことを訴えている。

次に控える大きな記念イベントは、2013年(平成25)文命用水完成80周年だ。大久保忠隣以来310年余続いた取水方式が関東大震災で壊滅。酒匂川から直接取水する従来の灌漑用水は、氾濫によって取水口が泥で詰まったり破壊されると、修復しなくてはならない。そのたびに動員される農民の労苦は、大変なものであった。そこで、幹線水路を酒匂川沿いに新設し、そこから灌漑用水路に流す画期的な用水システムが計画された。これが、文命用水だ。山北町の足柄橋近くから取水された水は、右岸の開成町側から川底をサイホンで通して、左岸の松田町・大井町・小田原市に送られている。文命用水には落差を利用した水力発電所も組み込まれている。

「当時は発電に対する偏見があって、作高に悪影響があるのではないかと、反対運動が起きました。幾多の紆余曲折を乗り越えて、大規模な幹線水路を新設した先人たちの努力には頭が下がります」と大脇さん。壊れたものを元通りに復旧するのではなく、システム自体を見直した英知と勇気を称えたい。

〈足柄歴史再発見クラブ〉の面白いのは、発見ではなく再発見というところ。地域には宝がたくさんあるけれど、忘れられたり、正当に評価されないことも多い。磨けば光る石をみつけて、輝かせるのが再発見クラブの役割だ。楽しみながら再発見を続ける人たちが、今、禹を媒介に求心力を発揮している。

『富士山と酒匂川』では、開成町の文命中学校の美術部の生徒たちが挿絵を描いてくれた。当時、平均年齢63歳だった〈足柄の歴史再発見クラブ〉の会員たちの孫世代とのおつき合いは現在も続いており、郷土史に興味を持つ頼もしい人材が育ちつつある。酒匂川の防災意識を希薄にしてしまった三つの原因も、郷土史を学ぶことで徐々に改善に向かいつつあるように感じた。

  • 川倉(水制工)

    川倉(水制工)

  • 山から平地に流れ出た酒匂川は、春日の森土手でコントロールされて河岸段丘である釜淵にぶつかって、ほぼ直角に流れを変える。

    山から平地に流れ出た酒匂川は、春日の森土手でコントロールされて河岸段丘である釜淵にぶつかって、ほぼ直角に流れを変える。写真向かって右に見える土壁が釜淵だ。

  • どちらも関東大震災で倒壊していたのだが、2009年(平成21)に復元された。

    大口土手そばに建立された文命宮と文命東堤碑。どちらも関東大震災で倒壊していたのだが、2009年(平成21)に復元された。文命宮の石は祠部分以外は、新しい石だ。文命東堤碑の原文は、田中丘隅が書き、荻生徂徠が推敲したもの。

  • 文命東堤碑の原文は、田中丘隅が書き、荻生徂徠が推敲したもの。

    文命東堤碑の原文は、田中丘隅が書き、荻生徂徠が推敲したもの。

  • 1938年(昭和13)の水害で崩れた九十間土手が修復されて70年が経過。九十間土手は、かすみ堤として現役で活躍している。

    1938年(昭和13)の水害で崩れた九十間土手が修復されて70年が経過。九十間土手は、かすみ堤として現役で活躍している。

  • 金井島にある瀬戸屋敷には、富士山宝永噴火のスコリアが一目でわかる〈はぎ取り標本〉がある。

    金井島にある瀬戸屋敷には、富士山宝永噴火のスコリアが一目でわかる〈はぎ取り標本〉がある。

  • 副読本『富士山と酒匂川』を手にした佐久間俊治会長と事務局長の大井みちさん。

    副読本『富士山と酒匂川』を手にした佐久間俊治会長と事務局長の大井みちさん。

  • 島谷幸宏さんと岡田真美子さん

    島谷幸宏さんと岡田真美子さん

  • 松田町惣領にある寒田神社。

    島谷幸宏さんと岡田真美子さんが、地図上からその重要性に注目していたのが、松田町惣領にある寒田神社。仁徳天皇創建といわれる由緒のある神社で、古風土記にも記述がある。かつては相模田神社、佐武多神社、佐牟太神社等と称した。1654年(承応3)酒匂川の氾濫により社殿等が流出している。やはり、治水上の重要地点であろう。かつては、鳥居の前に酒匂川がきていたと推測される。

  • 仁徳天皇創建といわれる由緒のある神社

    仁徳天皇創建といわれる由緒のある神社

  • 大正時代の旧酒匂川流域。

    大正時代の旧酒匂川流域。
    国土地理院2万5千分の1地形図「山北(大正10年測図、大正14年4月30日発行)」、「秦野(大正10年測図、大正14年7月25日発行」、「関本(大正5年測図、大正8年4月30日発行」、「国府津(大正5年測図、大正8年2月22日発行」より編集部で作図
    この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 平23情複、第663号)

  • 川倉(水制工)
  • 山から平地に流れ出た酒匂川は、春日の森土手でコントロールされて河岸段丘である釜淵にぶつかって、ほぼ直角に流れを変える。
  • どちらも関東大震災で倒壊していたのだが、2009年(平成21)に復元された。
  • 文命東堤碑の原文は、田中丘隅が書き、荻生徂徠が推敲したもの。
  • 1938年(昭和13)の水害で崩れた九十間土手が修復されて70年が経過。九十間土手は、かすみ堤として現役で活躍している。
  • 金井島にある瀬戸屋敷には、富士山宝永噴火のスコリアが一目でわかる〈はぎ取り標本〉がある。
  • 副読本『富士山と酒匂川』を手にした佐久間俊治会長と事務局長の大井みちさん。
  • 島谷幸宏さんと岡田真美子さん
  • 松田町惣領にある寒田神社。
  • 仁徳天皇創建といわれる由緒のある神社
  • 大正時代の旧酒匂川流域。


(取材:2011年9月25日)

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