機関誌『水の文化』43号
庄内の農力

庄内の米づくり
つや姫誕生までの道のり

私たち消費者は、毎日当たり前のように米を食べています。しかし、生産の現場では、しのぎを削る努力を持って米が生産されていることを、冨樫達喜さんたちに教えていただきました。 庄内では、米が早くから換金作物として流通した歴史があり、生産者に工夫と気概を醸成してきました。つや姫誕生は、量より質に変わった時代の要請に応えた、庄内農民のプライドかもしれません。

 つや姫を庄内ブランドに

冨樫 達喜さん

因幡堰土地改良区理事長
冨樫 達喜(とがし たつき)さん

都会からきたみなさんが、「この水でつくる米だったらおいしいよね」って言ってくださるんですが、やはり庄内は水イコール米なんです。

私は、土地改良区の仕事をやらせていただいていますが、本業は米づくり農家です。1947年(昭和22)生まれで、四十数年間米づくりをやってきました。最近注目の〈つや姫〉を実際に栽培してみた感想もお話ししたいと思います。

因幡堰土地改良区の事務所がある藤島地域というのは、特別栽培とか有機栽培にずいぶん昔から取り組んできた所です。遺伝子組み換え作物も、この地域には一切入れません。いろいろなことをやってきた地域なんです。

〈つや姫〉栽培にあたっては、非常に高いハードルが設定されていて、認定を受けた人しかつくることができません。もっと限定された地域で自主規制をかけている所はありますが、ここまで広域でやっている所は珍しいと思います。決められた栽培マニュアルどおりにつくらなくてはいけない、という場合でも、みなさん、そういうことに慣れているから、いとも簡単に実践しています。

〈つや姫〉は特別栽培か有機栽培に限って、生産者を認定しているんですが、それには理由があって肥料をやり過ぎるとタンパク質の含有量が多くなり過ぎて、食味が悪くなってしまうからです。〈はえぬき〉をつくり慣れている人だと、どうしても肥料過多になりがちなのです。それで、特別栽培とか有機栽培にして品質を維持するようにしています。

私が米づくりを始めたころは、一世を風靡したササニシキが世に出たころと重なっています。いわゆる団塊世代はササニシキ世代。いまだにササニシキに取り憑かれています。

せっかく〈はえぬき〉という良い品種を出してもらったのに、だめにしてしまったのはササニシキに取り憑かれた生産者の責任だ、と私は今でも思っています。

ササニシキには、私も相当苦労しました。ササニシキは技術がないとつくれない米だったんです。しかし、ササニシキは収量が良かった。600kg(注1)採れても、「今年はだめだったなあ」と思うような品種でした。最低でも630kgはいった。その感覚で〈はえぬき〉をつくったのが間違いでした。いくら肥料をやっても倒伏しない性質も災いしました。そんなつくり方をしていたら、食味は完全に犠牲になってしまうからです。

昭和50年代までは、増産を目指した時代だったんですよ。今でも覚えているんですが、1985年(昭和60)「800kg増産運動」が行なわれて、庄内米を相当量扱っていた問屋の社長さんが、東京から記念講演にみえた。そのときに「なんで今さら800kgなの。そういう時代じゃないでしょう。こんなことをやっていたら、今に庄内はだめになるよ」と言っていたんです。

その後、社長さんがおっしゃるとおりになりました。そこから挽回するのは大変なことだったのです。だからこそ〈つや姫〉は、〈はえぬき〉の二の舞いにせず、大切に育てていきたいのです。

米価が下がって米づくりも大変な時代になりました。しかし、私はある経験を思い出します。まだ30代前半のころでしたが、東京の生活協同組合の人と知り合いになって生活クラブ生協を紹介してもらいました。最初の話し合いのときに、「これをつくるのに、原価はいくらかかっているんですか?再生産可能な値段で取引しましょう」と言われたのです。それまで私は市場原理に従ってきましたから、そういう発想がなかったんです。ものすごく新鮮に感じました。しかし一方では、厳しいトレーサビリティ(流通経路の追跡可能性)が要求されます。

このように、消費者にも農業のことを理解してもらえるようなやり方をしていかなくてはいけないんだな、と私はこの経験から学ばせてもらいました。それで、因幡堰土地改良区では、今度〈田んぼダム〉をやってみよう、といっています。これはもう、新潟県では取り組んでいることです。

最近は、庄内でもゲリラ豪雨があって、河川管理者だけに治水を任せていても解決できないでしょう。田んぼには、ダム効果がある。そういうことを、農業者以外の人にもわかってもらう活動をしていきたいと思います。

私が「この人をおいて、米を語るわけにはいかない」と心から思うのが、鈴木紀生さんです。続いて鈴木さんに、販路拡大についてのお話をしていただきます。

(注1)1反(10a)当たりの収量
銘柄米でない普通の米で豊作ならば、1反(10a)当たりの収量は10俵といわれている。1俵は60kgなので600kgになる。地域や栽培法によって違いがあるが、銘柄米で600kgの収量を上げるというのは、驚異的なこと。

求められる米をつくる

鈴木 紀生さん

有限会社鈴木農産企画
鈴木 紀生(すずき のりお)さん



うちは代々農業をやってきたので、1960年(昭和35)農業高校を卒業以来、米づくりを続けてきました。1978年度(昭和53)から1999年度(平成11)まで、農協の役員をしていたんです。その間の1995年(平成7)から庄内空港の売店で販売を始めました。

それを土産にもらった横浜にあるスーパーマーケットのマネージャーさんから、売ってほしいと頼まれたのです。いったんは断りましたが、断っても断っても頼まれて、3回目にはとうとう売るようになりました。そうこうする内に米価が下がってきたので、このまま農協に出荷し続けていっても先行きに不安を抱くように感じてきましたので、思い切って1999年度(平成11)からは全量を自主販売に切り替え、農協役員も辞任しました。

それに先駆けて、前年の10月に有限会社鈴木農産企画を立ち上げました。なぜ社名に名前を入れたかというと、やはり自分の考えをしっかり持って、責任のある米づくりをしていきたかったからです。

最初は米も二通りのつくり方をしていました。一つはこだわりの栽培法、もう一方は従来通り、農協に卸していたころのつくり方です。ところが普通につくっていたんじゃ、お客さんを固定化できなかった。逆に高い米を買ってくれるお客さんは、1995年(平成7)からずっと買い続けてくれるんですよ。

それで1999年度(平成11)から、土づくりに力を入れ始めました。米ぬかや昆布、鰹節、胡麻、油かすなどを組み合わせて発酵させた独自の有機発酵肥料を使って、土壌の活性化に取り組みました。

土壌改良だけでなく、乾燥も自分のところでやっています。乾燥は2回に分けて行ない、1回目は乾燥機の温度を37゚Cに抑えて15.5%まで落とし、いったん2週間ほど休ませます。2回目は14.1%まで落とします。なぜ14.1%かというと、風味を出すために〈活き青(いきあお)〉を入れているからです。

〈活き青〉というのは翡翠(ひすい)色の透き通った整粒米です。米屋さんによっては〈活き青〉を嫌って完熟米だけにしろ、というところもあります。しかし私が〈活き青〉を入れるには理由があって、完熟米だけだと、人間の加齢臭と同じで玄米臭が出るからです。

臭いだけではありません。粒の大きさで選別して試食すると、完熟した2.2mm以上だけのものよりも、1.9mm以上の網目で選別したもので5%から10%ぐらい〈活き青〉が混入しているほうが香り、甘み、旨みが勝ります。私はそういう考えでいます。

低温倉庫も自分のところで持って、保管しています。温度管理は13゚C、湿度は自動除湿装置で75%〜76%にしています。

こういう自分の考えを販売先に説明して、納得して購入してもらっています。2002年度(平成14)からは東京のデパートでも売るようになり、だんだん販路が広がっています。

働いているのは息子と女房のほかに、農繁期にはシルバー人材センターから応援を頼みます。米づくりだけではなく、営業から経営まで全部やろうと思ったら、販路は開けるんです。私は自分でやってみて自信を持ったし、確信しています。

ただし、取引先だって継続性を確実にしたいから、決算書を提出しろとか言いますよね。そういうことを全部クリアできないと、信頼関係は生まれないんです。今までのように、つくるだけの農家では経営は難しくなると思われます。販売戦略が重要となります。

最後につや姫のブランド米の構築についてですが、粒張り、色つや、香り、甘み、粘り、旨さ、白い輝きが絶品で高価格の評価を得て品格のある真のブランド米だと思います。

消費者に伝えたいこと

佐藤 豊さん

農村通信社社長
佐藤 豊(さとう ゆたか)さん



『農村通信』というのは、戦後の壊れかけた稲作技術をなんとかして再生させて食料難を克服しようと、1947年(昭和22)篤農家などの取材記事を載せて発刊したのが始まりだそうです。いわば同業者が学び合う、研究会誌なんです。今は2000部ほどになりましたが、かつては1万部近く発行していました。

どこからも補助をもらわずに、農民自らが本をつくっています。私自身も農業者ですが、請われて農村通信社社長を仰せつかっています。

〈はえぬき〉〈ひとめぼれ〉〈コシヒカリ〉〈つや姫〉と四つの品種で特Aを獲得しているのは山形県だけです。緻密な土づくりと、稲の生態を知った肥培管理と、水管理。この三つの稲作技術の積み重ねで庄内米ができているんだろう、と思います。

一般的に、江戸時代、米は年貢として納めるためにつくられていました。しかし、庄内では年貢以外にも、大地主の本間家が商売のために米を使ったので、本間家主導で品質の確保、量の確保、効率的な栽培の確立が進みました。庄内がほかの農業地帯と違っているのは、ここに理由があるんじゃないでしょうか。

農民運動の伝統もあります。明治時代に起きたワッパ騒動(注2)もその一つです。

こういう伝統があるので、生産者としての心意気が根づいているような気がします。

私は現在、21haの水田を面倒見ています。ずっとお米とつき合ってきて、消費者に伝えたいことが二つあります。

一つはなぜお米が一年間おいしく保たれるのかを知ってほしい。昔は収穫前になると古米がまずくなりました。新米が出ると、お祝いするほどおいしく思えたものです。

米が一年中おいしくなったのは、冷蔵施設のお蔭です。そういうコストをかけて、今のおいしさが維持されていることをわかってほしい。そして、冷蔵庫のない時代に、山居倉庫の工夫は優れた保存を実現しました。こういう先人の創意工夫が庄内米のブランド力をつくってきたともいえるでしょう。

もう一つは、流通の競争が米の生産現場に影響を与えている、ということです。例えば粒。選別する網目の幅が1.8mmだったものが1.9mmに、北海道などは2.0mmです。これは消費者が望んでいるというよりも、流通上の競争なんです。1俵は60kgなんだけれど、そこに300g足すとか、そういう競争が起きたこともある。庄内米は力があったから、そういう競争には巻き込まれずに済んできました。

カメムシの食害の問題もそうです。カメムシが食った跡は、単に黒くなるだけなのに、色彩選別機で黒い米を弾きます。小さな粒を弾き、黒い米を弾いていたら、お米の収量はどんどん少なくなってしまいます。

中にはそういうことを気にしない意識の高い消費者もいるかもしれませんが、そういう人は少数派。残念ながら広がっていきません。それと、やはり農家には「おいしくて良い米を届けたい」という気持ちがあるので、余計な手間だと言っても、無視することはできないんです。

我々は一貫して収量の追求をしてきましたが、ここにきて食料事情が変わったものですから、つくる側も食味などを重視した生産にシフトしています。特別栽培米や有機栽培米が増えると、収量は相当落ち込みます。

しかしながら、昔から「米は土でつくりなさい。麦は肥料でつくりなさい」と言われてきたように、土づくりは、やはり米づくりの根幹なんです。

現在、庄内の米づくりは、苦労しながら消費者のニーズに応えています。庄内はそのニーズに応える力を持っているし、応えたいという気概も持っている。そういう生産者の想いを、消費者のみなさんがご理解くださるとうれしいですね。

(注2)ワッパ騒動
1874年(明治7)〜1877年(明治10)、庄内地方のほとんどすべての村を巻き込み、1万数千人もの農民が参加して展開された民衆運動。当時の酒田県(現・山形県)は農民に税金を米で納めさせ、売却してから政府に貨幣で上納する仕組みを取っていた。当時、米の値段が高騰していたため、相当な利ざやを稼いで利潤を得ていたとされる。ワッパ騒動は、その利ざやを取り戻すことで、大規模な税制改正を行なわせ、百姓一揆から自由民権運動へと発展した。

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