機関誌『水の文化』43号
庄内の農力

庄内の里川 赤川と赤川頭首工

全可動型ゲートとして1968年度(昭和43)、鶴岡市に完成した赤川頭首工。

全可動型ゲートとして1968年度(昭和43)、鶴岡市に完成した赤川頭首工。

1902年(明治35)赤川普通水利組合によって刊行された『赤川沿革誌』の緒言には、「河川管理の業務に従事する者の参考のために著され、公文書を第一の情報源としているが、古老のオーラルヒストリーによるところも大きく、明治19年に火災により書類が散逸したので、それ以前のことについては漏れがある」という趣旨のことが書いてあります。庄内平野の水使いのルールの変遷や歴史は、この貴重な文献によって、明らかにされました。庄内平野の農業用水を熟知した前川勝朗さんが、赤川水利についてひもときます。

前川 勝朗さん

山形大学名誉教授 農学博士
前川 勝朗(まえかわ かつろう)さん

1943年北海道中富良野町に生まれる。文部教官助手、助教授を経て1991年山形大学教授(農学部)、2009年3月定年退職。専門は農業水利学・水工学。
主な著書に、『農業水利学実習ガイド』(「水田パイプライン」執筆/農業土木学会 1987)、『農業土木ハンドブック;改訂五版、六版』(「水田灌漑施設」執筆/農業土木学会 1989、2000)、『水利の風土性と近代化』(「農業水利施設の近代化過程」執筆/東京大学出版会 1992)、『日本の河口』(「最上川」執筆/古今書院 2010)ほか

『赤川沿革誌』

赤川は藤沢周平の『蝉しぐれ』にも最初に出てくる、庄内を代表する川です。庄内平野は、主にその赤川と最上川、日向川(にっこうがわ)、月光川などからの流出土砂の堆積などによって形成された平野です。そして、赤川は水田開発における水源として、大きな役割も果たしてきました。

赤川普通水利組合(庄内赤川土地改良区の前身)は、1902年(明治35)『赤川沿革誌』を刊行しましたが、長い時間の経過とともに本は失われてしまいました。

昭和30年代に入って、赤川土地改良区連合が赤川の歴史をまとめた本を出版しようと企画し、いろいろ資料をあたっていたところ、当時、庄内農業高等学校におられた佐藤誠朗(しげろう)さん(のちに新潟大学教授)に、ある方が1冊の本を持参されました。それが『赤川沿革誌』でした。佐藤誠朗さんと、当時、山形大学におられた農業土木の志村博康さん(のちに東京大学教授)のお二人が、その本を元に書き上げたのが、『赤川史』(赤川土地改良区連合 1966)です。

1993年(平成5)『赤川沿革誌』の復刻にあたり、初代の『赤川沿革誌』の所在を調べましたが、原本を見つけることができませんでした。発見当時、ブルーコピーを取ったものが現存していたので、復刻版の『赤川沿革誌』はそれを元にしています。その後、当時のブルーコピーの原紙が見つかり、山形大学農学部図書館に保存されています。

河道固定から始まる国づくり

鶴岡市市街地には、青龍寺川(しょうりゅうじがわ)という川が町の真ん中を流れていて、以前はこれが赤川の本流だったと考えられます。最上義光(もがみよしあき)が城を築いたときに、山側の東岩本地区を通る形で赤川を東遷させ、旧河道は青龍寺川として農業用水路に利用されてきました。

山形市にも城がありますが、こちらも馬見ヶ崎川(まみがさきがわ)の扇状地で、山側に川を寄せて旧河道は農業用水路(五堰)に利用されています。河川の流路を固定できる治水技術が発達した段階で、扇状地が利用可能な土地になったということができます。

『赤川史』によりますと、赤川ではある区間、左岸側に比べ右岸側の堤防天端(てんば)高を低くつくり、出水時にはそちら側に水をあふれさせることで、守るべきところ(城下町側)の安全を図ったといいます。これが、当時の治水の考え方です。『蝉しぐれ』のように、出水時には堤防を人為的に切ることもあったように思われます。

赤川放水路の建設

赤川普通水利組合は、明治以降、国や県による治水がほとんど行なわれない時代に、1885年(明治18)赤川筋水利土功会のあとを受けて1892年(明治25)組織されました。組織のメンバーは、地主たちです。

これらの組織が設立された目的は、赤川の改修です。記録によると内務省による工事は低水(ていすい)工事(河岸工事や河床の浚渫など、主に利水のために行なう工事)で、高水(こうすい)工事(堤防工事や放水路の整備など、氾濫防止のために、最高水位を計算して行なう工事)は赤川普通水利組合が行なっており、内務省が直轄事業として赤川下流部の高水工事に着手するには、1917年(大正6)まで待たなくてはなりません。

こうした伝統があるせいか、庄内の人たちは自治意識が高いようです。逆に自治意識が高いから、これだけの工事ができたのかもしれません。

1896年(明治29)に河川法が制定されたときも、赤川が河川法適用になることに反対して、内務省の低水工事にかかわる県の維持修繕事業を組合に移管してほしい、という請願まで出しています。

1672年(寛文12)幕命を受けた河村瑞賢(ずいけん)は、酒田から下関を結ぶ西廻り航路を開通させました。内陸部からの米や紅花を酒田に運び、酒田に集荷して上方(関西地方)に送ることで利益を上げていた庄内にとって、最上川の舟運は非常に重要でした。西廻り航路が開通してから、酒田はさらに重要な経済都市として発展しました。

かつて、庄内砂丘を抜けて日本海に注ぐのは最上川1本でした。平野部である最上川下流部に赤川や日向川が注ぎ込んでいたために、河口域が氾濫域になり、最上川氾濫水の逆流という自体もしばしば起こりました。赤川筋水利土功会が治水を目的として組織されたというのも、こういう背景があってのことです。

以前から、赤川下流域の水害を防ぐには、黒森山という山を掘り割って庄内砂丘を横切り、赤川を日本海に直接放流する人工水路の開削が有効だ、といわれてきましたが、赤川下流は酒田—鶴岡間における重要な舟路であり、合意を得ることは不可能でした。

しかし、内務省が低水管理していた地域に国道を通すために湿地の水を抜きたい、ということになって、1917年(大正6)直轄改修計画がスタートしました。

この辺りは、最上川と赤川の真ん中ですので、もともとは沼地です。国土地理院の地図で一番古い1913年(大正2)の地図には、まだ湿地が読み取れます。そこに国道が通って線路が敷かれ、1918年(大正7)酒田—鶴岡間にも鉄道が開通し、赤川は舟路としての価値を徐々に失っていきました。

そこで、内務省は最上川と赤川の分離を行なうために、1921年(大正10)赤川放水路建設事業に着手、1936年(昭和11)に通水しました。

信濃川の大河津(おおこうづ)分水なども同じで、放水路をつくって速く海に排水することで下流域の洪水を防いでいます。日向川も同様に、1807〜1808年(文化4〜5)下流の水はけを良くするために新川掘割工事が行なわれています。

この赤川新川完成後も、旧流路である旧・赤川は、最上川に注ぐ形でそのまま残されました。旧・赤川が完全に締め切られたのは1953年(昭和28)のことです。

1955年(昭和30)、6年の歳月をかけた荒沢ダムが赤川の上流に完成しました。洪水調節及び灌漑(かんがい)用水、水力発電という多目的ダムとしてつくられ、県管理の中では最大規模となっています。このダムの建設により、荒沢集落42戸200余名が移転しましたが、ここでは賠償金ではなく代替え地を出しています。そのときに代替え地となったのが、赤川放水路が完成して旧河道になった土地です。これは先進事例だということで、著名な研究者が水没補償の事例研究に据えました。今でも往時の流路跡を忍ぶことができます。

対馬暖流の恩恵も

東北6県を見たときに、山形には非常に特徴的なことがあります。それは大変豊かな土地柄、ということです。冷害に見舞われたとき、例えば天保の大飢饉(1833年〈天保4〉〜1839年〈天保10〉終息年には諸説あり)のときでも、娘の身売りや餓死者が出なかった。庄内に出てくれば生き延びられた。文献にはそうした記録が度々見られます。

生物の分布にもそれが表われています。庄内には、南方系の植物が結構あります。つまり、ここには冷害がない。まったくないとは言えませんが、平地においては東北6県の中ではほとんどない、と言ってもいいぐらいです。1993年(平成5)に東北6県が被害を受けた冷害のときも、庄内ではそれほどではありませんでした。

これは、対馬暖流のお蔭と考えられます。九州から上がってきて、新潟沖を通って、秋田の男鹿半島にぶつかって拡散する暖流です。

一方、北からくる海流は、仙台〜福島沖を通っています。面白いことに仙台のほうが鶴岡より緯度が多少低いにもかかわらず(仙台市緯度:38度16分 鶴岡市緯度:38度43分)、桜の開花が遅いのです。

乾田馬耕の普及

庄内平野の耕作面積はおよそ4万haで、水利施設は1600年代から本格的なものがつくられるようになりました。

明治半ばまでの稲作は、一年中、田に水を張ったままの湿田で行なわれていましたが、これに対し、乾田は稲作が終わると水を落とし田を乾燥させるものです。乾燥させると肥料分が吸収されやすくなり、米の収量増に結びつきます。

ただ、耕耘(こうてん)作業には大変な労力が必要になり、それまでの人力から馬などに頼った耕起へ移行しました。このように、水田を乾田化し、耕耘に畜力を利用する農法を乾田馬耕(かんでんばこう)といいます。

記録によると、明治30年ごろ乾田馬耕が行なわれた地域は飽海郡、東田川郡合わせて八千数百町歩にわたったそうです。現在も、酒田市宮内と鶴岡市藤島地区(旧・東田川郡藤島町)に〈乾田記念碑〉が建っています。

平坦地に水を掛けるのに、電動ポンプがいち早く使われましたため、庄内は〈電動式ポンプ発祥の地〉といわれています。

大町溝(おおまちこう)は、上杉景勝の重臣である甘粕景継が1591年(天正19)最上川右岸の灌漑を図るために建設した用水路ですが、ここでは明治の時代にドイツから揚水ポンプを輸入しています。その内の1基は、今も保存されています。

当時、最上川下流部は堤防も未完成で澪筋(みおすじ)が変化し、取水が安定しなかったために、せっかくの揚水ポンプも残念ながら長く使うことができなかったようですが、こういうところにも、新しいものを取り入れる先取の気概や、良いと思うことは率先して取り込んでいく気風が表われています。

  • 乾田馬耕が進むと水不足が一層進み、水争いが絶えなくなった。これを憂えた豪農・木村九兵衛宅に婿養子に入った民吉は、電力を利用した灌漑に着目し、矢馳(やばせ)揚水機組合を組織し電力揚水機を設置。その記念碑が、今も残る。

    乾田馬耕が進むと水不足が一層進み、水争いが絶えなくなった。これを憂えた豪農・木村九兵衛宅に婿養子に入った民吉は、電力を利用した灌漑に着目し、矢馳(やばせ)揚水機組合を組織し電力揚水機を設置。その記念碑が、今も残る。

  • 乾田馬耕が進むと水不足が一層進み、水争いが絶えなくなった。これを憂えた豪農・木村九兵衛宅に婿養子に入った民吉は、電力を利用した灌漑に着目し、矢馳(やばせ)揚水機組合を組織し電力揚水機を設置。その記念碑が、今も残る。

赤川頭首工と分水工

乾田馬耕は畜力を利用するために、結果的に耕作面積が増えた。効率的に耕作するためにも耕地整理が積極的に行なわれ、明治末の耕地整理実施率は、県内の他地区がせいぜい30%弱なのに比べて、庄内では50%以上となりました。

乾田馬耕というと田んぼが乾いているんだから水が少なくても済むんだろう、と勘違いされる人もいますが、そうではありません。春先に一斉に田に水を入れるために、一時期にたくさんの水が必要です。赤川頭首工(とうしゅこう)を設計した技師が、「乾田馬耕になると、水需要が従来の1.4倍になる」と予測しているほどです。乾田馬耕によって用水を増やしてほしいという要求が下流地域から出されましたが、今までの水利権では処理できない課題となりました。

農業生産の増加は、農業用水の配分ルールを見直すことにもつながりました。上流の発電ダムとの水利調整も複雑になったことから、地元では大鳥湖での水源開発や、揚水機を使って周辺の河川から取水するなどといった、新たな解決策に取り組みました。

1964〜1974年(昭和39〜49)に行なわれた国営赤川土地改良事業もその一環です。受益面積1万2000haの赤川頭首工、赤川揚水機場及び幹線用水路が新設されました。赤川頭首工は、それまであった九つの取り入れ口を合口(ごうぐち)してつくられました。

河川から取水した水は、一定の比率で分けられますが、流入水は季節や気候で変わります。赤川頭首工は、河川からの取水直後に、流入量が変わっても比率が変わらないように配分できる分水系を採用しています。

流入水は2系統に分けられ、一方は開水路で流れ、もう一方は川の底をサイフォンでくぐらせた管路の流れで対岸に達します。この〈開水路―サイフォン分水系〉の流れを理論と実験から導いたのが、志村博康さんです。

分水工というのは、水路を流れてきた農業用水を、それぞれの地区に所定の流量に配分するための施設です。

分水工には、

  1. ゲートやバルブなどを使って分ける〈操作式分水工〉
  2. 流量に関係なく一定の比率になるように水を分ける〈定比式分水工〉
  3. 流量が変化しても一定流量の水を分けるためにゲートを利用する〈定量式分水工〉

という三つの方法があります。

一般の人もよく知っている円筒分水工、開水路で速い流れ(射流)を発生させ隔壁による堰幅がほぼ分水比になる射流分水工などが〈定比式分水工〉に含まれます。

赤川頭首工をつくったときには、取水直後の分水にゲートで分水量をコントロールするのが難しかったんですが、昭和40年ころから徐々に、中小の分水工においても水量コントロールを行なうためにゲートを設置するようになりました。赤川頭首工に採用されているような分水系は、今では珍しいものになりました。

  • 開水路サイフォン分水系における取水直後の開水路側の様子。

    開水路サイフォン分水系における取水直後の開水路側の様子。

  • 上の写真の水は、左の写真の水路で各受益地に運ばれていく。2系統に分けられたもう一方の流入水は、川の底をサイフォンでくぐって対岸に達する。

    上の写真の水は、左の写真の水路で各受益地に運ばれていく。2系統に分けられたもう一方の流入水は、川の底をサイフォンでくぐって対岸に達する。

  • 開水路サイフォン分水系における取水直後の開水路側の様子。
  • 上の写真の水は、左の写真の水路で各受益地に運ばれていく。2系統に分けられたもう一方の流入水は、川の底をサイフォンでくぐって対岸に達する。

農業だけではなく地域全体へ

基盤整備などの諸事業で、用水路も整備されて、次は配水管理です。配水管理の仕方を調べていくと、地域ごとに実に多様な仕方をしていることがわかります。つまり、試してみて、うまくいかないときはローカルな特徴に従って工夫しているのです。旱魃(かんばつ)のときに河川からの水量が半分になったときに、水量半分で全体に配水するのも一つ、地域限定で水を配る〈番水〉というやり方も一つです。

実際に旱魃になったときに試しているんです。国営事業の幹線用水路において、地域限定で配水したら、水路側壁からあふれてしまった。そういう経験もして、国営事業の幹線用水路の所までは河川からの取水量減に対応して減水して配水を行ない、その先の中小の支線用水路にどう配るかは、地域の自主性に任せました。

そうしたところ、支線用水路においては上流優位で水は先端に行くほど少なくなる。それで、下流の田んぼの稲が枯れる事例も生じました。その結果、ルールをつくって、公平に田に水が行き渡るようになっていきました。このように、水管理は地域で決めることが肝要のようです。

東北6県で冷害が起きた1993年(平成5)ですら、山形大学の農場で採れた米はすべて1等米でした。これは、巧みな水管理の賜物でもあると思います。

庄内平野は勾配が1/2000などと平坦ですから、開水路で水を配るのが難しい。それでパイプを埋設してポンプで圧をかけ、蛇口を捻ると水が出るような仕組みに変わっていきました。電気代などの維持管理費がかさんで、これだけ米価が下がってくると苦しくなっているのが現状です。

地域の水を管理する場合、やはり主体となるのは土地改良区のようです。何しろ、長年水管理に携わってきた水の専門家なのですから。施設はつくれば終わりではなく、機能するために維持管理しなくてはなりません。

また、水は農業のためだけにあるのではありません。農村における水は、生産環境のための水と生活環境のための水に分けられ、それらはいろいろな機能を有しています。それらには、生態系保全機能、水質浄化機能、地下水涵養機能、景観に対する機能などが含まれます。農業だけではなく、「水は地域のもの」という認識が、一層求められているのです。

土地改良区の存在も地域全体の中に位置づけられ、水管理においても、地域との深い結びつきが大切と思います。

(取材:2012年9月11日)

PDF版ダウンロード



この記事のキーワード

    機関誌 『水の文化』 43号,前川 勝朗,山形県,庄内,水と社会,産業,水と生活,歴史,水路,用水,農業,乾田馬耕,生産,明治時代

関連する記事はこちら

ページトップへ