2013年6月発行

水の文化 44号 しびれる水族館

水の文化 44号 しびれる水族館
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水族館は人生で3度行く所、
と言われていたそうです。
子どものときに、まず1回、
親になって子どもと一緒に、
そして3回目は孫と。

ところが、水族館は
知らないうちに、大人をも
しびれさせるような魅力あふれるスポットに
転身を遂げていました。
何度も足を運びたくなる癒しの空間に
なっていたのです。

新鮮な海の幸をいただく文化を持ち、
四方を海に囲まれた島国、ニッポン。
魚たちが生き生きと泳ぐ姿を見るのが大好きで、
他国に抜きん出た水族館好きだと
言われていましたが、
近年の水族館ブームは、
魚好きだけでは説明できないものがあります。

何が人々を水族館に惹きつけているのか。
その秘密を探るために、
久しぶりに、水族館に足を運んでみました。

沖縄美ら海水族館の巨大水槽〈黒潮の海〉。容量は7500t(m³)。メインの柱なしのウィンドウは、高さが8m20cm、幅は22m50cmもある。
見とれているのは観客だけではない。取材した我々も、合計で250回以上もシャッターを押してしまった。
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日本の水族館(1882〜2012年)
これまでに開館した水族館の設立年と所在地
鈴木克美・西 源二郎著『新版 水族館学』(東海大学出版会 2010)をもとに編集部で作図
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目次

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  • 沖縄 水と空の魅力

    宮原弘和

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  • 日本の水族館とともに

    鈴木克美

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  • 渇きを癒す水族館

    中村 元

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  • マザーレイクと歩む琵琶湖博物館

    金尾滋史

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  • アクリルがつくる夢の器

    敷山哲洋

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  • マリンピア松島86年の歩み

    松島の幸と恵み

    西條正義

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  • ホームアクアリウムのすすめ

    佐々木恵
    樋口理紗
    鈴木将広

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  • 水の文化書誌 35

    竜宮城への視点

    古賀邦雄

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  • 文化をつくる

    しびれる水族館

    編集部

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  • わたしの里川

    東京の隠れた里川 カナルカフェ

    陣内秀信

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  • Go!Go! 109水系

    恩がある川 遠賀川

    坂本貴啓

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  • 里川文化塾報告/予告
    次号予告・編集後記

     

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沖縄 水と空の魅力

宮原 弘和

宮原 弘和さん みやはら ひろかず
沖縄美ら海水族館館長

1978年琉球大学理工学部生物学科卒業。同年5月、旧・国営沖縄記念公園水族館入社。2002年4月海獣課長、2010年4月魚類課長、2011年6月水族館統括を経て、2011年6月より現職。2012年4月より水族館事業部長を兼務。

大型水槽ブームの火付け役となったのは、
「沖縄の海との出会い」というテーマで、
2002年(平成14)リニューアルオープンした
沖縄美ら海水族館。
しかし、ここの魅力は
大型水槽やジンベエザメだけではありません。
他所では見られない沖縄の美しい海と空を、
陸の上に表現したいと語る館長の宮原弘和さんに、
水族館にできること、可能性についてうかがいました。

漁法の変化

 沖縄美ら海水族館(以下、美ら海)の前身は、1975年(昭和50)沖縄国際海洋博覧会で日本政府が出展した〈海洋生物園〉です。このときのテーマは「海—その望ましい未来」でした。博覧会終了後、その跡地は〈国営沖縄海洋博覧会記念公園〉として整備され、水族館もこの記念公園の一部として開館しました。
 当時は今と違って、他の県、例えば長崎県・五島列島などから持ってきた大型の魚を展示していたり、サンゴの海の展示も生きたサンゴでなかったり。沖縄らしさに欠けるきらいがありました。
 その状況が変わってきたのは、海洋博が終わって以降、1978年(昭和53)ごろからのことです。沖縄でも定置網漁が行なわれるようになり、ジンベエザメとか今まで見たこともなかった魚がかかるようになったのです。
 それまでの漁は、魚を単に水産資源として見ていましたから、捕れればよかった。ですから、人間の食文化にとって資源的価値がないこれらの魚を、生きたまま捕獲する方法がなかったのです。
 漁法が変化したことは、水族館が飼育する魚の種類や飼育方法に大変大きな影響を与えました。それらをうまく運んできて飼育もできるようになって、展示内容が変わり、世界初のジンベエザメ展示へとつながりました。今は漁をする人とのコンタクトを密にしていますから、珍しい魚が網にかかったという情報が入ると、すぐに現場に飛んで行きます。沖縄の場合は、漁師さんに「船に乗せて」と言えばすぐに乗せてくれるし、関係ができています。日帰りできるような漁法ですし、規模がちょうどいいのかもしれませんね。漁師さんだけではなく、海に携わる人たちが県民を挙げて応援してくれています。
 昨日もちょうど、ジンベエザメでお世話になっている読谷漁協に旧正月のご挨拶にうかがったところです。当館では、こういうネットワークを大切にしています。

大型水槽ブーム

 2002年(平成14)のリニューアル以前は、大型水槽の〈黒潮槽〉も1100t。ここでは、ジンベエザメがいかにも窮屈でした。施設も老朽化し、来館者数も1991年(平成3)の100万人をピークに少し落ちてきているということで、新たな魅力をつくろうとリニューアルしました。「沖縄の海との出会い」というテーマを掲げた新水族館には、7500t〈黒潮の海〉水槽がつくられました。

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日本の水族館とともに

鈴木 克美

鈴木 克美さん すずき かつみ
東海大学名誉教授、農学博士

1934年静岡県生まれ。東京水産大学卒業後、江ノ島水族館、金沢水族館副館長を経て、東海大学教授、同大学海洋科学博物館館長。専攻は魚類生活史学。
主な著書に、『イタリアの蛸壺 海とさかなの随筆』(東海大学出版会 1978)、『潮だまりの生物学』(講談社現代新書586 1980)、『東書選書63 黒潮に生きるもの』(東京書籍 1981)、『丸善ライブラリー28 魚は夢を見ているか』(丸善1991)、『丸善ライブラリー112 水族館への招待 魚と人と海』(丸善 1994)、『ものと人間の文化史113 水族館』(2003 法政大学出版局)、『東海大学自然科学叢書 新版水族館学』(共著/東海大学出版会 2010)ほか

1961年(昭和31)江ノ島水族館に勤務して以来、
日本の水族館とともに歩んできた鈴木克美さん。
水族館史を本にまとめたり、
海外の論文を日本に紹介するなどして、
研究できる環境を整えながら、後進を育成し、
飼育・展示だけの水族館からの脱却を牽引してきました。
輸入文化として取り入れられた水族館が、
本当の意味で日本独自のものになるためには、
今が正念場と語りました。

水族館史をまとめる

『丸善ライブラリー112 水族館への招待 魚と人と海』(1994)を書いたときは、私にもまだ水族館の歴史に強い関心はありませんでした。水族館の先輩に勧められて、ようやく調べて書く気になったものの、水族館の歴史を書いた書物は、日本にはまだなかったのです。
 日本の水族館には、大学臨海実験所の水族館、博覧会水族館、公立水族館、株式会社といろいろありますが、資料を残す意識と習慣がなかったために少ない資料すら消えていく運命にあります。
 私が『ものと人間の文化史113 水族館』(法政大学出版局 2003)を出版したのは、長らく水族館に携わった者の責任として、散逸しがちな水族館資料を記録に留めたいと考えたからです。

人類は有史以前から魚を飼っていた

 人類が魚を飼っていた痕跡は、古代中国やローマ時代まで遡ることができます。食用と観賞用を兼ねてヘレンウツボを飼っていた証拠が、ポンペイの遺跡から発掘されています。ポンペイは西暦79年のヴェスヴィオ火山の噴火で埋もれた町ですから、それ以前から、ローマの貴族階級には、アクオリオと呼ばれる施設で、食べるための魚を飼う習慣があったということになります。

 従来、飼われていた魚はウナギといわれてきたが、英語のモーレイ・イールはウツボのことで、誤訳が日本の定説となった。古代ローマ人はウツボを好んで食べていたようである。

 記録だけでいったら、紀元前2500年ごろ、バビロニア王朝期にシュメール人が淡水魚を飼っていたことや、中国の周代(紀元前11世紀)の文献にも〈家魚〉という言葉が見られます。720年に著された『日本書紀』にも、観賞用の池があった、と書かれています。

自然志向の思想から

 19世紀のイギリス・ビクトリア朝期には産業革命が起こり、経済発展と並行して、自然回帰志向の流行がありました。
 1842年(天保13)、〈ビバリウム(Vivarium:動物飼育器)〉と命名されたガラス器のセットが、自然志向の思想に乗って大いに流行しました。

ビバリウム
密閉した小容器の中に植物と動物を入れて光を当てておけば、互いの呼吸を助け合って長く生きることができることを、ナサニエル・B・ワードが植物雑誌に発表。のちに自分の名前を冠して〈ワーディアンケース〉として売り出した。

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渇きを癒す水族館

中村 元

中村 元さん なかむら はじめ
水族館プロデューサー

1956年、海のないまち嬉野町(現・三重県松阪市)に生まれる。1980年、成城大学(マーケティング専攻)卒業後、(株)鳥羽水族館入社。新鳥羽水族館プロジェクトの責任者を経て副館長。2002年独立して水族館プロデューサーに。新江ノ島水族館、サンシャイン水族館、おんねゆ北の大地の水族館(山の水族館)など、人気水族館の展示を次々とプロデュースし成功に導く。現在は北海道から九州まで複数の水族館の建設とリニューアルにかかわる。東京コミュニケーションアート専門学校教育顧問、NPO法人日本バリアフリー観光推進機構理事長、NPO法人伊勢志摩バリアフリーツアーセンター理事長、財団法人地球市民財団評議員などを務める。
主な著書に、『水族館のはなし』(技報堂出版 1992)、『水族館へいこうよ』(講談社 1994)、『恋に導かれた観光再生 〜奇跡のバリアフリー観光誕生の秘密〜』(長崎出版2006)『中村元の全国水族館ガイド115』(長崎出版 2012)ほか

水中という非日常世界、
水の圧倒的な存在感による潤いや清涼感、
その内に立体的に泳ぎ浮かぶ命の姿、といった価値を
すべてまとめて表現するために、
中村元さんは、水塊という海洋構造の区分を表わす用語に、
新たな生命を吹き込みました。
水族館プロデューサーとして、
海から水塊を切り取ることで、
人々の心を癒し、水中世界を見たいという欲求を満足させる
水族館づくりを進めています。

魚を食べる文化

 日本人は水族館に行って魚を見ると、思わず「おいしそう」と言います。日本人が世界の諸外国と比べて水族館好きなのは、魚を食べる文化があったからではないでしょうか。
 日本人は活きの良い魚が好きでしたから、生かしておく技術を育んできました。海があって、魚好きな国民性が育てた「魚を生きたまま捕まえて生かしておく」という技術は、水族館をつくるのに大いに役立ちました。
 日本の海岸線の長さは世界屈指。全国に漁港があって、海のない内陸部、例えば琵琶湖や川にも漁港や漁業権があります。ですから魚が手に入りやすく、水族館をつくりやすいという条件がそろっていたのです。
 そもそも、日本では水産学といいます。魚類学ではないのです。食べる魚に興味があって、研究の対象は水産資源だったのです。水族館の黎明期には、大学の研究施設と一緒になっていたところが多いことも、日本の水族館の性格に影響を与えています。

子ども向けは間違い

 全国の動物園と水族館の入場者数は、2500万〜3000万人ぐらいで、ほぼ同じです。しかし数では一緒でも内容は違っていて、動物園は子どもと大人の比率が5対5ですが、人気のある水族館は2対8ぐらいになっています。ところによっては大人が9割に達するところもあります。
 ところが多くの水族館では展示内容を子ども向けにしていて、解説にしても子どもじみた表現になっているのです。これでは大人の入場者にとって、満足できないものになるでしょう。ましてや少子化が進む中では、子どもよりも大人の入場者を増やすことを考えないと、水族館の人々に広く展示物を見せるという社会的役割を果たすことはできず、もちろん経営も成り立ちません。
 そもそも、小さな子どもは絵本に出てくる動物を見たがるので、水族館よりも動物園に行きたがるものなのです。
 以前、水族館で子ども向けアンケートを取って見たい生きものを聞いたところ、ペンギン、カメ、サメが圧倒的多数でした。ペンギンとカメは立ち姿で描けますから、絵本に登場させやすいのです。
 絵本に登場しない魚にはあまり興味がないようで、ほとんど名前が上がりませんでした。今の子どもたちであれば、アニメ映画の主人公になったカクレクマノミのキャラクター名が一番に出てくるでしょう。それほどに、子どもたちは絵本の影響がとても強いのです。つまり、子どもを相手に生きものを見せるだけだったら、水族館の生きものは、動物園のゾウとかクマとかキリンに負けてしまうでしょう。

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マザーレイクと歩む琵琶湖博物館

金尾 滋史

金尾 滋史さん かなお しげふみ
琵琶湖博物館学芸員

1980年広島県生まれ。滋賀県立大学環境科学部、滋賀県立大学大学院環境科学研究科、多賀町立博物館学芸員を経て、 2011年4月より現職。専門は水族繁殖学、魚類保全生態学。地域の子どもたちに囲まれながら、「学」と「芸」を両立し、「会いに行ける研究者」を目指して日々修行中。主な著書(分担執筆)に、『里山復権 能登からの発信』(中村浩二・嘉田良平編/創森社 2010)、『滋賀県で大切にすべき野生生物』(滋賀県自然環境保全課編/サンライズ出版 2011)ほか

生きもの好きの金尾滋史さんを伸ばしてくれたのは、
博物館と学芸員、地域の方々でした。
大学時代から親しんできた琵琶湖で、
今度は金尾さんが次世代を後押しする役割を担っています。
生きものを、単に生体として見るのではなく、
人の暮らしとのかかわりの中で
文化としてとらえてきた琵琶湖博物館。
訪れる人が多くの学びを得て、
しなやかな感性が育まれるように、努めている博物館です。

展示のコンセプト

 琵琶湖博物館には、「湖と人間」をテーマとしてABC三つの展示室があります。水族展示はC展示室の1階に位置する〈淡水の生き物たち〉にあり、前身となる琵琶湖文化館時代から継続されてきました。博物館と水族館が合体しているところは、全国でも珍しいと思います。
 琵琶湖博物館の特徴は、単に魚だけを紹介しているのではなく、人とのかかわりを含めて紹介しているところです。展示の中をよく見ると、桟橋や船、芋洗い水車など人の暮らしの周りにあるものが置いてあるんですよ。
 一般的な水族館というのは、屋内に入ると暗くなって、水槽に照明を当てているところが多いのですが、内湖や河川の水槽は屋外にあって、自然光で見てもらえるようになっています。ここでは、水面を境に陸域も水中も見ることができます。水面下と風景の両方を見せることで「こういう環境の中で魚たちが生きているんだ」ということがわかります。
 水槽があるのは屋外ですから、サギなどの水辺の鳥がやってきて魚が捕られたりすることも。まあ、野生の生きものも認める水槽なんです。とは言うものの、こちらとしてはあまり捕られては困りますから、夜間は浅い所に網を張って防いでいます。

内湖
水路を通じて琵琶湖とつながる内陸の水域を差す。葦原が茂ることで水の浄化が行なわれ、魚の産卵場所となっていた。舟運や漁業など暮らしと強く結びついていたが、第二次大戦前後から農地干拓が行なわれ、多くの内湖が消滅した。現在残る最大の内湖は〈西の湖〉(面積221ha)。

川や内湖と琵琶湖

 琵琶湖から流れ出た水は瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて大阪湾にそそぎます。しかし、現在ではその間に天ヶ瀬ダムという大きなダムがあって、海から遡上するウナギのような魚は上ってくることはできません。天ヶ瀬ダムができる以前は、ウナギだけではなく、琵琶湖にもボラとかチヌ(クロダイ)がやってきたこともあるといわれています。
 普段は琵琶湖に生息する魚も琵琶湖だけで暮らしているのではなく、流れ込む川があって、初めて生活史が成り立っています。
 川で生まれ、海に下り、再び川に戻ってくる魚は多いのですが、その海と同じ役割を琵琶湖が果たしているのです。
 湖で成長した魚は、産卵のときに川をのぼっていきます。厳密に細かく見れば場所が少し違うのですが、どの種も川の下流域で産卵するので、時期をずらすことでうまく折り合いをつけています。4月はウグイ、5月はニゴイ、6月ぐらいからハスが上がってきて、9月になったらアユ、そして10〜11月にはビワマスが遡上します。
 そのため、川でウグイが採れ始めたら、「ああ、もう4月やなあ」とか、ニゴイが採れ始めたら「もうじき梅雨入りやねえ」と季節の風物詩にもなっていて、川にはとても季節感があります。

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アクリルがつくる夢の器

敷山 哲洋

敷山 哲洋さん しきやま てつひろ
日プラ株式会社

1933年兵庫県生まれ。地元の工業高校を卒業し、メーカーに就職。1969年に同僚とともに現在の会社の前身である日プラ化工を設立する。同年、水族館の水槽用アクリル板生産をスタート。1970年世界初のアクリル製水槽を屋島山上水族館に納入。1994年にアメリカ・カリフォルニア州にあるモントレーベイ水族館の水槽を受注し海外進出を果たす。2007年からは新屋島水族館の経営も引き受けている。

誰も使ったことのない素材を開発し、
誰もできなかったことを、
次々と実現してきた日プラ株式会社の敷山哲洋さん。
化学と人の暮らしをつなげるための情熱が、
水族館という癒しの空間に生かされています。
縁の下の力持ちのお蔭で、迎えることができた水族館新時代。
その知られざるエピソードをご紹介します。

合成樹脂の用途開発から

 アクリルは、1938年(昭和13)ドイツで開発された素材です。日本では戦時中に零戦(零式艦上戦闘機)の風防ガラスにも採用されました。
 私は学校で化学を学び、1952年(昭和27)からポリエステル樹脂の用途開発に携わっておりました。この年代は、ポリエステル樹脂が日本で生産開始されたころでもあり、日本における合成樹脂や合成繊維の開発が本格化した時代でもありました。

合成樹脂
人工的に製造された、高分子化合物からなる物質。可塑性を持つものが多いため金型などによる成形が簡単にできる。製品の使用目的や用途に合わせた特性を持つ樹脂を合成することが可能になってからは、幅広い用途に利用され、生産量が飛躍的に増大した。
工業化に成功した合成樹脂第一号は、1909年のフェノール樹脂。植物以外の材料から初めて人工的に合成されたプラスチックである。アメリカの化学者が開発し、自らの名をつけたベークライトの商品名が広く知られる。その後、パルプなどのセルロースを原料としてレーヨンが、石炭と石灰石からできるカーバイドを原料としてポリ塩化ビニルなどが工業化された。石油化学が発達するようになると、原料は石油が主役となっていく。

 私はポリエステル樹脂の化粧板の基礎研究に従事していました。そして、その発案が後に建材として、ポリエステル化粧合板、また、コタツの天板などに商品化され市場に出るようになりました。

讃岐漆器の塗料がきっかけ

 合成樹脂の用途開発と平行して、高周波(マグネトロン)を利用した開発も行ないました。高周波の内部加熱する機能を利用し、乾燥及び、応用接着の研究をしていました。
 香川県は讃岐漆器の産地です。漆器の量産化を目指し、漆器の木地(漆を塗る前の木製品)を大量生産するために、高周波の機能を利用し木地をつくることを考案しました。ベニヤ板(薄い単板を積層して接着した合板)をつくり、接着剤が乾燥する前に金型に入れて高周波をかけて木地をつくります。
 また、木地に塗る塗料は、天然漆だけでなく、商品開発により、カシュー漆(カシューナッッツの殻から抽出した油でつくった樹脂)や、透明な合成樹脂製の塗料などでつくられ、用途、目的に合わせて多様化していきました。その透明な合成樹脂塗料は、何度も塗り重ね表面仕上げをすると独特の風合いのある厚みがつくられます。しかし、その作業工程では時間がかかってしまうので、いっそのこと1枚の透明な板を木地の表面に貼って成形をしては、と思いつき技法を改良していきました。
 このような技術を、大手合成樹脂メーカーの大きなアクリル化粧板の商品化に応用しました。
 しかし私は技術者なので、量産ではなく一品ものをつくる仕事がやりたいと思い、1969年(昭和44)に前身である日プラ化工を創業しました。世界初となるアクリル製水槽第1号を、地元香川の屋島山上水族館に納品したのは、創業の翌年のことです。

鶴の一声で生まれたアクリル水槽

 360度ぐるりと見られる回遊型の水槽が設計されましたが、その水槽は、設計上、間柱がたくさん入ったガラス水槽でした。ところが施主会社の社長さんから、「邪魔になるから間柱を全部外せないか」と、見学者の見やすさを優先された要望が出されたのです。ガラスは構造上の問題で厚みを増すにも限界があるので、強度上ガラス製では間柱が外せないということになって、ガラスメーカーは手を引いたのですが、その社長さんはほかの素材を探してみるように、と指示されました。そこで採用されたのがアクリルでした。

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松島の幸と恵み マリンピア松島86年の歩み

西條 正義

西條 正義さん さいじょう まさよし
マリンピア松島水族館館長

1948年宮城県生まれ。東北学院大学工学部卒業後、松島水族館(当時)に入社。副館長を経て、1999年より、現職。公益社団法人日本動物園水族館協会の役職 動物園水族館設備会議代表幹事(1990〜2012)、情報ネットワーク委員会会長(1997〜2010)、運営委員(総務部)(1998〜2005)、理事会監事(2000〜2003)、理事(2004〜2007)、ブロック代表理事(2006〜2007)
主な著書・論文に、『水族館における新しい水処理技術』(水処理技術 1992,8)、『コージェネレーションシステムの運転実績ー松島水族館の例』(空気調和・衛生工学 1992,11)、『水族館の熱源設備』(建築設備と配管工事 1994,5)ほか

日本三景の一つ、松島湾の最奥部に位置する
マリンピア松島水族館は、
2011年3月11日の東日本大震災で、
配管やポンプに損傷を受け、泥にまみれましたが、
4月23日には早くもオープンして、
日本中の人に元気と希望を与えてくれました。
その蔭には、西條正義さんの専門知識と、
何でも自分たちで行なう日頃からの姿勢があったのです。
今年、創設86年目を迎えた当館の長い歴史と
再出発への抱負についてうかがいました。

創業期

 マリンピア松島水族館は、1927年(昭和2)松島水族館として開業しました。現在営業している一番古い水族館は公立の魚津水族館(富山県)で、当館は2番目に古いです。また、民営の水族館としては日本で一番長い歴史を持っていて、今年86年目を迎えます。
 開業した年は、私鉄宮城電気鉄道(のちの国鉄仙石線)が松島まで開業した年です。仙台から鉄道が通るということで、最寄りの松島公園駅(のちの松島海岸駅)開業に合わせて塩竈・松島への観光集客が大いに期待され、宮城電鉄は多額の投資を行ない、松島公園内に劇場や浴場を設置するなど多角的に事業を展開しました。
 そんな時代に、高橋良作さんという大河原町出身の個人の方が尽力されて水族館が完成しました。まだ、日本の水族館は草創期でしたが、砂濾過槽を利用した閉鎖循環式の設備を導入するという、先進的な水族館だったといわれています。
 太平洋戦争の前後は、閉館を余儀なくされましたが、1950年(昭和25)創始者の2代目である高橋良夫館長が、戦時中に疲弊した設備を更新し、再建を果たしました。高橋良夫さんは医師であり、学者肌でもあったようで、この時期には標本を充実させるなど博物館的傾向を強めたようです。1952年(昭和27)には、宮城県における戦後初の博物館登録を果たし、財団法人として認可されました。
 当時は、冬前に魚を逃がしてやって水族館は閉館する、という形態でした。アカミミガメが水温低下で死んでしまう前に、桂島沖で酒を振る舞って放流するのが恒例行事になっていて、新聞記事にも紹介されています。
 入口に竜宮門がありまして、それがシンボルのようになってみなさんに親しまれていました。私たちが受け継いだときにはニホンザルもいて、ブランコや滑り台といったレベルですが遊園地も一緒になっていました。博物館としての使命や、教育的役割を果たす一方で、松島という観光地での娯楽施設としても機能していたのです。

電気に強い館長

 前の経営者が辞められるとのことで、1969年(昭和44)に仙台急行が経営を引き継ぎました。水族館を引き継いだのは、私の父でした。当時私は、工学部の電気科で学ぶ学生で、今の社長は2歳上の兄ですが、兄も当時はまだ学生でした。
 通年営業になったのは、1972年(昭和47)ごろだったと思います。古い建物のときは、水温の維持がうまくできないようなつくりでしたから、冬の営業は難しかったのです。冬の間は閉館していましたが、熱帯魚や入手が難しい生きものは飼い続けていましたから、兄も私もしょっちゅう泊まりがけで夜勤をやらされていました。

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ホームアクアリウムのすすめ

水族館は、貴族階級がガラスケースに魚を飼って
鑑賞したのがルーツの一つだといわれています。
日本でも、かつてのホームアクアリウムは
お金のかかる大人の趣味でした。
今は家でアクアリウムを楽しむ人が増え、
気軽にリーズナブルに水槽を持つことが
できるようになっています。
生物とのかかわりを学びながら、
実際に魚を飼っている日本大学生物資源科学部の学生さんたちに、
魚を飼うことの魅力についてうかがいました。

デスクに癒しの水槽を 佐々木恵さん

佐々木恵さん

 私は日本大学生物資源科学部海洋生物資源科学科の化学専攻で、海洋生物に含まれている成分を資源として有効活用するという研究をしています。
 1年生のときは、東京の自宅から頑張って通っていたのですが、一人暮らしも経験したかったので大学のそばに引っ越してきました。一人暮らしは、やはり寂しくてベタを飼い始めました。最初は魚にあまり興味はなかったのですが、飼っているうちに個体識別ができるようになって、だんだん可愛いなと思うようになりました。
 私が飼っている魚は、基本的に強い魚です。ベタは強い上になついてくれますし、1週間ぐらい留守にしても平気。飼いやすくて、初心者にもお勧めです。
 東南アジアの田んぼにいる魚で、水質浄化のために、スーパーマーケットで買ってきたシジミを入れているのですが、空気呼吸ができるのでエアーなしでも飼うことができます。維持費が安く済むから助かります。

目指せ!水族館 樋口理紗さん

樋口理紗さん

 幼稚園のときの病気見舞に、おじいちゃんがフグを買ってきてくれたのが、魚を飼い始めた最初。病気見舞に魚というのも不思議なんですが、お菓子を買ってもらうよりも魚のほうが好き。実はおじいちゃんも大の魚好きで、その影響かもしれません。
 まだヨチヨチ歩きのとき、生簀に顔を近づけてずっと見ていたそうです。母が「どんな風に見えているんだろう」と同じように見てみたら、本当に水の中にいるみたいな気分だったそうです。
 魚屋さんでドジョウやアサリを買うときも、真剣に選びます。食べるためじゃなく、飼うためだからです。夏に海に行くのも、海水浴ではなく磯の生物採集。家族はずっと見守ってくれていました。
 大学は海洋生物資源科学科に進みました。高校時代は魚の話をしても誰も乗ってきてくれなかったけれど、大学に入って共通の話題で盛り上がれる友人が増えました。ただ、うちの学部でも実際にホームアクアリウムをやっている人は少ないです。

平衡水槽に小宇宙を再現 鈴木将広さん

鈴木将広さん

 子どものときはまず昆虫が好きになって、次に蝶が好きになって。
 海洋が専門ではなく、生命化学科の微生物系の研究室で、硝化細菌といわれる微生物が窒素循環にどのような影響を及ぼすかについて学んでいます。

硝化細菌
土壌や海水中で無機物だけを栄養源として生息する細菌で、アンモニアや亜硝酸といった窒素化合物を分解する。窒素化合物ができる過程で生成する酸化二窒素の温室効果は二酸化炭素の250倍。合成された窒素化合物の増加は環境に負荷を与えており、窒素は環境にとって重要なファクターである。

 自宅が荒川の汽水域に近いのと、母の実家が長崎の佐世保で、家のすぐ裏の川も汽水域。そのせいか、汽水域が好きで、一つは汽水の水槽です。今はスケールダウンしましたが、中学生のころは水槽の中に干潟と潮の満ち引きもつくっていました。環境が不安定な汽水域では、特殊な進化をするから個性的で丈夫な生きものが多いんです。

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水の文化書誌 35
《竜宮城への視点》

古賀 邦雄

古賀 邦雄 こが くにお
古賀河川図書館長
水・河川・湖沼関係文献研究会

1967年西南学院大学卒業
水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)に入社
30年間にわたり水・河川・湖沼関係文献を収集
2001年退職し現在、
日本河川協会、ふくおかの川と水の会に所属
2008年5月に収集した書籍を所蔵する
「古賀河川図書館」を開設
URL:http://mymy.jp/koga/

 2013年(平25)4月17日北九州市若松区の洞海湾で、北の海に棲むゴマフアザラシの雌の赤ちゃんが見つかった。親と離れたのかエサをもらえなく、痩せていたという。緊急に「しものせき水族館海響館」で保護された。水族館は水族たちの命を守る救急病院の役割を持つ。
 日本では水族館の施設は115ほど運営されている(中村元さんの著書に拠る)。幼児から高齢者まで幅広い年齢層の人たちが訪れ行楽の場である。広辞苑によると水族館について「水生生物を収集・飼育し、それを展示して公衆の利用に供する施設。水生生物に関する調査・研究も行なう」と定義する。具体的に水族館のバックヤードを覗いてみよう。

水族館の業務

 西源二郎・猿渡敏郎編著『水族館の仕事』(東海大学出版会・2007)では、飼育技術者の業務を、飼育展示するために水族を「集める」、取集された水族を「飼育する」、水族館の最大の目的である「展示する」、「見せる」。希少な水族やその環境を「保護する」。そして、水の環境と水族についての情報を多くの人に知ってもらう「広める」、さらにこの一連のために、調査研究、「調べる」に大別される、と定義する。
 採集活動には、自分たちで行なう自家採集、漁業者の助けを借りる便乗採集があり、ジンベエザメやマンボウなどは漁業者の定置網にかかる。採集した水族を生きたまま輸送する。飼育には、水の適切な管理が重要である。地先の海の水を汲み上げて水槽に入れ、飼育用水として使用したのちそのまま海へ放流する開放式と、一度汲み上げた水を何度も繰り返し、水槽に注水する循環濾過方式がある。
 水族の食性は動物食性、植物食性、雑食性、そしてプランクトン食性などに分けられる。水族館で与えるエサは、一般的に冷凍か生鮮状態の餌を与えるが、生きたままの餌しか食べない水族もいる。また、見せるには、展示テーマが十分に検討され、その水族館の特徴が現れてくる。
 水族館では、研究として、飼育・採集・繁殖などのテーマがある。猿渡敏郎・西 源二郎編著『研究する水族館』(東海大学出版会・2009)は、フィールド調査として、深海化学合成生態系生物の飼育研究、黒潮の魚ジンベエザメ、マンボウ、ニタリ、シイラなど高知県以布利の魚、福島県いわき市の魚メヒカリについて捉える。水族館の館内研究として、八放サンゴ類の分類学と標本管理、スベスベマンジュウ蟹とアカマンジュウ蟹の個体発生、トラザメの人工授精と卵発生、クロマグロの飼育について詳論する。開館当初、高名な学者を館長または顧問に迎え、研究を行なった。1954年(昭29)開館「江ノ島水族館」では雨宮育作東大名誉教授、1964年(昭39)開館「大分マリーンパレス」では宮地伝三郎京都大名誉教授、1968年(昭43)開館「京急油壺マリーンパーク」では末廣恭雄東大名誉教授などが就いた。

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文化をつくる
しびれる水族館

編集部

希望の星

 現在、水族館には一言でくくれないほど、多様な個性があります。
 そんな中、マリンピア松島は長らく地元の子どもたちにとって、かけがえのない存在であり続けました。マリンピア松島に行く、と言ったら、「懐かしいなあ」「パンダイルカがね」と、思い出を語る人が何人もいて、みんなの愛着がよくわかりました。
 東日本大震災後に早々と復旧できたのも、みんなに希望を与える存在だったから、頑張れたのかもしれません。残念ながら閉館が予定されていますが、その前に、是非訪ねてほしい水族館です。

水の魅力を支える人

 沖縄美ら海水族館(以下、美ら海と表記)の宮原館長からは、こんなしびれる言葉が飛び出しました。
「こんなに不便な所にあるのにたくさんのお客様が来てくださるのは、なぜなんだろうと考えてみたんですが、やはり沖縄の青い海、水の魅力なんだろうと思います」
 新鮮な海水が近くで調達できない水族館では、完全閉鎖式といって、循環させた水で海の生きものを飼っています。餌の残滓は水を汚しますから、餌の量を控えたり、汁が出ないように餌を洗ってから与えたりすることもあるのだそう。
 美ら海では、目の前のきれいな海の沖合300m、水深20mの所から新鮮海水を採っていて、〈サンゴの海〉水槽では100%新鮮海水を1日24ターン、〈黒潮の海〉水槽では新鮮海水と濾過海水をミックスして使っています。7500m³の巨大水槽全部の水を、なんと約2時間で入れ替える能力があるのだそうです。
 新鮮海水には貝の幼生や魚の卵なども混じっているため、ポンポン型の濾過材(8ページ)で濾過。循環海水は好気性微生物を利用して、硅砂(珪酸分に富む石英砂)で濾過し、62基の濾過器がフル稼働。さしずめ工業プラントのようなバックヤードが、水族館を支えています。
 万が一の事態に備え、自家発電設備も常備。点検のときには停電しますが、魚たちにとって電気が使えない状態は6〜7時間が限度、と感じているそうです。
「異常のシグナルは、音や臭いに表われます。だから、一番頼りになるのは人間の五感。機械には任せられないんです」
 こういうことを肌で感じながら、機器類の点検がなされています。

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わたしの里川
東京の隠れた里川 カナルカフェ

陣内 秀信

陣内 秀信さん
じんない ひでのぶ

ミツカン
水の文化センター
アドバイザー

法政大学教授

 日本の都市を調べれば調べるほど、川と密接な関係をもってつくられてきたことがわかる。長年、東京の調査・研究を続けているが、この巨大都市のどの地域にも、重要な役割をもち、人々の暮らしを育んできた素敵な水辺があったことに驚かされる。
 川が急流で、しかも集中豪雨、台風も多い自然条件のもと、我が国では、洪水からいかに身を守りつつ、水を活用するかに知恵と技術を発達させてきた。水が怖いからこそ、畏敬の念も生まれ、水の神を祀ることも広がった。東京の東の低地、江戸川区に広範に分布する「水の神」の研究をしている博士の学生が我が研究室にいる。
 こうして物理的にも精神的にも水の脅威から身を守りながら、おおいに水の恵みを享受したのが日本の文化なのだ。自分達でも川を維持管理しながら、最大限活用しようとするスピリットが育まれてきた。東京人にとって、最大の里川は隅田川だろう。水質がよくなり、人々が水辺に戻り、関心が高まったのが、1970年代中盤。屋形船の復活、花火、レガッタの復活にはじまり、近年は、浅草寺の舟渡御が復活し、東京スカイツリーの足下の隅田川でLEDの電球をホタルに見立てて放流する「東京ホタル」のイベントが人気を集めた。この母なる川が里川として、人々の心に蘇りつつある。
 川が汚染され、そっぽを向かれた時代も戦後の高度成長期にあった。時代が変わり、自分たちの手に水辺を取り戻そうという気運の高まりのある今、「里川」という言葉に思いを込めて、自分達の身近な水辺のもつ多様な意味をもう一度、考えてみたい。
 東京の都心にも「里川」にふさわしい魅力ある水辺がいくつも存在する。都心の貴重な水辺として案外忘れられてきたのが、外濠である。江戸城を囲む史跡で、貴重な水と緑をもつ都会のオアシス。その一角の牛込堀に、1918年(大正7)にボートハウス「東京水上倶楽部」として設立された歴史を誇るカナルカフェがある。
 かつては、そのボートでデートする学生が沢山いた。外濠は本来、防御機能をもったが、近代に市民に開かれ、桜の木も植えられ、花見の名所となった。だが、もっとこの水辺が注目されていい。
 陣内研究室では、このカナルカフェと組んで、水上コンサートを毎年7月に実施している。夏の夜、ボートの上から、そして水上のデッキから演奏を楽しみつつ、この貴重な外濠の水辺空間の豊かさを多くの方々に体感していただいている。「使いながら守る健全な水循環」の思想をさらに広げていきたい。

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坂本クンと行く川巡り 第1回
Go ! Go ! 109水系
恩がある川 遠賀川(福岡県)

坂本 貴啓

坂本 貴啓さん さかもと たかあき
筑波大学大学院 システム情報工学研究科
博士後期課程 構造エネルギー工学専攻在学中

1987 年福岡県生まれの川系男子。北九州で育ち、高校生になってから下校途中の遠賀川へ寄り道をするようになり、川に興味を持ち始め、川に青春を捧げる。高校時代にはYNHC(青少年博物学会)、大学時代にはJOC(Joint of College)を設立。白川直樹研究室『川と人』ゼミ所属。河川市民団体の活動が河川環境改善に対する潜在力をどの程度持っているかについて研究中。

川系男子 坂本貴啓さんの案内で、
編集部の面々が109水系を巡り、
川と人とのかかわりを探りながら、
川の個性を再発見していく連載です。

109水系
1964年(昭和39)に制定された新河川法では、分水界や大河川の本流と支流で行政管轄を分けるのではなく、中小河川までまとめて治水と利水を統合した水系として一貫管理する方針が打ち出された。その内、「国土保全上又は国民経済上特に重要な水系で政令で指定したもの」(河川法第4条第1項)を一級水系と定め、全国で109の水系が指定されている。

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109水系のものさし

 遠賀川(おんががわ)は、ぼくの故郷の川。高校時代に立ち上げた〈青少年博物学会:YNHC〉を『水の文化』42号で取材していただいたご縁が、この連載につながりました。
 ぼくが川にのめり込む〈川系男子〉人生をスタートしたきっかけとなり、青春を捧げてきた遠賀川を、真っ先にご案内したいと思いました。
 また、遠賀川水系は流域面積が約1000km²。ここを基準にすると他の108の水系の大きさが比較しやすく、初回にふさわしいと考えました。ちなみに東京都は2188・67km²、23区だけなら621km²。1000km²が、どれぐらいの広さか想像できますか?

恩がある川 遠賀川

 筑豊炭田が炭鉱景気に沸いた時代、石炭を洗ったために遠賀川は微粉炭(びふんたん)で真っ黒になり、〈ぜんざい川〉という異名で呼ばれるほどだったそうです。
 しかし、昭和40年代に入ってエネルギー革命が始まると、石炭産業は衰退の一途をたどりました。
 田川地区では、石炭に代わって石灰岩を資源としたセメント工業が発展しました。田川郡香春町(かわらまち)にある香春一の岳は、石灰の採掘のために山頂が半分ほどまで削られていて、平らになった山頂部は見るとちょっとビックリします。
 鉱山が閉鎖したので、遠賀川の水は、見た目には真っ黒から透明に戻っていきました。しかし、九州で流域人口密度が1番の遠賀川は、残念ながら九州水質ワースト1の川に何回もなっています。
 2004年(平成16)、遠賀川と彦山川(ひこさんがわ)がY字型に合流する直方(のおがた)に、〈遠賀川水辺館〉がオープンしました。ゼネラルマネージャーになった野見山ミチ子さんたちは、水質を良くしたい、産業の衰退による地域の停滞感をなんとかしたい、と思っていたそうです。
「遠賀川はゴミを捨てられたり汚されたり、自らがボロボロになっても人の暮らしに役に立ってきたの。それなのに水害が起きたら危険だからといって背を向けてきた。そんな遠賀川にごめんね、という気持ちで川の活動を始めました」
 野見山さんは近畿大学が行なっている〈筑豊ムラおこし・地域づくりゼミナール〉、通称筑豊ゼミに入って地域活動について勉強したり、河川工学者の関正和さんが癌の闘病中に書かれた『大地の川』、『天空の川』(ともに草思社 1994)にも強い影響を受けたそうです。
 河川環境モニターの意見書に「遠賀川を、地域の人と一緒になんとかしたい」と書いたことがきっかけで、〈直方川づくり交流会〉が発足し夢プラン(遠賀川の将来像)をつくることになったそうです。メンバーは、野見山さんが声をかけたさまざまな立場の男女22人の市民。これに国土交通省九州地方整備局遠賀川河川事務所や福岡県直方県土整備事務所、直方市職員も参加し、市民と一緒に話し合ったところが、普通の市民活動とひと味違っていました。
 野見山さんによると、50年後の姿だったから、目先のことやエゴにとらわれないで夢が描けたとのこと。川を通じて仲間にも出会えたし、本当に川に助けられた、といつも話してくれます。
 ぼくは〈遠賀川水辺館〉がオープンするのと同時期にかかわるようになって、野見山さんを川のお母さんと慕ってきました。現在、筑波大学大学院で川の市民活動の潜在力について研究しているのも、野見山さんが「世界中の海を泳ぎ、また遠賀川に帰っておいで」と暖かく送り出してくれたお蔭です。

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