2013年10月発行

水の文化 45号 雪の恵み

水の文化 45号 雪の恵み
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雪やこんこん あられやこんこん。
シーズン最初の雪に喜び、
駆け回るのは子どもと犬だけでしょうか。
とうとう冬がやってきたか、と
半ば溜息をつきながらも、
大人だって、白く美しい雪には
心が躍ります。

雪はスキーなどのウィンタースポーツや
雪祭りといった観光資源にもなるし、
春に雪がゆっくり融けることは、
地下水涵養や稲作にも好都合。
雪国に大きな恵みをもたらします。

これほどたくさんの雪が降る地域に
これほどたくさんの人が住んでいるのは
日本だけだそうです。
日本人は雪のプラス面を活かし、
寄り添いながら暮らしてきたのです。

それでも雪に閉ざされた長い期間、
雪国の人たちは、
じっと我慢をしてきたに違いありません。
今の時代に合った新しい暮らしの知恵が
雪を有用な資源にできたら、
そんな我慢も少しは軽くなるのでは。
そこを出発点として、
雪利用を見直してみました。

小正月に行なわれる秋田・横手のかまくら祭。雪でつくったかまくらには水神様を祀る。子どもたちにとってのおもてなしの空間だ。
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目次

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  • 新エネルギーとしての雪資源

    克雪から利雪へ

    媚山政良

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  • あるがままの雪利用

    雪室と雪だるま財団

    伊藤親臣

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  • 最新の冷熱エネルギー活用

    利雪の家

    山田正人

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  • 日本の雪道とスタッドレスタイヤ

    土橋健介

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  • 水神様を祀るかまくら

    照井吉仁

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  • 札幌市と歩んだ〈さっぽろ雪まつり〉

    齊藤洋平

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  • 快適な北方都市の創造

    世界冬の都市市長会

    今井啓二

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  • 雪都・上越高田の宝物

    日本一の雁木通り

    関由有子

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  • 文化をつくる

    雪の恵み

    編集部

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  • 水の文化書誌 36

    雪国の生活をたどる

    古賀邦雄

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  • わたしの里川

    里の水音 川それぞれ

    鳥越皓之

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  • Go!Go! 109水系

    山懐に抱かれた 米代川

    坂本貴啓

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  • 里川文化塾報告/予告
    次号予告・編集後記

     

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新エネルギーとしての雪資源 克雪から利雪へ

媚山 政良さん

媚山 政良さん こびやま まさよし
室蘭工業大学大学院工学研究科教授 工学博士

1946年北海道札幌市生まれ。室蘭工業大学工学部卒業、北海道大学工学研究科博士課程修了後、1976年より室蘭工業大学文部技官、83年より同大工学部機械システム工学科熱流体講座熱エネルギー研究室助教授。専門分野は熱工学、放射熱伝達、雪工学など。雪冷房・空調システム、冷温乾燥などさまざまな冷熱利用の研究、施設の設計を行なう。1985年氷室型農産物長期貯蔵庫(北海道幕別町)、1994年全空気方式雪冷房システム(山形県舟形町)、1996年低温もみ貯蔵施設(北海道沼田町)、1999年冷水循環式雪冷房システム(北海道美唄市)、2000年沼田式雪山(北海道沼田町)、2005年雪山-雪洞式雪冷房システム(北海道豊浦町)など。
主な論文、著書に『圧縮式冷凍機によるガスタービンの吸気冷却』(日本機械学会論文集 1976)、『冬期間の自然冷熱エネルギーの利用に関する研究(氷室型農産物長期保冷庫の開発と実証実験)』(日本機械学会論文集 1987)、『雪−空気直接熱交換による空気の冷却』(空気調和・衛生工学会論文集 1998)、『熱交換器ハンドブックV編第11章 雪冷房システム』(省エネルギーセンター 2005)、『雪山横穴空洞式熱交換システムの開発に関する研究(イチゴ育苗ハウスへの雪冷房システムの利用)』(日本雪工学会誌 2007)など

雪は、人間の基本的な生存権を大事にする
〈環境未来都市〉をつくるのに有効だ、
というのが媚山政良さんの考えです。
視線の先には、いつも人の暮らしがある媚山さん。
現代技術や科学を駆使することで、
雪がいかに人の暮らしを豊かにするか、
教えていただきました。

雪エネルギーの位置づけ

 西暦2100年は特別な年です。今のまま使い続けていると、地下の資源は2100年には枯渇する、といわれているのです。
 化石燃料の枯渇に対応するための方法として〈環境未来都市〉を構想しました。
 環境未来都市には、例えば大容量の排熱があるデータセンターの誘致やSmart Complex 構想が考えられます。
 雪の冷熱を活用すれば夏の冷房にかかるコストを抑えられますから、積雪寒冷地でのデータセンターの実現は将来有望と思っています。私はそれをホワイト(雪)データセンターと名づけて、積極的にプレゼンテーションしています。
 Smart Complex 構想というのは、〈共同体の複合体システム〉です。域内のエネルギーを効率良く利用し、生活基盤となる食物と住環境(暖冷房)の確保も図る、自給を基本とした新集落を想定しています。
 熱は、温度順に適切な用途に利用するとエネルギーロスが減って環境負荷が軽減できます。そこに雪を冷熱として組み込むメリットがあります。
 雪は厄介ものとして、捨てられてきました。札幌市だけでも雪対策経費は年間150億円。1人当たりに換算すると1万円ぐらいになります。
 私は札幌出身なのですが、札幌で育った子にとって雪は避けては通れない存在です。中学校のそばの河川敷は雪捨て場で、春先になると汚れた雪が目につきました。降っているときはあんなにきれいなのになんで汚れてしまうんだろう、と思って「何だか可哀想だな」と心に引っ掛かっていました。
 雪捨て場というのは、悲しい呼び名ですね。札幌市では一冬に1800万m³の雪を排雪していますから、底辺775m角のスペースに10階建て(30m)の箱があるとすると、それがいっぱいになるぐらいの容積の雪が毎年捨てられて、ただ融け去っています。冷熱エネルギーととらえたら膨大な資源である1800万m³の巨大な氷山を、みすみす川へ捨てていることになります。雪の無念の泣き声が聞こえませんか。
 雪には、冷熱エネルギー利用以外にもさまざまな意義と効果が挙げられます。
○省エネルギー効果(石油の代替)
○CO2の排出抑制
○臭気・塵埃(じんあい)の吸収・吸着(フィルター効果)
○作物などの鮮度維持・でんぷんの糖化
○豪雪地帯と他の地域との差別化
○その他:保湿効果、消音効果、芸術・遊びの素材
 大学に入ってからはエンジンやボイラーの研究をしてきました。実は大学に入ってから「雪貯蔵の研究をやってみたい」と教官に話したところ、「春の終わりには雪なんか全部融けてしまうじゃないか」と反対されました。それで気持ちを封印してきたのですが、こんなに多くの可能性を秘めた雪は、まさに自然からの贈りものです。降らないところには存在しない資源だと考えると、厄介もの扱いはできなくなります。
 そこで発想を180度転換して、克雪ではなく利雪と考えてみよう、と提案するようになりました。

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あるがままの雪利用 雪室と雪だるま財団

伊藤 親臣さん

伊藤 親臣さん いとう よしおみ
公益財団法人雪だるま財団主任研究員

1971年愛知県名古屋市生まれ。静岡大学工業短期大学部機械工学科卒業後、室蘭工業大学工学部機械システム工学科編入。2008年室蘭工業大学大学院工学研究科博士後期課程修了。2000年より公益財団法人雪だるま財団に勤務。
主な論文、著書に『建築設備と配管工事Vol.48:雪国らしいsnow-life』(日本工業出版2010)、『ゆきVol.74:天からの贈り物「雪・太陽・雨」を組み合わせた「自然エネルギー循環システム」』(雪センター 2009)ほか

豪雪地帯に人が住む、ということを当たり前と思っていましたが、
実は日本特有の現象、と伊藤親臣さんは教えてくれました。
克雪も重要です。ただ、克雪だけでなく、
雪に寄り添う暮らしを育んできたからこそ、
雪の持つ資源としての有効性を活用することができます。
新潟県上越市安塚を拠点に展開される、先進的な雪利用の取り組みを紹介します。

雪だるま財団とは

 安塚(新潟県上越市安塚区)は、日本有数の多雪地帯です。雪国らしい文化、経済、生活の在り方を、外部との交流の中で見出そうとする〈雪国文化村構想〉を掲げ、1989年度(平成元)から雪を逆手に取ったまちおこしに取り組んできました。
 そのきっかけになったのは、昭和後期に度々起きた豪雪です。

五六豪雪(ごうろくごうせつ)
1980年(昭和55)12月〜1981年(昭和56)3月にかけて、東北地方から北近畿までを襲った記録的豪雪。
五九豪雪(ごうきゅうごうせつ)
1983年(昭和58)12月〜1984年(昭和59)3月にかけて、日本列島全体を襲った記録的豪雪。雪慣れしていない地域を襲ったこともあり、交通機関の乱れなど都市機能が麻痺した地域もあった。

 同時に高齢化と過疎化が、加速度的に進んでいました。そんな折、安塚では「高齢化はある程度仕方がない。過疎は我々の心の中の問題。過疎を雪のせいにしがちだが、本当にそうなのか。雪をもっと見直してみよう」と考え、雪をまちづくりの核に据えた活動を行なうようになりました。試行錯誤の末に雪の利用に関する研究、実践を行なう組織として、1990年(平成2)に設立したのが〈財団法人雪だるま財団〉です。
 やがて、安塚の町長(当時)は、室蘭工業大学で雪を用いた冷熱エネルギー研究をしておられる媚山政良先生に行き着き、「こういう経緯でこれから雪を有効活用していきたい。そういうことができる人はいませんか」と室蘭に来られました。そこで、雪冷房の研究をしていた私が、推薦されて安塚に来ることになりました。
 雪の研究を本業として生きていくのは難しいとわかっていましたから、学生時代のテーマと割り切っていたのですが、次第にはまってしまって。ですから、安塚からオファーがあったときに、単身、飛び込んでみることにしました。13年も前のことです。

雪を新エネルギーに

 私が財団に勤務して最初の大仕事は「雪を新エネルギーとして国に認めてもらう」というプロジェクトの資料づくりでした。町長は「雪を新エネルギーに」と、積極的に国に働きかけていましたから、私も毎月のように、国会に随行しました。衆参の議員会館や省庁の官僚の執務室に赴くなど、安塚の日常では経験できない貴重な体験をさせていただきました。
 そして、これまでの関係部局との調整が功を奏し、新エネルギーを審査する国の会議に提出されたデータには「雪だるま財団調べ」と書いてあり、一連の活動が法制化に一役買い、自分もその歴史的な場面に立ち会えたんだなあと感慨深く思いました。その会議を傍聴したのち、帰りのエレベーターの中で媚山先生から「決まったね」と言われ握手したことを覚えています。これから「雪や雪国が表舞台に立つ」と実感した瞬間でした。

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最新の冷熱エネルギー活用 利雪の家

山田 正人さん

山田 正人さん やまだ まさと
有限会社山良工務店代表取締役

1967年、新潟県魚沼市生まれ。県立小出高校卒業後上京、(株)丸吉(現(株)ジャパン建材)入社。その後、地元建設会社を経て、(有)山良工務店入社。2004年(平成16)より現職。

雪を貯蔵して、夏の冷房に活用している住宅があります。
モチベーションを高めているのは、環境意識。
システム導入にはコストがかかりますが、
融けて消えてしまう雪が、
エネルギーとして充分活用できることがわかりました。
快適な室内環境とエコをかなえる、
雪冷房の実力をうかがいました。

魚沼市の新エネルギー政策

 新潟県魚沼市では、新エネルギーの活用を進めるために2004年(平成16)に〈地域新エネルギービジョン〉を策定しています。
 2007年度(平成19)には、〈新エネルギーを考える会〉を立ち上げ、燃料に木を使ったストーブや太陽光発電などの研究会を月に1〜2回ずつ行なっていました。当社では14〜15年前から太陽光パネルの設置を手がけていたこともあり、その研究会に参画しました。
 そのときに長岡技術科学大学の上村靖司先生が講師として来られ、雪を使った冷房はどうか、ということを提案されたのです。
 年度末には、雪と薪を活用して魚沼らしいライフスタイルが提案され、その成果は〈ユキ★マキプロジェクト〉として、提言書にまとめられました。

雪冷熱エネルギーのモチベーション

 提言書を出した2007年(平成19)の翌年から、魚沼市が雪冷熱エネルギー住宅に対しても補助金を出すようになりました。その補助金を利用して、2010年度(平成22)当社で最初に雪冷熱エネルギー住宅を建築しました。その後、2012年度(平成24)に2軒、施工しています。
 換気のためのファンは電動です。魚沼市役所環境課で1シーズンのデータを収集し検証してもらったところ、エアコンだと1万3000〜1万4000円かかるところ、ファンを動かすための電気代だけですので、700円ほどで済むという試算が出ました。
 魚沼というのは、新潟県内で最も暑くなることの多い地域です。冬の雪も多いのですが、夏に暑くなるので雪を溜めておくモチベーションは高いのです。
 ちなみに暖房や屋根の融雪のために使われる灯油代なども馬鹿になりません。
 勾配の緩い屋根で融雪システムを導入しているお宅では、燃料に灯油やガスを使っていますから、屋根の雪の処理にもお金がかかるのです。家やその年の降雪量などによっても違いますが、1シーズン20万〜30万円程度の灯油代がかかっています。最近になって灯油が値上がりしたことで、薪ストーブやペレットストーブへの関心が高くなりました。

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日本の雪道とスタッドレスタイヤ

土橋 健介さん

土橋 健介さん どばし けんすけ
株式会社ブリヂストン
ウィンタータイヤ開発部ユニットリーダー

1968年千葉市生まれ。東京理科大学卒業後、入社。3年間製造部門を経験し、1995年より補修用乗用車向けタイヤの開発の業務に携わる。

昼間の気温が上がることで、
融けた雪が氷やシャーベット状になる日本。
雪道だったり、凍っていたり、除雪道だったり。
日本の路面はさまざまな状態が同時期に交錯しています。
このような特殊性に鍛えられ、
日本のスタッドレスタイヤは世界トップレベルになっています。

課題は雪よりも氷

 1991年(平成3)にスパイクタイヤが禁止になったことが、スタッドレスタイヤ開発にとって大きな転機となりました。
 日本の路面は、気候や気温の影響で雪というより氷になる路面が非常に多いのです。昼間、0℃以上に気温が上がって夜になると再び下がる、ということを繰り返すからです。海外の場合は、気温が低いままで雪の状態が維持されるとか、除雪がしっかり行なわれるので氷にならないところがほとんどです。
 例えば北米の場合は乾燥路と雪道、ということになり、北欧やロシアの例でいえば、冬中、雪道の状態が保たれます。ですから、北欧やロシアでは今でもスパイクタイヤが使われています。
 雪より氷のほうが格段に滑ります。実はスパイクタイヤのスパイクは雪というよりは氷に効いていたのです。氷に刺さって効いていたスパイクを抜いて、ゴムだけでその性能をどう実現するか、というのがスタッドレスタイヤ開発の要でした。
 氷やいったん融けてシャーベット状になった路面を克服するべく開発されたスタッドレスタイヤというのは、日本で育った、と言っていいと思います。

ゴムの中の気泡

 ちょうど四半世紀前の1988年(昭和63)に発表した発泡ゴムは、当社独自の技術であり、スタッドレスタイヤの歴史そのものを物語ります。
 滑る原因になるのは、氷の上に浮いている水です。その水をいかに吸い取るかという発想で、最初はゴムの中に小さな気泡をつくりました。スポンジが水を吸い上げる要領です。ゴムの中に吸収された水は、走行中に遠心力で抜けていきます。
 これを発展させて、ゴムの中に気泡で水路をつくったり、水路の中に親水性のコーティングを施したものもあります。
 発泡ゴムの発想のきっかけは、低温になると硬くなるゴムをどうやって軟らかくするか、ということにありました。発想を転換してスポンジだったらどうなるんだろう、ということになってゴムの中に泡をつくってみました。すると、軟らかくする効果だけでなく吸水性も高まることがわかりました。またゴムの配合ではなく気泡で軟らかさを実現しているので、ゴム自体の劣化が進みにくい、というメリットもあります。
 ただし、気泡をたくさん入れてしまうと普通の路面での走行性能が落ちるので、一定の割合を超えないように気泡を入れながら、いかに効果を上げるかが開発のポイントといっていいと思います。

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水神様を祀るかまくら

照井 吉仁さん

照井 吉仁さん てるい よしひと
横手市観光協会 かまくら委員会委員長

1964年横手市生まれ。18歳のとき、横手公園を会場として活動する民間団体〈かまくら村実行委員会〉に参加。自分たちの手でかまくらをつくり、自分たちでおもてなしをすることにこだわり、現在も活動中。2010年「横手のかまくら」を運営する〈横手市観光協会 かまくら委員会〉委員に就任。2012年より、現職。

14万〜17万人もの人が訪れる横手のかまくら祭は、
「なければ生きていかれないのに あって当たり前だと思っているもの」
に感謝する日でもあると、照井吉仁さん。
さまざまな時代の洗礼を受けながらも、
雪を楽しむ気持ちとおもてなしの心を持ちながら
かまくらをつくり続ける想いをうかがいます。

かまくら三つのルーツ

 横手のかまくらの歴史は400年といわれているのですが、はっきりしていません。
 さまざまな文献に残っている断片をつなぎ合わせると、どこかの神様をお祀りした神事ではなく、複数の行事が下敷きになっていることがわかっています。
 元になった行事は三つあります。
 まずは、農村の行事として鳥追いがあります。当時は鳥は農作物を荒らす害鳥でしたから、横手に限らず全国の農村にあった行事です。
 鳥追いは子どもの祭りで、歌を歌いながら家を一軒一軒回って行くのだそうです。この行事は今は行なわれていませんが、1936年(昭和11)生まれの母が子どものころはまだやっていたといいます。私は母から鳥追いの歌を教えてもらいました。
 それぞれの家では、おひねりの中に小さく切った餅やお菓子を入れてくれたそうで、子どもたちが鳥追いをしている間にお父さんたちが大きなかまくらをつくっておき、帰ってきた子どもたちは、中で炭を熾こして餅を焼いたりしたのです。
 いわば、鳥追いの打ち上げです。この日ばかりはいくら夜更かしをしても怒られないし、さぞかし楽しい行事だったことでしょう。
 侍の町、内町(うちまち)にも、かまくらのルーツがあります。正月の14日になると屋根のない土蔵のようなものを雪でつくって、前に注連(しめ)飾りをして、空になった米俵を据え、お神酒(みき)を上げて子どもの成長を祈りました。あとから米俵に火をつけて燃やす火祭り、左義長(さぎちょう)です。

左義長
小正月に行なわれる火祭り。年末に出迎えた歳神を、依り代となった門松や注連飾りを焼くことによって炎とともに見送る意味があるとされる。

 かまくらに鎌倉という字を当てるのも、左義長のときには鎌倉大明神を祀るから、と思われます。
 鎌倉大明神というは、後三年の役に活躍した鎌倉権五郎景政(ごんごろうかげまさ)のこと。景政は関東から戦の応援に来ていた人なのですが、武士の気概にあふれた人物として祀られたのでしょう。昔の絵図には、左義長のときに鎌倉大明神の幟(のぼり)を立てていた様子が描かれています。

鎌倉権五郎景政
平安時代後期の武将。父の代から相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市周辺)を領して鎌倉氏を称した。16歳のころ、後三年の役(1083〜1087年)に従軍し、右目を射られながらも奮闘した逸話が『奥州後三年記』に残されている。右目に矢が刺さったまま敵を討ち取り自陣に帰った景政に対し、仲間の三浦平太郎為次が駈け寄り、矢を抜こうと景政の顔に足をかけたところ、怒った景政は「武士であれば矢が刺さり死ぬのは本望だが、土足で顔を踏まれるのは恥辱だ」と言ったという。
後三年の役
11世紀の東北地方で起こった前九年の役と呼ばれる豪族による勢力争いで、陸奥国司と対立した安倍氏は、12年間の戦いの末に1062年(康平5)に滅ぶ。のちに親族内での内紛が後三年の役に発展。安倍氏の血を引く清衡が勝ち残って奥州藤原氏を興し、三代にわたる栄華の基礎を築いた。

 かまくらのもう一つのルーツは、商人の町、外町(そとまち)の行事です。
 横手というのは、今からは考えられませんが、水が得にくい土地でした。毎日の水汲みも、相当遠くから集まったようです。それだけ井戸の数も少なかったのです。年を取ると水汲みも難儀ですから、〈水汲み若勢(わかぜ)〉といって、水汲み作業員がいたといいます。
 1月15日には井戸にきれいな幕を張って、水の神様に感謝したそうです。現在、かまくらの中に水神様を祀るのは、井戸に感謝した行事の名残です。

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札幌市と歩んだ〈さっぽろ雪まつり〉

齊藤 洋平さん

齊藤 洋平さん さいとう ようへい
一般社団法人札幌観光協会事業・イベントグループ統括係長

1979年、新潟県生まれ。札幌大学卒業後、入社。イベントグループとして〈さっぽろ雪まつり〉をはじめとする札幌市を代表するイベントの企画・運営に携わる。

〈さっぽろ雪まつり〉は2014年(平成26)に65回目を迎えます。
市民の雪捨て場でささやかに始められた〈さっぽろ雪まつり〉は、
世界中から人が集まる経済効果250億円の一大イベントに成長しました。
マンネリ化と闘いながら、
安全優先で運営される〈さっぽろ雪まつり〉についてうかがいました。

さっぽろ雪まつり期間中 写真提供/さっぽろ雪まつり実行委員会
さっぽろ雪まつり期間中
写真提供/さっぽろ雪まつり実行委員会

初回は試験的に

〈さっぽろ雪まつり〉は今年(2013年(平成25))64回目を終えました。始まったのは1950年(昭和25)。私が生まれるはるか前のことで、この形態になってから、既に長い時間が経過しています。札幌市と雪まつりは、戦後の成長の道をともに歩んでおり、札幌市にとって象徴的な存在だと思います。
 ちなみに初回は試験的な催しで回数表示がなく、〈さっぽろ雪まつり〉(以下、雪まつりと表記)となっています。これが成功し好評だったことから、翌年に第2回さっぽろ雪まつりが開催されました。
 初回は2月18日のみ。今は会期が7日間なのですが、1日だけのイベントでした。場所も大通7丁目の一角で行なわれたということです。
 新潟県の十日町の雪まつりと同じ回数で、十日町さんのほうが一週間程早く開催したので、日本で二番目に歴史のある雪まつりということになっています。
 大通公園というのは北側が官庁、南側が商業地帯。江戸の大火同様、北海道も火事が非常に多かったということで、大通公園は公園ではなくて防火道路としてつくられました。
 札幌は雪が降りますし、この気候なので降り積もった雪は融けません。それで大通公園は雪捨て場として利用されていました。

冬を明るくすごすために

 札幌市と札幌市教育委員会が『さっぽろ文庫』(北海道新聞社)という文化叢書をシリーズで刊行しています。その47で雪まつりについて取り上げています(1988年〈昭和63〉)。

さっぽろ文庫
北海道新聞社から年4巻前後のペースで出版された。第1巻は1977年(昭和52)の『札幌地名考』、最終巻の第100巻が『北都、その未来』(2002〈平成14〉)。札幌市の図書館で閲覧できるほか、67巻分は電子文庫として公開している。

 そこに雪まつりの誕生の経緯が書かれています。当時の札幌は食糧や燃料も不足しがちで、敗戦の暗さをまだ引きずっていました。また、雪国特有の寒く長い冬をいかに明るくすごすか、ということにも課題がありました。
 復興を象徴し、冬を楽しくすごすためのおまつりをどんなものにするかという企画には、カーニバルと雪戦会が影響を与えています。
 カーニバルというのは、1925年(大正14)から、2月11日に中島公園のスケートリンクで行なわれていた氷上祭です。一方、雪戦会というのは札幌一中(現・札幌南高校)の伝統行事。ブロック状に固めた雪で城を築き、旗取り合戦を繰り広げる勇壮なもので、1898年(明治31)から1945年(昭和20)まで続いていました。
 これに小樽の子どもたちが校庭の雪を集めて雪像をつくったというニュース映像がヒントとなって、雪まつりの骨子がつくられました。このささやかなまつりが、高度経済成長期やバブル経済を経て続いているのです。

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快適な北方都市の創造 〈世界冬の都市市長会〉

今井 啓二さん

今井 啓二さん いまい けいじ
札幌市総務局国際部長

1955年生まれ。北海道上川郡新得町出身。小樽商科大学卒業、札幌市役所。財団法人地域創造(企画課長)派遣、財団法人札幌市芸術文化財団(総務課長)派遣、企画課長、教職員人事担当課長、連絡調整担当部長などを経て、2011年より現職。

〈世界冬の都市市長会〉の活動をご存知でしょうか。
「冬は資源であり、財産である」というスローガンを掲げ、
課題解決や冬の都市ならではの知恵を分かち合ってきました。
ひと冬に6mの降雪があるのに多くの人口を抱え、
社会インフラが整備された札幌は、
冬を資源に変えることで発展し続けている好例です。

2011年(平成23)開催された第14回冬の都市市長会議 写真提供/札幌市
エストニア・マールドゥで、2011年(平成23)開催された第14回冬の都市市長会議
写真提供/札幌市

〈世界冬の都市市長会〉とは

〈世界冬の都市市長会〉(以下、市長会と表記)は、1981年(昭和56)に〈北方都市会議〉の開催が提唱されたことによって誕生しました。
 北方圏に位置する都市は、積雪寒冷の厳しい気象条件を克服しながらまちづくりを行なわなければいけないという、共通した課題を抱えています。
「冬は資源であり、財産である」というスローガンのもと、気候・風土の似ている世界の北方都市が集まり、共通する課題について話し合い、快適な北方都市を創造しようではないか、という札幌市の呼びかけに6カ国9都市が賛同しました。翌年、第1回会議が札幌で開催され、雪でつながる独自のネットワークがアジア、北米、ヨーロッパの北方都市の間に形成されたのです。
 また、第3回会議(1988年〈昭和63〉カナダ・エドモントンで開催)からは、企業や団体が冬関連の商品や技術を出展する〈冬の見本市〉や専門家や学術研究者が発表する〈冬の都市フォーラム〉が併催されるようになり、情報に加えて、モノと技術が行き交うコンベンションに発展しました。
 第6回の会議(1994年〈平成6〉アメリカ・アンカレッジ開催)ではネットワークのさらなる強化を目指し、会員制の組織として〈北方都市市長会〉が設立され、会議の名称も〈北方都市市長会議〉に変更されました。1997年(平成9)にはそれまでの活動が評価され、国連経済社会理事会にNGOとして登録されています。
 冬は南半球にもあります。第7回会議が終ったころでしたか、南半球の複数の都市からも関心が寄せられてきました。こうしたことから、北方だけでなく南方も含めた名称変更の検討を始めました。第11回会議(2004年〈平成16〉アメリカ・アンカレッジ開催)において、会の名称を〈世界冬の都市市長会〉に変更し、今に至っています。来年(2014年〈平成26〉)1月、市長会議は16回目を迎えます。
 これまで環境問題、都市交通、除排雪、都市計画、観光促進、冬のライフスタイルなどさまざまな分野について、それぞれの都市の知恵と経験を分かち合うための意見交換が行なわれ、まちづくりへのヒントや厳しい気象条件を克服する手立てを学んできました。

きっかけは、木製の遊具

〈北方都市会議〉は、板垣武四市長(当時)によって提唱されました。そのきっかけの一つになったのは、フィンランドの首都ヘルシンキの助役が札幌に講演で来られた際、木製の遊具をプレゼントしていただいたことにある、といいます。
 木製の遊具というのは、当時、大変珍しいものでした。木製だと温かみもあるし、ほかの素材にはない良さがあって、デザインも優れたものだったようです。それで、そのような北国のノウハウ、生活の知恵をいろいろな場面で交換する場があればと思われたのでしょう。このように、最初の人のつながりは北欧です。
 何回目かの会議のときにイギリスのシンクタンクが調べたレポートによると、北方圏地域には10億人くらい住んでいるということで、当時の世界の人口からみても思いのほか多いのです。長い歴史を持つ都市もあり、気候・風土が似ていることから、生活の知恵や工夫、各都市が抱える課題、解決策について、市長が集まって話し合っていこうと着想されたのが会議の出発点です。

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雪都・上越高田の宝物 日本一の雁木通り

関 由有子さん

関 由有子 せき ゆうこ
一級建築士 あわゆき組代表

1956年、新潟市上越市生まれ。京都大学工学部建築学科卒業後、建築設計事務所へ就職。フィンランドの家具に出合い、ものづくりの力に触発されてフィンランドに留学。約3年間、木工・家具製作の専門学校に通う。1997年に帰国後は、上越市でせきゆうこ設計室を開設。森林・林業ボランティア活動から始まる地域材の活用提案と、「雪国・越後高田」の歴史的建造物を活かしたまちづくり活動にかかわっている。
主な著書・論文に、月刊『地域開発』特集ローカルデザインから地域の未来を考える(共著/日本地域開発センター 2013年11月号)、月刊『ゆきのまち通信』105号 上越市高田「雁木の街」夢をかたちに… 雁木と町家でまちを楽しむ(企画集団ぷりずむ 2006)

建築家の目線から
まちづくりにかかわり続けている
関由有子さん
いったん外に出た関さんが見出す
雪都・上越高田ならではの魅力
そこには
人の暮らしとかかわっているからこそ輝く
資源が息づいていました

雁木は雪国の知恵の結晶

 雁木というのは、主屋から張り出す軒や差し掛ける庇のことです。往来の多い街道筋や、多くの人が集う商家などが連続するまち並みにつくられました。上越地域が発祥ともいわれ、高田の現存する雁木の総延長は約16d。日本一の長さです。
「この下に高田あり」と言われたほどの豪雪地帯。それで主屋の前面に庇を張り出して、歩く空間を確保したのが雁木です。
 屋根から落ちた雪や降る雪が溜まれば、往来は通れなくなります。周りが雪に覆われても、雁木の下はトンネルのようにぽっかり空いています。そんな雁木の下の細い道を人が歩いている写真も残されていて、それを見ると「ああ、本当に役立ってきたんだなあ」と思います。雁木は、雪国ならではの知恵の結晶なのです。昔は水道や電話線も雁木の下に埋まっていました。メンテナンスするにも便利ですから。さすがに水道は道路内に移りましたが、電話線はまだ雁木下にある所も残っています。
 しかし、明治に入ってから火事の延焼を恐れたことから、新潟県は雁木廃止令を出しました。新潟市は雪が少ないから高田とは事情が違うこともあって、ほかの地域ではどんどん壊されていきました。それでも高田では雁木を残してきたのですね。
 小学校でも雁木のある昔の雪国の暮らしを教えていますが、昔に比べたら雪が少なくなって、雁木に対する感謝の気持ちも薄れてきました。「高田は雁木があるから発展しない」とか「車を停めるのに邪魔だ」と厄介者扱いされた時期もあります。
 そうなってくると、雁木が特別のもので素晴らしい雪国の知恵なんだ、という思いも薄れます。そもそも高田の人にとってはあまりにも日常なので、わざわざ注目することもない存在だったのでしょう。
 しかし、平成に入ったころからは「もうスクラップ&ビルドのまちづくりではダメだ」ということに気づいてきました。京都や金沢などの特別な古都でなくとも、高田のような地方都市にも、ようやくそういう思いが浸透してきたのです。

高田人気質

 興味深いことに、雁木はそれ自体もその下の通路も、個人の所有です。つまり、自分の土地を歩道として公に提供して、歩く人のためにわざわざ私費を投じて庇をかけているのです。それは江戸時代から現在まで変わらずに続く伝統。高田の人の助け合い精神というか鷹揚さを感じさせられますね。さすがに固定資産税は免除されていますが、特別な恩恵があるわけではないのに守られ続けてきたのです。
 今、新築中の歯医者さんも雁木をつくっていますが、絶対につくらなくてはいけないという条例があるわけではありません。ただ、上越市は2004年(平成16)4月から〈雁木整備事業補助金〉制度を始めて後押ししています。
 雁木は個人の資産だから、それに市が公金を投入するには、市民が納得するようにコンセンサスを取る必要があります。それで上越市ではどれぐらいの雁木が残されているかといった調査を行ない、アンケートをまとめました。その結果を受けて、強制力はありませんがガイドラインが定められました。
 そのガイドラインに則った雁木をつくる場合には、7割を補助(限度額は間口1mにつき11万9千円)するというのが〈雁木整備事業補助金〉制度です。
 また、雁木は各家が個々につくったので床の高さがまちまちでバリアフリーの観点からも問題があるということで、段差解消工事にも6割の補助(限度額は間口1mにつき1万8千円)が出ます。
 始まった当初は「補助金が出るといったって、今さら雁木なんて」という雰囲気でしたけれど、一昨年ぐらいから弾みがついてきて、4月に受付開始するとあっという間に予算枠が一杯になってしまうほど、利用者が増えました。

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文化をつくる
雪の恵み

編集部

雪の市民会議

 雪特集をするなら「厄介もの扱いの雪を積極的に資源にしている例を紹介したい」と始まった45号。皮切りは2012年(平成24)7月7日に東京農業大学(東京都世田谷区)で行なわれた第7回〈雪の市民会議〉です。ホームページを見ると事務局は公益財団法人雪だるま財団 、しかも所在地は雪のまちみらい館ではありませんか。そこで、昨年の真夏に雪の市民会議に参加してリサーチから始めました。

エネルギーとしての魅力

 1997年(平成9)「新エネルギー利用等の促進に関する特別措置法」により新エネルギーが規定され、2008年(平成20)の改正時に、雪が新エネルギーに認められました。
〈雪の市民会議〉で知ったのは、冷熱エネルギーという言葉。雪はうまく貯蔵すると意外と長い間、融けずに残ります。重機と手軽な断熱材と設計能力を駆使すれば、昔よりはるかに簡単に効率の良い冷熱エネルギー貯蔵が実現できる、と室蘭工業大学教授の媚山政良さんは可能性の大きさを指摘しています。雪が降らないけれど寒い地域では、土や水を凍らせることで代替できるそうです。
 化石燃料を使って発電した電気の代わりに、融けるスピードを調整しながら、雪の冷気をそのままの形でエネルギーとして使えば、化石燃料節約、CO2排出削減につながります。しかも、その素となるのは川にお金をかけて捨てている雪なのですから、「雪の無念の泣き声が聞こえませんか」と媚山さんが言うのも当然かもしれない、と思えてきます。

使ってわかった副次的メリット

「使っているうちに、除湿や除塵、消臭効果だけでないメリットもわかってきました」と言うのは新潟県魚沼市で利雪住宅を手がける山田正人さん。
 雪を冷熱エネルギーとして使えば、コンプレッサーのONとOFFの切り替えがなくなるから、振れ幅がない一定の温度を保てます。
 低温貯蔵なら食品にストレスがかからず、長期保存が可能になり、味を良くする効果があることもわかりました。〈雪の市民会議〉で試食したニンジンやジャガイモの甘かったこと! 現在は、それらの効用を見える化するために、科学的に実証しようと取り組んでいます。
 冷房に使うととても快適なことも、取材中にお邪魔した利雪住宅で体験しました。

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水の文化書誌 36
《雪国の生活をたどる》

古賀 邦雄

古賀 邦雄 こが くにお
古賀河川図書館長
水・河川・湖沼関係文献研究会

1967年西南学院大学卒業。水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)に入社。
30年間にわたり水・河川・湖沼関係文献を収集。2001年退職し現在、日本河川協会、筑後川水問題研究会に所属。
2008年5月に収集した書籍を所蔵する「古賀河川図書館」を開設。
URL:http://mymy.jp/koga/

雪国の悲劇

 平成25年3月2日、北海道紋別郡湧別町の猛吹雪の中で、父親が9歳の娘を護るために、自分の服を着せ、自らの命をかけて娘の体を温め続けた。翌朝父親が娘を抱いたまま倒れているのが発見された。父親は凍死、娘は凍傷を負っていたが助かった。《父一人子一人の子を雪中に存えさせし父の体温》(池上晴夫)の歌が、3月25日の朝日新聞朝日歌壇に掲載されていた。まさしく、父親の体温が娘の命を救った。
 冬期北半球では、西北の風が吹く。シベリアから冷たい風が日本へ向かって吹いてくる。この風は、シベリアと日本の間にある日本海の水蒸気を運び、それが日本の中央を縦走する山脈に当たったときに雪となって落ちてゆく。この時期は大体1月から2月にかけてであって、換言すると、冬期の季節風の最も旺盛な時期に日本海側に大雪が降る。大雪に苦しめられるのは、新潟、富山、石川、山形、長野などをはじめとして、北海道、青森、秋田、岩手などに及んでいると、雪の結晶の研究者・中谷宇吉郎著『雪』(岩波文庫 1994)に述べている。
 柏原辰吉著『北海道の自然 雪を知る』(北海道新聞社 1993)を開いてみる。魚のえいの形に似た北海道の中央を、北から南に連なる北見・日高の両山脈、これにより北海道の冬の天気は見事に西と東に分けられる。日本海側の留萌の1月の日照時間は51時間(1日になおすと1.6時間)、太平洋側の釧路では172時間と、3倍以上の日照に恵まれる。釧路の一冬の降雪量の合計は148cm、留萌では479cmと、これも3倍となる。天塩山地や暑寒別岳付近の積雪は4〜5mに達することがあり、春の雪解け水は100h当たり約2億kの水が流れ出す。北海道の河川は4月から5月にかけて最も流量が多くなる。山の雪が天然のダムとか、白い石炭といわれるゆえんである。
 酒井與喜夫著『カマキリは大雪を知っていた 大地からの天気信号を聴く』(農山漁村文化協会 2003)には、カマキリが高い所に産卵すると大雪になることを約40年間にわたって、立証した。カマキリの産卵が始まるのは初雪の降る90日前後、雪に埋もれないようにうまく越冬し、春を迎える。大雪のときは杉など高い所に産卵場所を選んでいる。それは、平年積雪の3倍の高さであるという。面白い民間研究者の記録である。雪崩のよる雪国の悲劇はあとをたたない。特に豪雪のときには雪国では雪崩が起こり、人命が失われている。若林隆三著『雪崩の掟』(信濃毎日新聞社 2007)は、世界及び日本の雪崩現象をとらえ、その対策を教えてくれる。

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わたしの里川
里の水音  川それぞれ

陣内 秀信さん

鳥越 皓之さん
とりごえ ひろゆき

ミツカン
水の文化センター
アドバイザー

早稲田大学教授

 私の里川のイメージは水の音である。谷間の、また田んぼの間の小さな流れでチョロチョロというような音をたてて水が流れていると、それが逆にまわりの静けさを感じさせるところがある。その静けさのなかで、春が来たなとか、四季それぞれの移ろいが感じられる。春といえば、雪国を歩いていると、雪景色の中でこのチョロチョロという水の流れを聞くことがある。上を覆っている雪の蓋が溶け始めて少し穴があいていて、そこから水の流れが見え、その流れの横で、主張するように芹などの緑が見えていたりする。雪国に春が来たなと思わせる瞬間である。
 水の流れが暮らしのすぐ近くで見られること、これは日本の特色である。「里川」という日本固有の名前が誕生したのもこの特色と関係がある。チョロチョロという水の流れの音は、九州でも北海道でも、日本のどこでもすぐ身近に聞けるものだ。私にとって印象深いのは、長崎県島原市の伝統的な家屋が並んでいる一本道の真ん中を流れる幅五〇センチほどの水路である。この道は地元の人たちが通る道であるが、学校帰りのセーラー服の中学生二人が、持っている傘をこの小流れに突き刺して遊んでいた。通学路の小流れで小学生が遊んでいる姿はめずらしくないが、セーラー服を着るようになった女の子はめずらしい。だが、彼女らにとっては、そこは気が向いたらいつでも遊んでいる空間なのであって、ただ自分たちが成長していったに過ぎないのだろう。この小流れは、幼少の時から、そしておそらく高齢になっても、時間を超えていつも同じように存在しつづけているものなのだろう。
 私は小川のチョロチョロという音から話をはじめたが、住んでいる場所によると、流れが大きくていつもゴーという音とともに育った人もいるだろう。地と共鳴するようなこのような音も、そこで生まれ育つと懐かしいものに違いない。私はこの五月に福島県檜枝岐村の農村歌舞伎を見物に行ってきたが、その神社の前は大きな川で、茶色く濁った雪解け水が恐ろしい激流となって、ゴーという音をたてて流れていた。このゴーという音を背景に聞きながら、夜のとばりのおりた歌舞伎の舞台では、悲劇の恋の話が展開していった。彼らにとっての春の季節は、このゴーという地鳴りのような音とともにあるのが自然なのであろう。
 里川は地域によってイメージが異なる。ただ共通するのは、川が自分たちの生活とともにあることだろう。里川とは地域の人たちが自分の生活に取り込んでいる川のことだ。そしてそれは、多くのばあいその人の一生とともにあり、また自分たちの先祖もお世話になり、さらには自分たちの未来の子や孫たちもお世話になるだろう川のことである。

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坂本クンと行く川巡り 第2回
Go ! Go ! 109水系
山懐に抱かれた 米代川(秋田県)

坂本 貴啓さん

坂本 貴啓さん さかもと たかあき
筑波大学大学院 システム情報工学研究科
博士後期課程 構造エネルギー工学専攻在学中

1987年福岡県生まれの川系男子。北九州で育ち、高校生になってから下校途中の遠賀川へ寄り道をするようになり、川に興味を持ち始め、川に青春を捧げる。高校時代にはYNHC(青少年博物学会)、大学時代にはJOC(Joint of College)を設立。白川直樹研究室『川と人』ゼミ所属。河川市民団体の活動が河川環境改善に対する潜在力をどの程度持っているかについて研究中。

川系男子 坂本貴啓さんの案内で、
編集部の面々が109水系を巡り、
川と人とのかかわりを探りながら、
川の個性を再発見していく連載です。

109水系
1964年(昭和39)に制定された新河川法では、分水界や大河川の本流と支流で行政管轄を分けるのではなく、中小河川までまとめて治水と利水を統合した水系として一貫管理する方針が打ち出された。その内、「国土保全上又は国民経済上特に重要な水系で政令で指定したもの」(河川法第4条第1項)を一級水系と定め、全国で109の水系が指定されている。

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川巡りの醍醐味は、人との出会い

 川巡りをするとき、まず現地の河川事務所を訪れるようにしています。ここには治水や利水の状況はもちろん、そこの川にかかわるNPOの方々の活動など、たくさんの情報が集積しているからです。
 所属する白川研究室の3年前(2010年〈平成22〉)のゼミ合宿のときには、国土交通省能代河川国道事務所と森吉山ダム工事事務所(当時)にご連絡しました。昨年(2012年〈平成24〉)の4月から運用が開始された森吉山ダムは、訪問時は試験湛水中。対応してくださった笹木綱彦さんが、「他所から来た人が米代川に興味を持ってくれるのはうれしい」と親身になって協力してくれました。
 笹木さんがたまたま〈カヌーシーダ秋田〉という組織に所属していたので、秋田杉で会員の方が自作したカヌーに乗れるように手配してくれました。
 また、二ツ井町郷土史研究会会長で〈きみまち観光ガイドの会〉の顧問を務める伊藤徳治さんともつながり、岳岱自然観察教育林のブナ林を案内していただきました。

岳岱(だけだい)自然観察教育林
樹齢400年といわれる巨大なブナのある保護林で、遊歩道やトイレ、広い駐車場なども整備されていて入りやすい。また、近くには田苗代湿原がある。1992年(平成4)自然観察教育林として指定された。

 川巡りの楽しみは、人と出会うこと。編集部のみなさんにも笹木さん、〈カヌーシーダ秋田〉のみなさん、伊藤先生を紹介したい、と思って第2回は米代川に決めました。ぼく自身、再会を心待ちにして。

米代川の成り立ち

 米代川流域の上流部には阿仁川のマタギ文化、秋田杉、鉱山などがあり、山からの恵みで流域全体が潤っていたと予想できます。109水系別ランキングの流域耕地面積率や流域人口密度が比較的低いことも、山がちの地形を物語りますから、「山懐に抱かれた」という言葉を選びました。
 米代川の源流 中岳(なかだけ)のある奥羽山脈は、東北における日本列島の背骨。標高1000mから2000m級の山々が連なる火山帯です。南北に走る奥羽山脈の西側に、出羽丘陵が平行して並びます。
 奥羽山脈と出羽丘陵が側面から大きな力を加えたことで、地層が曲がりくねるように隆起する現象が起こりました。米代川の上・中流部が山がちで、たくさんの滝を抱いているのはこうした造山活動の結果です。
 こうしてできた隆起帯を米代川が横断。隆起帯を抜ける出口部分は狭窄(きょうさく)部になっていて、大洪水のときに水が滞るので土砂が堆積します。それでまず湖ができ、徐々に盆地になったのが、花輪、大館、鷹巣という三つの盆地の成り立ちといわれます。主に東から西へ流れる川は東北地方では米代川と阿賀野川だけ。意外と珍しいんです。

八幡平からスタート

 今回の旅は、標高1613mの八幡平(はちまんたい)からスタートしました。アスピーテラインを通れば車で山頂付近まで行くことができますから、兄川という支流ではありますがアプローチしやすい源流の一つです。
 アスピーテというのは楯のことで、八幡平の形状から楯状火山と分類されて命名されました。しかし、ドイツの火山研究者 カール・シュナイダーによる火山分類は、火山を地形から見て分類するものだったため正確さに欠け、現在は使われないのだそうです。八幡平も実際は楯状火山ではなく成層火山(富士山と同様、一つの噴火口から成立)で、現在では「侵食や爆発によってなだらかになった」という説が有力です。周辺には後生掛(ごしょうがけ/鹿角市)などの強酸性の硫黄泉があって、火山帯らしい景観を見ることができます。

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