2014年2月発行

水の文化 46号 都市の農業

水の文化 46号 都市の農業
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農業生産の現場から離れた場所にいると、
野菜などの農産物が
どんな場所でどのようにつくられているか
無頓着になっているように思います。

畑の脇に立てられた〈生産緑地〉の看板や
農産物販売所が気にかかるようになると
どんな人がどんなものをつくって
いるのだろうかと、興味が湧いてきました。

東京でも、西側には
まだまだ畑がたくさんあります。
農地で生産を続けることで、
水源涵養や緑地の保全、生態の多様性を
守ってくれるのも、
都市農業の副次的な役割です。

一方、植物工場や
法人化、六次産業化によって
効率的な農業経営が求められ、
都市農業の将来は
新しいステージに向かうようにも思えます。

大規模生産地とは違う、
都市ならではの農業の有り様を知るために
農業生産の現場を巡ってみました。

上段左から:イエローベビーキャロット、亀戸大根
下段左から:グリーンカリフラワー、赤大根(紅くるり)
写真提供/(株)東京野菜カンパニー
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目次

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  • 都市農業の現在

    編集部

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  • 都市的農業の時代

    甲斐良治

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  • 東京野菜カンパニー

    新鮮・高品質が拓く東京野菜の未来

    牧野征一郎

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  • 江戸東京野菜

    江戸東京野菜でまち興し

    内田雄二

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  • 鈴木農園

    家族で六次産業化

    鈴木英次郎

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  • 小泉牧場

    命のバトンを練馬でつなぐ

    小泉 勝

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  • 植物工場の可能性

    ハイテク技術の農的活用

    古在豊樹

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  • 都市と里山・里海をつなぐ

    NPO法人千葉自然学校

    飯田 洋

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  • 共同経営でかなえた

    儲かる農家モデルと循環システム

    水落重喜

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  • 文化をつくる

    都市の農業

    編集部

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  • 水の文化書誌 37

    児童文学にみる農業用水開削の偉業

    古賀邦雄

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  • わたしの里川

    里川幻想揺籃

    沖 大幹

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  • Go!Go! 109水系

    145のしずくがつくる旭川

    坂本貴啓

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  • 里川文化塾報告
    次号予告・編集後記

     

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都市農業の現在

編集部
農林水産省農村振興局農村政策部都市農村交流課都市農業室のお話をもとに、
編集部で構成

農業と一言で言っても、
農村地域と都市部では、
規模も出荷の形態も大きく異なります。
消費地に近く、
農業体験を希望する人も多くいる、
都市農業の実態と、法的定義について、
教えていただきました。

都市農業を取り巻く環境

 都市農業は、消費地内またはその周辺で営まれ、新鮮な農産物を供給できるという強みがあります。都市またはその周辺地域で生産される農産物は、新鮮さゆえに、都市の住民に、現在、大変な人気を博しています。
 また、都市の住民の中には「『農』に触れたい」と思っている人が大変多いことが、近年わかってきました。
 このように、「農」のある暮らしを楽しみたいというニーズの高まりや、東日本大震災を経て、防災の観点から都市に農地を残すべきといった意見も出ています。
 そこで農林水産省では、このような要請に応えるため、2013年度(平成25)に「農」のある暮らしづくり交付金を創設し、都市農業の振興・都市農地の保全のための取組みのほか、市民農園や福祉農園、農産物直売所などの施設整備を支援することとしています。
 農園の形態も多様化しています。東京都練馬区の例ですと区民農園、農業体験農園、観光・交流型農園という三つのタイプがあります。
 区民農園は、利用者である区民が区画を借り農産物を生産する自己完結型の農園です。
 一方、農業体験農園は、農業者が農業経営の一環として開設しています。利用者は、農園開設者から種蒔きや苗の植え付けなどの農業技術指導を受けることができ、利用者は対価を払って農作業に従事する形態を取ります。農園開設者が作付け栽培計画をつくり、それに従って栽培方法などを学ぶため、八百屋の店頭に並ぶものに負けない野菜を収穫することも可能です。収穫祭や餅つきなど、月1回程度のイベントや定期的な講習会を行なうこのようなやり方を広く「練馬方式」と呼んでいて、質の高い生産物を収穫できることが人気のようです。
 都市の住民に気軽に立ち寄ってもらえるよう駅に近いビルの屋上に菜園をつくり、ビジネスとして成功させている例もあり、一般の人の農業への関心が高まっているのだと思います。
 都市化が進んで住宅に取り囲まれるようになった都市農地もあります。土ぼこりや堆肥の臭いなどが問題になって経営がしづらい状況も見受けられますが、周辺に居住する住民が農作業を経験することで、農業への理解が進み苦情が減った、という話も耳にします。
 農業の六次産業化に取り組んでおられる都市農業者もあります。東京都立川市の鈴木農園では、ほうれん草や紫芋を使ったパンが午前10時のオープン後、あっという間に売り切れてしまうほどだそうです。パン自体の魅力もさることながら、喫茶コーナーもあってくつろげる空間になっており、緑に囲まれた場の魅力や雰囲気を楽しみに来られる方も多くいるといいます。
 ただし、一般的には六次産業化には経験や手間、初期投資などさまざまな課題を有し、難しい側面もあります。

六次産業化
農林漁業者による加工・販売への進出等(事業の多角化及び高度化)を六次産業化という。農林漁業等の振興等を図るとともに、食料自給率の向上等に寄与することを目指し、「地域資源を活用した農林漁業者等による新事業の創出等及び地域の農林水産物の利用促進に関する法律」、通称六次産業化法が制定され、規定された概念。

都市農業の定義(範囲)

「都市農業」は、広義では「都市とその近郊地域の農業」を、狭義では「市街化区域とその周辺の農業」を指します。

都市計画法
都市の健全な発展等を図り、国土の均衡ある発展と公共の福祉の増進に寄与することを目的とする法律。
明治時代以降の都市化の進展に伴い、建築や都市計画に対する法整備が必要となり、1919年(大正8)に市街地建築物法と都市計画法(旧法)が定められた。旧法は1968年(昭和43)に廃止され、高度成長期の市街地化の進展に対応するために市街化区域と市街化調整区域の区分や、開発許可制度を定めた新しい都市計画法が施行された。

 国土面積が狭小で平野部が少ない我が国は、38万hある国土の27%ほどは都市計画区域であり、国民の9割がその区域に住んでいるといわれています。
 都市計画区域のうち、線引き都市計画区域は、市街化区域と市街化調整区域とに分けられます。
 市街化区域は、「すでに市街地を形成している区域及びおおむね10年以内に優先的かつ計画的に市街化を図るべき区域」と定義され、都市化に伴う住宅供給などに積極的に整備・開発を行なっていく区域として区分され、国土の約3.9%を占めています。
 一方、市街化調整区域は「市街化を抑制すべき区域」と定義され、開発行為は原則として行なわず、都市施設の整備も原則として行なわれない、つまり、新たに建築物を建てたり、増築することを極力抑える地域となっています。

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都市的農業の時代

甲斐 良治さん

甲斐 良治さん かい りょうじ
社団法人農山漁村文化協会編集局次長 明治大学農学部客員教授

1955年宮崎県高千穂町出身。九州大学経済学部を卒業後、(社)農山漁村文化協会に入会。同協会『増刊現代農業』編集主幹を経て、『季刊地域』・全集グループ長、編集局次長を歴任。2013年から明治大学農学部客員教授。『定年帰農』、『田園住宅』、『田園就職』、『帰農時代』の「帰農4部作」で、1999年農業ジャーナリスト賞受賞。

ジャーナリストの立場から、
長年、農業を見つめてきた甲斐良治さんに、
高度経済成長期からバブル崩壊、環境を意識し始めた現在、と
社会情勢の変化に翻弄されてきた
都市の農業・農地を語っていただきました。
この間の経緯を知ることで、
今と未来の都市的農業の在り方を考えました。

高度経済成長期の都市農地へのまなざし

 1987年(昭和62)の5月2日、三大新聞の夕刊に全面広告が出ました。大きな文字で、「『農地』から都心へ30分、『宅地』から都心へ2時間」と書いてあり、この下に大前研一氏の『新・国富論』の抜粋が続き、「私どもは新・国富論に賛同しています」と書かれた不動産会社の広告です。
 当時は、膨張する都市域で住宅難の状況にある住民にとって、東京近郊で農業が営まれているのは不合理とされたわけですね。地価高騰への怒りの矛先が、農業に向けられていたのです。
 1990年(平成2)以降、バブル経済が弾け低成長期に入っていきますから、今はこのような論調はほとんど考えられないことですが、かつてはそういう時代であった、ということです。
 それに対して、私は『現代農業』という月刊誌の別冊で「コメの逆襲」という特集を組み、評論家の岡庭昇さんの反論を掲載したことを覚えています。

価値観の転換

 都市計画法は1968年(昭和43)にできました。当時は、「都市農業・農地は都市にとって不必要なものであり消滅させていくべきものである」という論調でした。それが今、ようやく国でも再検討が行なわれ、政策がシフトしていっています。
 なぜそのような転換が起きたのかということを、後藤光蔵さん(武蔵大学経済学部教授)が五つ挙げておられます。
 一つは人口減少ですね。三大都市圏で生産緑地が1万4182ha、都市圏の空き地面積が2万4000ha。生産緑地の面積より空き地のほうが上回っているのだから、都市は膨張拡大の時代をもう終えたと。質的向上を伴った縮小に向かうべきではないかと指摘しています。
 二つ目が高齢化でリタイヤ後の生活が長くなり、それにより地域での生活の比重が大きくなることにより、集い、活動するコミュニティーが必要とされる。
 三つ目は人々の価値観の転換と多様化。四つ目が環境に優しい地域への転換が、都市にも求められていること。五つ目は災害に強い都市づくり。後藤さんの指摘を見て、私も「国の考え方の変化を適切にまとめられているな」と思いました。
 代々農業を営んできた人たちは、ここ二、三十年の間にこのような激動にさらされていたわけですが、こうした実状は、農業の近くにいる人や地主さんでなければあまり知らされることがなかったのではないでしょうか。都市農業に限らず、農業には少し我慢してもらおう、というような風潮が強かった時代だったということです。
 ですから後藤さんが挙げたように、経済成長が終わって都市の膨張が止まったことは、価値観の転換にとって、すごく大きな意味を持ちます。

農業への理解者を育てる

 東京の練馬で〈農業体験農園〉をやっている加藤義松さんという方がいらっしゃいます。〈農業体験農園〉は1996年(平成8)に第一号が東京都練馬区で始まっています。市民農園とも観光農園とも違って、新しい消費者参加型農園の形態を取るものです。
 加藤さんも現在154区画の〈農業体験農園〉を経営していて、講習会に来る人は週に200人を超えているそうです。2009年(平成21)には、練馬区農業体験農園園主会が日本農業賞の大賞を受賞しました。加藤さんは「この受賞は、農業体験農園が都市農業の新たな経営方式として確立したことの証しだと思う」と語られています。
〈農業体験農園〉に来た人の80%が「このあとも農業を続けたい」と言っていて、講習を受けたのち、「市民農園、区民農園利用」が36%、「家庭菜園」が39%、「他地域で自給自足」が7%、「援農ボランティア」が8%、「農業で国際協力」が3%と、人生に農業を生かしたいという積極的な思いが伝わってきます。

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東京野菜カンパニー 新鮮・高品質が拓く東京野菜の未来

牧野 征一郎さん

牧野 征一郎さん まきの せいいちろう
株式会社東京野菜カンパニー代表取締役

1972年生まれ。大学卒業後、ジャスコ株式会社(現イオン)入社。2011年に株式会社東京野菜カンパニーを設立し、東京都内の農家から農産物を仕入れ、東京野菜の魅力を周知普及させる活動を進めている。

都心近郊で、今も目にする野菜や果樹の畑。
そこで生産される東京野菜は新鮮で高品質なものが多く、
すごい魅力があると牧野征一郎さんは力説します。
牧野さんが、自ら各農家を回って集めた東京野菜を
有名レストランなどに販売するB to B事業を始めて約5年。
いずれは東京にいる1300万人の消費者に向け、
直売所(B to C)事業を手がけたいと考えています。
牧野さんの奮闘ぶり、東京野菜への想いをうかがいました。

B to B:Business to Business  B to C:Business to Consumer

スーパーで見かけない東京野菜

 地産地消が注目されるようになって何年か経ちますが、地産地消に対する消費者の意識は年々高くなっているように思えます。東京も例外ではなく、オリンピック効果もあってレストランからの問い合わせも増えています。
 注目度が増している東京野菜ですが、消費者の期待に応えられていないのが現状です。大部分が西東京エリアでつくられている東京野菜は、築地や大田といった中央市場に安定供給できるほど生産量が多くありません。このため、市場経由で流通することはなく、新鮮で安全・安心な地元野菜を近くのスーパーで気軽に買うことはできません。
 また、つくった野菜を少量でも納品できる農協の直売所が多摩地区以外にあまりないこともあって、そのほとんどが地元、すなわち西東京エリアで消費されています。
 つまり現時点では、練馬区や世田谷区など一部を除き、東東京エリア(23区)の人は東京野菜を手に入れたければ、自ら西東京エリアまで買いに行かなければならないのです。

直売所の課題

 改善すべき課題は他にもたくさんあります。消費者が農家から直接買うものを除けば、農協の直売所は東京野菜を買うことができる唯一の場所です。ところが大半の直売所は16時ごろに閉店してしまったり日曜日が休みなど、消費者のライフスタイルにそぐわないやり方になっています。
 次は品揃えです。何をどれだけつくるかは各農家が決めるのですが、作付け基準は一般家庭でよく使われる野菜で、しかも収量が良く収穫が楽なものに集中するため、基本的にはほとんど同じものになっています。このため、夏にはトマトやナス、冬にはホウレンソウや大根があふれんばかりに売り場に並び、種類が少なく魅力のないものになっているのが現状です。

新鮮&安全・安心がキーワード

 スーパーで手軽に買うこともできない上に種類も非常に少ない東京野菜ですが、大生産地に勝るとも劣らない優れたところもたくさんあります。
 一つ目は、畑が近くにあるので、収穫してからすぐのものが手に入るということです。採れたてで栄養価が高い、非常に瑞々しい野菜を食べることができるのです。遠隔地にある大生産地から東京に住む我々の手元に届くには、収穫してから2〜3日は経過してしまいますから、鮮度という点では絶対に負けないといっていいでしょう。
 二つ目は、畑の周りには住宅や学校が密集しており、むやみやたらに農薬を散布することができないため、必然的に低農薬栽培が行なわれているということです。
 東京の畑は大生産地と比べて非常に狭いので、小さい畑ではたいしたものはできないと思われがちですが、雑草を手で抜くなど、丁寧な栽培が可能です。
 三つ目は、生産者の顔が見えるため、安心して買うことができるということです。スーパーで野菜を買う場合は産地名しかわかりませんが、東京野菜の場合は生産者の顔写真や名前を出して販売することが珍しくありません。しかも、すぐ近くにいるので、何か気になることがあれば直接話を聞くことも可能です。それでも不安なら畑を見に行くことができるのです。これは地産地消の最大のメリットです。

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江戸東京野菜 江戸東京野菜でまち興し

内田 雄二さん

内田 雄二さん うちだ ゆうじ
元・江戸東京野菜でまちおこし連絡会(江戸まち連)事務局長

1948年静岡県下田市生まれ。1975年東京都小金井市入庁。2005年市民部経済課産業振興係のときに地域活性化施策として「幻の江戸野菜の復活栽培による産業振興」を提案。東京都の支援により「水湧く(みわく)プロジェクト構想」に結実(2006年3月)。以降は江戸東京野菜によるまちおこし事業実施のための実行委員会を市民団体等と立ち上げ、さらに推進体制強化のために農業者・商業者・市民・行政など関係者が連携した実行委員会(江戸まち連)に改組して事務局としてかかわる。2013年3月退職。

なぜ、小金井市で江戸東京野菜を?
と、不思議に思う人もいるのではないでしょうか。
小金井市を江戸東京野菜の新しい栽培産地にしようという仕掛人は
元・市職員の内田雄二さん。
パンチの効いた在来野菜の魅力を発信している
小金井の農の実力をうかがいます。

江戸の「衣食住」が体験できる町

 小金井は、吉祥寺と立川という魅力ある都市に挟まれていて、なんとなく特色のない市というイメージがあります。好意的に評価してくれる人は、「水と緑が豊かな市」と言ってくださいますが、逆に言えば開発が遅れた地域だということ。もっと遠くに行けばより豊かな「水と緑」がありますから、あまり強いインパクトを与えられるイメージではありません。
 そんな小金井市にある、江戸東京たてもの園(江戸東京博物館の分館。以下、たてもの園と表記)は20周年を迎えた現在も(2013年〈平成25〉)年間20万人の来場者が見込める施設です。せっかく小金井に来ていただいた来場者が吉祥寺や立川に流れて行かずに、小金井を楽しんでもらうにはどうしたらいいのか、小金井をもっと回遊してもらって、お金を使って地域の活性化につなげるにはどうしたらいいのか、と当時から考えていました。
 実は小金井には、もう一つ特徴的な施設があります。それは、東京農工大学科学博物館です。この博物館は、東京農工大学工学部の前身である農商務省蚕病試験場の参考品陳列場として、1886年(明治19)につくられました。当初は、江戸時代からの繊維に特化した博物館だったのです。
 この二つから、たてもの園では「住」、東京農工大学科学博物館では「衣」とくれば、あとは「食」です。
 たてもの園に来た人に食べてもらう食材は何かと考えたときに、カレーやラーメンじゃないでしょう。江戸前の魚貝類は海がないので無理だけれど、野菜だったら小金井らしい。江戸東京の伝統野菜ならぴったりですよね。
 2004年(平成16)に公民館セミナーでこのアイデアを聞いたとき「これは面白い。小金井市は江戸東京の『衣食住』が体験できるまちなんだよ、という切り口をまちおこし事業として盛り上げていけないか」と考えました。

小金井で江戸東京野菜

 ただ当時は、江戸東京野菜としてはウドぐらいしかつくっていなかったのです。ウドは立川市が主産地ですから小金井でやるには、ちょっとはばかられる。それで、「栽培歴がなくても、小金井の農家さんに江戸東京野菜をつくってもらえばいいんじゃないか」と考え、東京都の農業試験場に江戸東京の伝統野菜にくわしい人がいらしたので、ご指導いただくことになりました。そのときに挙げてもらったのが、亀戸大根、伝統大蔵大根、金町こかぶ、しんとり菜、伝統小松菜の5種類です。
 その人が言うには、こうした伝統野菜は絶滅危惧種。病気に弱いとか安定生産がしにくいという生産面での弱点があることからつくられなくなっているというのです。「それを小金井市で復活させて栽培するということは、農業試験場にとっても大変有り難いことだ」と言われました。それで、本場ではないし栽培歴もないけれど取り組むことに意義がある、と考えました。
 それで2007年(平成19)11月のイベントに協力いただける農家さんを募ったのです。しかし、栽培した経験がないものをつくろうと思ってくれる農家さんはありませんでした。しかも病害虫に弱いとか日持ちがしないとか、リスクがあるじゃないですか。つくった野菜は小金井市が責任を持って買い取ってくれるのか、だいたいイベントにぴったりと時期を合わせて生産できるのかどうか、という話にもなりました。
 しかし、最終的にはJA東京むさしが「まちおこしの一環ということであれば」と理解してくださって、新しいことに挑戦できる力を持った農家さんを説得してくれました。そのとき協力いただいた4軒の農家さんの内の1軒が井上誠一さんです。
 4軒だった生産者も、今は9軒に増えました。研究会をつくって熱心に勉強しながら、江戸東京野菜に取り組んでくださっています。

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家族で六次産業化

鈴木 英次郎さん

鈴木 英次郎さん すずき えいじろう
鈴木農園

栽培する(一次)だけでなく、
加工品をつくったり(二次)、
自ら販売を手がけたり(三次)することを
六次産業化(一次+二次+三次=六次)といい、
経営を多角化することで
農業経営の健全化を目指す方策として注目されています。
しかし規模の小さな都市農業地域では、
やりたくても人手や設備がないのが悩みの種です。
そんな中、開店と同時に売り切れ続出の天然酵母パンが、
農産物の売上げを押し上げているのが、
東京・立川の鈴木英次郎さんの農園です。
鈴木さんの背中を押した、
最初の一歩についてうかがいました。

長男の富善さんと奥さんの弓恵さん
長男の富善さんと奥さんの弓恵さん夫妻は、脱サラして協力するように。家族みんなの笑顔が素敵。

きっかけは天然酵母のパン

 最初はうちも、慣行栽培(化学肥料や農薬を使用)で栽培する、ごく普通の農家だったんです。それが転換し始めたのは、女房の美智子が「天然酵母のパンをつくって売りたい」と言ったことがきっかけです。51歳のときだから、1998年(平成10)。もう15年になります。
 天然酵母というのは管理が難しく、徹夜仕事になったり、力仕事もあったりで大変なんですよ。パンは薪を使って石釜で焼いているのですが、薪を使うのも結構、きつい仕事です。それで力仕事を私が手伝うようになりました。
 パンに野菜を使いたいと思っていましたから、天然酵母を使ったパンなのに野菜が農薬や化学肥料を使ってつくられたものじゃダメなんじゃないか、と考えたんです。それで、長年の慣行栽培をEM農法に切り替えていきました。
 大きくカットした野菜がごろごろ入ったカンパーニュは、女房の創作パンです。これをきっかけにカボチャや紫芋、さまざまな種類のニンジンなど、パンに使えそうな野菜を選んで栽培するようになりました。最初のころはパンがうまく焼けないで困ったこともあったんですよ。
 始めた当初は、私と女房の二人でやっていたのです。そのうちにお茶を飲みたいという人も出てきたので、大正時代に建てられた養蚕用の建物をカフェに改装し、私がマスターになってコーヒーを淹れていたんですよ。うちの女房は私よりもセンスが良くて、内装やインテリアも彼女のアイディアでやりました。
 何年かそうしているうちに、娘の理恵がカフェを手伝うようになり、一緒にパンづくりをしていた小野くんと結婚。今は娘夫婦が〈天然酵母パンとカフェ ゼルコバ〉を切り盛りしています。
 ゼルコバというのは、スペイン語で欅のこと。今はずいぶん伐られてしまいましたが、五日市街道沿いに大きな欅並木がずらっと並んで、武蔵野の雑木林を彷彿とさせる景色だったんです。
 カフェは、以前は週2日しか営業していませんでしたが、今は金土日月の4日間営業しています。
 みなさん六次産業化には苦労していると思います。でも、うちでは娘や息子、その連れ合いがみんな協力してくれてうまくいくようになりました。
 毎年11月末には収穫祭をやっています。今年も大勢のお客さんが来てくれました。インターネットを使って呼びかけたらすごい反響でした。インターネットの力はすごいですね。ホームページも息子たちが考えてくれるし、やはり若者の力があるというのは有り難いことです。

相乗効果で野菜も大人気

 EM農法に切り替えてからは、パンに使うのが中心で、野菜の販売は月曜日と土曜日の週に2日だけ。野菜を直売するようになったのはパン屋を始めてからですが、相乗効果でお客さんが来てくれるようになりました。朝10時に開店するとすぐに売り切れてしまいます。直売所もたくさんできて過当競争になっていますから、今の時代、農業も普通にやっていたら生き残れないと思います。
 今日出しているのは30種類ぐらいですが、年間100種類ぐらいの野菜をつくっています。長男の富善がインターネットで調べて、次々と変わった野菜に挑戦しています。都内などのレストランに頼まれて、20軒ぐらいに宅配便で送っていますが、申し訳ないのですが個人向けには対応していません。
 これだけお客さんが来てくれたら、やりがいがあります。お客さんの顔を直接見られるから喜んでいただいているのがわかるし、お客さんも野菜をつくっている我々の顔が見られるから安心してくれるのではないでしょうか。

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命のバトンを練馬でつなぐ

小泉 勝さん

小泉 勝さん こいずみ まさる
小泉牧場

酪農家三代目

 西武池袋線の大泉学園駅から徒歩10分。車の往来が激しい通り沿いに突如サイロが現われるので、「まさか牧場があるの?」と思う人がいるみたいですけれど、そのまさか、です。
 父(二代目の與七〈よしち〉さん)が働き詰めで子ども時代にまったく構ってくれなかったので、家業が大嫌いな子どもでした。
 バブル景気のころは土地を売ってほしいとか、不動産経営を勧められたことも。それでも父は無骨に本業を続けてきました。酪農家としてのプロ意識が、父を支えたんだと思います。
 ちょっと前までは何軒か残っていたのですが、とうとう〈23区唯一の牧場〉になってしまいました。父が頑張ってくれたから、小泉牧場がある。それで僕は、誇りを持って三代目と名乗っています。

住宅街の酪農家として

 臭いや鳴き声には、もちろん気を使っています。しかしそれは、都会だからなのではなく、生きものってもともときれい好きで、ものすごく繊細なんです。
 餌をやるときや掃除をするときでも、大きな音を立てたりすると牛がびっくりして神経質になります。だから牛の世話を手伝ってくれるヘルパーさんにも、なるべく穏やかに接してもらうようにお願いしています。そうすると不思議なことに、牛はほとんど鳴くこともなく穏やかな性格になります。牛を見ていると、「本当に人間の子どもと一緒だなあ」と思いますよ。牛を見ていると、子どもの問題も、ほとんど大人の問題が原因なんだと気づかされます。
 1日6回、井戸水を流して牛舎を掃除して、消臭のためにコーヒー豆のカスを撒いています。臭いの苦情は、ほとんどありません。
 運動する場所があまりないため、生まれて4カ月経ったら北海道の牧場に預かってもらいます。預託というのですが、成長期に広い場所でのびのび育つことで足腰を丈夫にするのが目的です。22カ月で戻ってきたら人工授精して出産し、搾乳するようになります。
 出産はほとんどトラブル無しの自然出産です。これも牛が健康な証拠だと思います。
 餌は配合飼料などを組み合わせているのですが、今、流行の有利原料(製造過程で出た残渣などで、コストが抑えられるというメリットを持ち、原料として再利用できるもの)であるおからやビールの搾りかすを分けていただいて使っています。

現場が担えること

 僕は一般社団法人中央酪農会議という団体が行なっている〈酪農教育ファーム〉というプログラムに参加しているのですが、久しぶりに関連の展示会に行ったところ、大企業さんが食育のブースをずらっと出していてびっくりしました。
〈酪農教育ファーム〉の活動は1996年(平成8)から続けています。実際に牛のおっぱいを搾って牛乳を出すことで、生きものの暖かさ、息づかいに触れてもらい、命の大切さを身近に体験してもらってきました。
 こういうことって、企業理念の食育からは難しい。だから、僕たちが練馬で牛を飼う意味があるんだ、と現場にいる者としての自負もあったので、立派なブースが並んでいることに少々ショックを受けたのです。

生後3週間の子牛
生後3週間の子牛。小泉牧場では初産が軽くなるように、小柄な黒毛とホルスタインを掛け合わせている。いわば牛界のハイブリッド。そのため黒い子牛も。

夢は自家製アイスクリーム

 牛乳は、本当は牛の赤ちゃんのためのもの。ホワイトマジックともいわれる命の一滴です。お母さん牛は、あばら骨や筋肉を削って、牛乳を出しているんですよ。それを分けてもらっているのです。
 僕は小学校3年生を中心とした親子農業体験も8年続けていますが、お母さん牛が命を削って出している牛乳をいただいていること、ご飯を食べるときに「いただきます」と言うのは「あなたの命を私の命に変えさせていただきます」という意味であることを伝えてきました。このことを受け止めてくれたら、いったん忘れてしまっても、大事にしなくてはいけないものがなんなのかを思い出すことができるのではないでしょうか。
 小泉牧場の牛乳は、工場に納品すると東京都酪農業協同組合に参加するほかの生産者の牛乳と混ぜて加工され、販売されます。
 しかしアイスクリームなら、うちの牛乳だけで依託製造してもらえます。親子酪農体験でできたつながりが一回で終わったらもったいないと思い、オリジナルのアイスクリームをつくるようになって直売所を始めました。対面販売を始めたことで、地域とのつながりも深まりました。

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植物工場の可能性 ハイテク技術の農的活用

古在 豊樹さん

古在 豊樹さん こざい とよき
NPO法人植物工場研究会理事長 千葉大学名誉教授 農学博士

1943年生まれ。千葉大学園芸学部園芸学科卒業、東京大学大学院農学系研究科博士課程修了。1973年大阪府立大学助手(農学部)、1977年千葉大学助教授(園芸学部)、1990年千葉大学教授(園芸学部)、1995年同大学院教授(自然科学研究科)。1999年同園芸学部長、2003年同環境健康フィールド科学センター長、2005年〜2008年千葉大学学長、2009年同大学定年退職、環境健康フィールド科学センター特命研究員、2010年より現職。2002年に紫綬褒章。日本農学会・日本農学賞、米国・培養生物学会 (The Society for In Vitro Biology )生涯業績賞など受賞歴多数。
主な著書に、『閉鎖型苗生産システムの開発と利用―食料・環境・エネルギ問題の解決を目指して―』(養賢堂 1999)、『「幸せの種」はきっと見つかる』(祥伝社 2008)、『太陽光型植物工場―先進的植物工場のサステナブル・デザイン』(編著/オーム社 2009)、『人工光型植物工場』(編著/オーム社 2012)ほか

光や温度を自在にコントロールし、
虫や病原菌から隔離した環境で
農薬不要な栽培を可能にした植物工場は、
狭い土地での高い生産性をかなえて、
都市農業としての活用が期待できます。
施設園芸の第一人者、古在豊樹さんに
植物工場の現状と
家庭や病院でも使える小型機開発についてうかがいました。

世界的な需要増に応える

 現在、地球に住んでいる人間の50%以上が都市に住んでいて、生野菜の供給が求められています。その需要に応えるために先進国では平均で3000kmの距離を運んでいますから、輸送のために使われる化石燃料や、冷蔵、冷凍にかかるエネルギーは莫大なものです。加えて、そのために引き起こされる道路の摩耗などを考えたら、相当なコストがかかっていることになります。
 植物工場というのは、狭い土地面積でも栽培環境を調節することで、都市でも家庭でも効率的に植物の栽培ができる仕組みです。究極の自給自足が実現できますから、都市の新しいインフラ整備の一つ、ということができるのではないでしょうか。
 人工光を利用する植物工場の分野では、日本が断然トップで、台湾、韓国があとに続いています。日本で生産・販売をしている人工光型植物工場は約150カ所あります。
 中国はまだ生産販売している会社がありません。畑の野菜が安いので競争力がなく、ビジネスとしてはまだ成立しない段階なのです。しかし、中国では化学肥料と農薬の過度な使用量を不安に思う人々が多く、「安全な野菜だったら4〜5倍の価格でも買う」という富裕層の需要が増えつつありますから、実用化もそう遠くない将来だと思います。

街中植物工場コンソーシアム

 千葉大学では柏の葉キャンパス(千葉県柏市)内に、合計で1haを超える規模で太陽光型と人工光型の植物工場の実証実験施設を展開しています。
 また植物工場研究会という特定非営利活動法人を2010年(平成22)に立ち上げて、現在は96団体が協賛しています。柏の葉キャンパス駅の横にも東京・府中にある病院の中にも人工光型植物工場がつくられていますが、それらを含めて、植物工場の設計や運営に協力しています。
 実証実験施設は、産学連携のコンソーシアム方式で運営されています。太陽光を利用したトマト栽培施設5棟、人工光を利用したレタス栽培施設2棟は、それぞれが多彩な手段と方法で、狭い土地でいかに生産性を上げコストを削減できるかに挑戦しています。
〈街中植物工場コンソーシアム〉は、「植物工場の技術が街中いたるところに存在する近未来の姿を展示体験する」ことを目的に設置されました。私がオーガナイザー、パナソニック株式会社と三井不動産株式会社がリーダーとなり、ほか企業8社が共同でプロジェクトを推進しています。
 植物工場の小型版デモ機(27ページ参照)は家庭用小型冷蔵庫ほどの大きさで、インテリアとしても違和感のないデザインになっています。
 デモ機と苗はこちらで提供して近隣のモニター5世帯に貸し出して育ててもらったところ、2〜3週間もすると自分で種を蒔くなど非常に積極的な人が多く、私も感心するほどのアイディアが出て、楽しみながら栽培していただいたことがわかりました。デモ機を使っていただいたお宅では、家族3人では食べきれないほど収穫できたそうです。
 サニーレタスなどは特定の波長の光を当てると赤みを増す性質がありますが、温度が高いと赤が出にくいのです。それで、赤みを出すには温度を低く抑えたほうが鮮やかな色が出る、そういうことを自分で発見した人もいました。発見があると、どんどん楽しくなっていくんですね。オーガナイザーとリーダーとモニター5世帯はインターネットでつながっていて、日々の活動がやり取りできるようになっています。誰かが成果を発表すると、競い合うようにして活動が活発になります。
 実証実験をしてみて、「これは今までのように映画鑑賞とか音楽を聞くというのと違う、新しいコミュニケーションの創造であり、クリエイティブな生活なのではないか」という確信を持つに至りました。
 最低でも年間5万台ぐらい売れる確証が取れないと製品として販売することは難しいそうですが、是非、商品化まで漕ぎ着けてほしいものです。

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都市と里山・里海をつなぐ NPO法人千葉自然学校

飯田 洋さん

飯田 洋さん いいだ ひろし
特定非営利活動法人千葉自然学校理事長

1943年神奈川県葉山町生まれ。1972年中央大学卒業後、同年千葉県職員に採用。2002年総務部長、2004年千葉県庁退職。その後(株)幕張メッセ、(社団法人)千葉県経済協議会役員を経て、2009年より現職。

長寿社会の到来で、
定年退職後のすごし方に注目が集まっています。
特に長年、都市で生活してきた人にとって
自然や農業と触れ合うことは大変魅力のあるものになっています。
そうした都市住民と、
人的支援を必要とする里山・里海側の人たちを結ぶ
NPO法人千葉自然学校のネットワークと
シニアの活動についてうかがいました。

ネットワーク型の自然学校

 私たち特定非営利活動法人千葉自然学校(通称NPO法人千葉自然学校。以下、千葉自然学校と表記)は、千葉県内における自然体験活動団体をつなぐネットワーク型の自然学校として、2003年(平成15)から活動を行なっています。
 体験活動を通じて「人生を豊かに生き、支え合う力を育むこと」、「地域の資源を保全・活用し、次代に引き継ぐこと」、「ネットワークを充実させて地域の活性化を目指すこと」の三つを目的としています。
 千葉県は里山・里海に恵まれた立地ながら、千葉駅から北側の東京に近い地域で生活をしている〈千葉都民〉といわれる市民と、自然豊かな里山・里海が広がる地域に住む市民の二面性を持つ県です。
 例えば、私たちが茅葺き古民家〈ろくすけ〉をお借りして活動の拠点づくりをしている南房総市は後者にあたります。そうした地域は人口減少や高齢化によって森林や田畑の手入れが行き届かなくなったり、地域の祭りができなくなっているところも少なくありません。
 都心寄りの人たちは自然との触れ合いを必要とし、里山・里海側の人たちは人的支援を必要としています。千葉自然学校は自然体験活動団体のネットワークをつくることで、双方のニーズをつなぐ役割を果たしています。
 自然体験のみでなく、〈農ガキ〉という農業体験をする小学生対象のプログラムもあり、幼児からシニアまで年代別のプログラムがそろっているというところも、千葉自然学校の特色です。
 また、大房岬自然公園、南房総市大房岬少年自然の家、君津亀山少年自然の家の三つの施設の指定管理運営を担い、自然豊かな活動拠点として活用しています。

健康で楽しく社会とつながる

 千葉自然学校の中に、2012年(平成24)千葉シニア自然大学を開講したのは、急速に進む高齢化に対応するためです。
 60歳で定年を迎えた人の多くは、まだまだ心身ともに健康で、これまでに培った知識や経験を生かして社会とつながることが求められています。世の中の役に立つことは、社会にとって有用なだけではなく、本人の生き甲斐となって第二の人生を生き生きすごすことにもつながるはずです。
 私は今年で70歳。私の周囲の人たちを見ると、定年退職した直後は「少しゆっくりしたい」と旅行をしたり家で本を読んだりしたいと考えて過ごすのですが、1年もすると身体がむずむずしてくるのですね。受講者もそういう気持ちになったとき、たまたまうちのことを知って入ってこられた方がほとんどです。
 開講日は、木曜日を基本として1年間で34日あり、36講座68単位ですが、卒業には48単位の取得が必要です。年間8万2000円(一括納入の場合7万8000円)の受講料を払い込んでいただくと2年間有効な68単位分のクーポン券を発行しますから、講座が受けられない場合にも融通が利くようにしています。
 自然・環境をはじめ、生物、地質、生態、法制度、農業、自然体験指導、地域活性、健康といった幅広い分野の講座があります。自然・環境分野に地震と津波の科学の講座を追加するなど、時宜に応じた対応をしています。

関連施設で地元食材を

 農業体験は非常に人気がありますし、農業・農地は大切で守っていかなくてはならないと多くの人が考えています。しかし農業の現場では、収入が低くて暮らしていかれないからと後継者が現われません。そこをどうしていくかが課題なのです。
 うちは地域の活性化、再生を目的につくったNPO法人ですので、さまざまな場面でその解決策を考えています。
 例えば、千葉自然学校で指定管理運営している施設の食堂では、地元の食材を使っています。小さな力ですが、少しでも地域の農業が元気になるお手伝いができたらいいと思っています。

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共同経営でかなえた 儲かる農家モデルと循環システム

水落 重喜さん

水落 重喜さん みずおち しげき
農事組合法人きのこの里理事長

1947年福岡県三潴郡大木町生まれ。1965年県立三池農業高校卒業、1968年農業者大学校入学、1975年同校卒業。1973年大木町、八町牟田営農組合代表、1985年農事組合法人きのこの里設立、理事長に就任。2008年JA福岡大城理事。

農事組合法人〈きのこの里〉が設立して30年。
農業の企業化は、経営を安定させ六次産業化を可能にし、
カッコ良くて儲かる素敵な農家を増やしました。
地域全体の発展・安定化に寄与する地域事業を続けてきたことが、
生ゴミ堆肥や培養基屑による有機農業栽培や
バイオマスプラントで循環型社会をかなえる
住民パワーにつながっています。
事業と暮らしを分断しない〈きのこの里〉のやり方は、
農業経営と地域の在り方に、新しい道筋を示しています。

カッコ良くて儲かる素敵な農家

 農事組合法人〈きのこの里〉は、筑後平野に位置する福岡県三潴郡大木町にあります。福岡市中心部から60d、隣接する久留米市中心部から15d。東京なら立川や八王子といった感覚で、町の中心部を西鉄電車が通ることもあって、近年では都市のベッドタウンとしての性格も帯びています。
 家もあって通勤に便利ですから若者は出て行かないのですが、農業後継者が確保しづらくなっています。
 そこで私は、自分たちが「カッコ良くて儲かる素敵な農家」になって「素敵な田舎」をつくり、若者が農業の後継者になりたいと思うような仕組みをつくろうと思いました。私がこうした想いを抱いたのには、農業者大学校の1期生として学んだことが影響しています。

農業者大学校
1968年(昭和43)東京都多摩市に農林省(当時)によって設立された農業の後継者とリーダー育成を主な目的とした教育機関。独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構の内部組織となってから、2008年(平成20)茨城県つくば市に移転、非農家出身者が増加した。つくばでの3期の卒業生は高い就農率であったが、2010年(平成22)行政刷新会議の事業仕分けにより廃止とされ、翌年閉校した。

 30歳代のころ、今よりずっと勉強をしていたしやる気もあった私が感じたことは、田舎社会というのは若者と女性の意見を聞かない所だ、ということです。それで私も不遇の時代を過ごしました。そんな慣習を打ち破らないと、農業も集落も衰退するという危機感を持っているときに、大木町で土地改良事業が始まりました。

個人から共同へ

 当時の大木町は夏野菜がつくれないほど、小規模な洪水が度々起こっていました。私は土地改良事業で洪水をなくし、なんでもつくれる田んぼにしたいと理想に燃えていました。そして、農業と集落共同体の再生のためには、一集落一農場を実現して、共同経営による農事組合法人を立ち上げるべきだ、と考えていたのです。

一集落一農場
集落営農の一形態。生産効率が悪い零細・自己完結型の農業からの脱却、及び継続的な農業生産活動を可能にするために、農事組合などの集落営農組織をつくって農業に従事するやり方。

 ところが病気になって、志半ばで断念。そのとき、〈きのこの里〉の技術部長で創立メンバーの北島良信さんが「きのこは必ず儲かる。きのこで世の中を変えましょう」と言ってきたのです。迷いもあったのですが、やろうと決心して、1985年(昭和60)青年5人で農事組合法人として〈きのこの里〉を立ち上げました。
〈きのこの里〉では指揮命令系統はなく、それぞれが役割を分担しています。役員は同一出資、同一分配を基本にしてやってきました。共同経営だと仲間がいるから寂しくないし、休みもしっかり取れます。二次・三次産業部門をつくって連携させることで、六次産業化を目指すことも容易になります。

若者と女性を大切にする

 農事組合法人を立ち上げた私たちは、次に女性が活躍できる場をつくろうと、女性の農事組合法人モア・ハウスという組織を1997年(平成9)設立させました。
 モアの意味は、オランダ語の「モーア=母」であり、英語の「モア=もっと。さらに。それ以上」。つまり農家の主婦が人生の目標を持ち、本当にやりたいことを実現できるような環境をつくっていけるように、という思いを込めて命名しました。
 農家の普通のお母さんたち4名による共同出資で、ブナシメジとアスパラガスの栽培を中心とした事業を開始。今は加工品製造に力を入れています。
 現在は、従業員15名、数十名のパートの従業員もすべて女性で年商1億2000万円にまで成長しました。理事長は大藪佐恵子さん、うちの妻の増子も参画していますし、理事の松藤富士子さんは、あとで紹介するレストラン〈ビストロくるるん〉を2010年(平成22)にオープンさせ、代表取締役を務めています。

レストラン〈ビストロくるるん〉
ビュッフェスタイルでおかずは25〜30種類ぐらい
レストラン〈ビストロくるるん〉。ビュッフェスタイルでおかずは25〜30種類ぐらいですが、飲みものやデザートまで含めると50種類ほど。

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文化をつくる
都市の農業

編集部

都市農業の環境変化

 東京23区内にも、わずかに農地が残っている。
 世田谷や杉並、練馬の辺りでは、畑の脇で農産物の販売が行なわれている。少し前までは無人販売所として細々売られていたが、いつのころからか売り出し前から長い列ができるようになった。農産物を並べにきた生産者から手渡しで買っていく住民が増え、すぐに売り切れてしまう日も少なくない。
 西東京エリアにある直売所も大人気だ。東京都八王子市滝山町にできた〈道の駅 八王子滝山〉は平日でも駐車場がいっぱいになるほどで、新しいビジネスチャンスになっている。
 食品偽装や農薬が問題になって、顔が見える生産者がつくったものに人気が集まるようになったのだろうか。はっきりとした理由はわからないが、消費者が価格だけではなく「鮮度」と「味」にも価値を求めるようになって、それを満たしている都市農業が注目を浴びているのかもしれない。

農地にも新しい評価

 かつては農地より宅地、という意見が多かった都市部でも、都市化の勢いが弱まったことで、農地の価値も高く評価されるようになった。
 人口密集地域においては、緑地としての保全に大きな期待が寄せられていることが、農林水産省のアンケートから明らかになった(6ページ参照)。〈都市農地を保全する政策に対する意向〉を自治体の農政担当部局に聞いたところ、人口密度が5000人を上回るような都市圏では、「保全していくべき」という回答が多く寄せられたという。
 一方、〈施設園芸〉に植物工場という新しい可能性が現われている(24ページ参照)。植物工場はいわば農業と農地を切り離し、狭い都市部で効率良く栽培を可能にする仕組み。エネルギーコストをかけて遠隔地から野菜を運ぶ手間を省けることから、今後ますます注目が集まる分野である。
 バブル景気のころは土地売却の攻勢が激しかったという都市農地(23ページ参照)。今も農業を続けているのは、それを乗り越えてプロとしての誇りとやりがいを感じて、農業を続けようと決めた人だ。農産物を食べることで、その思いを応援できるのだから、おいしく有り難く頂戴したいものだ。

分岐点となった1995年

 農地だけでなく農業への関心も高まっている。
 都心寄りの人たちは自然との触れ合いを必要とし、里山・里海側の人たちは過疎化から人的支援を必要としている中、千葉自然学校のように双方のニーズをつなぐ役割を果たす組織も誕生している(28ページ参照)。
 また、農業志向は熟年層だけではなく、若者の間にも広がっている。農業の実態を定点観測してきた農山漁村文化協会の甲斐良治さんは、阪神淡路大震災とオウム真理教の地下鉄サリン事件が起こった1995年(平成7)は一つの転機で、劇的な価値観の転換が起こって、若い人が農業に向かうようになった、と分析する(10ページ参照)。
 実際、研修生やヘルパーとして働き、いずれ就農を目指す人たちの姿が多くの都市農園で見受けられた。

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水の文化書誌 37
《児童文学にみる農業用水開削の偉業》

古賀 邦雄

古賀 邦雄さん こが くにお
古賀河川図書館長
水・河川・湖沼関係文献研究会

1967年西南学院大学卒業。水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)に入社。
30年間にわたり水・河川・湖沼関係文献を収集。2001年退職し現在、日本河川協会、筑後川水問題研究会に所属。
2008年5月に収集した書籍を所蔵する「古賀河川図書館」を開設。
URL:http://mymy.jp/koga/

国土を開いてきた人々

 古代から現代まで人々は常に、海や湖沼を干拓し、荒れ野を開き、耕作に励み、用水を引き、食糧の生産を行ない、日本の国土を創ってきた。
 加古里子 緒方英樹著『人をたすけ国をつくったお坊さんたち』(全国建設研修センター 1997)には、奈良 平安期における昆陽池を造り、狭山池を修理した行基、讃岐満濃池の修復した空海、鎌倉期の一遍、忍性、叡尊などは、道路、橋、井戸、堤防を築き、これらの僧は人々の苦しみを除き、「利他行」の精神でもって社会事業に貢献する。
 笠原 秀/文『あれ地を田畑に! 東日本編』(ポプラ社 1996)をめくると、十勝平野の開拓者依田勉三、能代海岸に松林を施した栗田定之丞、男鹿半島に用水をひいた渡部斧松、品井沼を干拓した鎌田三之助、那須疏水の功労者印南丈作と矢板武、見沼代用水路を築いた井沢弥惣兵衛、拾ヶ堰を造った中島輪兵衛たち、五郎兵衛新田を開いた市川五郎兵衛、十二貫野用水の椎名道三が描かれている。
 さらに、同『あれ地を田畑に!  西日本編』(ポプラ社 1996)では、河北潟の干拓を試みた銭屋五兵衛、七ヶ用水を開鑿した枝権兵衛、鴻池新田を開いた鴻池宗利、新井用水を造った今里傳兵衛、出雲 浜山植林を行った井上恵助、鳥取砂丘 砂防林作りの船越作左衛門、豊稔池石積みダムを造った加地茂治郎、徳島・袋井用水を造った楠藤吉左衛門、熊本 幸野溝を築いた高橋政重、笠野原台地を開発した中原菊次郎らが挙げられている。具体的に東から西へ向かって、農業用水を開削した人々の苦労を追ってみる。

新十津川物語

 明治22年8月18〜21日にかけて、奈良県吉野郡十津川流域を記録的な豪雨が襲い、大災害が発生した。全体の被害は死者1496名、流失家屋365棟、田1463反に及んだ。「十津川大水害」である。同年10月被災者600戸は北海道に向かって移住を開始した。川村たかし著『北へ行く旅人たち—新十津川物語』(偕成社 1977)では、父母を水害で失った9歳の津田フキらは、十津川村を出て神戸港から小樽へ、20日間の苦難の旅を続け空知太にたどり着く。極寒の北海道の地での開拓に挑み、樺戸郡新十津川町を建設する。

新渡戸傳の三本木原開拓

 江戸期、天明の飢饉で多くの餓死者が出た。南部盛岡藩でもひどい飢饉に襲われるとそのたび一揆が起こった。藩の財政再建のため、寛政5年以後武士の禄を下げ、10年間に土地を開墾すれば、その土地を禄として与える制度を施行した。そこで、勘定奉行新渡戸傳は安政2年八甲田山の東に拡がる荒野三本木原開拓を願い出て許可が下りた。鈴木喜代春/著 山口晴温/絵『飢餓の大地』(鳩の森書房 1977)は、傳、十次郎(子)、七郎(孫)たちは十和田湖を水源とする奥入瀬川から三本木原へ導水することを計画し、鞍出山(延長2540m)と天狗山(延長1620m)にトンネルを開鑿し、用水路(延長2727m)を造り、安政5年完成した。さらに三本木原開拓事業が施行され、昭和41年約7000haの水田地帯が誕生した。十次郎は碁盤のような道路を造り、町の総合的な開発に取り組み、現在の十和田市を形成している。

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わたしの里川
里川幻想揺籃

沖 大幹さん

沖 大幹さん
おき たいかん

ミツカン
水の文化センター
アドバイザー

東京大学
生産技術研究所教授

 小川というよりは排水路といった趣のその流れは、小学校の正門から坂をくだった文房具屋の前からずっと東に延びていた。本当は南にまわって大きな国道を歩道橋で渡るのが決められた通学路なのだが、「沖君が近道をして帰っていました」と土曜日の学級会で告発されるのも恐れず、東に向かう水路に沿って下校するのが好きだった。何がおもしろかったのかというと、給食の牛乳の紙のふたを取っておいて、それを浮かべて競争させていたのである。左右に揺らめきながら水面を滑っていく牛乳のふたは、普段はちょうど小学生がゆっくり歩く速度くらいで流れてくれて、眺めるのにちょうどよかった。
 雨の後は特別だった。いつもとは違って水かさが増し、牛乳のふたを投げ込むまでもなくいろいろなゴミやあくたが浮かんだり消えたりしながらすごいスピードで流れていくのである。こういう日には空き缶が一番おもしろい。少し小走りになりながら空き缶を追いかけ、水路が道路の下をくぐるところで見失いそうになってあわてたり、よどみに引っかかってしまったのを何とか流れに戻そうとして石を投げたり棒でつついたり、といった出来事が楽しかった。
 ともすれば昔の想い出は美化される。しかし、この水路はお世辞にもきれいとはいえなかった。水はやや濁った茶色か、青紫のような色で、水底の石にはヘドロのような苔がぬるぬるとついていた。側壁には気持ちの悪い水草がぶよぶよとへばりつき、万が一にも落ちてはいけない、と思うような水路だった。でも、僕にとってはその水路が里川である。里川が清らかな流れであったとは限らない。しかし、里川の未来はどうだろうか。
 里山幻想がヒントになる。多くの里山がほんの数十年前までははげ山だったのが、薪炭などの利用が減ったため、戦後急速に森が豊かになった。この事実は以前から森林関係者の間では常識であり、最近では太田猛彦先生の『森林飽和—国土の変貌を考える』(NHKブックス 2012)でより広く一般に知られるようになった。それにもかかわらず、木が生い茂り、人の手が加わっているにせよ豊かな自然が残されているのが昔ながらの里山だと思っている人が圧倒的に多い。
 里川もおそらく似たような道をたどる。僕が小学生だった1970年代は公害対策基本法の制定を受けて、社会が汚染対策に取り組み始めた時期だった。以来40年、都市河川の水質も見違えるようにきれいになり、親水護岸も整備されるようになった。いずれ、あるいはすでに今でも、公園のように手入れの行き届いた里川しか知らず、ずっと昔から里川は今のように好ましい環境だったと思う人が大半を占めるようになるに違いない。まさに現在、里川幻想が形作られている最中なのである。
 数年前、小学校の時の担任の先生が定年退職されるお祝いを兼ねた久しぶりの同窓会があり、通いなれた通学路を歩く機会を得た。想い出の水路には蓋がされ、車道が少し広がっていた。

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坂本クンと行く川巡り 第3回
Go ! Go ! 109水系
145のしずくがつくる 旭川(岡山県)

坂本 貴啓さん

坂本 貴啓さん さかもと たかあき
筑波大学大学院 システム情報工学研究科
博士後期課程 構造エネルギー工学専攻在学中

1987年福岡県生まれの川系男子。北九州で育ち、高校生になってから下校途中の遠賀川へ寄り道をするようになり、川に興味を持ち始め、川に青春を捧げる。高校時代にはYNHC(青少年博物学会)、大学時代にはJOC(Joint of College)を設立。白川直樹研究室『川と人』ゼミ所属。河川市民団体の活動が河川環境改善に対する潜在力をどの程度持っているかについて研究中。

川系男子 坂本貴啓さんの案内で、
編集部の面々が109水系を巡り、
川と人とのかかわりを探りながら、
川の個性を再発見していく連載です。

109水系
1964年(昭和39)に制定された新河川法では、分水界や大河川の本流と支流で行政管轄を分けるのではなく、中小河川までまとめて治水と利水を統合した水系として一貫管理する方針が打ち出された。その内、「国土保全上又は国民経済上特に重要な水系で政令で指定したもの」(河川法第4条第1項)を一級水系と定め、全国で109の水系が指定されている。

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中国地方の旭川

 109水系川巡りの3回目は、旭川を訪ねました。岡山県には、西から高梁川、旭川、吉井川の三つの一級河川があって、中国山地や大山脊梁山脈である蒜山から水源を頂き南下しています。旭川は、県の中央部を流れて岡山市で児島湾に注ぎます。
 ぼくが旭川に興味を持ったのは、旭川流域ネットワーク(以下、AR-NETと表記)が17年前から続けている源流の碑の建立活動を知ったからです。『水の文化』8号でも、4年目の活動を取り上げています。

旭川の成り立ち

 太古の時代、蒜山地域は中国山地の北側に位置する山陰地方の一部で、旭川の一部は日本海に注いでいました。
 ところが、大山・蒜山の噴火活動で北側が塞がれて、川は蒜山の南側を西進して日野川を経て日本海へ。噴火活動最盛期の40万〜50万年前ごろには、ついに西側も塞ぎ止められて蒜山と中国山地の間の窪地が古蒜山湖という大きな湖になりました。現在、旧・八束村では珪藻土が採掘できますが、これは古蒜山湖の湖底に溜まった膨大な量のプランクトンの屍骸だそうです。
 やがて東南側の低い斜面を越流した流れが、湯原側に川筋を刻み、現在の旭川になりました。自然の力って、本当にすごいですね。

旭川流域ネットワークの活動

 AR-NETは1997年(平成9)に発足しました。岡山市内で環境活動などを行なっている団体が共同でつくった連絡会で、2013年(平成25)現在、自然保護団体、中学校や高校のクラブ、商工団体、企業など多分野の50余りの団体が流域の情報を共有し、連携した活動を行なっています。
 源流の碑の建立だけでなく、ネットワーク構成団体の活動状況をFAXやE-mailでほぼ毎週配信し、水質調査の実施や旭川博士の登録を行なったり、川における子どもたちの環境学習のサポートなどを行なっています。
 当時、岡山河川工事事務所に勤務していた竹原和夫さんが業務の一環として事務局を担当、転勤後はプライベートな立場で引き続き活動支援を行ない、退職後の現在も事務局の役割を担い続けています。
「AR-NETができた1997年(平成9)は、河川法が改正になった年。治水と利水に加え、河川環境の保全が含まれることになりました。そこで、岡山県の中央部を流れる旭川で、川にかかわる活動を行なっている人たちと、旭川の下流の直轄区間を共同で点検し、意見交換を行ないました。
 このときに、市民の皆さんは通常時の川に親しみ、活動の対象としていることがわかりました。河川管理者が洪水とか渇水という異常時の川を対象に業務を行なっていることが、一般市民が考えている〈いい川〉と大きな相違があると気づいたのです。
 河川法の改正では地方の首長の意見を聞くことや、必要に応じて地域住民の意見も聞くことが決められたのですが、利水や治水という目的を実現する際に、市民の皆さんと意見交換をしながら〈いい川〉にしていく必要があると実感しました。
 そこで、このことをもっと多くの皆さんに知っていただき、いい川にしようと思う市民を増やそうということになったのです」
 と竹原さん。川に関心を持ってもらう方法として提案されたのが、源流の碑の建立でした。
「『運ぼう! 建てよう! 旭川源流の碑』を実施し、旧・川上村(現・真庭市)の竜王ケ池に記念すべき1本目を建立しました。その前日の流域交流シンポジウムにおいて、行事に参加した団体を軸にした旭川流域ネットワークの発足が決議されました」
 しかし、それも一筋縄ではいかないのがAR-NET流。旭川の源流で伐り出した木材で碑をつくりリヤカーに載せていったん河口まで運びます。それから再び源流を目指す、という壮大なリレー方式。単に建てることが目的でなく、流域の人たちの川への関心を喚起し、地域の歴史や文化、人のつながりを思い起こす手段として考案され、これまでに17本の碑が建立されています。

久米南町(くめなんちょう)・北庄の源流の碑
11月24日、標高450mの「交流館・棚田の里 北庄」の敷地内に17本目にあたる久米南町(くめなんちょう)・北庄の源流の碑が建ちました。

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