機関誌『水の文化』46号
都市の農業

都市的農業の時代

ジャーナリストの立場から、長年、農業を見つめてきた甲斐良治さんに、高度経済成長期からバブル崩壊、環境を意識し始めた現在、と社会情勢の変化に翻弄されてきた都市の農業・農地を語っていただきました。この間の経緯を知ることで、今と未来の都市的農業の在り方を考えました。

甲斐 良治さん

社団法人農山漁村文化協会編集局次長 明治大学農学部客員教授
甲斐 良治(かい りょうじ)さん

1955年宮崎県高千穂町出身。九州大学経済学部を卒業後、(社)農山漁村文化協会に入会。同協会『増刊現代農業』編集主幹を経て、『季刊地域』・全集グループ長、編集局次長を歴任。2013年から明治大学農学部客員教授。『定年帰農』、『田園住宅』、『田園就職』、『帰農時代』の「帰農4部作」で、1999年農業ジャーナリスト賞受賞。

高度経済成長期の都市農地へのまなざし

1987年(昭和62)の5月2日、三大新聞の夕刊に全面広告が出ました。大きな文字で、「『農地』から都心へ30分、『宅地』から都心へ2時間」と書いてあり、この下に大前研一氏の『新・国富論』の抜粋が続き、「私どもは新・国富論に賛同しています」と書かれた不動産会社の広告です。

当時は、膨張する都市域で住宅難の状況にある住民にとって、東京近郊で農業が営まれているのは不合理とされたわけですね。地価高騰への怒りの矛先が、農業に向けられていたのです。

1990年(平成2)以降、バブル経済が弾け低成長期に入っていきますから、今はこのような論調はほとんど考えられないことですが、かつてはそういう時代であった、ということです。

それに対して、私は『現代農業』という月刊誌の別冊で「コメの逆襲」という特集を組み、評論家の岡庭(おかにわ)昇さんの反論を掲載したことを覚えています。

価値観の転換

都市計画法は1968年(昭和43)にできました。当時は、「都市農業・農地は都市にとって不必要なものであり消滅させていくべきものである」という論調でした。それが今、ようやく国でも再検討が行なわれ、政策がシフトしていっています。

なぜそのような転換が起きたのかということを、後藤光蔵さん(武蔵大学経済学部教授)が5つ挙げておられます。

一つは人口減少ですね。三大都市圏で生産緑地が1万4182ha、都市圏の空き地面積が2万4000ha。生産緑地の面積より空き地のほうが上回っているのだから、都市は膨張拡大の時代をもう終えたと。質的向上を伴った縮小に向かうべきではないかと指摘しています。

二つ目が高齢化でリタイヤ後の生活が長くなり、それにより地域での生活の比重が大きくなることにより、集い、活動するコミュニティーが必要とされる。

三つ目は人々の価値観の転換と多様化。四つ目が環境に優しい地域への転換が、都市にも求められていること。五つ目は災害に強い都市づくり。後藤さんの指摘を見て、私も「国の考え方の変化を適切にまとめられているな」と思いました。

代々農業を営んできた人たちは、ここ二、三十年の間にこのような激動にさらされていたわけですが、こうした実状は、農業の近くにいる人や地主さんでなければあまり知らされることがなかったのではないでしょうか。都市農業に限らず、農業には少し我慢してもらおう、というような風潮が強かった時代だったということです。

ですから後藤さんが挙げたように、経済成長が終わって都市の膨張が止まったことは、価値観の転換にとって、すごく大きな意味を持ちます。

農業への理解者を育てる

東京の練馬で〈農業体験農園〉をやっている加藤義松さんという方がいらっしゃいます。〈農業体験農園〉は1996年(平成8)に第一号が東京都練馬区で始まっています。市民農園とも観光農園とも違って、新しい消費者参加型農園の形態を取るものです。

加藤さんも現在154区画の〈農業体験農園〉を経営していて、講習会に来る人は週に200人を超えているそうです。2009年(平成21)には、練馬区農業体験農園園主会が日本農業賞の大賞を受賞しました。加藤さんは「この受賞は、農業体験農園が都市農業の新たな経営方式として確立したことの証しだと思う」と語られています。

〈農業体験農園〉に来た人の80%が「このあとも農業を続けたい」と言っていて、講習を受けたのち、「市民農園、区民農園利用」が36%、「家庭菜園」が39%、「他地域で自給自足」が7%、「援農ボランティア」が8%、「農業で国際協力」が3%と、人生に農業を生かしたいという積極的な思いが伝わってきます。

都市の膨張が止まった中で高齢者が増え少子化していくのですが、地域にいる子どもと老人の時間は増えていくんです。これは、廣井良典さん(千葉大学法経学部総合政策学科教授)も指摘されています。ですから農業体験農園は、定年後の人たちと子どもにとって、貴重な時間と場所を提供してくれる場になってきたともいえるでしょう。

加藤さんはまた、「自分が農業を始めた1981年(昭和56)当時は、宅地並み課税反対運動が真っ盛りだった」と、当時を振り返って語られています。「銀座でのトラクターデモとか日比谷公園で農業者大会などもやったけれど、農業者自らが農業への理解者を育ててこなかったために、こうした活動は都市住民の賛同を得ることができなかった」と反省しておられます(参考文献:『都市農業と土地制度―社会の転換期における意義と位置づけ』「農業法研究」48)

しかし今は、だいぶ様子が違ってきたのではないでしょうか。千葉県の大網白里で不動産業でありながらソーシャルビジネスを推進している会社の女性社長に「何でそういうことを始めたのですか」と聞くと、「だって農家の人は皆そうじゃないですか」って言うのですよ。農業はモノをつくっているだけじゃなくて、地域を良くする仕事をみんなでやっているじゃないですかって。確かに農業は、水源涵養もしているし水路のお掃除も草刈りもしているし、花も植えているし。普通の会社は金儲けしかしていないから、私はお百姓さんのように地域のための仕事もするんだ、というのです。

いみじくも、阿蘇で赤牛を飼っている山口力男さん(阿蘇百姓村村長 「訪れる人と共有する生業の場」参照)は「俺は60歳になったら百姓をやりたいから、今は我慢して農業をやっているのだ」という名言を吐いて、我々の世界では伝説のように言い伝えられてきています。山口さんは「みんなが農業をやり始めたら、村は壊れる」とも言いました。

不動産会社の女性社長の考え方といい、山口さんの百姓と農業の定義といい、多様であるべき農業が生産の面だけでとらえられるようになってしまったことへの警告だと思います。そう考えると農業・農地にさまざまな価値を認める昨今の風潮は、良い方向に向かっているのではないでしょうか。

分岐点となった1995年

都市農業とは離れるかもしれませんが、農業に対する価値観の転換に大きな意味を持つ問題なので、1995年(平成7)という年について少し触れさせてください。

1995年の年間の新規就農者(年間の主たる収入が前年度に比べて農業が主になった人)が10万人の大台を回復して、その内5万9800人が60歳以上だという発表を農水省が行ないました。『増刊現代農業』ではそれを受けて、1998年(平成10)に「定年帰農ー六万人の人生二毛作」という特集を組みました。

そうこうするうちに、2002年(平成14)ごろに若い人たちの就農が増えているのに気がつきました。都心から1時間とか1時間半、少し近郊に行っても、まあ2時間圏内ぐらいの地域に若い人が新たに就農しているのです。

そのときは「定年帰農と同じように農業に憧れる若い人たちがいていいなあ」くらいにしか思わなかったのですけれど、2005年(平成17)になって、背景に深刻な問題があるということに気がつきました。「若者はなぜ、農山村に向かうのか」という特集を組んだのは、そういう理由です。

その人たちに年齢を聞いたら、ほとんどが当時32歳以下だったのです。なんで、こんな32歳以下の人たちばかりがこういう動きになっているのかという疑問が、ことの深刻さに気づいたきっかけです。

逆算して、彼らが社会に出た年を計算してみたら、1994年とか1995年(平成6〜7)でした。1994年というのは、就職氷河期と価格破壊という言葉が流行語大賞にノミネートされた年です。

翌1995年は、阪神淡路大震災とオウム真理教の地下鉄サリン事件。ナホトカ号重油流出事故で重油回収のためのボランティア活動が脚光を浴びたのは、その少しあとの1997年(平成9)です。

就職氷河期で社会に出た人たちに就職口がないというのと、もう一つは非正規雇用が始まっていますから、就職をしても非正規。たとえ正規雇用になったとしても「なんか違うぞ」という感じで辞めていって、行く先はいろいろあるのですけれど、ボランティア活動とか農業に活路を見出していくんですね。

1993年(平成5)平成の大凶作で米不足になって、外国から安いお米が入ってくるという危機感の中で、農家と消費者の直接的なやりとりが始まりました。

1994年(平成6)には、細川政権がウルグアイ・ラウンド(注1)農業合意関連国内対策事業費を予算執行し、6年間に事業費ベースで6兆100億円規模の支援が行なわれました。その内の5割強は、農業農村整備事業(土地改良事業など)に使われています。

そんな中、ミニマムアクセス米(まい)(日本が高関税を課して輸入を制限する代わりに、最低限輸入しなければならない量の外国米)が決められたのも、食糧管理法が廃止されたのも1995年(平成7)。農家は宅配などによる「産直」といった方法で、自分で売ることにチャレンジを始め、イレギュラーでもやっていかれる方策として直売所(あるいは道の駅)ができていきました。以降、ウルグアイ・ラウンド対策費なども一部活用する形で、直売所が増えていきます。

農家の跡取りとして帰る人もいるけれど、まったく縁もゆかりもない所に行く人も増えました。

逆に言うと、昔は絶対に農地を分けてもらったり借りたりできなかった。それが、農業を始める面積が10〜30aとか、それ以下で認める自治体も出てきて、敷居が低くなっていった時期とも重なったのです(注2)。

(注1)ウルグアイ・ラウンド
貿易の自由化や多角的貿易を促進するために行なわれた通商交渉。ウルグアイ東方共和国の保養地プンタ・デル・エステで1986年(昭和61)に開始宣言され、1995年(平成7)まで続けられた。
(注2)下限面積の緩和
耕作目的で農地の権利(所有権や賃借権など)を取得する場合、農地が一定の面積に達しなければ許可されない。農地法によって原則として北海道では2ha、都府県では50a以上と定められているが、新規就農を促進するために、2003年(平成15)から下限面積を緩和する構造改革特区が導入された。

ミッションとポジションを求めて

若い人が農業に向かう布石はいっぱいあったけれど、やはりこうした社会背景がなければ、ここまで劇的な価値観の転換は起こり得なかったと思います。

若者にもいろいろいて、日本の大学を卒業して海外の大学院で修士になった夫妻の例でいうと、いったん東京のコンサルタント会社に勤めるのですが、今は熊本の阿蘇の集落で米をつくって販売しています。古い民家を借りて、途絶えていた赤牛の飼育も復活させ、阿蘇の草原の草を活用するバイオマスのNPOも立ち上げました。

自分の役割(ミッション)と居場所(ポジション)を見つけることが、一番優先されるようになった。地位とかお金ではありません。この潔さは、一度もバブル景気を経験したことがない強みかもしれませんね。

やはり、みんな自分が幸せになれる場所、自分がいてもいい場所を探しているのです。それはソーシャルビジネスをやっている不動産屋さんの社屋だったり、田んぼだったり、直売所だったりするのだと思います。

私は農業の明るい面しか見ていないかもしれませんが、今まで逆風の中でも頑張ってくれた人たちのお蔭で、農がある所は楽しい場所なのだということが、高齢者にも子どもたちにもやっとわかってもらえたように思うのです。

農文協の職員も、取材先の農地に通い始めています。飲み屋で知り合った赤の他人に声をかけて、一緒に農作業に行ったり。それは、農文協に限った特別のことではありません。

私の場合は概論から入っていくというのはあまり得意ではなくて、現場に行ってみて感じ取る。「ああそうか、都市の膨張はもう終わったのだな」とか「高齢者が増えて地域にいる時間が長いから、農地に足が向くんだよな」とか。就農する人たちは流行に踊らされているわけではないし、本を読んで「これが問題だな」と思ったのでもなくて、体で感じることに反応して動いているのでしょう。そういう実感が、私にはあります。

知り合いにアトピーだった若い女性がいるんですが、仕事がきついとか人間関係とか、精神的なことが原因で症状が変化するといっていました。彼女はアトピーがどうなったら良くなるか探すうちに、落ち着く土地に巡り合って農業をやっています。身体がピュアに反応するそういう人が、新しいやり方の農業のほうに行っている。

こういう人たちがどんどん都市の欲から離れていくのです。距離的に離れるのではなく、それまでの都市的な価値観から離れていくということです。3.11以降は、それがいっそう加速した感があります。それでまたネットワークも広がって、という感じです。

彼女のまわりの人材も多様化していて、秀才タイプやアート系もノンビリ派もいる。でも彼女たちが言うのには、「私の所に来る同世代の子たちには、スローだとかロハスとか言う子はいないんだよね」って。こういう子が増えていくのが一番確かな気がするんですよ。その人たちを核にして、もしかすると都市農業だけじゃなくて中山間地の問題も変わっていくかもしれないですね。

彼女はまた、食費よりも携帯電話にお金をたくさん使うような生活をしている友だちがお母さんになっていいのか、なれるのか、と心配しています。

食育というと調理したり、食べたりするほうばかりに意識がいきがちですが、幼いうちに農業生産の現場を見ることは意義があると思います。農業の多様性からは多くのことが学べると思いますから、農業に馴染みのない都市の若者も、身近な農地に足を運んでいろいろ学んでもらいたいですね。



(取材:2013年10月24日)

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