機関誌『水の文化』46号
都市の農業

児童文学にみる農業用水開削の偉業

古賀 邦雄さん

古賀河川図書館長
水・河川・湖沼関係文献研究会
古賀 邦雄(こが くにお)さん

1967年西南学院大学卒業
水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)に入社
30年間にわたり水・河川・湖沼関係文献を収集
2001年退職し現在、日本河川協会、ふくおかの川と水の会に所属
2008年5月に収集した書籍を所蔵する「古賀河川図書館」を開設

国土を開いてきた人々

古代から現代まで人々は常に、海や湖沼を干拓し、荒れ野を開き、耕作に励み、用水を引き、食糧の生産を行ない、日本の国土を創ってきた。

加古里子 緒方英樹著『人をたすけ国をつくったお坊さんたち』(全国建設研修センター 1997)には、奈良 平安期における昆陽池(こやいけ)を造り、狭山池を修理した行基、讃岐満濃池の修復した空海、鎌倉期の一遍、忍性、叡尊などは、道路、橋、井戸、堤防を築き、これらの僧は人々の苦しみを除き、「利他行」の精神でもって社会事業に貢献する。

笠原 秀/文『あれ地を田畑に!東日本編』(ポプラ社 1996)をめくると、十勝平野の開拓者依田勉三、能代海岸に松林を施した栗田定之丞、男鹿半島に用水をひいた渡部斧松、品井沼を干拓した鎌田三之助、那須疏水の功労者印南丈作と矢板武、見沼代用水路を築いた井沢弥惣兵衛、拾ヶ堰を造った中島輪兵衛たち、五郎兵衛新田を開いた市川五郎兵衛、十二貫野用水の椎名道三が描かれている。

さらに、同『あれ地を田畑に!西日本編』(ポプラ社 1996)では、河北潟の干拓を試みた銭屋五兵衛、七ヶ用水を開鑿した枝権兵衛、鴻池新田を開いた鴻池宗利、新井用水を造った今里傳兵衛、出雲 浜山植林を行った井上恵助、鳥取砂丘 砂防林作りの船越作左衛門、豊稔池石積みダムを造った加地(かじ)茂治郎、徳島・袋井用水を造った楠藤吉左衛門、熊本 幸野溝を築いた高橋政重、笠野原台地を開発した中原菊次郎らが挙げられている。具体的に東から西へ向かって、農業用水を開削した人々の苦労を追ってみる。

  • 『人をたすけ国をつくったお坊さんたち』

    『人をたすけ国をつくったお坊さんたち』

  • 『あれ地を田畑に!東日本編』

    『あれ地を田畑に!東日本編』

  • 『人をたすけ国をつくったお坊さんたち』
  • 『あれ地を田畑に!東日本編』

新十津川物語

明治22年8月18〜21日にかけて、奈良県吉野郡十津川流域を記録的な豪雨が襲い、大災害が発生した。全体の被害は死者1496名、流失家屋365棟、田1463反に及んだ。「十津川大水害」である。同年10月被災者600戸は北海道に向かって移住を開始した。川村たかし著『北へ行く旅人たち―新十津川物語』(偕成社 1977)では、父母を水害で失った9歳の津田フキらは、十津川村を出て神戸港から小樽へ、20日間の苦難の旅を続け空知太にたどり着く。極寒の北海道の地での開拓に挑み、樺戸郡新十津川町を建設する。

新渡戸傳の三本木原開拓

江戸期、天明の飢饉で多くの餓死者が出た。南部盛岡藩でもひどい飢饉に襲われるとそのたび一揆が起こった。藩の財政再建のため、寛政5年以後武士の禄を下げ、10年間に土地を開墾すれば、その土地を禄として与える制度を施行した。そこで、勘定奉行新渡戸傳は安政2年八甲田山の東に拡がる荒野三本木原開拓を願い出て許可が下りた。鈴木喜代春/著 山口晴温/絵『飢餓の大地』(鳩の森書房 1977)は、傳、十次郎(子)、七郎(孫)たちは十和田湖を水源とする奥入瀬川から三本木原へ導水することを計画し、鞍出山(延長2540m)と天狗山(延長1620m)にトンネルを開鑿し、用水路(延長2727m)を造り、安政5年完成した。さらに三本木原開拓事業が施行され、昭和41年約7000haの水田地帯が誕生した。十次郎は碁盤のような道路を造り、町の総合的な開発に取り組み、現在の十和田市を形成している。

『飢餓の大地』

『飢餓の大地』

黒井半四郎の黒井堰

米沢藩は松川に黒井半四郎によって、寛政9年に黒井堰を完成させ、続いて半四郎の設計による飯豊山の奥深くに飯豊穴堰(約200m)を掘削した。さらに玉川の水を白川に注ぐ工事に着手したが、半四郎は過労の為、病に倒れ、還らぬ人となった。上杉鷹山は、半四郎に代わって莅戸(のぞき)九郎兵衛に普請奉行を命じ、九郎が亡くなると、子の八郎政以(まさもち)に跡を継がせたあと、文政元年に竣工させた。それから北条郡と中郡各村は米沢藩の穀倉地帯に変わった。天明飢饉では餓死者が出たものの、日本史上最大の天保大飢饉が襲った時は米沢藩では一人の餓死者も出さなかった。大木一夫/作、菊地隆和/画『若き鷹たち』(岩崎書店 1984)では、黒井堰開削に関して、上杉鷹山、黒井半四郎、佐藤文四郎らの藩政改革と共に描いている。

安積疏水を夢みた小林久敬(ひさたか)

猪苗代湖から導水する安積疏水は、大久保利通、中条政恒、ファン ドールン(オランダ人)らの尽力によって、明治12年に起工式がなされ、明治15年完成通水式が行なわれた。

山崎義人/文、渡辺安芸夫/絵『疏水と小林久敬』(歴史春秋出版 1986)によれば、福島県須賀川仲町の荷物問屋を営む小林久敬は、江戸末期弘化4年に猪苗代湖の水を須賀川まで引く開削を決意し、測量調査を行ない、私財を投じ疏水計画に奔走する。中条政恒にも進言するが久敬の案は受諾されなかった。久敬は東京の芝の門前町に宿をとって、伊藤博文に面会を求めるが、機会は与えられなかった。「久敬が須賀川の家に帰ったときには、妻の喜知も弥八郎もいませんでした」「疏水に一生を捧げ、無一文になった久敬はひとりであばら家に住むことになりました」。明治25年鈴木信教和尚に看取られ永眠する。享年73歳であった。その後新安積疏水が完成し、須賀川地方にも水が流れ、1500haの水田が開田し、ようやく久敬の夢は実現した。荒池畔に小林久敬顕彰碑と彼が詠んだ「あらたのし 田毎にうつる 月のかげ」の句碑が建立された。

安積疏水に尽力したお雇い外国人ファン ドールンについて、鶴見正夫/作、市川禎男/画『かくされたオランダ人』(金の星社 1974)では、戦時中、金属の供出に抵抗して、安積疏水に関わる農民たちが、ドールンの銅像を隠し、戦後に再建される。

『疏水と小林久敬』

『疏水と小林久敬』

箱根用水 亀田郷 木曾山用水

命を賭け、命の水を求めての事業は続く。芦ノ湖の水を引くため箱根の山腹に1.2kmの隧道を掘削した、若山三郎/作、岩淵慶造/絵『村をうるおした命の水』(PHP研究所 1998)は、大庭源之丞、友野与右衛門の苦難の物語である。亀田郷土地改良区編・発行『まんが亀田郷の歴史』(1998)は、湿地田との闘い、信州飯田の北方村荒井の川における岩石水門造りの宮下和男/作、斎藤俊雄/画『あばれ用水』(信濃毎日新聞社 1976)、朝穂堰土地改良区編・発行『朝穂せぎ物語』(1985)、山を越えて取水する、有賀義公著『いのちの水を求めて 権兵衛峠をこえた木曾山用水』(学校図書 1990)がある。

都築弥厚の明治用水

矢作川の水を何とか引き、新田を造る計画について明治用水に奔走した都築弥厚を捉えた、寺沢正美/作、高田三郎/絵『安城が原の水音』(ほるぷ出版 1987)がある。最初、先駆者は必ずや流域農民らの大反対に遭遇する。「弥厚は、みなの衆の田んぼをつぶすようなことは決していたしませぬ!」「川を掘りゃ、どうなるだあ!」「洪水になって、田んぼは流れちまうわあ」「んだ、田んぼをつぶさんて保証が、どこにあるだあ」

弥厚は、わめき返す百姓たちの声を押し返すようにことばをつづけた。「いや、川を掘っても洪水にはなりませぬ。それどころか、今の十倍にも二十倍にも、田んぼは広くなりますぞ。みなの衆よ、大きく目をひらいてくだされ。水は百姓にとってはなくてはならぬものじゃ」

天保4年4月弥厚に幕府から新開地開発の許可が下りたが、その年の9月、病で亡くなる。69歳であった。都築家は没落し、家族は離散した。それから30年後、弥厚の遺志を継いだ岡本兵松と伊予田与八郎の二人は、反対に遭いながらも、明治12年1月に着工し、明治17年4月安城が原、五か野原を貫く延長50kmの明治用水路が完成した。

『安城が原の水音』

『安城が原の水音』

出雲が生んだ三偉人

江戸期出雲には、周藤彌兵衛、清原太兵衛、大梶七兵衛という治水三偉人が輩出した。意宇川の流れを日吉切通しの開削を行ない水害を防いだ、村尾靖子/作、高田勲/絵『周藤彌兵衛』(HNS研究所 1994)、松江市から鹿島町を抜けて宍道湖の水を日本海へ流す佐陀川を開鑿した、同著『清原太兵衛』(HNS研究所 1997)、荒木浜に植林を施し、田畑を造成し、そこへ斐伊川から水を引く高瀬川開削した。同著『出雲の虹』(岩崎書店 2002)が刊行されている。

『出雲の虹』

『出雲の虹』

岡山県久米南町の福田久治

浄土宗開祖法然の誕生寺がある久米南町において、福田久治は多くのため池を造り、棚田をつくり、米の増産を図った。安藤由貴子/文、沼本正義/絵『耕地整理の父福田久治』(久米南町偉人顕彰会 2011)がある。久治は大正13年の大旱魃に遭遇して、最高峰笛吹山で涵養された水を新築の神之淵に貯水し、山を穿ったトンネル、谷を渡したサイフォンで下流の丘の上に流し、水稲や畑作を稔らせ、サイフォンの父と呼ばれた。

『耕地整理の父福田久治』

『耕地整理の父福田久治』

布田保之助の通潤橋

肥後矢部郷(現・熊本県山都町)の標高400mの白糸台地は、笹原川と合流する轟川と千滝川に挟まれており、長野、田吉など八つの村に300世帯が住んでいた。ここの農地は天水農業であって、「水さえくれば」と待望していた。矢部郷の大庄屋布田保之助は、笹原川に取水口を設け、水路をつくり、轟川に種山の石工たちの協力をえて石橋を架けた。この石橋が水を通す通潤橋で、嘉永7年に完成した。橋の高さ20.30m、長さ76.36m、石管(吹上樋)3列を載せている。児玉辰春/文、長澤靖/絵『虹の花咲く通潤橋』(汐文社 1998)、大林美穂/編、國武賢聖/画『通潤橋 水が渡る橋』(山都町教育委員会 2012)に、保之助の通潤橋に命を賭けた執念が読み取れる。

その他の書として、福岡県春日市の白水池嵩上げを行なった、今給黎靖子/文、長坂えり子/絵『水こそいのち 武末新兵衛物語』(葦書房 1991)、遠賀川の取水口を一鍬で掘削したショージンさんを描いた、上野英信/文、千田梅二/画『ひとくわぼり』(裏山書房 1982)を挙げる。

以上、農業用水を開削した先人たちの偉業に関して述べてきたが、そこには常に命をかけ、「利他行」の精神が貫徹していた。先人たちのこれらの業績は、素晴らしい水の風景を創り出し、母性的な優しい風土を醸し出している。

〈村ぢゅうの水路うごける五月かな〉
(川本 昂)

『虹の花咲く通潤橋』

『虹の花咲く通潤橋』



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