2014年6月発行

水の文化 47号 つなぐ橋

水の文化 47号 つなぐ橋
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気ぜわしい、今の暮らしの中では、
橋は単なる通過点。
橋を渡るときに、ゆっくり川を見ることも
滅多にありません。

ところが川を船で行くと、
橋は渡るだけでなく、
くぐるものでもあった、
ということを思い出します。
船が橋をくぐるたびに、
橋の上の人と、船でくぐる人が
笑顔を交わし、手を振り合います。
思いがけない一期一会は、
橋がハレの場であることを
再認識させてくれます。

もちろん、線路や道路を渡る橋もあります。
越し難い何かをまたいで、
こちら側と向こう側をつなぐのが橋の役目。
比喩として
〈架け橋〉ともいうように、
何かをつなぐ、
大切な働きをしているのです。

橋のある所には、
人が引き寄せられ、賑わいが生まれ、
ドラマが繰り広げられます。
渡るという機能以外の
そんな橋の魅力を探してみました。

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目次

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  • 土木技術者が読み解く橋の歴史の魅力

    松村 博

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  • 帝都復興における橋とデザインの思想

    中井 祐

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  • ペデストリアンデッキの登場と
    駅前空間の変化

    五十畑弘

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  • モンゴルと日本をつないだ太陽橋

    小林 厚

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  • 長崎・眼鏡橋復元の物語

    片寄俊秀

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  • 橋から省みる水都大阪の再生

    藤井 薫

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  • 橋上の賑わい空間復活の可能性

    藤本英子

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  • 川がない橋が秘めた東京の履歴

    斉藤 理

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  • わたしの里川

    川医者の里川診断

    島谷幸宏

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  • 水の文化書誌 38

    石橋・眼鏡橋のある風景

    古賀邦雄

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  • Go!Go! 109水系

    神荒ぶ よみがえりの熊野川

    坂本貴啓

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  • 文化をつくる

    つなぐ橋

     

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  • 里川文化塾報告
    次号予告・編集後記

     

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土木技術者が読み解く橋の歴史の魅力

松村 博さん

松村 博さん まつむら ひろし

1944年大阪市生まれ。京都大学大学院工学研究科(土木工学専攻)修了。1969年から2004年まで、大阪市に勤務して神崎橋、川崎橋、此花大橋などの建設や都市計画、都市工学情報の発信などを担当。
主な著書に、『八百八橋物語 大阪文庫〈6〉』(松籟社 1984)、『大阪の橋』(松籟社 1987)、『橋梁景観の演出―うるおいのある橋づくり』(鹿島出版会 1988)、『京の橋ものがたり 京都文庫』(松籟社 1994)、『日本百名橋』(鹿島出版会 1998)、『大井川に橋がなかった理由』(創元社 2001)、『論考 江戸の橋』(鹿島出版会 2007)ほか

橋は「通行を阻害するものに突き当たったときに、
それを乗り越えるためにつくられた構造物」と定義されます。
しかし橋は単なるハード面の機能だけでなく
「多様な文化的価値を持つ存在」であると言えます。
「越すに越されぬ」と形容された大井川の渡河形態を、
土木技術者の技術的考察も加味して読み解いてみました。

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橋は文化的な存在

 橋は、土木学会編纂の『土木用語辞典』に、
「交通路・水路などが、河谷(かこく)・くぼ地その他、これら道路の機能を阻害するものに突き当たった場合に、これを乗り越える目的をもって造られる各種の構造物」と定義されています。
 しかしこれは、橋の機能的な側面、すなわちハードウェアとしての説明にすぎません。では、橋の持つソフトウェアとしての性質とはどんなものを指すのでしょうか。
 橋が利用する人々の心の領域に働きかけたり、それを眺める人々に訴えかけたりする〈何か〉は、橋の文化的な価値を高めている要素の一つであると考えられます。
 橋の歴史は架けられた時代を映し出す鏡であるともいえます。
 古い時代、民衆へ仏教の伝道を行なった僧侶が橋を架けたり、溜池をつくったり、とインフラ整備に力を発揮した時代がありました。
 その代表的な人物が伝道僧の行基(668〜749年)です。民衆への布教活動が禁じられた奈良時代に、禁を破り、広く仏法の教えを説いた行基にとって、組織力を生かして民衆が望んでいたインフラ整備を行なうことは、宗教活動そのものでもありました。そして、それは広い意味で国家の要望に沿うことにもなりました。
 その後も中央政府の力が相対的に弱くなった時期には、僧侶の指導によって民間で橋を架けることが多く行なわれたことがありました。伝道僧が民衆の要望の代弁者となった、と読むこともできるのです。
 沈下橋は、古くからある橋のように思いがちですが、あれは自動車を通すために工夫された形です。人が渡るだけなら、流れ橋で充分でした。
 丸太を縄で束ねて、岸の木や岩に結わえてある簡易な橋を、今でも見ることができます。水が出たときに、橋の材料が遠くまで流れていかないように工夫した流れ橋です。流れ橋は、急流が多い日本の川に適した形の橋であったといえるでしょう。

橋がなかった不自然さ

 大井川に橋が架けられなかった理由を検証する本(『大井川に橋がなかった理由』〈創元社 2001〉)を書くきっかけになったのは、大井川に橋が架けられなかったことが不自然に思えたからです。
 江戸から京都の間の東海道には、比較的川幅の広い川を渡るところが30カ所ほどありますが、橋が架かっていた所もかなりありました(7ページの図版参照)。調べてみると、川を越えるのに徒渉(かちわた)しと船渡しと橋という三つの手段があり、大井川や安倍川などの徒渉しは渡河の手段としては特異な例であることがわかりました。
 大井川や安倍川に橋がない理由は、従来、軍事的防衛線としての役割にあるといわれてきました。しかし、調べてみるとそうとはいえない理由がいろいろわかってきたのです。

防衛線としての疑問

 徳川家康は江戸へ入城した後、隅田川の千住(1594年〈文禄3〉)と多摩川の六郷(1600年〈慶長5〉)にいち早く橋を架けています。もし江戸防衛のために大井川に橋を架けなかったのなら、江戸の喉元である千住と六郷に橋を架けたことは辻褄が合いません。
 徳川家康が関ヶ原の合戦の前に多摩川の六郷に架けた橋は、元禄時代になって放棄され、船渡しに切り替えられています。幕府の基盤が不安定な時代に橋を架けておきながら、盤石になったときに撤去するのは、防衛上の理由では説明がつかないと指摘する研究者もおられました。
 柴田勝家が福井に入ったとき、城下を通る北陸道が足羽川(あすわがわ)を渡る所に頑丈な橋を架けています。岡山城を築いた宇喜多秀家は、北の山沿いを通っていた山陽道を曲げて城下に引き込み、城の膝元の旭川に京橋を架けています。
 城下町繁栄のために橋を架けたり、道路を整備するということは、戦国時代であっても行なわれていました。防衛も大切でしたが、城下の経済発展を促すことも為政者の努めだったのです。
 大井川は普段は水量が少なく、古くは一般の旅人も歩いて渡っていたわけですから、通常の水位なら屈強な軍隊の移動に大きな障害になったとは考えられません。
 それで、江戸防衛のために橋が架けられなかったというのは誤りで、ほかに要因があるのではないかと考えました。

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帝都復興における橋とデザインの思想

中井 祐さん

中井 祐さん なかい ゆう
東京大学大学院教授
(工学系研究科社会基盤学専攻)工学博士

1968年愛知県生まれ。1991年東京大学工学部土木工学科卒業、1993年東京大学大学院工学系研究科土木工学専攻修了。同年、株式会社アプル総合計画事務所入社、1996年東京工業大学大学院理工学研究科助手、1998年東京大学大学院工学系研究科助手、2003年同大学院専任講師、2004年同大学院助教授を経て2010年より現職。主なプロジェクトに、岸公園(島根県)、河戸堰と松田川河川公園(高知県)、片山津地区街路及び水生植物公園(石川県)、ベレン地区公園図書館(コロンビア・メデジン市)、被災者の心をつなげる場所と風景のデザイン[ヤタイ広場](岩手県)、竹田城下町再生のまちづくり(大分県)、岩手県大槌町復興支援(岩手県)がある。
主な著書に、『グラウンドスケープ宣言』(共著/丸善 2004)、『近代日本の橋梁デザイン思想 三人のエンジニアの生涯と仕事』(東京大学出版会 2005)、『GROUNDSCAPE〜篠原修の風景デザイン』(共著/鹿島出版会 2006)、『風景の思想』(共編著/学芸出版 2012)ほか

震災復興事業の第一号として
1926年(大正15)に架けられた永代橋は、御年88歳。
ペアでデザインされた清洲橋とともに、
都道府県の道路橋として初めて、
国の重要文化財(建造物)に指定されています。
「構造物は、技術者の思想や創造性によってつくられている」
という中井祐さんに、
橋梁デザインの一世代を築いた復興局の働きと、
その時代の橋梁技術者のこと、
橋の持つ公共性についてうかがいました。

土木における橋の性質

 日本における近代土木史には、お雇い外国人から始まるいくつかの段階があります。河川や港湾のように、日本固有の自然や風土、地形を相手にする分野では、比較的早い時期に欧米先進国の真似から脱して、日本の特徴に適合した技術が生み出されました。
 ところが同じ土木の分野でも、その土地固有の自然環境が形を直接規定する度合いが低い橋のデザインにおいては、創造的なものが生まれづらいというハンディキャップがあったように思います。
 それでも明治末期から昭和初期にかけて、橋梁デザインが隆盛を見た時代がありました。その気運は戦争へ向かう中で潰(つい)えてしまうのですが、私はその時代に実績を残した3人の橋梁デザイナーについて、『近代日本の橋梁デザイン思想 三人のエンジニアの生涯と仕事』(2005 東京大学出版会)という本に書きました。

3人の橋梁技術者

 建築の分野では、丹下健三さんとか安藤忠雄さんとか、一般の人も名前を知っている建築家の名がいくつも挙がるかもしれません。しかし土木技術者、特に橋梁技術者のことをご存知の人はほとんどいないのではないでしょうか。
 技術の歴史は、単に個々の工学上・技術上の歴史的事実の積み重ねではありません。技術史上の事実の背景には、必ず主要な役割を担った技術者が存在します。構造物は、技術者の思想や創造性によってつくられているのです。それにもかかわらず、従来は技術者の創造の根拠についてあまり言及されてきませんでした。
 私が取り上げた3人、東京市の市街橋を手がけた樺島正義、帝都復興橋梁の設計をリードした太田圓三(えんぞう)と田中豊の存在は、日本の近代橋梁デザインにおいてエポックであると見なしていいと思います。
 一番年長の樺島は、旅を愛し、風景を愛し、生涯一貫して風景のための橋の在り方を追求しました。樺島の考え方は、現代にも充分通用しますし、同じ風景デザインを志す者として深く共感できます。

樺島正義(1878〜1949年)
東京帝国大学工科大学土木工学科で、港湾工学の父といわれた廣井勇(ひろい いさみ 1862〜1928年)の教えを受け、卒業後に渡米。カンザス市のワデル・ヘドリック工務所で4年半にわたり橋梁設計を修業し、帰国後に東京市の技師となり新大橋、鍛冶橋、呉服橋、神宮橋など多くの市街橋設計の実績を残した。1921年(大正10)には東京市を退職し、日本初の橋梁コンサルタントとされる樺島事務所を開設している。

 私が最も思い入れを持った太田圓三は、夏目漱石とほぼ同時代の人で、漱石と同様の言質を残しています。確証はありませんが、若き日の太田は漱石が日本の近代化に苦悩する姿に共鳴し、日本の近代化の矛盾に直面しながら、土木技術者としての自我と格闘を始めたのだと思います。

太田圓三(1881〜1926年)
樺島の3年後に、東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業。鉄道院に就職。1923年(大正12)の関東大震災直後に設立された帝都復興院(のちに内務省復興局)の土木局長に抜擢される。特に橋梁デザインに力を注ぎ、永代橋、清洲橋をはじめとする隅田川橋梁群の設計に尽力するも45歳の若さで自殺。

 最後の田中は、最も技術進歩主義的な思想を持ったエンジニア・アーキテクトでした。彼の設計には駄作がほとんどありません。永代橋、清洲橋、言問橋などの隅田川橋梁群は言うに及ばず、万代橋、総武線の一連の鉄道橋、田端大橋など、いずれにおいてもそのプロポーション感覚に一切のぶれがありません。 

田中豊(1888〜1964年)
東京帝国大学工科大学土木工学科を樺島に遅れること12年後に卒業。鉄道院を経て、太田の部下として帝都復興院土木局橋梁課長に就任。のちに鉄道技師・復興局技師兼務のまま、東京帝国大学教授に就任し、後進の指導にあたる。日本近代橋梁史上最も著名な技術者であり、土木学会田中賞の名称の由来となった。

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ペデストリアンデッキの登場と駅前空間の変化

五十畑 弘さん

五十畑 弘さん いそはた ひろし
日本大学教授
(生産工学部環境安全工学科)工学博士

1971年日本大学生産工学部土木工学科卒業。日本鋼管(株)重工事業部に入社。1985年より英国NKK(日本鋼管ロンドン事務所)、1988年より日本鋼管(株)総合エンジニアリング事業部鋼構造本部、2003年よりJFEエンジニアリング(株)鋼構造事業部勤務を経て2004年より現職。
主な著書に『歴史的鋼橋の補修・補強マニュアル、鋼構造シリーズ14』(社団法人土木学会 2006)、『建設産業事典』(鹿島出版会 2008)、『歴史的土木構造物の保全』(鹿島出版会 2010)、『図解入門よくわかる最新「橋」の基本と仕組み』(株式会社秀和システム 2013)ほか

社会情勢に左右されながら、
条件に合わせて応じられる柔軟性、
可塑性を持ったペデストリアンデッキは、
ライフタイムからみても
「日本的な構造物」と言う五十畑弘さん。
駅前空間の表情を一変させた
ペデストリアンデッキは、
実用的機能を優先させながら、
多くの場所で採用されてきました。
初期の導入例から40年を経過した今、
新たな局面を迎えた
ペデストリアンデッキの歴史と
これからについてうかがいました。

歩車分離から始まった

 交通戦争という言葉は、1960年代から使われるようになりました。その時代には、小学校の裏に必ず学童歩道橋がつくられました。学童歩道橋は、自動車の交通量が増えたことに対応して、歩車分離で合理的に通行させようという発想から始まっています。人と自動車を立体的に分離することで、安全を確保しようとしたわけです。
 ペデストリアンデッキは、こうした学童歩道橋と同じ発想でつくり始められました。
 一方、日本の都市部の鉄道駅前はどこも敷地に余裕がありません。スペースに余裕がない駅前交通広場をできるだけ有効に使うために、垂直方向に逃げようと考案されたという事情もあります。構造としては、鉄道駅が橋上駅となって、同じフロア階にコンコースができ、その延長線上にペデストリアンデッキがつくられます。
 そのことは、メリットも生みました。横断歩道を渡らないでデパートなどの商業施設に直接アプローチできるので、改札口を出て、一度もアップダウンなしで商業施設に入れるというわけです。
 しかしバリアフリーの考えが導入されるのは、1994年(平成6)のハートビル法、そして2006年(平成18)のバリアフリー新法(高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律)ができてからです。実は、この法律以前にはエレベーターやエスカレーターをつけていない所が多く、あとからつけられています。

社会情勢に影響される

 日本で最初にペデストリアンデッキが導入されたのは、1973年(昭和48)国鉄(現・JR)柏駅(千葉県)東口の市街地再開発のときです。新しいベッドタウンとして郊外が開発され、車で駅に向かう車社会の到来を予測していたということです。
 全国で230カ所ぐらいあるのですが、最近はそんなには増えていないと思います。土地の価格が上がれば、高層にして新たに人工地盤をつくることが利益を生みます。再開発事業が行なわれるのは、土地の価格が上がるからなのです。ペデストリアンデッキは再開発事業と同時に設置されるというのがほとんどなので、再開発が停滞すれば新たに設置されることはありません。
 つくられてから30年以上が経過して、老朽化による改修工事や、人口が減って乗降客が減少し、将来的には撤去の可能性が浮上するところもあるかもしれません。役割を終えて撤去になる場合だけでなく、高架下が暗くなることで治安やイメージの観点から改修が検討される例もあるでしょう。
 とはいえ、2階が正面であることが定着し、ファサードも2階でつくられていれば、撤去に反対する意見が出ることも予想されます。
 柏駅前では最近、改良工事が行なわれました。1984年(昭和59)につくられたJR津田沼駅(千葉県)のペデストリアンデッキは、構造の老朽化とともに、交通広場や駐輪場などの高架下の有効利用をどうするかなどの整備のあり方が今後の課題でしょう。
 このように景気が良くなって再開発事業が活発に行なわれるとか、狭い空間を有効に利用したいとか、便利であるなどといった条件とうまく組み合わせて、日本の駅前にはペデストリアンデッキが増えてきました。
 歩車分離の発想から始まり、20年ほど経ってバリアフリー法に沿った適応が図られた。ペデストリアンデッキは、このように非常に有機的な存在で、条件に合わせて応じられる柔軟性、可塑性を持った構造物です。それを考慮してかどうか、ほとんどが鋼製で細工しやすい素材が用いられています。

仙台駅西口のペデストリアンデッキ。
1981年(昭和56)に完成した、仙台駅西口のペデストリアンデッキ。駅前空間と駅自体の機能はもとより、駅舎との一体感においても、つけ足し感がない。はじめから都市計画に基づいてデザインされた好例である。面積が9763m²と広いこともあり、のびのびとしたランドスケープが実現されている。
グラウンドレベルがデッキ下になって暗くならないように、中央部分を開渠にした。バス乗り場には、ペデストリアンデッキから直接アプローチできる。
通路幅にメリハリをつけることで、通路としての機能と広場としての機能の使い分けもうまく誘導されている。
写真提供:五十畑弘さん

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モンゴルと日本をつないだ太陽橋

小林 厚さん

小林 厚さん こばやし あつし
JFE エンジニアリング株式会社
経営企画部企画室長 技術士(建設部門)

1993 年入社。鋼構造本部橋梁事業部、海外事業本部鋼構造グループを経て、現職。

日本が政府開発援助(ODA)でモンゴルに架けた橋は、
太陽橋と名づけられました。
日出づる国への感謝の想いが、
その名前に込められているように思います。
モンゴル最大の鋼鉄製橋梁であり、
鉄道で分断されていた南北の市民の生活をつなぐ橋。
技術移転の意味からも、
モンゴルと日本をつないでいます。

モンゴル・ウランバートル市内の北側と南側をつないだ太陽橋
モンゴル・ウランバートル市内の北側と南側をつないだ太陽橋。線路をまたぐ長さ262m の橋梁部分と盛り土構造のアプローチ道路部分で構成されたモンゴル最大の鋼鉄製橋梁である。
写真提供:JFE エンジニアリング株式会社

鉄道で分断された南北をつなぐ橋

 モンゴル国(通称モンゴル)の首都ウランバートルの市内ではモータリゼーションが進み、毎年1〜2割ずつ自動車の保有数が増えています。
 北側の商業地区と南側の工業地区は鉄道によって分断されており、交通渋滞が非常に激しく、経済発展を阻害していました。2カ所の踏切と二つの高架橋(ゴルバルジン橋、平和橋)がありますが、両橋とも老朽化が著しく、安全で円滑な交通を確保できないことが課題となっていました。
 そこで2009年(平成21)、橋を架けることで渋滞を緩和しようというプロジェクトが決定しました。モンゴルに対して行なわれた過去最大の政府開発援助(ODA:Official Development Assista- nce)によって建設された橋は、日出づる国日本からのプレゼント、ということで太陽橋と命名されました。
 太陽橋は、線路をまたぐ長さ262mの橋梁部分と盛り土構造のアプローチ道路部分で構成され、モンゴル最大の鋼鉄製橋梁となりました。
 開通後は、これまで迂回を余儀なくされていた1日あたり約3万台の自動車が利用し、市内の交通渋滞は劇的に緩和されました。また歩行者も線路内に立ち入ることなく、橋を通って安全に通行することができるようになりました。

モンゴルは親日国

 2012年(平成24)10月17日の開通式には、アルタンホヤグ首相、バトウール市長、バトトルガ市議会議長を代表とする関係者が出席し、在モンゴル日本国特命全権大使の清水武則さんが、「この橋が両国の架け橋になることを希望する」と祝辞を述べました。
 モンゴルが旧ソビエト連邦の社会主義から脱し、自力で経済発展しようと努力してきたこの20年間に、さまざまなプログラムやプロジェクトによって日本がサポートしてきたことに、モンゴルの人は大きな感謝の気持ちを抱いてくれているようです。そのためモンゴルは大変な親日国です。
 市民全員が待望する橋ができるということで、交通警察や鉄道会社は非常に好意的で、工事の際には施工を進めやすい環境を整えてもらいました。

モンゴルの特色

 モンゴルでは、286万8000人(2012年現在)の人口の内4〜5割の人が首都ウランバートルに集中して住み、その内の6割が今でもゲルに住んでいます。
 冬は非常に寒く、特に1月はマイナス40度にまで下がりますので、この間は工事ができません。その分、緯度が高いため夜の9時ごろまで明るい夏で挽回しました。
 一番苦労したのは「何もない」ということでしょうか。日本には施工協力してくれる企業がたくさんありますし、工事のための資機材も豊富にそろっています。
 しかしモンゴルでは道具も重機も人材も限られており、工夫や段取りが求められました。

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長崎・眼鏡橋復元の物語

片寄 俊秀さん

片寄 俊秀さん かたよせ としひで
まちづくりプランナー、環境芸術家
工学博士、技術士

1938年生まれ。京都大学工学部建築学科卒業。1961年京都大学アフリカ類人猿学術調査隊設営担当としてタンガニーカ(現タンザニア)調査に参加。同大学院修了後、大阪府技師として千里ニュータウン開発事業等に従事。1970年転職して長崎総合科学大学(元・長崎造船大学)、関西学院大学総合政策学部教授を経て、大阪人間科学大学教授(2013年3月まで)。現在NPOほんまちラボまちづくり道場を主宰。
主な著書に『ブワナトシの歌』(朝日新聞社 1973。羽仁進監督、渥美清主演で映画化)、『千里ニュータウンの研究』(産報出版 1979)、『ながさき巡歴』(日本放送出版協会 1982)、『スケッチ全国町並み見学』(岩波書店 1989)、『まちづくり道場へようこそ』(学芸出版社 2005)、『いいまちづくりが防災の基本』(イマジン出版 2007)ほか

長崎大水害が起こって、30年以上が経過しました。
九州から離れた地域でも、
その悲惨な光景と地域の宝である眼鏡橋復元への取組みを
覚えている人は多いのではないでしょうか。
しかし、水害の原因やバイパス工事の妥当性をはじめ、
その実態は断片的にしか伝わっていません。
鎖国時代、全国で最も先進的な技術や情報が集まった国際都市長崎で、
愛されてきた石橋群。
その象徴である眼鏡橋復元に、
川への愛着を取り戻す運動が
果たした役割についてうかがいました。

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山に囲まれた過密都市

 長崎造船大学(現・長崎総合科学大学)建築学科の助教授として赴任し、初めて長崎市内の中島川を見たのは、1970年(昭和45)32歳のときです。
 川はとにかく汚れていました。当時の我が国の都市河川はどこも悲惨な状況で、ちょうど合成洗剤が大量に使われるようになった時代で、川の水が泡立つような状態でした。ゴミは捨て放題で、臭くてたまらないようなドブ川だったのです。下水道も普及しておらず、家庭の雑排水が全部、川に流れ込んでいました。
 その汚れた中島川の上に、1634年(寛永11)に架けられた〈眼鏡橋〉をはじめ、江戸時代に建造されたアーチ石橋が14橋もずらりと並んでいる様子は圧巻でした。
 長崎という町は、海外(ポルトガルと中国)との交易のために無理やりつくられた町です。深い入り江の海に長く突き出した台地があり、長崎という地名の由来になったといわれますが、1571年(元亀2)長崎開港にあたり、ポルトガル人宣教師の主導の下に、まず6カ町がこの丘の上に建設されています。
 1592年(天正20)には、丘の下を流れて長崎湾に注ぐ中島川沿いの干潟の埋め立てと田畑の市街化が進められて内町23町が、さらに1692年(元禄5)には外町が開かれて市街77町(丸山、寄合、出島を入れて80町とも)が確立しました。
 開港当初は1500人ほどだった人口も、外町が開かれた元禄中期(1694〜1696年)には約6万5000人のピークに達し、その後若干減少して幕末に至ります。
 山がちの地形を流れ下る急流の中島川が町の中心部に位置するというのは、水源が川沿いにあったこと(のちの民営水道 倉田水樋)と、貿易のための水運に川が利用されたことによります。
 鎖国時代にはオランダと中国との対海外貿易の港として特権をほしいままにした長崎の繁栄は、まさに中島川を中心として形成されたのですが、それゆえ低い平地部に水害リスクを抱えた町という宿命がありました。

長崎大水害

 私は大阪で行政技術者としてニュータウン造成の現場で働いていた経験がありましたから、流域面積の割に河川容量が小さい中島川の水害リスクが常に心に引っ掛かっていました。治水安全を上げるには、河川管理者の意思決定が必要と考え、いろいろ働きかけた結果ようやく1982年(昭和57)7月16日、大水害が起きるまさに1週間前に、県の担当部局との会合を持つことができました。
 1973年(昭和48)に始まった中島川1万人大清掃運動や中島川まつりを通して、市民の関心が川へ向いてきたタイミングで、県もその気運に呼応して何とか腰を上げてくれた矢先でしたが、そこに大水害が長崎を襲ったのです。
 梅雨末期の1982年7月23日の夕方、これまで経験したことのない物凄い集中豪雨がやってきて、しかも長時間続きました。長崎市の北に位置する西彼杵郡(にしそのぎぐん)長与町では午後7〜8時の1時間に187mmの雨量を観測し、これはいまだに我が国の歴代最高記録となっています。
 午後8時過ぎに中島川が氾濫し、濁流は近くの商店街に、あっと言う間に流れ込みました。
 走行中や駐車中の自動車が流されたり、車ごと生き埋めになったことも長崎大水害の特徴です。翌日、長崎県警が道路などから排除した車は市内だけで約500台。その後、掘り出した車は450台に上り、中から遺体が見つかった例もありました。長崎大水害は、クルマ社会化の進んだ時代の都市水害として、最初の実例となったのです。

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橋から省みる水都大阪の再生

藤井 薫さん

藤井 薫さん ふじい かおる
水都の会(水都大阪を考える会)代表

1956年大阪市生まれ。京都大学法学部卒業。公共団体勤務。2002年水都の会(水都大阪を考える会)設立。水都大阪2009企画準備委員、韓国順天湾国際庭園博覧会2013日本招待団体代表。

天保年間(1830〜1844年)の橋番付には
大坂の公儀橋は205橋の内、わずかに12。
残りの大半は、町橋だったといいます。
町人文化が花開いた大阪で、
水の文化を創造するまちづくりに取り組む市民団体
〈水都の会〉の大阪の橋にまつわる活動について
代表の藤井薫さんに、物語っていただきました。

大阪の橋の文化〈牡蠣船〉

 豊臣秀吉が大坂城を築いて以降、外堀として開削された東横堀川(1585年〈天正13〉)を手始めに、西横堀川、道頓堀川、長堀川などの堀川(水路)が市中に巡らされ、多くの橋が架けられました。これらの橋は、通路という本来の機能以外に、恋人との待ち合わせや夕涼みの場などにもなり、大阪人の生活文化に欠かすことができない役割を担ってきました。
 現在、淀屋橋南詰に、江戸時代からの伝統を引き継ぐ牡蠣船が浮かんでいるのをご存知でしょうか。
江戸時代初期(万治〜寛文年ごろ)、晩秋の広島から殻付き牡蠣を俵に詰めた帆船が大挙して大坂にやってきました。市中の主要な橋のたもとに係留し、土手鍋や焼き牡蠣を販売。2月ごろに帰っていきます。個々の船は定位置として係留する橋が定められていたようです。  1707年(宝永4)に起きた大火で、高麗橋西詰にあった幕府の高札を草津(現・広島県佐伯郡)出身の牡蠣船業者が守ったことから、大坂町奉行より独占販売権が与えられたという逸話もあります。
 明治に入って鉄道網の発達により、牡蠣の運送をする必要がなくなった結果、船は次第に橋のたもとに係留されたままとなり、陸に店を構える者も現われました。実は、大阪の高級料亭には牡蠣船をルーツに持つ店が数多くあります。牡蠣船が育んだ味覚の伝統は、21世紀の大阪にも脈々と息づいているというわけです。
 大阪が「食い倒れのまち」と呼ばれるようになったのは、実はこの牡蠣のお陰という説があります。
 生ものの保存が困難であった江戸時代、牡蠣は多くの日本人にとって容易には口にできない食材でしたが、大坂では近くの橋の牡蠣船に行けば、庶民でも簡単に食べることができました。現在のファストフードのようなものです。牡蠣にはさまざまなミネラル、中でも味覚にとって大切な亜鉛が含まれています。このため大坂の庶民は繊細な味覚を養うことができ「食文化のまち」の底上げにつながったというわけです。実際、牡蠣にその効用があったのかどうかはわかりませんが、水の道を通じ、全国から新鮮な食材が集まる大阪ならではの物語といえましょう。
 現在、牡蠣船は、河川管理上の制約もあって淀屋橋の〈かき広〉だけになってしまいました。水都の歴史を今に伝える大阪の橋の文化〈牡蠣船〉を後世まで残していければと思います。

水都の会発足と橋の物語

 2002年(平成14)9月、町屋を改修した北区・中崎町のカフェに、水辺に関連した活動をしている若手や関心の深い市民が集まりました。夜遅くまで熱心な議論が続き、30人近くの人が誰も帰ろうとしません。翌月も意見交換会を行ないましたが、また同様の結果となりました。「こんなに社会的ニーズがあるのなら」と呼びかけたのが「水都の会(水都大阪を考える会)」の始まりです。
 水都の再生を目指すことは、とりもなおさず、大阪の歴史を学ぶこと。特に橋にドラマが豊富なことは、まちじゅうに水路が張り巡らされていた大阪ならではです。
 淀川の水運や船着場が賑わっていた、いにしえの大阪のまちの姿を思い起こしながら橋を眺めると、一つひとつの橋ごとに物語が宿っていることがわかってきました。

中津まつりと葦船によるまちづくり

 会が発足して約1年後の2003年(平成15)、北区中津(大阪駅の北側)で、「水の文化創造のまちづくり」をテーマにフィールドワークを行ないました。その縁で始まったイベント〈中津まつり〉の目玉は、市民参加による〈葦船〉の組み立てです。
 葦はか細い植物ですが、1本で年間2tの水を浄化できるといわれています。淀川に生えているアシ(音が悪しに通じるのでヨシとも呼ばれる)を刈ることで葦原を保全するとともに、まちづくりの仕掛けにも使える葦船は、水都再生を志す当会にぴったりな活動だと感じました。
 葦船は万葉集に登場する中津の古名 小竹葉野(ささばの/葦原の意味)にちなみ、小竹葉野号と命名。当会の活動の象徴的存在となりました。

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橋上の賑わい空間復活の可能性

藤本 英子さん

藤本 英子さん ふじもと ひでこ
京都市立芸術大学
美術学部デザイン科大学院美術研究科教授

1982年京都市立芸術大学美術学部工芸科デザイン専攻卒業後、株式会社東芝入社、デザインセンターを経てコンセプトエンジニアリング開発部設立に参画。1989年公共空間デザイナーとして独立。1992年建築士事務所エフ・デザイン設立。2001年より現職。2005年九州産業大学大学院芸術研究科博士後期課程にて博士課程修了後(芸術)学位取得。行政の景観関係各種委員、景観アドバイザーを多く務める。
主な著書に『市民のための景観まちづくりガイド』(学芸出版社 2012)、『つなぐ 環境デザインがわかる』(共著/朝倉書店 2012)、『JUDI-KANSAI仕事の軌跡と展望』(共著/都市環境デザイン会議関西ブロック 2011)ほか

水辺空間には、劇場空間同様に
「観る」「観られる」
という関係性を生み出す面白さがある、
と藤本英子さんは言います。
遊歩道や船や橋という仕掛けの中で、
今までは道に向いていた顔が
徐々に水辺にも向いてきました。
水辺空間の復権を、
光の演出にまで広げている
大阪の試みについてうかがいました。

戎橋は劇場空間

 1日に10万人以上の歩行者が利用し、ひっかけ橋の別名で知られる戎橋(えびすばし)は、大阪ミナミを象徴する橋です。
 2008年(平成20)に架け替えられたときには、一般参加のデザインコンペが行なわれ、私も審議委員として参加しました。滞留時間が長い橋ですので、橋上を円形にして留まる人と通行する人が互いに邪魔にならないようになっています。
 道頓堀を完成させた安井道卜(どうぼく)が南船場にあった芝居町を移転させたことをきっかけにして、この地域では芝居名代5株が公認され、船の櫓を興行権免許の印として正面に掲げた劇場が立ち並ぶようになりました。それがやがて道頓堀五座(浪花座・中座・角座・朝日座・弁天座)となり、大変な賑わいだったといいます。ですからここは、古くから劇場空間としての伝統を持っているのです。橋のデザインは、こうした土地の来歴を表現するものであってほしいですね。
 ここから眺める景色は、他所から来た人を「大阪に来た」と実感させます。一番の特徴はネオンサインの巨大広告で、誰しも写真撮影をしてしまうほどのインパクトです。大阪市は壁面広告を建築物の3分の1までと規制していますが、ここは特区になって5分の4まで規制緩和されているのです。
 普段は野放図な広告看板に苦言を呈する私ですが、ここは特別。ネオン管が切れると15分以内に交換するなど、広告主も本気で取り組んでいる特別な空間です。

とんぼりリバーウォーク

 道頓堀川といえば、巨大なネオンサインと戎橋の賑わい、1985年(昭和60)に阪神タイガースが優勝した際に人が飛び込んだエピソードなどが有名です。大阪の繁華街ミナミの象徴としてその名を全国に知られる道頓堀ですが、その一方で治水対策のために護岸が嵩上げされたことや、水質の悪化などによって、街と隔たった存在となっていました。

道頓堀川
南端が堀止になっていた東横堀川と西横堀川を結んで木津川へ注ぐ堀川として、1612年(慶長17)に開削を開始、1615年(元和元)に完成した。東横堀川の南端から西流して木津川に合流する全長約2.9kmの河川。

 道頓堀川水辺整備事業は、「水の都・大阪」再生に向けて、水辺に親水性の高い遊歩道〈とんぼりリバーウォーク〉を整備し、都市の魅力を向上させようと行なわれました。遊歩道の区間は道頓堀川の日本橋(堺筋)- 浮庭橋(旧桜川分岐点)間で、中央区・西区・浪速区にまたがっています。
 太左衛門橋付近には船着場が設置され、遊覧船が発着するほか、河川敷地利用の規制が一部緩和され、イベントや物販が社会実験として行なわれています。
 橋からは、いつもと違う視点で船や遊歩道を見ることができます。普段だったら赤の他人なのに手を振ったり視線を合わせたりと、船―橋の上―遊歩道―デッキ、と違う高さにいる人とのかかわりが生まれます。水辺空間には、劇場空間同様に「観る」「観られる」という関係性を生み出す面白さがあります。
 しかし、とんぼりリバーウォークができた当初は、あまり活用が進んでいる状態ではありませんでした。その原因の一つは、道頓堀橋より西に遊歩道がつくられずに途切れていたことにあります。道路橋となっている道頓堀橋をくぐるには、基準をクリアするだけの高さが確保できないという理由で、遊歩道をつくれない状況だったのです。
 そこで〈水都の会〉にご協力いただき、商店街のみなさんに呼びかけて、本当に遊歩道の設置が不可能なのかどうか調査をしました。その結果、高さが取れない箇所を浮き桟橋の方法で施工すれば解決できることがわかりました。このほかにも、せっかくの道頓堀川水辺整備事業がもっと活性化するためのアイディアをまとめて、葦船に乗って地域団体に提案しに行きました(26ページ参照)。
 地元商店街の関心も高まって、今までは道に向いていた顔を水辺に向けることに徐々に成功しています。2012年(平成24)4月からは管理・運営業務を南海電気鉄道株式会社が大阪市から受託して、活性化に一役買っています。

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川がない橋が秘めた東京の履歴

斉藤 理さん

斉藤 理さん さいとう ただし
山口県立大学准教授
中央大学社会科学研究所客員研究員 工学博士

1972年生まれ。東京大学大学院建築学専攻修了。東京大学研究員のほか、上智大学・慶應義塾大学などで講師を務め、2011年より現職。
この間、1999年より2002年までドイツ学術交流会(DAAD)奨学生としてベルリン工科大学建築学部記念物保護研究所にて研究。2004年まち歩き企画 「東京あるきテクト」を開始。2007年より日本初の建物一斉公開イベント「open! architecture」の企画・監修。2010年より東京都観光まちづくりアドバイザー。専門は建築史、建築物の文化観光資源化を中心とした観光まちづくり論など。
主な著書に『東京建築ガイドマップ─明治大正昭和』(共著/エクスナレッジ 2007)、ブルーノ・タウト訳書で『新しい住居〜つくり手としての女性』『一住宅』(中央公論美術出版 2004)ほか

「まちは、そこで生きる人の
パーソナルな考え方が集まって形成されている」と斉藤理さん。
東京の水路の多くが埋め立てられて失われたのも、
当時の人たちの評価や価値観の反映です。
既に川がないのに、橋の名前だけが残っている場所で、
残されなかったものの理由を探るのは、
土地の履歴を知るだけでなく、
未来をどうするかという解を導き出すにも役立ちます。
多様な解を出すために、銀座と日本橋をご案内いただきました。

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川がないのに地名だけ残った三原橋

 東京には、川がないのに橋の名前がつく地名がたくさんあります。多くの河川が埋め立てられて姿を消し、橋も撤去されたのに地名だけが残っているからです。
 その一つに、三原橋があります。晴海通りを南東に下って行くと、中央通りと昭和通りの間に三原橋という交差点があって、ここには京橋川と汐留川を結ぶ三十間堀川に架かる橋がありました。
 三原橋が架けられていた三十間堀川は埋め立てられましたが、都電が走っていたためか、橋は撤去されないで残り、橋の下は埋め立てられることなく地下街となり、現在まで利用されてきました。
 戦後、3000万m³といわれる瓦礫の処理は、頭の痛い問題でした。GHQからは早く撤去しろとせっつかれますが、持っていく場所がないし、仮にあっても運ぶためのガソリンがありません。
 当時、東京都の建設局長だった石川栄耀(ひであき)が川を埋めることで瓦礫処理をするというアイディアを提案したとき、当時の安井誠一郎知事(1947年〈昭和22〉公選後、初の東京都知事)は、「なんて良いアイディアだ」と賞賛したそうです。

石川 栄耀(1893〜1995年)
東京帝国大学工科大学土木工学科出身の都市計画家。名古屋都市計画の基礎を築いたほか、歌舞伎町、麻布十番広場などの都市計画を行なう一方、1943年(昭和18)東京都発足により東京都技監を経て、建設局長。戦後は戦災復興都市計画を担当。 首都高速道路計画にもかかわり、戦災瓦礫で埋め立てた外濠跡地に建設したビルの屋上に、高架下のテナント賃料でまかなわれ料金は無料の通称K・K線(東京高速道路株式会社)を開通させる。帝国大学と早稲田大学非常勤講師を務めた。

 今の価値観でいえば「なんで、そんな乱暴なことをしたのだ」と批判されるかもしれません。しかし、当時は埋めたほうが合理的だという判断だったのです。
 河川の埋め立てが早々と進んだのは、安井都知事が1947年(昭和22)に不用河川埋立事業計画という都市計画決定をしたからです。この事業で東京駅八重洲口にあった外濠、東堀留川、龍閑川、新川、真田堀、浜町川、六間堀川、三十間堀川など、実に多くの河川が姿を消しました。
 水路というのは橋で結ばれてはいますが、結界でもあって、障害でもある。橋を架けるより水路を埋めてしまったほうがいい。ゴミも捨てられるから一石二鳥だ、という考えが支持されたのです。瓦礫を埋めてできた土地を売却して財源にあてましたから、実は一石三鳥だったのです。
 三原橋地下街に入居した店舗の多くは、水路のあった時分に水辺に連なった屋台が基になっています。水辺は人を惹きつけますが、特に橋のたもとには賑わいが生まれて、商売の場としても最適だったはずです。都市を歩いて不思議に感じたことを探っていくと、まちの成り立ちや隠れた履歴が浮かび上がってきます。橋の痕跡は、そんな謎解きのヒントになるのです。

謂(いわ)れが忘れられた常磐橋

 川がなくても残った三原橋の逆で、橋は残ったのに経緯が忘れられている例として、日本橋エリアの常磐橋があります(34ページに写真)。
 常磐橋は1877年(明治10)、長崎から召集された石工たちによってつくられました。その際〈皿(盤)〉では縁起が悪いということで〈石(磐)〉に変えました。紛らわしいことに、すぐ下流には〈皿〉の字の常盤橋もあります。
 常磐橋がつくられた場所は、江戸時代に常磐橋門があった所で、門の外には高札場が、内には北町奉行所がありました。奥州への街道の入口でもあって、本町筋から浅草に続く道は、真っ先に整備されたことでもわかるように、徳川にとっては重要な場所。そんな場所に、江戸城の石垣という旧幕のシンボルを崩して橋をつくったということに、時代を象徴する明治政府の意思が感じられます。
 江戸城外郭にあった橋の多くは、近代国家のシンボルとして石橋に架け替えられましたが、次々になくなって、日銀の前につくられた常磐橋が東京で唯一残る石造洋式橋になってしまいました。しかし、こうしたエピソードもほとんど忘れられて、常磐橋周辺は閑散として人通りもほとんどありません。
 東日本大震災以降、フェンスで閉鎖されていたので心配していましたが、2014年(平成26)3月に訪れたときには改修が行なわれていたのでひと安心です。
 橋の辻というのは、情報の集約地点でもあって、かつては人の往来の激しい一画でした。そばにある一石橋のたもとには、迷子を探す札と迷子を預かっている旨を書いた札を貼る石碑が今でも残り、往事の賑わいを物語っています。

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私の里川
川医者の里川診断

島谷 幸宏さん

島谷 幸宏さん
しまたに ゆきひろ

ミツカン
水の文化センター
アドバイザー

九州大学
工学研究院教授

 私のように、全国を飛び回り川のお医者さんのような仕事をしていると、毎年、新しい里川との出会いがある。
 奄美大島にはリュウキュウアユというアユの亜種が生息している。本土のアユよりちょっと小ぶりで、うろこは少々大きい。昔は腐るほど捕れていたそうであるが、名前の由来である沖縄ではすでに絶滅、奄美大島でも絶滅の危機に瀕している。リュウキュウアユが生息する役勝川(やくがちがわ)の河口にはマングローブ林が広がり、その中を川が蛇行して流れている。カヌーでその川を下ると、マングローブが林立する、人工物と人工の音がまったくない、静謐な神秘的な空間である。リュウキュウアユはこのマングローブ林で稚仔魚のときを過ごす。マングローブ林の消失がリュウキュウアユの減少の一因である。現在は、多くの人が川を大切に思い、リュウキュウアユの保全運動をしている。
 奄美大島の山は深く、大人になるまで海を見たことがない人たちがついこの前までいたそうである。そういう人たちにとって、川は重要なタンパク資源を捕る場所であり、子どもたちの遊び場でもあったのだ。奄美大島は世界でも有数の美しいサンゴ礁で有名な島である。だから奄美大島では川はそっぽを向かれているのではないかと思っていたが、それは大きな間違いであった。奄美大島にも里川はあった。
 京都の先斗町(ぽんとちょう)を流れる白川は、伝統的建造物保存地区にもなっており、名前の通りの清い流れと石の護岸、周辺の街並みが調和し誠に風情がある。この白川を地域の住民の方々からどのような川にしたらいいのかと相談を受け、案内していただいたことがある。上流部はコンクリートの3面張りの誠に無機質な川で、下流部との違いに驚いた。しかし、このコンクリートで固められた川であっても地元の人にとっては大切な川であり、環境再生の活動が行なわれている。コンクリートで固められたからと言ってあきらめてはダメだと思った。コンクリートで固められた川も里川だったのである。
 私が今住んでいる福岡市の西区には室見川という川が流れている。福岡市民に愛されている河川である。人口150万人の大都会の川であるが、下水道が整備され清流である。春にはシロウオが遡上し、川面にシロウオ料理屋が登場する。この踊り食いもなかなかうまい。5月の連休には河口干潟は潮干狩りで賑わう。なにせ無料である。我が家も毎年、自転車で室見川までアサリ捕りに出かける。河口干潟を沖のほうに進み、せっせとアサリを捕る。1時間半ぐらいでバケツ一杯になるのでそれを持って帰り、洗って、一部は冷凍しておく。とてもおいしいアサリで、だいたい半年ぐらいはアサリを買わなくて済む。この川も里川である。
 このように里川は日本中にある。しかし川のお医者さんの目で見ると、昔に比べて一様に弱っているように思う。

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水の文化書誌 38
《石橋・眼鏡橋のある風景》

古賀 邦雄

古賀 邦雄さん こが くにお
古賀河川図書館長
水・河川・湖沼関係文献研究会

1967年西南学院大学卒業。水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)に入社。
30年間にわたり水・河川・湖沼関係文献を収集。2001年退職し現在、日本河川協会、筑後川水問題研究会に所属。
2008年5月に収集した書籍を所蔵する「古賀河川図書館」を開設。
URL:http://mymy.jp/koga/
2014年(平成26)公益社団法人日本河川協会の河川功労者表彰を受賞。

ヨーロッパの石橋

 ヨーロッパ映画を観ていると、アーチ石橋が映し出されることがある。『哀愁』は、第一次世界大戦下、テームズ川にかかるウォータールー橋の高欄に寄りかかり、ロバート・テイラーの演じる将校が、ビビアン・リーが演じる踊り子レスターのことを想い出すシーンから始まる。悲恋物語であり、佐藤清著『橋との出会い』(朱鳥社 2006)に描写されていた。
 アーチ石橋の技術は、紀元前一世紀ごろローマに架けられたのが始まりという。これがローマ帝国の欧州制覇につれて各国に拡がった。中国では、紀元610年ごろ逍州橋が架けられ、その後日本に伝わってきた。
成瀬輝男著『ヨーロッパ橋ものがたり』(東京堂出版 1999)には、橋梁施工に携わった筆者が、フランスのアヴィニョン橋、第一次世界大戦の導火線になったボスニアのサラエボの橋、ノーベル賞受賞小説の舞台となったポスニアのドリナの橋、トルコのミマール・シナンの架けた橋などを綴る。
 ウィルバー・J・ワトソン、サラ・ルース・ワトソン著『歴史と伝説にみる橋』(建設図書 1986)は、虹の橋、悪魔の橋、聖者の橋、橋上の礼拝堂、生命の橋、戦の橋、橋上パレード、平和の橋、屋根のある橋の章からなる。中世の橋は塔や礼拝堂をそなえている。それは便利さと橋のようなところは悪魔を追い払う効果があったという。ロチェスターの橋上礼拝堂、ヨークの橋上礼拝堂、ウェークフィールド橋上の聖マリア礼拝堂、ロザラム橋の礼拝堂を掲載、橋の入口には立派な城門を置いたところもあった。

イギリスの石橋

 同様に礼拝堂橋、戦橋、屋根つき橋に関する三谷康之著『事典・イギリスの橋』(日外アソシエーツ 2004)は、橋が登場する英文学の作品を網羅する。ディッケンズの『大いなる遺産』では、主人公のピップがテームズ川でボートの練習に励む場面で、ロンドン橋の表現が出てくる。また、バック橋はイングランド南部に架かるバイブルック川に架かる15世紀の橋である。ワイルドの童話『幸福な王子』の中で、バック橋の下で、貧しくて住む家もない二人の男の子が空腹に耐えている描写がある。テームズ川はロンドンに全世界のあらゆる富が集まる所で、イギリスにとっては最も重要な河川である。小川和彦著『テムズ川橋ものがたり』(武蔵野書房 2006)がある。

フランスの石橋

 小林一郎著『風景の中の橋-フランス石橋紀行』(槇書房 1998)で、著者はフランスでは橋といえば基本的には石橋であって、石橋といえば自分の故郷の石橋で、その石橋は個性的で、どの橋も周囲の風景と調和して美しい点で共通するという。サン=ミシェル橋、イエナ橋、ポン=ヌフ橋の変わらずに存在する故郷の美しい文化と市民生活を描いている。フランスにとっては、セーヌ川は欠かせない川である。渡辺淳著『パリの橋』(丸善ブックス 2004)、泉満明著『橋を楽しむパリ』(丸善 1997)、小倉孝誠著『パリとセーヌ川』(中公新書 2008)、尾田栄章著『セーヌに浮かぶパリ』(東京図書出版 2004)をあげる。
 ヨーロッパの石造アーチ橋と日本の眼鏡橋を論じた太田静六著『眼鏡橋-日本と西洋の古橋』(理工図書 1980)は、実際に踏査して、写真集と実測図からなる最初の本格的な石橋の書である。中国の書、英伸三著『上海放生橋故事』(アートダイジェスト 2001)は、上海市青浦区朱家角鎮にある運河に架かるアーチ橋である。この橋は明の時代1571年に建設され、のち清の中期1814年に修復再建された。

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坂本クンと行く川巡り 第4回
Go ! Go ! 109水系
神荒ぶ、よみがえりの熊野川(奈良県・三重県・和歌山県)

坂本 貴啓さん

坂本 貴啓さん さかもと たかあき
筑波大学大学院 システム情報工学研究科
博士後期課程 構造エネルギー工学専攻在学中

1987 年福岡県生まれの川系男子。北九州で育ち、高校生になってから下校途中の遠賀川へ寄り道をするようになり、川に興味を持ち始め、川に青春を捧げる。高校時代にはYNHC(青少年博物学会)、大学時代にはJOC(Joint of College)を設立。白川直樹研究室『川と人』ゼミ所属。河川市民団体の活動が河川環境改善に対する潜在力をどの程度持っているかについて研究中。

川系男子 坂本貴啓さんの案内で、
編集部の面々が109水系を巡り、
川と人とのかかわりを探りながら、
川の個性を再発見していく連載です。

109水系
1964年(昭和39)に制定された新河川法では、分水界や大河川の本流と支流で行政管轄を分けるのではなく、中小河川までまとめて治水と利水を統合した水系として一貫管理する方針が打ち出された。その内、「国土保全上又は国民経済上特に重要な水系で政令で指定したもの」(河川法第4条第1項)を一級水系と定め、全国で109の水系が指定されている。

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水質改善は世界遺産効果?

 第4回の川巡りには、熊野川を選びました。ぼくは川の市民活動について研究しています。川の調査に入るときには、地域の河川事務所を訪問して資料をいただき、その川の個性についてうかがったり、市民活動団体を紹介していただいています。ところが、熊野川は流域面積が2360m²で遠賀川の倍以上広いにもかかわらず、なかなか市民活動団体を見つけることができませんでした。
 流域の土地利用は森林が約95%、水田や畑地などの農地が約1.5%、宅地が約0.5%、その他が約3%。しかも流域内人口密度は109水系中103位と非常に低く、下流の一部にしか見られない平野(新宮市)に、流域人口のほとんどともいえる4万人近くが住んでいます。流域の人口が少なく、川と直接かかわることが厳しい地形が、市民活動を難しくしているのかな、と想像しました。
 やっと出合えた市民活動団体は新宮の〈河川を美しくする会〉で、1982年(昭和57)に新宮市の周辺を流れる河川を美しくすることを目的として結成されました。
新宮市婦人団体連絡協議会など22団体、137の町内会が加盟する大規模な団体です。毎年7月第一日曜日に、500人ほどが河川清掃を行なっているそうです。
 今は水質も良いので「河川をきれいに?」と思いましたが、取りまとめをしておられる堀種藏さんと中岸基英さんによれば、
「世界遺産になって10年経ち、みんなの意識が川に向かったお蔭か、だいぶきれいになりました。十数年前には、それほどきれいではなかったのですよ」
 ということです。

水害への備え

 新宮市は熊野速玉大社(通称、新宮)の門前町として発展し、江戸時代からは城下町として栄えました。紀伊国は木の国と呼ばれるほど材木の商いが盛んでしたから、熊野速玉大社には寄進した材木商の名前が残っていました。中岸さんによれば、神社に向かって左側に花柳界があったそうです。
 新宮前の一画に、面白い建物がありました。お店の方に話をうかがうと、明治末期から大正時代にかけての最盛期に使われていた〈川原家(かわらや)〉と呼ばれる簡易住宅を復元したものだそうです。地元の新宮高校建設工学科の実習で復元したのがきっかけで、土産物店などが営業する〈川原家横丁〉ができました。
 しょっちゅう水に浸かった新宮では、大水がありそうなときには2時間ほどで店を畳んで部材を持って避難し、水が引くと同じ場所に建てることができる折り畳み式の仮設小屋を使っていたのです。
 みなさんの記憶にも新しい2011年(平成23)の台風12号では、9月4日5時8分、河口から3.4q地点の相筋地区の堤防から越水し、新宮市内へと水が流れ出ました。新宮の社殿も水に浸かり、市内は機能麻痺に陥ったそうです。
 熊野川大橋が架かる前、渡し船があったときのことも覚えているという堀種藏さんは、1931年(昭和6)生まれ。地震も津波も水害も何度も体験しているので、何かあったらすぐに避難する習慣が身についている、と言っていました。迅速な避難で命を守ることの大切さを、地域の子どもたちに語り継いでいるそうです。

たくさんの利水ダム

 熊野川では豊富な水量を生かして、現在は11のダムが開発されています。
 ダムの機能は大きく二つに分けられます。一つは治水機能。ダム下流への放流量が流入量を下回るようにして、下流部の水位上昇を低減したり、水位上昇のピークを遅らせたりしながら洪水調節を行ないます。
 二つ目は利水機能。灌漑用水、上水道用水、工業用水、発電用水、消流雪用水などがあります。
 熊野川の場合、流域のほとんどは人が住まない山間部であるため、他の河川のように、積極的な治水は行なわれてきませんでした。そのために11あるダムはすべて利水ダムです。また、利水についても水力発電に特化しています。

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文化をつくる
つなぐ橋

編集部

架橋が難しかった時代

 土木技術の発達によって、長大なトンネルや橋がつくれるようになったために、東京湾を車で横断することも可能になりました。
 しかし、かつての橋はやすやすと架けることができませんでしたし、お金もかかることですから、利用頻度を鑑みながら費用対コストが厳密に検討されたのは当然のことです。橋を渡るのにお金を徴収するところもありました。
 五十畑弘さんの指摘の通り、「そもそも近代以前の日本の橋は〈仮〉の存在でした。大水がくると流されて、また修復するということを繰り返して」いました(14ページ参照)。
 そういう目で見直すと「石橋はある意味ではきわめて現代的な構造物」という片寄俊秀さんの指摘が理解できます。「石橋は、リユースが可能な、小さなポータブルな部材で大きな構造物をつくり上げる技術の結集。電気のヒューズのように、いったん飛んで力を受け流し、リセットして復活できる仕組み」なのです(22ページ参照)。
 歴史的な存在として見ていた石橋が、実は現代的な仕組みでつくられている、と発想を転換させると、石橋の見方も変わってきます。

橋は、あって当たり前

 2013年度の水にかかわる生活意識調査(ミツカン水の文化センター)で「日本を代表する橋」を聞きました。2位の瀬戸大橋(292人)は、首都圏・大阪圏・中京圏からまんべんなく挙がっていて、全国区の橋ということができます。
 3位になったレインボーブリッジ(177人)は大阪圏での支持が少なく、逆に5位の明石海峡大橋(119人)は大阪圏からの支持が多いという地域性がありました。
 また4位になった錦帯橋(123人)は全国的な知名度でしたが、若年層の支持がなく、世代による差があることもわかりました。
 ところが1位は、「思い浮かばない(340人)」という回答。現代人にとって橋は、意識せずに渡ってしまう存在になっているようなのです。

橋が持つ文化的価値

 しかし、「渡る」という機能は、橋のいわばハードとしての側面をいっているにすぎません。松村博さんは、「利用する人々の心の領域に働きかけたり、それを眺める人々に訴えかけたりする〈何か〉は、橋の文化的な価値を高めている要素の一つ」と指摘しています(4ページ参照)。
 橋にかかわるドラマが豊富だということは、水路がたくさん張り巡らされていた証しです。実際に、大阪の藤井薫さんは、橋の歴史を学ぶことで、水都の再生を前進させています(25ページ参照)。
 橋の存在を復権させることは、地域の独自性を浮き彫りにし、ネットワークを強めることにもつながります。橋の物語や履歴を学びながら、地域資源の掘り起こしやネットワークづくりに活用したらいいと思います。
 舟運や水辺空間の記憶を掘り起こし、橋が何をつないできたかについて、もう一度問い直してみてはいかがでしょうか。

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