機関誌『水の文化』47号
つなぐ橋

土木技術者が読み解く 橋の歴史の魅力

土木技術者が読み解く 橋の歴史の魅力

橋は「通行を阻害するものに突き当たったときに、それを乗り越えるためにつくられた構造物」と定義されます。しかし橋は単なるハード面の機能だけでなく「多様な文化的価値を持つ存在」であると言えます。「越すに越されぬ」と形容された大井川の渡河形態を、土木技術者の技術的考察も加味して読み解いてみました。

松村 博さん


松村 博(まつむら ひろし)さん

1944年大阪市生まれ。京都大学大学院工学研究科(土木工学専攻)修了。1969年から2004年まで、大阪市に勤務して神崎橋、川崎橋、此花大橋などの建設や都市計画、都市工学情報の発信などを担当。
主な著書に、『八百八橋物語 大阪文庫〈6〉』(松籟社 1984)、『大阪の橋』(松籟社 1987)、『橋梁景観の演出―うるおいのある橋づくり』(鹿島出版会 1988)、『京の橋ものがたり 京都文庫』(松籟社 1994)、『日本百名橋』(鹿島出版会 1998)、『大井川に橋がなかった理由』(創元社 2001)、『論考 江戸の橋』(鹿島出版会 2007)ほか

橋は文化的な存在

橋は、土木学会編纂の『土木用語辞典』に、
「交通路・水路などが、河谷(かこく)・くぼ地その他、これら道路の機能を阻害するものに突き当たった場合に、これを乗り越える目的をもって造られる各種の構造物」と定義されています。

しかしこれは、橋の機能的な側面、すなわちハードウェアとしての説明にすぎません。では、橋の持つソフトウェアとしての性質とはどんなものを指すのでしょうか。

橋が利用する人々の心の領域に働きかけたり、それを眺める人々に訴えかけたりする〈何か〉は、橋の文化的な価値を高めている要素の一つであると考えられます。

橋の歴史は架けられた時代を映し出す鏡であるともいえます。

古い時代、民衆へ仏教の伝道を行なった僧侶が橋を架けたり、溜池をつくったり、とインフラ整備に力を発揮した時代がありました。

その代表的な人物が伝道僧の行基(668〜749年)です。民衆への布教活動が禁じられた奈良時代に、禁を破り、広く仏法の教えを説いた行基にとって、組織力を生かして民衆が望んでいたインフラ整備を行なうことは、宗教活動そのものでもありました。そして、それは広い意味で国家の要望に沿うことにもなりました。

その後も中央政府の力が相対的に弱くなった時期には、僧侶の指導によって民間で橋を架けることが多く行なわれたことがありました。伝道僧が民衆の要望の代弁者となった、と読むこともできるのです。

沈下橋は、古くからある橋のように思いがちですが、あれは自動車を通すために工夫された形です。人が渡るだけなら、流れ橋で充分でした。

丸太を縄で束ねて、岸の木や岩に結わえてある簡易な橋を、今でも見ることができます。水が出たときに、橋の材料が遠くまで流れていかないように工夫した流れ橋です。流れ橋は、急流が多い日本の川に適した形の橋であったといえるでしょう。

  • 松村博さんが大阪市橋梁課時代に設計に携わった〈川崎橋〉

    松村博さんが大阪市橋梁課時代に設計に携わった〈川崎橋〉。大川(旧淀川)に架かる自転車・歩行者専用斜張橋で、1978年度(昭和53)の土木学会田中賞を受賞した。

  • 調査データや設計内容などをまとめた報告書

    調査データや設計内容などをまとめた報告書

  • 沈下橋は古くからあるように思われているが、自動車が通行するようになってから工夫された形態である。潜水橋ともいわれる。 写真:四万十川の清水大橋。橋の上からおとり鮎の動きが良く見えることで知られる。現在は老朽化のため、車両による進入は禁止。 写真提供:松村博さん

  • 四万十川最下流の今成橋(いまなりばし) 写真提供:松村博さん

  • 大和川に架かる大城橋。 写真提供:松村博さん

  • 松村博さんが大阪市橋梁課時代に設計に携わった〈川崎橋〉
  • 調査データや設計内容などをまとめた報告書

橋がなかった不自然さ

大井川に橋が架けられなかった理由を検証する本(『大井川に橋がなかった理由』〈創元社 2001〉)を書くきっかけになったのは、大井川に橋が架けられなかったことが不自然に思えたからです。

江戸から京都の間の東海道には、比較的川幅の広い川を渡るところが30カ所ほどありますが、橋が架かっていた所もかなりありました(下の図版参照)。調べてみると、川を越えるのに徒渉(かちわた)しと船渡しと橋という三つの手段があり、大井川や安倍川などの徒渉しは渡河の手段としては特異な例であることがわかりました。

大井川や安倍川に橋がない理由は、従来、軍事的防衛線としての役割にあるといわれてきました。しかし、調べてみるとそうとはいえない理由がいろいろわかってきたのです。

東海道の渡河地点。渡船と徒渉しと橋の3種類の渡河方法があることがわかる。

東海道の渡河地点。渡船と徒渉しと橋の3種類の渡河方法があることがわかる。
『大井川に橋がなかった理由』(創元社 2001)p28〜29の図版をもとに編集部で作図。

防衛線としての疑問

徳川家康は江戸へ入城した後、隅田川の千住(1594年〈文禄3〉)と多摩川の六郷(1600年〈慶長5〉)にいち早く橋を架けています。もし江戸防衛のために大井川に橋を架けなかったのなら、江戸の喉元である千住と六郷に橋を架けたことは辻褄が合いません。

徳川家康が関ヶ原の合戦の前に多摩川の六郷に架けた橋は、元禄時代になって放棄され、船渡しに切り替えられています。幕府の基盤が不安定な時代に橋を架けておきながら、盤石になったときに撤去するのは、防衛上の理由では説明がつかないと指摘する研究者もおられました。

柴田勝家が福井に入ったとき、城下を通る北陸道が足羽川(あすわがわ)を渡る所に頑丈な橋を架けています。岡山城を築いた宇喜多秀家は、北の山沿いを通っていた山陽道を曲げて城下に引き込み、城の膝元の旭川に京橋を架けています。

城下町繁栄のために橋を架けたり、道路を整備するということは、戦国時代であっても行なわれていました。防衛も大切でしたが、城下の経済発展を促すことも為政者の努めだったのです。

大井川は普段は水量が少なく、古くは一般の旅人も歩いて渡っていたわけですから、通常の水位なら屈強な軍隊の移動に大きな障害になったとは考えられません。

それで、江戸防衛のために橋が架けられなかったというのは誤りで、ほかに要因があるのではないかと考えました。

技術的・経済的要因

大井川は東海道筋では特に勾配の大きい急流河川です。河床には砂礫が厚く堆積していて、当時の技術では木の杭を打ち込むことができませんでした。このため本格的な橋を架けることは難しかったのです。また川幅が1000m以上もあった上に複数の流路が一定せず、浅瀬もあったため船渡しを設けるのが難しかったこともあります。1年の大半は人が歩いて渡れるほどの深さであったため、古くは一般の旅行者は自ら歩いて渡っていたようです。そのうちに旅行者が多くなっていくと、川を渡るのを手助けする人が増えていったと考えられます。それが大井川に徒渉しが定着していった基本的な理由です。

どのようにして川を渡るかは、川の自然条件に従って、最もコストがかからない方法が選ばれるはずです。コストは徒渉し→船渡し→橋という順に高くなっていきます。当初は最もコストの低い形態が選ばれたのです。

幕府は関係者の移動や通信を確保するために宿駅制度をつくりましたが、そのために宿駅に一定の人数を確保しておく必要があり、徒渉しを制度化しました。

いったんその制度が定着すると、そこにかかわる人の利益が発生します。大井川のように、川を渡すことを生業としている人たちが何百人もいるようになると、徒渉しを廃して、渡し船を通したり、橋を架けるということができなくなってしまうのです。

東海道五十三次の23番目の宿場〈島田〉から大井川を渡って〈金谷〉に向かう一行を描いた、歌川広重の「金谷大井川遠岸」。

東海道五十三次の23番目の宿場〈島田〉から大井川を渡って〈金谷〉に向かう一行を描いた、歌川広重の「金谷 大井川遠岸」。何筋にも分かれて流れる大井川の様子が、うかがえる一枚だ。一部には簡易な橋が架けられている。

政治・行政的要因

尾張藩のような大きな藩になると、参勤交代のときに大井川を渡るだけで100両ほどの費用がかかることもあったようです。それだけのお金が地元に落ちるわけですから、簡単には権利を手放せません。その収入の一部が両岸の宿の維持費に回されることになるとなおさらのことです。

川が増水して足止めになったら、滞在費がかさみます。「越すに越されぬ大井川」というのは、単に物理的に渡るのが難しい大河というだけではなかったのです。

江戸の商人などが渡船や橋を設置したいと申し出ても、幕府の担当部署は地元の意見を聞き、その反対の声に配慮して申請は認められませんでした。地元からの反対の意見書に書かれていた最後の殺し文句は「権現様も橋を架けるなとおっしゃったにもかかわらず、そのような提案をしても差し支えはないのでしょうか」という言葉だったようです。

1626年(寛永3)に大御所秀忠と3代将軍家光が上洛したときに、駿河を領地としていた家光の弟の忠長が渡河に便利なようにと大井川に浮橋をかけたところ、「大井川は街道の難所であり、関所と同様のところである。東照宮(家康)もおっしゃったとおり、ここに橋を架けることは世間の人に簡単に渡れることを知らしめることになる」として、秀忠がこの浮橋を破却させたという故事を持ち出しているのです。家光との確執もあって忠長はのちに改易処分を受けることになるのですが、既得権者にとっては都合の良い口実になったわけです。

船渡しや橋を採用しなかっただけでなく、渡河地点を限定することで、東の島田宿と西の金谷宿の繁栄は担保されました。それは宿駅制度を保持するという幕府の方針に沿ったものだったのです。

橋が語りかけるもの

こうして守られた既得権益ですが、徳川幕府がなくなると数年の内に宿駅制度は廃止され、これに伴って徒渉し制度も崩壊します。

1871年(明治4)島田―金谷間の渡船が開始されます。渡河を厳しく制限されていた他の場所でも、工事用に架けられていた仮設の橋が撤去されずに利用されるようになりました。渡河手段が自由化されたために職を失った川越し人足たちは、榛原郡(はいばらぐん)南部の開墾地を払い下げられて入植します。

慣れない農業に脱落する者も続出する中で、徐々に換金作物として茶の栽培が定着していきました。現在、広大に広がる茶畑は、当時の入植者の苦労の賜物なのです。

こうした徒渉しという渡河手段が定着したのは、架橋が難しい個性の川だったという技術的要因が根本にあって、既得権益という社会的要因が後押ししたことによります。大井川に橋が架けられなかった理由を調べることは、橋という存在の面白さを知ることにもなりました。

東海道と同じように、山陽道の川の渡河手段の違いにも注目しています。充分に調べてはいませんが、岡山、広島、福山などの藩が連続しており、それぞれの川の渡河形態が違っているのに興味が湧きます。

岡山では西から順に高梁(たかはし)川、旭川、吉井川と大きな川が三つ並んでいるのですが、橋が架けられたのは城下に隣接している旭川だけです。高梁川と吉井川は船渡しでしたが、その違いは防衛上の理由では説明できません。

整合性のある説明をするためには、コストのことをいうだけでも、橋を渡った人の人数、渡し船の費用など、さまざまな要因を比較するための史料を調べる必要があります。それはきっと面白いことでしょう。

歴史研究の幅を広げる

私は比較的大きな構造物をつくりたいと思って工学部の土木分野に進み、卒業後は、大阪市に入って橋の建設の仕事をすることになりました。

橋を架け替えるときなどには前もって広報をします。その中で橋の歴史的な経緯を説明することも必要になります。そのための下調べを担当者が行ないますが、それをきっかけに、いろいろな橋の歴史を調べるようになりました。

そういう原稿が溜まってくると、どこかに発表したくなります。そんなころ、たまたまある出版社の方から「大阪の橋の本を出したい」という話があって、それに手を上げたのが活字の魔力に取り憑かれてしまったきっかけです(『八百八橋物語 大阪文庫〈6〉』〈松籟社 1984〉)。

歴史が史料によって語られるのは当然ですが、史料が足りない部分は想像力で補うしかありません。つくられたストーリーが説得力を持つためには、その論理性と用いた補助手段の信頼性にかかっています。だからこそ、土木技術者の実務的な見識は、橋の歴史に新たな発見の1ページを加える可能性を持つのです。

ですから、土木の分野における歴史への興味も、史料収集と分類の段階で留まることなく、技術者の視点を持って、制度史を中心に据える歴史学の専門家と意見を交わす機会を増やしていってほしいと思っています。

土木技術者が技術的な考察によって、歴史上の事象をとらえ直すことができたら、歴史研究の幅が広がっていくはずです。そのことは、社会基盤の一つである橋というものを、今までとは違った視点で見つめ直すことにもつながるかもしれません。

(取材:2014年3月22日)

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