• 機関紙 47号目次

水の文化 47号 つなぐ橋

橋から省みる水都大阪の再生

藤井 薫さん

藤井 薫(ふじい かおる)さん
水都の会(水都大阪を考える会)代表

1956年大阪市生まれ。京都大学法学部卒業。公共団体勤務。2002年水都の会(水都大阪を考える会)設立。水都大阪2009企画準備委員、韓国順天湾国際庭園博覧会2013日本招待団体代表。

天保年間(1830〜1844年)の橋番付には大坂の公儀橋は205橋の内、わずかに12。残りの大半は、町橋だったといいます。町人文化が花開いた大阪で、水の文化を創造するまちづくりに取り組む市民団体〈水都の会〉の大阪の橋にまつわる活動について代表の藤井薫さんに、物語っていただきました。

橋から省みる水都大阪の再生

大阪の橋の文化〈牡蠣船〉

豊臣秀吉が大坂城を築いて以降、外堀として開削された東横堀川(1585年〈天正13〉)を手始めに、西横堀川、道頓堀川、長堀川などの堀川(水路)が市中に巡らされ、多くの橋が架けられました。これらの橋は、通路という本来の機能以外に、恋人との待ち合わせや夕涼みの場などにもなり、大阪人の生活文化に欠かすことができない役割を担ってきました。

現在、淀屋橋南詰に、江戸時代からの伝統を引き継ぐ牡蠣船が浮かんでいるのをご存知でしょうか。江戸時代初期(万治〜寛文年ごろ)、晩秋の広島から殻付き牡蠣を俵に詰めた帆船が大挙して大坂にやってきました。市中の主要な橋のたもとに係留し、土手鍋や焼き牡蠣を販売。2月ごろに帰っていきます。個々の船は定位置として係留する橋が定められていたようです。

1707年(宝永4)に起きた大火で、高麗橋西詰にあった幕府の高札を草津(現・広島県佐伯郡)出身の牡蠣船業者が守ったことから、大坂町奉行より独占販売権が与えられたという逸話もあります。

明治に入って鉄道網の発達により、牡蠣の運送をする必要がなくなった結果、船は次第に橋のたもとに係留されたままとなり、陸に店を構える者も現われました。実は、大阪の高級料亭には牡蠣船をルーツに持つ店が数多くあります。牡蠣船が育んだ味覚の伝統は、21世紀の大阪にも脈々と息づいているというわけです。

大阪が「食い倒れのまち」と呼ばれるようになったのは、実はこの牡蠣のお陰という説があります。

生ものの保存が困難であった江戸時代、牡蠣は多くの日本人にとって容易には口にできない食材でしたが、大坂では近くの橋の牡蠣船に行けば、庶民でも簡単に食べることができました。現在のファストフードのようなものです。牡蠣にはさまざまなミネラル、中でも味覚にとって大切な亜鉛が含まれています。このため大坂の庶民は繊細な味覚を養うことができ「食文化のまち」の底上げにつながったというわけです。実際、牡蠣にその効用があったのかどうかはわかりませんが、水の道を通じ、全国から新鮮な食材が集まる大阪ならではの物語といえましょう。

現在、牡蠣船は、河川管理上の制約もあって淀屋橋の〈かき広〉だけになってしまいました。水都の歴史を今に伝える大阪の橋の文化〈牡蠣船〉を後世まで残していければと思います。

淀屋橋駅1番出口の階段を上がると、橋のたもとに牡蠣船に降りる階段が。大阪で唯一営業を続ける、知る人ぞ知る〈かき広〉である。

浮き桟橋状の主屋を抜けると、座敷。係留した船につくられた座敷で、開け放つと川風が心地良い。

淀屋橋駅1番出口の階段を上がると、橋のたもとに牡蠣船に降りる階段が。大阪で唯一営業を続ける、知る人ぞ知る〈かき広〉である。浮き桟橋状の主屋を抜けると、座敷。係留した船につくられた座敷で、開け放つと川風が心地良い。

水都の会発足と橋の物語

2002年(平成14)9月、町屋を改修した北区・中崎町のカフェに、水辺に関連した活動をしている若手や関心の深い市民が集まりました。夜遅くまで熱心な議論が続き、30人近くの人が誰も帰ろうとしません。翌月も意見交換会を行ないましたが、また同様の結果となりました。「こんなに社会的ニーズがあるのなら」と呼びかけたのが「水都の会(水都大阪を考える会)」の始まりです。

水都の再生を目指すことは、とりもなおさず、大阪の歴史を学ぶこと。特に橋にドラマが豊富なことは、まちじゅうに水路が張り巡らされていた大阪ならではです。

淀川の水運や船着場が賑わっていた、いにしえの大阪のまちの姿を思い起こしながら橋を眺めると、一つひとつの橋ごとに物語が宿っていることがわかってきました。

中津まつりと葦船によるまちづくり

会が発足して約1年後の2003年(平成15)、北区中津(大阪駅の北側)で、「水の文化創造のまちづくり」をテーマにフィールドワークを行ないました。その縁で始まったイベント〈中津まつり〉の目玉は、市民参加による〈葦船〉の組み立てです。

葦はか細い植物ですが、1本で年間2tの水を浄化できるといわれています。淀川に生えているアシ(音が悪しに通じるのでヨシとも呼ばれる)を刈ることで葦原を保全するとともに、まちづくりの仕掛けにも使える葦船は、水都再生を志す当会にぴったりな活動だと感じました。

葦船は万葉集に登場する中津の古名 小竹葉野(ささばの)(葦原の意味)にちなみ、小竹葉野号と命名。当会の活動の象徴的存在となりました。

中之島でつくり上げた、葦船。間近で見ると、迫力がある中之島でつくり上げた、葦船。間近で見ると、迫力がある 写真提供:水都の会(吉田一廣さん撮影)

十三(じゅうそう)の渡しプロジェクト

JR大阪駅の北側に位置する中津は、淀川に架かる十三大橋で対岸の淀川区十三とつながり、神戸や宝塚へ至る大阪の北の玄関口です。明治中期までは、中国街道の要衝として栄えました。

当時、町内を流れていた中津川には橋はなく、上流から13番目にあたることから〈十三の渡し〉と呼ばれる渡し船が通っていました。

中津の富島神社がこの川で船渡御(ふなとぎょ)を行なうなど往来も盛んでしたが、明治の淀川大改修事業により、幅850mにも及ぶ広大な新淀川が開削されたことで、両岸の交流は途絶えていきました。

小竹葉野号に乗って中津から十三へと漕ぎ渡った〈十三の渡しプロジェクト〉は、こうした史実を踏まえ両岸交流の復活を目指したものです。現代の大阪における大動脈、十三大橋の横を小さな葦船が渡る姿は、マスコミでも大きな反響を呼びました。

葦船はその後も、とんぼりリバーウォーク(道頓堀川の川辺につくられた遊歩道)活性化のため、提言書を地元の道頓堀商店会まで届けるデモンストレーションや、順天湾国際庭園博覧会(韓国全羅南道順天市において開催された大阪の花博に続く東洋で2番目の庭園博覧会)の招待により実現した、日韓合同葦船制作イベントなど、各地で活躍しています。

新淀川を渡る小竹葉野号

とんぼりリバーウォークで途切れていた箇所に遊歩道をつくろうと、ゴムボートに乗って実測する水都の会メンバー

上:新淀川を渡る小竹葉野号。中津から十三へと漕ぎ渡った〈十三の渡しプロジェクト〉は、マスコミにも大きく取り上げられた。
左:とんぼりリバーウォークで途切れていた箇所に遊歩道をつくろうと、ゴムボートに乗って実測する水都の会メンバー。
写真提供:水都の会(吉田一廣さん撮影)

淀川通水100周年プロジェクト

1885年(明治18)に起こった大阪史上最大の水害を教訓に、1896年(明治29)河川法が制定され、近代初の国家プロジェクトとして旧・淀川(現在の大川)の付け替えを含む淀川大改修事業が実施されました。

旧・中津町の十三地区は、このとき開削された淀川大放水路(現・淀川。新淀川ともいう)の底に沈みました。現在、十三大橋の北詰にある賑やかな繁華街 十三は、新淀川の北岸に移住した住民が新たにつくった町なのです。

折しも2006年(平成16)は、新淀川が通水して100年目。しかし、その史実は、地元でもほとんど知られていませんでした。

「このままでは、大阪のまちを水害から守るため、図らずも先祖代々の田畑や家屋敷を奪われた地元住民の苦難や改修にあたった先人の労苦が忘れ去られてしまう」と考えた水都の会では、淀川の中津と十三の両岸から葦船に乗って漕ぎ出してもらい、淀川の中央で合流。「100年ぶりの再会」を演出しました。

また、忘れられた存在となっていた淀川改修の功労者「治水翁 大橋房太郎(注)」の功績を顕彰するさまざまな活動を実施しました。

講演会の開催などに加え、中でもユニークな活動といわれるのが、上方講談協会会長の旭堂南陵さん(当会会員)に資料を提供し制作を依頼した、新作講談「大橋房太郎一代記」。各地の講談会では、文字通り、講談仕掛けで水害の悲惨さと先人の努力を熱演いただきました。

(注)大橋房太郎(1860〜1935年)
元大阪府・市議。鳩山和夫代議士の書生であったが、1885年(明治18)の大水害の後、淀川治水のため、私財を投げうち奔走した。

葦船で巡る淀川水系の橋

淀川改修事業は京都・大阪にわたる広域治水事業であると同時に、淀川の水運整備をも含めた総合的な大事業でした。

当会が実施した葦船〈槇島(まきしま)号〉による宇治川・淀川の川下りでは、この点をアピール。京都伏見の銘酒と宇治茶を携え、かつての三十石船の追体験となるよう企画しました。

宇治市の槇島浜から大阪の北浜まで10時間以上にも及んだ川下りでは、伏見の観月橋をはじめ、淀川水系の名橋を巡り、橋の上から声援を送ってくれる市民とのエールの交歓が続きました。くぐった橋の数もなんと32橋。淀川改修事業のスケールの大きさと総合的な事業の意味を十二分に体感し、全体像をマスコミに紹介いただくチャンスともなりました。

町橋の気概を守る

難波八百八橋と呼ばれた大阪ですが、天保年間(1830〜1844年)の橋番付に見られる205橋の内、公費で架橋や修復をする公儀橋はわずかに12橋。大半は、町人が負担する町橋だったといいます。現在では市民が橋を架けるということは極めて稀ですが、役所に頼ることなく、市民自らが道を切り開いてきた大阪人の気概は、この町橋の歴史に表われています。

2009年(平成21)に「川と生きる都市・大阪」をテーマに開催された〈水都大阪2009〉は、民間の力を取り入れた画期的なイベントでした。淀川改修事業の完成式からちょうど100周年を記念するこの事業は、市民参加により経費をかけず、アイデアに満ちた企画に溢れ、町橋の伝統を彷彿させるものとなりました。

ともすれば保守的に傾きがちな役所の姿勢を、昔から培われてきた自由・平等そしてお笑いの精神に満ちた大阪の市民文化が変えていけるのではないかと思います。

大阪が水都としての輝きを取り戻すことにより、江戸や明治の先人の勇気と知恵を再生し、大阪、そして日本全体の再生への懸け橋としたいと思います。

〈水都の会〉藤井薫さんの大阪橋ガイド(番記は上の地図)

1 現存する最古の鋼製鉄道橋:浜中津橋(大阪市北区中津の長柄運河に架かるトラス橋)
 1874年(明治7)阪神間鉄道開業の際にイギリスから輸入された70フィート級錬鉄製標準桁の一つで、転用を重ねて形状が改変されている部分もあるが、鋼製の鉄道橋としては現存する日本最古の橋。現在、あまり車の通るルートではないが、阪急中津駅前から国道176号線へ通じる側道の橋として、現役バリバリで活躍中。水都の会で初めて葦船を淀川に進水させた際に、この橋を通り、淀川河川敷まで葦船を運搬した思い出の橋。何かしらの縁を感じさせてくれている。

2 実現しなかった鉄道の橋:大喜橋(大阪市城東区今福の城北川に架かる)
 かつて大阪電気軌道(大軌・現在の近鉄電車)が建設しようとした四条畷線(しじょうなわてせん)は、諸事情により1934年(昭和9)建設中止となり、線路敷は、1937年(昭和12)阪奈道路に続く府道8号線となった。大軌の営業エリアとはまったく離れた場所にあり、かつての近鉄による積極的な事業展開の痕跡となっている。
 城北運河を渡る橋脚の下部工事は終了していたため、仮設の人道橋となったのち1960年(昭和35)に道路橋となり、大軌がつくった橋であることから大喜橋(だいきばし)と名づけられた。

3 文禄堤に架かる本町橋(京阪電車守口市駅北側)
 豊臣秀吉が淀川の水防のため、毛利と小早川、吉川に命じて淀川左岸に整備させたのが文禄堤で、京—大坂間の交通の便を確保するため、堤の上を整備したのが京街道である。
 本町橋は、川に架かる橋ではなく、守口駅前通りから国道1号線を結ぶ道路を文禄堤の下を通すために架けられた橋。橋の上からは、南北双方に街を見下ろすことができ、ここがかつての淀川の堤防上にあることが実感できる。街道沿いには飲食店などが立ち並び、今でも当時の景観が残っている。

文禄堤に架かる本町橋文禄堤に架かる本町橋

4 重要文化財に指定されたコンクリート橋:淀屋橋(土佐堀川に架かり、中之島(北区)の南岸と船場側(中央区)を結ぶ)
 江戸時代の豪商 淀屋がこの橋を架橋し、管理したことから命名される。現行のデザインは、すぐ北側の堂島川に架かる大江橋とともに1924年(大正13)に大阪市の第1次都市計画事業で公募されたもの。一部補修された以外は当時のままで、2008年(平成20)には大江橋とともに、コンクリートの橋としては珍しく重要文化財に指定された。

5 明治初期の心斎橋の一部を移転:緑地西橋(大阪市鶴見区・鶴見緑地公園西側沿いを通る大阪市道に架かる鉄製アーチ橋)
 日本に現存する最古の鉄橋といわれている。もともとは長堀川に架かる心斎橋として1873年(明治6)に誕生したドイツ製の橋。1908年(明治41)に撤去され、移設を繰り返した後、一部が現在地に移された。
 ちなみに鉄製アーチ橋の後に架けられた2代目の心斎橋は、二連のアーチを持つ威風堂々とした石造アーチ橋で、大阪最大の繁華街のシンボルとして親しまれた。丸い十字がくりぬかれた欄干の一部は、現在も長堀通を渡る横断歩道の中央部分に使用されている。

緑地西橋緑地西橋

6 デザインコンペにより採用された「浮かぶはらっぱ」:浮庭橋(大阪市浪速区湊町と西区南堀江の間の道頓堀川に架かる人道橋)「橋上の賑わい空間復活の可能性」参照)
 材木浜と呼ばれた南堀江地区再開発でつくられた。橋桁はツタで緑化され、橋上には植栽やベンチが配されて通行だけでなく憩いの場としても用いられている。北側の商業施設「キャナルテラス堀江」が橋の建設費の一部を負担し、キャナルテラスにつなげている。

7 かつての京街道の起点:京橋(都島区と中央区の境目にあり、寝屋川(古大和川)に架かる橋)
 東海道五十七次(東海道五十三次に京から大坂までの4駅を加えて東海道五十七次という)の終点であり、大坂の玄関口として賑わった。
 大坂の公儀橋12橋の一つ。江戸時代につくられたネギ坊主型の擬宝珠(ぎぼし)には「元和九年造立」(1623年)の銘がある。JR京橋駅とは、立地場所がまったく異なる。

8 昭和モダニズムがまた消える:道頓堀川可動堰(道頓堀川の大黒橋の上流側)
 大黒橋のすぐ上流側に、道頓堀川の水質浄化を目的として設けられ、船舶航行用の閘門(こうもん)も備えていた。道頓堀川の水質浄化のために可動堰は継続して使用され、1978年(昭和53)に東横堀川に新しい水門が設置されたのちは、堂島川、道頓堀川の可動堰を同時に運転して、大川からの水の流入をより高度に制御してきた。道頓堀川水辺事業の一環として〈道頓堀川水門〉が完成したことにより、その役目を終えることとなり、既に解体工事が終了している。
 大阪市役所の横にある水晶橋も同様に、元々は堂島川可動堰として建設されたもの。

9 道頓堀川の源流 梅川にかかる橋:梅の橋(大阪市中央区高津1丁目の高津宮内)
 高津宮の参道にある梅の橋が架かる梅川は、難波往古図など、大阪の古地図の多くに、上町台地上を東西に横断するという物理的にありえない形で記載されている幻の川。この流れが、道頓堀川の源流という説もある。梅の橋は、天満の長浜屋五兵衛が1768年(明和5)に奉納した。

10 日本書紀に記述された最古の橋:猪甘津橋(いかいつのはし 大阪市生野区桃谷付近)
 猪甘津橋は、日本書紀に記述されている橋で、文献に登場する橋としては日本最古。橋のあった場所については諸説あり、旧・平野川(古代には百済川と呼ばれる)の猪飼野(現・大阪市生野区桃谷付近)辺りにあったと推定されている。
 水都の会では、毎年、生野区内にあるコリアタウンまつりに協賛して、王仁博士など渡来人の姿に扮し平野川に船を出している。コリアタウン横の御幸橋(みゆきばし)にて川の浄化を祈り、稚魚の放流活動を行なうほか、船着場をつくる〈猪甘津プロジェクト〉を働きかけている。

(取材:2014年3月21日)

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目次

土木技術者が読み解く橋の歴史の魅力 松村 博
帝都復興における橋とデザインの思想 中井 祐
ペデストリアンデッキの登場と駅前空間の変化 五十畑弘
モンゴルと日本をつないだ太陽橋 小林 厚
長崎・眼鏡橋復元の物語 片寄俊秀
橋から省みる水都大阪の再生 藤井 薫
橋上の賑わい空間復活の可能性 藤本英子
川がない橋が秘めた東京の履歴 斉藤 理
わたしの里川 川医者の里川診断 島谷幸宏
水の文化書誌 38 石橋・眼鏡橋のある風景 古賀邦雄
Go!Go! 109水系 4 神荒ぶ よみがえりの熊野川 坂本貴啓
文化をつくる つなぐ橋 編集部

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