• 機関紙 47号目次

水の文化 47号 つなぐ橋

橋上の賑わい空間復活の可能性

藤本 英子さん

藤本 英子(ふじもと ひでこ)さん
京都市立芸術大学美術学部デザイン科大学院美術研究科教授

1982年京都市立芸術大学美術学部工芸科デザイン専攻卒業後、株式会社東芝入社、デザインセンターを経てコンセプトエンジニアリング開発部設立に参画。1989年公共空間デザイナーとして独立。1992年建築士事務所エフ・デザイン設立。2001年より現職。2005年九州産業大学大学院芸術研究科博士後期課程にて博士課程修了後(芸術)学位取得。行政の景観関係各種委員、景観アドバイザーを多く務める。
主な著書に『市民のための景観まちづくりガイド』(学芸出版社 2012)、『つなぐ 環境デザインがわかる』(共著/朝倉書店 2012)、『JUDI-KANSAI仕事の軌跡と展望』(共著/都市環境デザイン会議関西ブロック 2011)ほか

水辺空間には、劇場空間同様に「観る」「観られる」という関係性を生み出す面白さがある、と藤本英子さんは言います。遊歩道や船や橋という仕掛けの中で、今までは道に向いていた顔が徐々に水辺にも向いてきました。水辺空間の復権を、光の演出にまで広げている大阪の試みについてうかがいました。

休日はひときわ賑やかな道頓堀・戎橋界隈。PR効果を期待して、他所からの出張イベントも多い。

戎橋は劇場空間

1日に10万人以上の歩行者が利用し、ひっかけ橋の別名で知られる戎橋(えびすばし)は、大阪ミナミを象徴する橋です。

2008年(平成20)に架け替えられたときには、一般参加のデザインコンペが行なわれ、私も審議委員として参加しました。滞留時間が長い橋ですので、橋上を円形にして留まる人と通行する人が互いに邪魔にならないようになっています。

道頓堀を完成させた安井道卜(どうぼく)が南船場にあった芝居町を移転させたことをきっかけにして、この地域では芝居名代5株が公認され、船の櫓を興行権免許の印として正面に掲げた劇場が立ち並ぶようになりました。それがやがて道頓堀五座(浪花座・中座・角座・朝日座・弁天座)となり、大変な賑わいだったといいます。ですからここは、古くから劇場空間としての伝統を持っているのです。橋のデザインは、こうした土地の来歴を表現するものであってほしいですね。

ここから眺める景色は、他所から来た人を「大阪に来た」と実感させます。一番の特徴はネオンサインの巨大広告で、誰しも写真撮影をしてしまうほどのインパクトです。大阪市は壁面広告を建築物の3分の1までと規制していますが、ここは特区になって5分の4まで規制緩和されているのです。

普段は野放図な広告看板に苦言を呈する私ですが、ここは特別。ネオン管が切れると15分以内に交換するなど、広告主も本気で取り組んでいる特別な空間です。

とんぼりリバーウォーク

道頓堀川(注1)といえば、巨大なネオンサインと戎橋の賑わい、1985年(昭和60)に阪神タイガースが優勝した際に人が飛び込んだエピソードなどが有名です。大阪の繁華街ミナミの象徴としてその名を全国に知られる道頓堀ですが、その一方で治水対策のために護岸が嵩上げされたことや、水質の悪化などによって、街と隔たった存在となっていました。

道頓堀川水辺整備事業は、「水の都・大阪」再生に向けて、水辺に親水性の高い遊歩道〈とんぼりリバーウォーク〉を整備し、都市の魅力を向上させようと行なわれました。遊歩道の区間は道頓堀川の日本橋(堺筋)ー浮庭橋(旧桜川分岐点)間で、中央区・西区・浪速区にまたがっています。

太左衛門橋付近には船着場が設置され、遊覧船が発着するほか、河川敷地利用の規制が一部緩和され、イベントや物販が社会実験として行なわれています。

橋からは、いつもと違う視点で船や遊歩道を見ることができます。普段だったら赤の他人なのに手を振ったり視線を合わせたりと、船ー橋の上ー遊歩道ーデッキ、と違う高さにいる人とのかかわりが生まれます。水辺空間には、劇場空間同様に「観る」「観られる」という関係性を生み出す面白さがあります。

しかし、とんぼりリバーウォークができた当初は、あまり活用が進んでいる状態ではありませんでした。その原因の一つは、道頓堀橋より西に遊歩道がつくられずに途切れていたことにあります。道路橋となっている道頓堀橋をくぐるには、基準をクリアするだけの高さが確保できないという理由で、遊歩道をつくれない状況だったのです。

そこで〈水都の会〉にご協力いただき、商店街のみなさんに呼びかけて、本当に遊歩道の設置が不可能なのかどうか調査をしました。その結果、高さが取れない箇所を浮き桟橋の方法で施工すれば解決できることがわかりました。このほかにも、せっかくの道頓堀川水辺整備事業がもっと活性化するためのアイディアをまとめて、葦船に乗って地域団体に提案しに行きました(「橋から省みる水都大阪の再生」参照)。

地元商店街の関心も高まって、今までは道に向いていた顔を水辺に向けることに徐々に成功しています。2012年(平成24)4月からは管理・運営業務を南海電気鉄道株式会社が大阪市から受託して、活性化に一役買っています。

(注1)道頓堀川
南端が堀止になっていた東横堀川と西横堀川を結んで木津川へ注ぐ堀川として、1612年(慶長17)に開削を開始、1615年(元和元)に完成した。東横堀川の南端から西流して木津川に合流する全長約2.9kmの河川。

タイ料理店〈クンテープ〉社長の川北昌紀さん。

タイ料理店〈クンテープ〉社長の川北昌紀さん。かつて水路に面して賑わっていた店が、つい最近まで、軒並み、道路側に顔を向けていた。とんぼりリバーウォークができて、いち早く水路側にテラス席を設けたのが川北さん。水都大阪復活のための応援団でもある。

親水と安全性

今では考えられないことですが、1707年(宝永4)10月の宝永地震と1854年(嘉永7)安政南海地震では、大阪湾に押し寄せた津波が河川を遡上し、道頓堀付近まで水没したと伝えられています。

大阪市では親水性の高い遊歩道の整備に先行して、2000年(平成12)には道頓堀川下流部と東横堀川上流部に水門を建設し、高潮の防御、水位の制御、閘門(こうもん)機能を確保していますから安心して水辺に近づいてほしいですね。

また、橋には川に人が落ちないように(飛び込まないように)高欄の形状や柵の設置が求められるのですが、景観上のセンスを度外視したものが多く、安全性を確保しながら美観を活かすことにいつも苦労します。

管理する立場からは、可能な限り安全性を追求したいと考えるので、過剰なものになってしまう傾向にあります。安全性と美観の確保は相反する要素ではないはずですから、景観デザイナーとして歩み寄りに貢献したいと思います。

浮庭橋(うきにわばし)

とんぼりリバーウォークの西の端には、2002年(平成14)湊町リバープレイスが開業しました。FM大阪の社屋やライブハウスが入居し、建物の一部を阪神高速道路の湊町出入口と共有しているほか、湊町PAとしても利用されています。

JR難波駅(旧・国鉄湊町駅)の貨物ヤード跡地に、大阪市のウォーターフロントゾーンとしてつくられたもので、道頓堀川沿いには船着場もあり、対岸の南堀江地区には再開発でキャナルテラス堀江が誕生しました。

南堀江は、かつて材木浜と呼ばれた地域で、木場として利用されてきた水辺空間です。計画段階で下見に行ったときには、まだ材木の香りが残る土地柄で、この歴史的背景を生かしたものができたらいいなと思いました。

デザインコンペで1等になったのは〈浮かぶはらっぱ〉をコンセプトにしたデザイン案です。両岸に主塔を建て、ケーブルワイヤで鋼床板を吊る構造で、湊町リバープレイスとキャナルテラス堀江が斜めにつながれています。

コンセプトの通り、橋桁はアイビーで緑化され、橋上には植栽やベンチが配され、渡るだけでなく憩いの場として用いられることが念頭に置かれました。

2008年(平成20)完成から経年変化を得て、長く垂れたアイビーが風に揺れ、浮遊感のあるデザインに趣を添えるようになっています。渡ったり滞留したりするほかに、留まりたくなる憩いの空間としての心地良さまでがデザインされた、素晴らしい橋になったと思います。

浮庭橋という名前もネーミングコンペで選ばれ、経緯が書かれた銘板がはめ込まれています。

明治以降、橋は長大重厚な存在で町橋の発想は失われていたように思います。一般参加のデザインコンペやネーミングコンペは、橋を少しでも身近な存在に引きつける工夫です。

同様に橋を我が事としようという試みとして、2008年(平成20)から中央区で行なわれている〈橋洗いブラッシュアップ大作戦〉があります。中央区には35に上る橋があり、その数は大阪市内でもトップクラス。これらの橋は水の回廊を形成する土佐堀川、東横堀川、道頓堀川に架かっており、さまざまな歴史を持っています。これらの歴史ある橋を水洗いし、きれいになった橋をまちの魅力として内外に発信する事業として取り組まれてきました。

橋の存在も、生活の環境づくりの一つ。こうした活動は、地域の橋を知ることに役立っています。

浮庭橋。橋の上にベンチがあったり、植栽が豊かだったり。渡る機能以外にも、仕掛けがいっぱい。

浮庭橋。橋の上にベンチがあったり、植栽が豊かだったり。渡る機能以外にも、仕掛けがいっぱい。

浮庭橋

北浜テラス

土佐堀川に面する北浜エリアは、難波橋、鉾流橋、大江橋、淀屋橋で対岸の中之島と結ばれています。

北浜には、江戸時代の初期から米市場(のちの北浜会所)や金相場会所があり、両替商や米仲買が集まる金融の中心地として栄えていました。

土佐堀川に面した一画は、川の眺望が非常に良く、船場の旦那衆が小船で乗り寄せ、軒を連ねた料亭や料理旅館に上がるという粋な地域だったようです。井上馨と大久保利通、木戸孝允、板垣退助、伊藤博文らによる〈大阪会議〉で三権分立が合意されたのもこの地でした。金相場会所跡に株式取引所が開設されると、北浜は証券街として大いに賑わい、長らく商都大阪を支える金融の中心地としての役割を果たしてきました。

難波橋は大阪では数少ない公儀橋をルーツとし、橋の四隅に2体ずつのライオン像があることからライオン橋の愛称で親しまれてきました。ライオン像には最高級の御影石が使われていて、単に渡るだけでないシンボルとしての価値が橋に求められていたことがわかります。

しかし、インターネット取引の発達により北浜に拠点を置く証券会社は減少し、超高層マンションが建つなどまちの姿も変貌を遂げ、水辺空間の価値を生かした利用がされていませんでした。

そんな折、2008年(平成20)10月1日に大阪川床(かわゆか)〈北浜テラス〉が誕生しました。〈水都大阪2009〉プロジェクトが契機となって、「川とまちの連続性をつくりたい」「水都大阪らしい風物詩を」という想いを抱いた地域の人々が実現させた親水空間です。法的課題も厳しい中、官民協働で取り組んで課題をクリア。ビルオーナーらの心意気が川床を実現に導き、1カ月間で2000人以上の集客を成功させました。

引き続き、2009年(平成21)5月には3カ月間の社会実験を実施、7月に〈北浜水辺協議会〉が設立され、民間の任意団体としては全国で初めて河川敷の包括的占用者の許可を受けました。その結果、〈北浜テラス〉は民間による自主事業として継続が図られることになりました。

水と光の都・大阪

テラス席から眺める景色も最高で、水の回廊のライトアップが一役買っています。

〈水都大阪2009〉プロジェクト終了後も、水都大阪という街のブランド確立と発信を目指そうと始まったのが、〈水と光の首都大阪〉構想です。

大阪市は、光のまちづくりの国際機関LUCI(光景観創造国際ネットワーク)に加盟する日本で唯一の団体で、大阪ならではの光のまちづくりに取り組んでいます。水辺と光を大阪がいかに大切にしているかは、ライトアップエリアの充実ぶりからおわかりいただけると思います。ホームページを覗いて、確認してみてください。

ライトアップした橋も素敵ですが、水面に映った光の揺らぎも格別な味わいがあります。テラス席から楽しむ水辺の景色を、是非、堪能していただきたいですね。

橋のライトアップ橋のライトアップ。八軒家浜から天神橋を望む。天神祭になぞらえて、灯籠をイメージ。

下流側の天神橋は、ガラス発祥の地にちなみ、側面に切り子模様を表現

左の夜景の写真と同じアングルで撮った夕景下流側の天神橋は、ガラス発祥の地にちなみ、側面に切り子模様を表現。下は上の夜景の写真と同じアングルで撮った夕景。八軒家浜は、京から下ってきた三十石船の発着場として賑わった。近くには、11世紀ごろから熊野参詣の出発点となった〈渡辺津〉もあって、この辺りは、大阪でも随一の水上交通の要衝であった。

景観を大切にする気運

過剰に大きな広告看板や、色が氾濫する日本の公共空間。自分の部屋や家から一歩外に出たところの景観は、思い通りにコントロールすることができません。

「公共空間の景観は、一体誰がコントロールしているのだろう」。学生時代に、私はこうした疑問を持ちました。調べていくと、誰もコントロールしていないことがわかりました。当時は〈景観〉という言葉もなく、ましてや仕事には結びつかない分野でした。

卒業後は企業でものづくりに携わりましたが、どうしても〈景観〉が気になって公共空間デザイナーとして独立し、地元大阪に戻ってきて、その想いが込められる仕事を続けてきました。私は大阪出身の万博っ子(1970年〈昭和45〉の大阪万博世代)だったので、デザインが地域を変えるという強烈な体験が影響していたのかもしれません。

平成に入ったころから、世の中の流れが、まちの景観を重視するように変わってきたのを感じます。長年景観にこだわってきたことが幸いして、先進的な自治体のサポート役を務めるようになりました。2005年(平成17)景観法(注2)が施行され、その動きはいっそう後押しされるようになっています。

現在、京都市立芸術大学美術学部でデザインを教えていますが、市立大学なので半公務員のような感覚で「まちなかにいかに楽しみを見出すか」「心地良い空間をいかにつくるか」と、日々、肌で感じたことを実現しようと考えています。

現在の日本の普通のまちの景観を考えると、どんなに優秀な専門家を育成してもコントロールすることは不可能でしょう。

普通のまちの景観が、多くの人々の生活の現われであることを考えると、多くの普通の生活者にこそ、まちを良くしていく鍵が握られているのではないでしょうか。大阪は水都として、水辺空間や橋を資源ととらえ、最初の一歩を踏み出したところです。

(注2)景観法
景観計画の策定などを促し、良好な景観の形成を促進することを目的とする法律。
高度成長期以降、経済性が優先され、良好な景観や環境を考慮しない開発が進んできた日本において、国土交通省では1990年代から発注する公共工事において景観への配慮を重視するようになり、2003年(平成15)〈美しい国づくり政策大綱〉を策定。景観法への道筋を示した。

(取材:2014年3月21日)

PDFダウンロード

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

目次

土木技術者が読み解く橋の歴史の魅力 松村 博
帝都復興における橋とデザインの思想 中井 祐
ペデストリアンデッキの登場と駅前空間の変化 五十畑弘
モンゴルと日本をつないだ太陽橋 小林 厚
長崎・眼鏡橋復元の物語 片寄俊秀
橋から省みる水都大阪の再生 藤井 薫
橋上の賑わい空間復活の可能性 藤本英子
川がない橋が秘めた東京の履歴 斉藤 理
わたしの里川 川医者の里川診断 島谷幸宏
水の文化書誌 38 石橋・眼鏡橋のある風景 古賀邦雄
Go!Go! 109水系 4 神荒ぶ よみがえりの熊野川 坂本貴啓
文化をつくる つなぐ橋 編集部

ページの先頭に戻る