機関誌『水の文化』47号
つなぐ橋

ペデストリアンデッキの登場と
駅前空間の変化

社会情勢に左右されながら、条件に合わせて応じられる柔軟性、可塑性を持ったペデストリアンデッキは、ライフタイムからみても「日本的な構造物」と言う五十畑弘さん。駅前空間の表情を一変させたペデストリアンデッキは、実用的機能を優先させながら、多くの場所で採用されてきました。初期の導入例から40年を経過した今、新たな局面を迎えたペデストリアンデッキの歴史とこれからについてうかがいました。

五十畑 弘さん

日本大学教授(生産工学部環境安全工学科)工学博士
五十畑 弘(いそはた ひろし)さん

1971年日本大学生産工学部土木工学科卒業。日本鋼管(株)重工事業部に入社。1985年より英国NKK(日本鋼管ロンドン事務所)、1988年より日本鋼管(株)総合エンジニアリング事業部鋼構造本部、2003年よりJFEエンジニアリング(株)鋼構造事業部勤務を経て2004年より現職。
主な著書に『歴史的鋼橋の補修・補強マニュアル、鋼構造シリーズ14』(社団法人土木学会 2006)、『建設産業事典』(鹿島出版会 2008)、『歴史的土木構造物の保全』(鹿島出版会 2010)、『図解入門よくわかる最新「橋」の基本と仕組み』(株式会社秀和システム 2013)ほか

歩車分離から始まった

交通戦争という言葉は、1960年代から使われるようになりました。その時代には、小学校の裏に必ず学童歩道橋がつくられました。学童歩道橋は、自動車の交通量が増えたことに対応して、歩車分離で合理的に通行させようという発想から始まっています。人と自動車を立体的に分離することで、安全を確保しようとしたわけです。

ペデストリアンデッキは、こうした学童歩道橋と同じ発想でつくり始められました。

一方、日本の都市部の鉄道駅前はどこも敷地に余裕がありません。スペースに余裕がない駅前交通広場をできるだけ有効に使うために、垂直方向に逃げようと考案されたという事情もあります。構造としては、鉄道駅が橋上駅となって、同じフロア階にコンコースができ、その延長線上にペデストリアンデッキがつくられます。

そのことは、メリットも生みました。横断歩道を渡らないでデパートなどの商業施設に直接アプローチできるので、改札口を出て、一度もアップダウンなしで商業施設に入れるというわけです。

しかしバリアフリーの考えが導入されるのは、1994年(平成6)のハートビル法、そして2006年(平成18)のバリアフリー新法(高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律)ができてからです。実は、この法律以前にはエレベーターやエスカレーターをつけていない所が多く、あとからつけられています。

社会情勢に影響される

日本で最初にペデストリアンデッキが導入されたのは、1973年(昭和48)国鉄(現・JR)柏駅(千葉県)東口の市街地再開発のときです。新しいベッドタウンとして郊外が開発され、車で駅に向かう車社会の到来を予測していたということです。

全国で230カ所ぐらいあるのですが、最近はそんなには増えていないと思います。土地の価格が上がれば、高層にして新たに人工地盤をつくることが利益を生みます。再開発事業が行なわれるのは、土地の価格が上がるからなのです。ペデストリアンデッキは再開発事業と同時に設置されるというのがほとんどなので、再開発が停滞すれば新たに設置されることはありません。

つくられてから30年以上が経過して、老朽化による改修工事や、人口が減って乗降客が減少し、将来的には撤去の可能性が浮上するところもあるかもしれません。役割を終えて撤去になる場合だけでなく、高架下が暗くなることで治安やイメージの観点から改修が検討される例もあるでしょう。

とはいえ、2階が正面であることが定着し、ファサードも2階でつくられていれば、撤去に反対する意見が出ることも予想されます。

柏駅前では最近、改良工事が行なわれました。1984年(昭和59)につくられたJR津田沼駅(千葉県)のペデストリアンデッキは、構造の老朽化とともに、交通広場や駐輪場などの高架下の有効利用をどうするかなどの整備のあり方が今後の課題でしょう。

このように景気が良くなって再開発事業が活発に行なわれるとか、狭い空間を有効に利用したいとか、便利であるなどといった条件とうまく組み合わせて、日本の駅前にはペデストリアンデッキが増えてきました。

歩車分離の発想から始まり、20年ほど経ってバリアフリー法に沿った適応が図られた。ペデストリアンデッキは、このように非常に有機的な存在で、条件に合わせて応じられる柔軟性、可塑性を持った構造物です。それを考慮してかどうか、ほとんどが鋼製で細工しやすい素材が用いられています。

JR津田沼駅北口のペデストリアンデッキ。

JR津田沼駅北口のペデストリアンデッキ。バリアフリー対策などが、時代を追って施されてきた。

機能を増殖させるペデストリアンデッキ

ペデストリアンデッキは、通路としての機能以外にも、滞留時間を積極的につくることに貢献しています。そのためトイレを設置したり、ベンチなどのストリートファニチャーを置く場合もあります。もっと積極的に、イベント広場を設けている例もあります。

防災に寄与する面でも、評価が高まっています。阪神淡路大震災のときには、駅前広場が復興支援の拠点になりました。ボランティアの人たちがテントを張ったりして活用されていましたね。そういう面でも、ペデストリアンデッキは力を発揮します。

今はまだ、聞いたことがありませんが、ペデストリアンデッキに震災物資の備蓄をするというような活用方法もあると思います。

海外におけるハイウォーク

日本では積極的に導入されたペデストリアンデッキですが、駅前空間が狭い、広げようがないという同じような条件を持つイギリス・ロンドンでは見ることはありません。

ペデストリアンデッキと言って通じないわけではありませんが、英語圏ではハイウォークと言ったほうが通りがいいかもしれません。エレベーテッド ペデストリアンデッキ(elevated pedestrian deck)、もしくはペデストリアンウォークウェイを略してペドウェイ(pedway)ともいいます。

海外にも、鉄道駅前以外であればペデストリアンデッキを採用している例はあります。一番古い例はロンドンのシティです。1960年代の道路計画の考え方として、高速道路をできるだけ町の中心部まで引き込もうという計画がありました。そのときに人をデッキの上に配置した計画が1963年(昭和38)のブキャナンレポートで報告されました。しかし、実際には大規模には実施されず、一部、施工されたのがシティの例です。

評判はあまり良くありませんでした。ペデストリアンデッキは景観を上下に分断してしまいますから、デッキの下はどうしても〈ケ〉の空間になってしまいます。防犯上も問題があって、防犯カメラが据え付けられ、区間によってはハイウォーク自体が廃止されました。ただ、ビル同士をつないでうまく機能している所もあります。

駅前広場は景観のシンボル

実は、鉄道駅前のペデストリアンデッキは外国には見られません。その理由は、駅の構造の違いもありますが、駅前広場に求めるものが違うことにあるのでしょう。特にヨーロッパでは、駅というのは町の景観のシンボルなのです。彼らには、こうしたものをつくる発想すらないのではないでしょうか。

空間が狭いというような物理的な条件だけでは説明がつかなくて、やはりそれをつくる人の考え方が多分に反映していると思います。

東京駅の改札口から新丸ビルに直接行かれるように、ペデストリアンデッキが架けられた姿を想像してみてください。

実際には、東京駅には既に地下街が発達していますからペデストリアンデッキを架ける必要はないわけですが、機能としての問題ではなく、シンボル的な景観を変えてしまうような開発は容認されないでしょう。

創業百周年を迎え東京駅が復原改修がされる際にも、そういう話は出ませんでした。東京駅は皇居に対して、正面性を持っています。各国の駐在大使は、着任するとあそこから馬車に乗って皇居に向かいます。そういう場所にペデストリアンデッキをつくるというのは、ちょっと考えられないことです。逆にいえば、景観にシンボルとしての価値を見出して、それを体現させられるほど敷地に余裕がある駅前広場という条件が、東京駅には備わっているということです。

「日本では景観を大切にしていない」と断言するわけではありませんが、実用と景観をどの程度優先させるかといったときに、バランスの取り方がヨーロッパの人たちとは違っているのだと思います。

景観を守るために実用を犠牲にするとか、多少の不便は我慢するというのが文化だと言うこともできるのでしょうが、そこまで考えないで実用のほうにすっと行ってしまっているような気がします。

これはどちらが良いか悪いかということではなく、要するに優先順位のつけ方が違うということで、これもまた、日本の風土、文化なのかもしれません。

日本的な構造物

駅前空間が狭いという条件に対応して、止むに止まれぬ事情で誕生したペデストリアンデッキですが、いろいろな機能を持っているように見えるものの、一つひとつを見ていくと、実はそれが後追い的に進化をしているということがわかります。

これがどこからきたものかというと、実は日本オリジナルなんです。

建築物としても非常に日本的なものである理由の一つに増築、建て増しの発想があります。一度つくられたら2世紀、3世紀にわたって残っていくというよりも、社会状況に応じてつくられたり壊されたりしていく。変わることに抵抗感が少ないのは、逆に、またすぐ変わるのだから、と感じているからなのかもしれません。

言い換えれば、極めてアジア的な存在ともいえますが、駅前空間が狭くて困るような都心部に、これだけ鉄道網が発達しているのは日本だけの特殊事情です。ですから鉄道網が未発達の他のアジア諸国でつくられることはなく、この点、ペデストリアンデッキは日本で独自に発達を遂げた構造物ということができます。

仮設としての性質

ペデストリアンデッキのもう一つの特徴は、仮設的な存在、ということでしょうか。そうは思われない方もおられるでしょうが、私はそう考えています。

橋本龍太郎首相のときに、沖縄・普天間飛行場の移転先の問題で、滑走路をつくるためにサンゴ礁の海を埋め立てるのではなく桟橋による工法が浮上したことがありました。これは埋め立てと違って桟橋なら元に戻せるし、時限的であることをアピールするためでした。仮設の発想ですね。下のサンゴ礁を傷つけなくても工事ができるということもありました。しかし、ご承知のとおり、工法云々以前に、計画そのものが当時は暗礁に乗り上げてしまい、結局は実現しませんでした。

本来、土木構造物というのはかなり長い寿命を持つものです。ところが、前出の学童歩道橋も撤去が進みました。では、自動車が減ったのかというとそういうわけではない。どちらかというと信号機が改善されて、平面交差がうまくできるようになり、それで、歩道橋はいらないから撤去するという方向になったのです。「なんで車が優先で、人間が上ったり下りたりしなくちゃいけないんだ」と、評判が悪い構造物でしたから撤去の方向に進みました。現状では空間構造が2階を基本に構成されていますから、歩道橋のようにすぐに撤去ということにはならないと思いますが、ペデストリアンデッキの運命もこの先、どうなるのかわかりません。

それに比べてイタリア・ローマでは二千年前の石の橋の上に自動車が走っています。できたものの寿命だけでなく、スペインのサグラダ・ファミリア大聖堂のように19世紀につくり始めた建築物が、今まだ建築中などということは日本ではあり得ないことです。時間軸の感覚が違うのです。

成功例としての仙台駅

増設や仮設ではなく最初から計画すれば、長所を活かしたものになる可能性があって、その良い例が仙台駅です。

東北新幹線が仙台までくることが決まり、1977年(昭和52)にまず駅をつくり直しました。そのときに、駅前をペデストリアンデッキで構成することが計画され、新幹線駅が3階で、エスカレーターで下りてきた2階が入口になるようにつくられています。

ペデストリアンデッキは鉄道駅と一体になっていますから、どこが管理しているのかわかりにくいことが多いのですが、道路付属施設として道路管理者である市町村のものになっているのが一般的です。

仙台駅の場合は、仙台市の所有です。鉄道駅と連携して一体感のある構造になっていますので、ペデストリアンデッキの端までがあたかも仙台駅として機能していると感じられる構造です。

仙台駅では中央部分にはデッキをつくらなかったので、デッキ下が暗くなることを防ぐのにも成功して、防災的にも問題のない構造になっています。

  • 1981年(昭和56)に完成した、仙台駅西口のペデストリアンデッキ。

    1981年(昭和56)に完成した、仙台駅西口のペデストリアンデッキ。駅前空間と駅自体の機能はもとより、駅舎との一体感においても、つけ足し感がない。はじめから都市計画に基づいてデザインされた好例である。面積が9763㎡と広いこともあり、のびのびとしたランドスケープが実現されている。

  • グラウンドレベルがデッキ下になって暗くならないように、中央部分を開渠にした。

  • バス乗り場には、ペデストリアンデッキから直接アプローチできる。

    バス乗り場には、ペデストリアンデッキから直接アプローチできる。通路幅にメリハリをつけることで、通路としての機能と広場としての機能の使い分けもうまく誘導されている。
    写真提供:五十畑弘さん

  • 1981年(昭和56)に完成した、仙台駅西口のペデストリアンデッキ。
  • バス乗り場には、ペデストリアンデッキから直接アプローチできる。

ライフタイムから見たペデストリアンデッキ

私がペデストリアンデッキに興味を持ったのは、なぜ日本だけに発達したのかと疑問を持ったからです。物理的な要因だけではなく、日本独自の理由があるのではないか、と考えたのです。

私は常々、構造物に対する各国のライフタイムの違いに興味を持っていました。よく言われるのは、「石の文化と木の文化」という分類ですが、とにかく日本の構造物はライフタイムが短いのです。長持ちさせようと言い出したのは、ここ二、三十年の話です。

そもそも近代以前の日本の橋は〈仮〉の存在でした。大水がくると流されて、また修復するということを繰り返していました。反対される人も多いでしょうが、日本人の橋に対する感覚とペデストリアンデッキには相通じるものがあると思います。

日本で一番最初に鉄道が走った新橋〜横浜では、早く開通しろという厳命のもと、六郷川を渡る橋を含めすべてに木製の橋桁が架設されました。しかし、その橋桁はわずか5年で腐ってしまったといいます。その後、鉄製に置き換えられていくのですが、とにかく取り敢えずという意識が強いのが日本の特徴で、それが構造物のライフタイムに強く影響しています。

実用的機能を重視した時代

確実にいえるのは、日本経済がまだ元気だったころに、ペデストリアンデッキは実に多くの人の流れと桁下の自動車交通を、安全にさばいてきたという事実です。そのことは、きちんと確認するべきだと思います。首都高速道路の日本橋上の高架と同じで、あの時代には土地のない東京で高速道路を通すためには、川を犠牲にせざるを得なかったわけですし、多くの人がそれを望んでいたのです。そのことを忘れて、今の価値観で過去を評価するのは問題です。

ペデストリアンデッキが盛んにつくられたころというのは、実用性というものが価値の上位に置かなくてはいけない時代でした。明治維新後に、国力を国内外にアピールしようとして架けられた長大な橋に比べ、ペデストリアンデッキはいかにも実用重視の構造物です。実用的機能という点で相当な働きをしてきたことは、誰が見ても明らかだと思います。

構造物としてのペデストリアンデッキは、技術的には特に難しいものではありません。橋の設計では、強度を支える構造と意匠デザインは別の設計者が担当することがあります。近年では景観的なデザインを重視する傾向にありますから、改修時にデザインが改良されることも考えられます。

変えられる余地がある構造物ですから、この先もっと良くなる可能性もありますが、良くなっていかないものは淘汰されていくでしょう。ペデストリアンデッキは、社会のニーズに対して敏感に対応できる柔軟性、可塑性を持つという特徴があるからです。

(取材:2014年3月4日)

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