機関誌『水の文化』57号
江戸が意気づくイースト・トーキョー

特集 概論
|深川|材木とカフェ

江戸の掘割と現代のカフェ
――深川今昔まち歩き

木場公園そばの仙台堀川北岸にある「cafe copain」の店内。板壁の下のコンクリートは、かつての堤防護岸だ

木場公園そばの仙台堀川北岸にある「cafe copain」の店内。板壁の下のコンクリートは、かつての堤防護岸だ

慶長年間(1596-1615)、摂津国から来た深川八郎右衛門によって隅田川河口が埋め立てられ、「深川村」と命名されたことに始まる深川は、1657年(明暦3)の「明暦の大火」から急速に発展。日本橋や神田にあった貯木場が深川、そしてさらに東の木場へと移り、また社寺の移転も相次いだ。今、この深川の「運河」「材木倉庫」「寺町」という地域の資産がカフェを呼び込むなど、思いがけず新たな賑わいを生んでいる。中川船番所資料館の久染健夫さんの案内で、深川エリアを巡った。

久染健夫さん

深川案内人
久染健夫(ひさぞめ たけお)さん

江東区中川船番所資料館
1956年(昭和31)東京都江東区生まれ。中川船番所資料館や深川江戸資料館で学芸員として勤務。館内の案内だけでなく、江東区のまち歩きイベントの講師も務める。『江東区の民俗(深川編)』の執筆にも携わった。

関東一円の水系と江戸市中を結ぶ川


水しぶきを上げてバスが川の中へダイブした。東京スカイツリー®出発の水陸両用観光バス「スカイダック」が飛び込むのは、旧中川が荒川ロックゲートに注ぐ南端付近。ここから西へ延びている一本の川がある。東端の番所橋に立って西側を眺めると一直線に見通せるので、人工運河とわかる。両岸には遊歩道。水面の近くを気持ちよく散歩できそうだ。

旧中川と隅田川を東西に結ぶこの小名木川(おなぎがわ)こそ「利根川など関東一円の水系と江戸市中の水路を結んでいた物資運搬の玄関口」と話すのは、江戸時代に船番所が位置していた小名木川東端近くにある中川船番所資料館の久染健夫さん。徳川家康が行徳産の塩をはじめ、さまざまな物資を運ぶため江戸に入府して最初に開削した運河が小名木川だという。縦横に水路が走る「水のまち」江戸の開幕を告げた運河が、420年の時を超えて埋め立てられず残っているのは感慨深い。

家康は江戸湾に注いでいた利根川を銚子河口へ至る流路に付け替えるなど、関東一円の水運網を整備した。これにより、危険を伴う海運やところどころ陸路を使っていた東北諸藩から江戸への廻米が、河川を通じてスムーズに運搬できるようになった。日本橋界隈から隅田川、小名木川、船堀川(現・新川)を経て江戸川、利根川水系へとつながる舟運の公式ルートが定められた。

小名木川の北岸には、摂津国出身の深川八郎右衛門らによって拓(ひら)かれた深川村が発展。南岸には、東北・関東方面から大船で来た荷物を小船に小分けして江戸市中に届ける人たちが多く住み、船大工も目立ったことから海辺大工町と呼ばれた。

江東区深川地域が水運流通の結節点として栄えた痕跡を、久染さんの案内でたどってみる。

  • 本所深川町屋絵図(旧幕府引継書)
    中川番所と小名木川の位置関係を記す。幕末の史料と思われるが、江東区域の大きな掘割は今もかなり残っていることがわかる(国立国会図書館蔵)

  • 今回訪ね歩いた小名木川以南と横十間川以西のポイント。赤い部分はかつての蔵のまち。番号は記事に登場する順番を表す

    深川今昔まち歩きマップ
    今回訪ね歩いた小名木川以南と横十間川以西のポイント。赤い部分はかつての蔵のまち。番号は記事に登場する順番を表す

  • 今回訪ね歩いた小名木川以南と横十間川以西のポイント。赤い部分はかつての蔵のまち。番号は記事に登場する順番を表す

貸蔵が掘割沿いに建ち並んだ「蔵のまち」


小名木川の河口に架かる万年橋を南下し、清澄公園西端を左に見て進めば、清川橋で仙台堀川を渡る。ここから南西方向に下るのが大島川西支川(にししせん)。その運河に沿って右に折れると小さな「中の堀公園」が現れた

「この佐賀町(注)あたりが『蔵のまち深川』の中心地でした」と久染さんが江戸古地図を示す。今も残る仙台堀川、大島川西支川のほかにも掘割が複雑に入り組んでいた。水運流通の拠点だったということはつまり、荷揚げされた物資を保管する蔵も多かったのである。

「深川の蔵の特徴は『貸蔵』です。特に三井家が点在する土地を多くもち、貸蔵経営をしていました。深川でひと旗上げようと商いを始める人が借りたり、商品が大量に入荷したとき臨時に借りるなど、便利に活用されていたようです」と久染さん。

公園奥のフェンスの向こう、会社ビルにはさまれて、まだ水路が残されていた。古地図を見ると、まさにここが隅田川からクランク状に続くかつての「中之堀」だ。水路はL字を描き大島川西支川に今もつながる。久染さんの「川筋を屈曲させたのは、長さをとって蔵を多く建てるため」という説明に納得する。

近辺には三井倉庫や日立物流などの建物があり、「蔵のまち」の面影をわずかに留めているが、その痕跡が明らかなのは佐賀稲荷神社にある力石と天水桶だ。蔵で物資を運ぶ仕事の余技から生まれた、米俵や酒樽を持ち上げる力比べの民俗芸能「深川の力持」。力石はこの技芸をもつ人たちが寄進した。天水桶は1886年(明治19)、佐賀町に米の取引市場が開設された際、仲買商たちの寄進で設置された。明治時代の佐賀町には米穀問屋が集積していた。

(注)佐賀町
江戸時代は深川佐賀町と呼ばれていた。現在の佐賀一丁目と佐賀二丁目にあたる。

佐賀稲荷神社の境内にある力石(右)と天水桶(左)

佐賀稲荷神社の境内にある力石(右)と天水桶(左)

飲料水と炊事は「水売り」頼り


昭和初期竣工の深川正米市場の建物は「食糧ビル」としてアートギャラリーなどに活用されていたが2002年(平成14)に解体され集合住宅に。エントランスのアーチ型オブジェが往時の建物の外壁イメージをかすかに残す。

沿岸に油問屋があった油堀は埋め立てられ、今は首都高が走る。この油堀周辺の長屋という設定で、深川江戸資料館に佐賀町のまちなみが再現されている。長屋の玄関で目を引くのは大きな水甕。埋め立て地のため井戸を掘っても塩水しか出ないので、飲料と煮炊きの水は「水売り」に頼っていた。久染さんによれば「日本橋より西側にあった銭瓶橋(ぜにがめばし)の下に玉川上水と神田上水の用水が流れ落ち、それを水桶に受けて船で隅田川を越え、売り歩いていた」らしい。

隅田川沿岸、佐賀町付近の掘割は、もともと材木置場として幕府が寛永年間(1624〜44)に開削したもの。日本橋や神田の材木問屋に高積みされていた材木が火災の延焼の原因になることから、開拓途上の隅田川沿岸に移したのだ。

久染さんは「掘割に浮かべておけば海水なので材木に虫がつきにくく舟運にも都合がよい。佐賀町近辺が『蔵のまち』として流通の拠点となるにつれ、より東方の入江である木場へ貯木場は移りました」と話す。

深川江戸資料館に展示されている井戸の模型。飲料には適さず「水売り」に頼っていたと考えられる

深川江戸資料館に展示されている井戸の模型。飲料には適さず「水売り」に頼っていたと考えられる(提供:公益財団法人江東区文化コミュニティ財団)

今に続く門前町と寺町のたたずまい


佐賀町から永代通りを門前仲町方面へ歩けば富岡八幡宮。1627年(寛永4)に社殿が完成し、周辺は門前町として発展した。料理茶屋が賑わい花街も生まれる。江戸城の東南(辰巳)に位置する深川の辰巳芸者は、きっぷのよさが身上だった。男物の羽織をひっかけて宴席に出たりしたので、羽織芸者とも呼ばれた。

「木場などの旦那衆が客筋で荒っぽい人も多いので、なよなよして舐められちゃいけない、みたいなこともあったんでしょう」と久染さん。今も門前仲町は、飲食街としても住宅地としても人気エリアになっている。

八幡宮内の小さな永昌(えいしょう)五社稲荷は干鰯(ほしか)の仲買商が信仰していた。銚子や九十九里浜産の干した鰯は、藍や木綿など高付加価値の作物の肥料として取引された。「深川の大店の主要取り扱い商品は米、材木、干鰯」(久染さん)だったというわけだ。

再び北上して仙台堀川を越え、清澄庭園の東側へ。ここには寺町が広がる。なかでも多くの子院や塔頭をもっていたのが浄土宗の霊巌寺(れいがんじ)。もとは霊巌島(中央区新川)にあったが、1657年の明暦の大火で被災し現在地に移った。霊巌寺には僧侶の宿泊する学寮もあり「修行中の若いお坊さんが何千人も一挙にやって来たのだから、まちも大きく変わるわけですよね」と久染さん。

霊巌寺前の深川資料館通りには多彩な店舗が軒を連ね、清澄庭園を訪れた人々の散策路となっている。

  • 富岡八幡宮境内にある「永昌五社稲荷」。肥料業界の企業・団体は今も参拝を欠かさないという

  • 『江戸の花 深川之夕暮』歌川国芳画 辰巳芸者はきっぷのよさと江戸前の粋(いき)が売り物だった(提供:江東区教育委員会)

    『江戸の花 深川之夕暮』歌川国芳画
    辰巳芸者はきっぷのよさと江戸前の粋(いき)が売り物だった(提供:江東区教育委員会)

  • 『江戸の花 深川之夕暮』歌川国芳画 辰巳芸者はきっぷのよさと江戸前の粋(いき)が売り物だった(提供:江東区教育委員会)

運河沿いの倉庫がコーヒーショップに


この清澄白河付近で近年増えているのが、煎り立ての豆をハンドドリップで一杯ずつ丁寧に淹れるコーヒー店。米国発の新潮流「サードウェーブコーヒー」の総称で知られるが、そもそも日本では昔懐かしい「マスター」のいる個人営業の喫茶店がそのスタイルなのでむしろなじみ深い。

先駆けてこの地に出店(2012年4月)したのが、「The Cream of The Crop Coffee(ザ クリーム オブ ザ クロップ コーヒー)。木場公園北端の東京都現代美術館に近く、裏手には大横川が流れる。天井の高い建物はかつての材木倉庫。煙突の要る大きな焙煎機を備えるのにふさわしい。庭園や美術館が最寄りの清澄白河にサードウェーブコーヒー店が集まりだしたのは、このような利用しやすい物件が多いからでもある。

カカオ豆の仕入れから精錬まで自ら手がけるベルギーのチョコレートの輸入販売で知られ、同様に生産者の顔が見える飲食事業として自家焙煎コーヒーに参入したのが株式会社THE CREAM OF THE CROP AND COMPANY。取締役の寺岡宏さんは「川沿いであることもこの場所を選んだ理由の一つ」と言う。

「直火ではなく熱風式の焙煎機なので、煙というよりも湯気に近い排気ですから周囲の環境に影響は出ません。しかし住宅街だとやはり滞留しがち。でもここならば常に風が吹いている川側に排気口を出せます」

あくまで「テイクアウトもできるロースター」という位置づけの店だから、席は最小限しかない。焙煎したコーヒー豆は他店へ回すほか卸・小売も。週末は美術館の行き帰りに立ち寄る客が多く、平日は近隣の人たちに重宝されている。


「朝夕の出勤時と退勤時にいつも寄ってくださるお客さんがいたり、近くの会社の方々ともざっくばらんにおつきあいさせていただいています。この近辺にはやはり下町ふうの気さくな独特の雰囲気がありますね」と寺岡さんは話す。

かつて材木を貯蔵し運び出した運河沿いの倉庫が、はるか時を経て自家焙煎コーヒー店として再利用されている。ドリップコーヒーで一息つき「こんな活かし方があるんですねえ」と久染さんも感心していた。

  • コーヒー事業部門を統括する取締役の寺岡宏さん

    コーヒー事業部門を統括する取締役の寺岡宏さん

  • 「The Cream of The Crop Coffee」の内部。天井が高いので大型の 焙煎機が据え付けられるうえ、裏が大横川なので排気もこもらない

    「The Cream of The Crop Coffee」の内部。天井が高いので大型の 焙煎機が据え付けられるうえ、裏が大横川なので排気もこもらない

  • コーヒー事業部門を統括する取締役の寺岡宏さん
  • 「The Cream of The Crop Coffee」の内部。天井が高いので大型の 焙煎機が据え付けられるうえ、裏が大横川なので排気もこもらない

いなせな川並の技芸を伝承する木場の角乗


仙台堀川を挟んで端から端まで歩くと南北約1kmの木場公園。ここは江戸から昭和末期にかけて材木問屋が集積し貯木場があったところ。海に面した碁盤目状の掘割に材木が浮かんでいた。久染さんによれば、江戸時代、広義に「木場」と呼ばれた地域は現在の木場、平野、三好、冬木あたりという。3年に一度の富岡八幡宮例大祭を翌日に控え、深川のまちは祭りの準備に浮き立つ。木場の北から南へかけての昔の通称、「上木場」「中木場」「下木場」の幟(のぼり)が道路沿いにはためいている。

かつての材木商いが垣間見える話を久染さんがしてくれた。

「材木の需要は建築に限りません。例えば注文された獅子頭をつくるのに端柄(はがら)材が欲しい職人さんもいます。そんな細かい要望にこたえる商店が生まれ、木工品を手がける職人さんも周囲に居を構えました。まとまった分量でなくても売ってくれたのが木場のいいところ。中野や杉並あたりからも買いに来たようです」

かつて木場の筏(いかだ)師を「川並(かわなみ)」と言った。川に並んで材木の仕事をする様を三代将軍家光が見てこう呼んだことが由来と伝えられている。川並は全国から集められた材木を選別、仕分けして貯木場で管理し、寸法を取って値踏みし、筏に組んで運搬する材木問屋の花形職業だった。水に浮かべた材木を鳶口一つで乗りこなし筏に組む仕事の余技から生まれた民俗芸能が「木場の角乗(かくのり)」で、「深川の力持」と同じく東京都指定無形民俗文化財。毎年10月の江東区民まつりでは木場公園の池で保存会の人たちが下駄や梯子を使った妙技を披露し、拍手喝采を浴びている。「角材を使うので丸太乗りより難しいのですが、保存会には子どもたちも参加しています」と久染さんは言う。

  • 江東区民祭りで披露される「木場の角乗」

    江東区民祭りで披露される「木場の角乗」(提供:江東区広報広聴課)

  • 昭和30年ごろの福富川。今は親水公園として整備されている(提供:江東区教育委員会)

    昭和30年ごろの福富川。今は親水公園として整備されている(提供:江東区教育委員会)

  • 江東区民祭りで披露される「木場の角乗」
  • 昭和30年ごろの福富川。今は親水公園として整備されている(提供:江東区教育委員会)

新旧住民の融和はスムーズに


1878年(明治11)、郡区町村編制法により制定された東京15区の一つ深川区は、1947年(昭和22)に城東区と合併して江東区となる。

明治以降の深川は工場地帯へと変貌した。大名屋敷の跡地などにセメントや紡績、やがて重工業の工場が建設されたが、江戸期からの掘割は引き続き物資の運搬に使われた。関東大震災の被害を乗り越え、戦時中は軍需工場となり空襲にさらされる。戦後復興、高度成長の時代を過ぎると工場は地方や海外へ移転。跡地には次々と高層住宅が建設され、まちの様相は一変した。一部の運河も戦災の残土処理や水害対策で埋め立てられた。昭和50年代に進められた木場の新木場移転に伴い掘割が埋め立てられたのも水害対策の一環。「私が江東区で仕事を始めた昭和60年(1985)ごろ、木場公園一帯はまだ草ぼうぼうの野っ原でした」と久染さんは振り返る。

深川以南の豊洲・有明など臨海副都心の開発は現在進行中。このあたりは東京でもひときわ時代の変化にさらされているが、新旧住民の融和は進んでおり、「江東区はマンション住民が管理組合と別に自治会を組織している率が高く、地元の自治会と連携して行事で役割を果たしたり、新住民同士のチームワークもいい」(久染さん)という。

  • 明治時代の浅野セメント工場(提供:江東区広報広聴課)

    明治時代の浅野セメント工場
    (提供:江東区広報広聴課)

  • 材木倉庫がひしめき合う木場の通り(現在の深川一・二丁目、冬木付近)。1926年(大正15)以前の撮影という(提供:江東区教育委員会)

    材木倉庫がひしめき合う木場の通り(現在の深川一・二丁目、冬木付近)。1926年(大正15)以前の撮影という
    (提供:江東区教育委員会)

  • 明治時代の浅野セメント工場(提供:江東区広報広聴課)
  • 材木倉庫がひしめき合う木場の通り(現在の深川一・二丁目、冬木付近)。1926年(大正15)以前の撮影という(提供:江東区教育委員会)

仙台堀いにしえの護岸があるカフェ


変わりゆくまちのなかで往時の記憶を未来へ引き継ぐ存在の一つが、埋め立てられず残った運河だろう。物資輸送の主役を陸路に譲り役目を終えても、「ザ クリーム オブ ザ クロップ コーヒー」の例で見たように新たな活気の呼び水となり得る。

木場公園の交差点、仙台堀川の北岸にある「cafe copain(カフェ コパン)」が、そんな思いを確信に変えてくれた。店内に入ると、吹き抜け天井で倉庫ふうの建物。店の奥、堀側のカウンター壁面下部のコンクリートは、なんとかつての堤防護岸そのままではないか。護岸を壁の一部として丸ごと残しているとは……。これには久染さんも驚いていた。

オーナーの高橋幸子さんは、シャッターの閉まった建物の堀側に向いた高窓を一目見て「運命的な出会いを感じ」、ここで店を開きたいと法務局で所有者を調べたがわからなかった。ダメもとで江東区平野の自宅近所の人に聞いたら判明。元は材木倉庫で工務店の廃材置場に使われていた。2015年(平成27)にオープンしたカフェは天井も梁も壁も掃除しただけで替えていない。昭和20年代の建造だが、筋交(すじか)いもしっかりしていて堅牢だ。

「木場だけにとても立派な木を使ってるからちょっとやそっとじゃ壊れないよと言われました」と高橋さん。

テレビや雑誌でよく紹介される「カフェコパン」は客足が絶えない。「気がついたらお客さん同士、おばあさんと若いママがSNSで友だちになっていたり」(高橋さん)と、人懐っこい下町風情も風雪を経た護岸とともに健在のようだ。

江東区で生まれ育った久染さんはこう語る。

「もともと豪農や大地主もいないから自由な土地だし、江戸時代から『一旗揚げてやろう』と人が移り住んできたまちだから、よそ者でも住みやすいのかな。たしかに時代とともにまちは大きく変わったけれど、そもそも変わるのがあたりまえと思う、そんな気風なのかもしれません」

役目を果たし終えたはずの掘割や材木倉庫が、今もなお新たな活気をもたらす深川。「運河や堀はこれからも残る」(久染さん)はずだから、はたして次はどんなことが起きるのか、楽しみでならない。

  • 語り合う「cafe copain」オーナーの高橋幸子さんと久染さん

    語り合う「cafe copain」オーナーの高橋幸子さんと久染さん

  • 語り合う「cafe copain」オーナーの高橋幸子さんと久染さん

(2017年8月10日取材)

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