機関誌『水の文化』54号
和船が運んだ文化

Story4
古式捕鯨にみる
「人の行き来」と「技の伝播」

古座川の河口から3km上流にあるご神体「河内様(こおったま)」を目指す「御舟(みふね)」。古式捕鯨の鯨舟に装飾を施したものだ

古座川の河口から3km上流にあるご神体「河内様(こおったま)」を目指す「御舟(みふね)」。古式捕鯨の鯨舟に装飾を施したものだ

かつて鯨も魚と同じように、「海からの贈り物」として食されていた。この日本で鯨の産物を商品として流通させるために組織的な捕鯨が始まったのは戦国時代後期。手漕ぎの鯨舟(くじらぶね)や網を用いた捕鯨法は江戸時代を通じて発展していくが、その裏には、船を介して新たな技法を取り入れ、腕の立つ者たちも呼び寄せた歴史がある。太地町(たいじちょう)を中心とした紀州(注1)、網の専門家集団であり操舟にも長けた備後(びんご)(注2)の田島(たしま)、そして江戸時代に国内最大の鯨組と呼ばれた益冨組(ますとみぐみ)が本拠地とした西海(さいかい)漁場(注3)の生月島(いきつきしま)を巡った。

(注1)紀州
紀伊国(きいのくに)の別名。和歌山県全域と三重県の一部。
(注2)備後
現在の広島県の東部を指す。律令国の備後国に相当する福山市、尾道市、府中市、庄原市、三次市、三原市など。
(注3)西海漁場
北限は山口県萩市の見島と対馬、南限は五島諸島南端の福江島や長崎県西彼杵(にしそのぎ)半島西岸の外海(そとめ)地方の海域を指す。

古式捕鯨の始まりは伊勢湾沿岸だった

鯨を捕える「捕鯨」は危険を伴うが、なにしろ巨大なので肉や脂が大量に手に入る。江戸時代には「一頭とれると七浦(ななうら)潤う」といわれるほどの収益があった。しかし鯨を捕えるには多くの人たちが自らの責務を果たし、組織的に動く必要がある。海のそばの高台で海を見張る山見(やまみ)はひとたび鯨を発見すると、狼煙(のろし)や法螺(ほら)貝で海上の鯨舟に指示を送る。鯨舟はバラバラではなく集団で鯨を追いかけていく。実に多くの人たちの、しかも統率のとれた共同作業が必要なのだ。

日本の捕鯨の歴史は三つの時代に分けられる(注4)。①漁師たちが臨時的に組織を整え、鯨を地域に分配する「初期捕鯨時代」。②鯨の産物を商品として流通させるため、専業の捕鯨集団「鯨組」を組織した「古式捕鯨業時代」。③ノルウェー式砲殺捕鯨法を主とする「近代捕鯨業時代」。ここでは、②古式捕鯨業時代(以下、古式捕鯨)に絞って話を進める。

古式捕鯨の始まりの地は、戦国時代後期(1570年代初頭)の伊勢湾沿岸とされる。平安時代末期の治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の乱(注5)で水軍が活躍し、組織的な操舟技術と高度化した鉄製の武器が古式捕鯨につながったといわれる。

江戸時代初期、古式捕鯨は熊野水軍(注6)の伝統が残る和歌山県の太地浦(太地町)に伝わった。1606年(慶長11)の和田忠兵衛頼元(わだちゅうべえよりもと)がその嚆矢(こうし)とされる。当時の捕獲方法は、鯨舟が手投げの銛(もり)でダメージを与えて鯨を捕える「突取法(つきとりほう)」だった。1616年(元和元)、紀州の鯨組が西海に進出したという記録がある。

1677年(延宝5)、和田忠兵衛頼元の孫、太地角右衛門頼治(たいじかくえもんよりはる)が突取法に網を併用した「網取法(あみとりほう)」を開発する。ひたすら鯨を追いかけて銛を打ち込んでいたものを、鯨を網にからませて動きが鈍くなったところで銛を打ち込むのだ。網を併用することで捕獲率が高まった網取法は、太地が起源とされている。

(注4)三つの時代区分
諸説あるが、本稿では中園成生さんの著書『くじら取りの系譜(改訂版)』(長崎新聞社 2006)に従った。
(注5)治承・寿永の乱
1180年(治承4)の源頼朝の挙兵から1185年(元暦2)に平氏一門が壇ノ浦で滅亡するまでの大規模な内乱。源平合戦、源平の戦いとも呼ぶ。
(注6)熊野水軍
熊野海賊ともいう。豊富な材木と良港をもつ熊野地方では古くから水軍が発達。中央政界の動向とも密接に関係した。

古式捕鯨の主要漁場

古式捕鯨の主要漁場



和歌山県・太地町

古式捕鯨の鯨舟に装飾を施した「御舟(みふね)

2016年7月下旬、編集部は和歌山県南部の古座川(こざがわ)河口にいた。古座川流域の5地区が担い手として昔から行なわれてきた伝統祭礼「河内(こうち)祭」を見るためだった。河内祭の「熊野水軍古座河内祭の夕べ」の実行委員長を務める上野一夫さんは、「河内祭を調査した大学の先生は『自然崇拝の形を色濃く残す、相当古いもの』と言います」と話す。

河内祭には国の重要無形民俗文化財「御舟行事」がある。御舟とは、河口から3kmほど上流の川のなかにあるご神体「河内様(こおったま)」の神が宿る神額を運ぶ大切な役目を担う。実はこの御舟、古式捕鯨の鯨舟に装飾を施したもの。全長約11m、幅約2mの杉づくりで、船底は浅瀬の多い古座川を遡れるよう少し浅くしてある。

古座地区もかつて古式捕鯨が行なわれた場所で、鯨組「古座鯨方(くじらかた)」があった。上野さんは「鯨の肉は七輪で焼いて生姜醤油で食べたもんや。ご馳走でもなんでもない、普通の食べものだったよ」と話す。

御舟の存在を教えてくれたのは、太地町歴史資料室学芸員の櫻井敬人(はやと)さん。アメリカのニューベッドフォード捕鯨博物館で学芸員を務めたあと、太地町に移籍した若き研究者だ。幔幕(まんまく)(注7)やノボリ、笹飾りなどで装った2隻の御舟が法螺貝の音色を響かせながら出航する様を一緒に見守った。

(注7)幔幕
式場や昔の軍陣などで、周囲に張り巡らす、横に長い幕のこと。

  • 『熊野太地浦捕鯨図屏風(くまのたいじうらほげいずびょうぶ)渡瀬凌雲筆』(4曲1隻)。

    『熊野太地浦捕鯨図屏風(くまのたいじうらほげいずびょうぶ)渡瀬凌雲筆』(4曲1隻)。太地鯨組の末裔から指導を受けた日本画家・渡瀬凌雲はできるだけ正確に古式捕鯨の様を描こうとした 太地町歴史資料室蔵

  • 古座で生まれ育った上野一夫さん

    古座で生まれ育った上野一夫さん

  • 山見跡で説明する太地町歴史資料室学芸員の櫻井敬人さん

    山見跡で説明する太地町歴史資料室学芸員の櫻井敬人さん

  • 燈明崎(とうみょうざき)の「山見跡」。太地の鯨組は燈明崎と南にある梶取崎(かじとりざき)から鯨の到来を見張った

    燈明崎(とうみょうざき)の「山見跡」。太地の鯨組は燈明崎と南にある梶取崎(かじとりざき)から鯨の到来を見張った

  • 『熊野太地浦捕鯨図屏風(くまのたいじうらほげいずびょうぶ)渡瀬凌雲筆』(4曲1隻)。
  • 古座で生まれ育った上野一夫さん
  • 山見跡で説明する太地町歴史資料室学芸員の櫻井敬人さん
  • 燈明崎(とうみょうざき)の「山見跡」。太地の鯨組は燈明崎と南にある梶取崎(かじとりざき)から鯨の到来を見張った

船を極彩色に彩るのは鯨を成仏させるため?

翌日、櫻井さんに改めて太地の古式捕鯨についてお聞きした。

「人が舟を操る古式捕鯨は、鯨が陸地に近づいたり、泳ぐ速度をゆるめたりするところでないと成立しません。全国に何カ所かそういう場所があり、太平洋岸では太地や古座などの熊野灘がその一つでした。シーズンは冬です。冬至のころが一番よい。夏、北の海で餌を食べて太った鯨が、冬にこの付近を通って南の海に南下するからです」

網取法が編み出されてから、太地には、鯨を網に追い詰めて銛を打つ刃刺(はざし)(注8)が乗る「勢子舟(せこぶね)」、仕留めた鯨を2隻で挟んで固定して運ぶ「持左右舟(もっそうぶね)」、鯨網を仕掛ける「網舟(あみぶね)」、網や銛綱に結ばれた樽を回収する「樽舟(たるぶね)」など役割や機能が異なる種類の鯨舟が生まれた(注9)。いずれもきらびやかな彩色が施されているが、櫻井さんはこれが熊野の特徴だと言う。

「のちに栄える九州の西海の鯨舟は、色こそ塗ってあるものの、ずっと簡素です。つまり極彩色に彩っても鯨が獲りやすくなるわけではない。ではなぜ色鮮やかにしたのか。私は熊野という独特な宗教的世界観をもつ風土がそうさせたと考えています。かつて熊野の人々は南の海の向こうに観音様が住む『補陀落(ふだらく)浄土』(注10)があると信じていました。その清らかな世界に通じる熊野灘で鯨という巨大な生きものを殺生する――殺生は仏教で忌み嫌われる行為ですね。鯨とりたちは鯨が死ぬときに『南無阿弥陀仏』と唱えたと古文書にある。つまり船をきらびやかにして絵まで描くのは『捕えた鯨にあの世の光景を見せることで成仏を願った』のかもしれません」

太地では、鯨組の役職は世襲制だった。例えば刃刺は親が刃刺でなければ子も刃刺になれない。「たんに鯨が獲れればよいのではなく、村落のヒエラルキーも関係したようです」と櫻井さん。また、銛など漁具の種類が多いのも太地の特徴だ。

「西海と比べるとバリエーション豊富です。銛の種類や大きさを細かくすればお金も労力もかかりますが、鯨舟の装飾と同じく、古来のルールを守る傾向が強かったようです」

(注8)刃刺
羽指、羽差、波座士とも書く。
(注9)鯨舟の種類
鯨舟の名称や漢字はさまざまだが、本稿では『鯨とり―太地の古式捕鯨―』(和歌山県立博物館)に従った。
(注10)補陀落浄土
南方海上にあるという観音の浄土のこと。補陀落世界へ往生しようとする信仰によって、舟に乗って熊野那智山や四国足摺岬、室戸岬などから出帆する「補陀落渡海(とかい)」も行なわれた。

太地鯨舟の華やかな姿を描いた『太地鯨舟図絵』
勢子舟(八丁櫓、15人乗り)
①勢子一番換え舟「赤地に桜」
②勢子二番換え舟「赤地に大竹」
③勢子三番換え舟「紋尽くし」(紋の詳細は不明)
※いくつかの絵画資料をもとに、和紙に岩絵具で表現したもの(画:土長けい)
※太地町立くじらの博物館の企画展「鯨舟:形と意匠」図録より
太地町立くじらの博物館蔵



広島県福山市・田島

西海へ出稼ぎに行った「網」と「操舟」に長けた人々

太地から西に向かい、半島を回ると瀬戸内海だ。ここに西海捕鯨の隆盛に大きな役目を果たした島がある。広島県福山市内海(うつみ)町の田島だ。

「この島の先人たちは、江戸中期から200年以上も西海への出稼ぎを続けました。村上水軍(注11)の末裔なので行動エリアが広いのです」

そう語るのは医師でスタンフォード大学客員教授も務める宮本住逸(すみいつ)さん。田島出身の宮本さんは、古式捕鯨に用いられた網舟「双海船(そうがいぶね)」や鯨網の復元などに取り組んでいる。

田島が重要だったのは「網」だ。網取法が広まった当時、西海では麻の一種・苧(お)で大きな網をつくる技術がなかった。しかし瀬戸内海では鯛を捕まえる「縛り網」という大網があった。そこで田島の網職人が雇われた。西海の鯨網は縦横18尋(ひろ)(32m)四方の網を一反とし、それを藁(わら)紐でつないだ19反の網を一隻の双海船に積み込んだ。

「呼子(注12)の史料では、鯨組・中尾家が『田島ナヤ(納屋)』を建てていました。それほど田島の人材を欲したようです」と宮本さん。田島の人たちが重用されたのは、干満の差が激しく流れが速い瀬戸内海で巧みな操舟技術を会得した優秀な漕ぎ手でもあったからだ。

「毎年7〜8月に田島を発ち、西海で網をこしらえながら冬の捕鯨に備え、シーズンが終わる翌年4月に戻ってくる。つまり年間8〜9カ月は出稼ぎをしていたわけです」

田島に戻る春は鯨組から借りた双海船に分乗し、夏にまた同じ船を操って西海に向かう。賃金や経費の精算は、帰郷するときに鯨組の金庫番が付いてきて庄屋と行なう。庄屋は各人に貸与した8〜9カ月分の食費などを引いた残りを、本人ではなく妻に渡す。宮本さんは「男に金をもたせたら何に使うかわかったもんじゃないですからね」と笑いつつ、「田島と西海の結びつきはシステムとして確立していたと見ていい」と付け加えた。実際に「生月捕鯨組預り證」という文書も残っている。

(注11)村上水軍
中世に瀬戸内海で活躍した海賊衆。能島(のしま)・因島(いんのしま)などを本拠地とした村上氏一族を中心に、室町幕府などから海上警固を命じられ、勢威をふるった。田島は能島系とされる。
(注12)呼子
佐賀県唐津市呼子町。呼子町の捕鯨の歴史を紹介する資料館「鯨組主中尾家屋敷」がある。


  • 双海船や鯨網の復元などに取り組む宮本住逸さん

    双海船や鯨網の復元などに取り組む宮本住逸さん

  • 2014年、網大工・兼田四郎さん(中央)が復元した「鯨網」

    2014年、網大工・兼田四郎さん(中央)が復元した「鯨網」

  • 内海町横島の「シヤゴシの浜」。西海捕鯨の漁が終わると田島の人々は舟で戻ってきて、この浜に係留していた

    内海町横島の「シヤゴシの浜」。西海捕鯨の漁が終わると田島の人々は舟で戻ってきて、この浜に係留していた

  • 田島の大浦八幡神社にある寄附碑。これは五島捕鯨会社からのもの。そのほかに西海の宇久島(うくじま)や対馬など古式捕鯨ゆかりの地からも寄附があった

    田島の大浦八幡神社にある寄附碑。これは五島捕鯨会社からのもの。そのほかに西海の宇久島(うくじま)や対馬など古式捕鯨ゆかりの地からも寄附があった

  • 内海町歴史民俗資料展示室にある「生月捕鯨組預り證」(1902年[明治35]。戸田家)。双海船からノミ一丁に至るまで詳細に記されている

    内海町歴史民俗資料展示室にある「生月捕鯨組預り證」(1902年[明治35]。戸田家)。双海船からノミ一丁に至るまで詳細に記されている

  • 双海船や鯨網の復元などに取り組む宮本住逸さん
  • 2014年、網大工・兼田四郎さん(中央)が復元した「鯨網」
  • 内海町横島の「シヤゴシの浜」。西海捕鯨の漁が終わると田島の人々は舟で戻ってきて、この浜に係留していた
  • 田島の大浦八幡神社にある寄附碑。これは五島捕鯨会社からのもの。そのほかに西海の宇久島(うくじま)や対馬など古式捕鯨ゆかりの地からも寄附があった
  • 内海町歴史民俗資料展示室にある「生月捕鯨組預り證」(1902年[明治35]。戸田家)。双海船からノミ一丁に至るまで詳細に記されている

一本の電話で蘇った西海捕鯨の記憶

ところが、こうした田島と西海の歴史も一時は忘れられていた。止まっていた時計の針が動き出したのは、約20年前。呼子町の役場からの一本の電話がきっかけだった。

「『幕末から明治期に呼子で亡くなった田島の人の墓がある』という電話でした。ところが皆、昔のことを知らない。町全体が『なぜ墓が?』となりました」

宮本さんたちが島内のお年寄りに聞いて回ると、90代の人たちが西海への出稼ぎを覚えていた。「それから対馬や壱岐、五島列島を巡りました。西海の人たちが手厚く葬ってくださったので、各所で墓が残っていました。死因は伝染病と捕鯨中の事故が半々のようです」

西海に赴いた田島の人たちは、少なく見積もっても年間100人は下らないだろうと宮本さんは言う。次に訪れた生月島で、編集部はその足跡を目の当たりにする。



長崎県平戸市・生月島

きわめて合理的な産業システム

「このあたりなのですが……」

勢いよく伸びる夏草を踏み分けつつ案内するのは、平戸市生月町博物館 島の館の学芸員、中園成生(しげお)さん。生月島の文化である捕鯨などの民俗を研究している。

「ありました!これです」

額に汗した中園さんが指さす先には、草に半ば覆われた墓石があった。風化しているものの、「田嶋(島)磯屋佐助」という墓碑銘は読み取れた。田島から働きに来て、生月島で亡くなった人のお墓だ。「申し訳ないのですが、できるだけ風化を防ぐために普段は横倒しにしているのです」と中園さんは語った。

このそばに、江戸時代に日本最大の鯨組と称された益冨組の「納屋場跡」がある。鯨は波打ち際で解体され、浜辺には鯨を加工する大納屋、小納屋のほか、鯨舟や網といった道具を修理する前作事場(まえさくじば)、従業員が暮らす長屋が並んでいた。

「当時は一つの鯨組で500〜600人が働いていました。益冨組は最盛期に鯨組を五つ抱えていましたから、3000人を超える人を雇っていたようです」と中園さん。

西海では紀州からさほど遅れることなく突取法、次いで網取法による古式捕鯨が行なわれていたが、生月島で本格的に捕鯨が始まったのは畳屋(益冨)・田中組が操業した1725年(享保10)。やや後発だが鯨油に的を絞った点が特徴だ。

「これは西海全般にいえることですが、紀州や土佐が鯨肉を主としたのに対し、こちらは徹底的に鯨油です。まず脂肪層を含む皮をはぐという解体法は西洋のやり方と同じです」

鯨油を採って流通させることを主目的とするため、西海の古式捕鯨は産業としての色合いが非常に濃いと中園さんは言う。田島の網職人のような、それぞれの職務に適した人材を各地から集めていた。

「刃刺は、太地では世襲制、土佐は実力があれば登用される能力主義。ところが、益冨組は潜水漁業の盛んな漁村からスカウトしていました」

刃刺は弱った鯨の背にとりつき、鼻を抉(えぐ)って綱を通す大事な役目を担った。泳ぎが達者で豪胆な者でないと務まらない。そこでヘッドハンティングしていたのだ。

「鯨舟の装飾が簡素なのは費用を惜しんだからですし、銛は消耗品と考えて柄には丸太をそのまま使っている。利潤の追求は徹底しています」

鯨油は農薬として九州諸藩に販売され、食用の部位は関門海峡を抜けて瀬戸内海沿岸や大坂に出荷されている。益冨組は手船(てぶね)と呼ばれる運搬船を保有し、行き来するなかでさまざまな物資も購入し、生月島に戻っていく。生産と流通を一体化した益冨組は現代の企業と変わらない、先進的な活動を行なっていたのだ。

鯨が激減したことで益冨組は1874年(明治7)に捕鯨業から撤退するが、それまでに捕獲した頭数は2万頭、収益は330万両に上るという。平戸藩にとっても古式捕鯨は大きな収入源だったろう。


  • 生月島の北端にある大バエ灯台からの眺め。かつてこの海で古式捕鯨が行なわれていた

    生月島の北端にある大バエ灯台からの眺め。かつてこの海で古式捕鯨が行なわれていた

  • 平戸市生月町博物館 島の館の学芸員、中園成生さん

    平戸市生月町博物館 島の館の学芸員、中園成生さん

  • 田島から働きに来て生月島で亡くなった「田嶋(島)磯屋佐助」の墓石。横倒しにしているのは風化を防ぐため

    田島から働きに来て生月島で亡くなった「田嶋(島)磯屋佐助」の墓石。横倒しにしているのは風化を防ぐため

  • 江戸時代、日本最大の鯨組と称された益冨組の納屋場跡。鯨の解体場があった海岸は御崎(みさき)漁港となった

    江戸時代、日本最大の鯨組と称された益冨組の納屋場跡。鯨の解体場があった海岸は御崎(みさき)漁港となった

  • 益冨組の解体場を再現したジオラマ(島の館)。

    益冨組の解体場を再現したジオラマ(島の館)。頭を陸側にして、轆轤(ろくろ)と大切(おおきり)包丁を使い、背中の皮から剥いでいく。解体の手順は13段階あったという。

  • 平たい石を敷き詰めているのは、冬でも石が熱を帯びることで網が早く乾くからだ

    納屋場跡から少し離れた海岸にある益冨組の網干し場「古賀江網干場」。平たい石を敷き詰めているのは、冬でも石が熱を帯びることで網が早く乾くからだ

  • 島の館に展示されている鯨舟。左から勢子舟、持双舟、双海舟(いずれも縮尺1/10)。太地の鯨舟とは違い、非常にシンプルな塗装だ

    島の館に展示されている鯨舟。左から勢子舟、持双舟、双海舟(いずれも縮尺1/10)。太地の鯨舟とは違い、非常にシンプルな塗装だ

  • 生月島の北端にある大バエ灯台からの眺め。かつてこの海で古式捕鯨が行なわれていた
  • 平戸市生月町博物館 島の館の学芸員、中園成生さん
  • 田島から働きに来て生月島で亡くなった「田嶋(島)磯屋佐助」の墓石。横倒しにしているのは風化を防ぐため
  • 江戸時代、日本最大の鯨組と称された益冨組の納屋場跡。鯨の解体場があった海岸は御崎(みさき)漁港となった
  • 益冨組の解体場を再現したジオラマ(島の館)。
  • 平たい石を敷き詰めているのは、冬でも石が熱を帯びることで網が早く乾くからだ
  • 島の館に展示されている鯨舟。左から勢子舟、持双舟、双海舟(いずれも縮尺1/10)。太地の鯨舟とは違い、非常にシンプルな塗装だ

隠れなかった「かくれキリシタン」

益冨組がもたらす仕事は島民も潤した。鯨は余すところなく利用(注13)できたので、加工は島民も担っていたはずだ。これが生活の助けになり、島民の「かくれキリシタン信仰」(以下、かくれキリシタン)を守った面があることは知られていない。

「かくれキリシタンと聞くと、真夜中に人目のない場所に籠ってオラショ(お祈り)を唱える……そんなイメージを抱くと思いますが、生月島では屋外で行事をし、オラショも大きな声で唱えます」と中園さん。

その理由は、かくれキリシタン信者(以下、信者)の川﨑雅市(まさいち)さんのご自宅を訪ねてわかった。一階の広間には祭壇が四つある。向かって右から、氏神様(お伊勢様)の神棚、かくれキリシタンの組(注14)のご神体である「御前様(ごぜんさま)」、先祖(せんそ)(仏壇・禅宗)、お大師(だいし)(弘法大師空海・真言宗)が並ぶ。この光景こそ生月島のかくれキリシタンのあり方を物語っていると中園さんは言う。

「かくれキリシタンは『宣教師がいなくなったあと、仏教や神道と混ざり合ってできた独特の信仰』と見なされていましたが、実はそうではありません。生月島の信者さんたちは、かくれキリシタンとは別個に神道、仏教も信仰しています。つまりそれぞれの宗教・信仰が並存しているのです」

弾圧はあったが、他の地域に比べて、平戸藩はさほど苛烈ではなかったことも幸いした(注15)。

「平戸藩は、キリシタンかどうかの判断を『仏教を信仰しているか否か』で決めていた節がある。だから並存を選んだ生月島の信者は信仰を守ることができ、行事にもあまり秘匿性がないと考えられます」

とはいえ、異なる宗教・信仰を並行するのは大変だ。神社や寺を維持しつつ、行事のたびに出費も嵩む。それでも生月島の信者たちが家や集落、信仰組織を維持できたのは、古式捕鯨やその後のまき網(巾着網)漁業(注16)で経済力を保てたことが大きい。川﨑さん自身、16歳から50歳まで遠洋まき網漁業に従事していた。

「一年で家にいるのは50〜60日ほど。あとはずっと船に乗っていました。オラショを覚えたのも船のなかなんですよ」と川﨑さんは微笑んだ。

(注13)余すところなく利用
肉は塩蔵肉に、髭は提灯の取っ手や扇子の要に、尾の筋は綿打ち弓の弦に用いられるなど、鯨は捨てる部位がなかった。
(注14)組
生月島の場合、「津元」(つもと)や「垣内」(かきうち)と呼ばれる組がある。20〜50軒で構成され、そのなかに4〜5軒からなる「小組(コンパンヤ)」という下部組織がある。
(注15)平戸藩のキリシタン弾圧
初代藩主・松浦鎮信(しげのぶ)が幕府の禁教※より15年前の1599年(慶長4)に禁教に転じたため幕府から疑われず、監視も多少ゆるかったと考えられる。
※禁教
1612年(慶長17)および翌年に江戸幕府が発令した「慶長の禁教令」を指す。広義ではそれ以前の豊臣秀吉による1587年(天正15)の「バテレン追放令」などもある。
(注16)まき網(巾着網)漁業
魚群を囲んで網を張ったあと、網底を締めて一網打尽にする漁。生月島では明治時代の終わりごろに始まり、昭和初期以降、動力化した網船で遠方に出漁するようになった。


  • 「行事では酒と肴は必須です。大きな行事ではおせち料理のようなものや団子、餅などもそろえます」と話す川﨑雅市さん

    「行事では酒と肴は必須です。大きな行事ではおせち料理のようなものや団子、餅などもそろえます」と話す川﨑雅市さん

  • かくれキリシタン信者の川﨑雅市さん宅の居間。宗教・信仰の異なる四つの祭壇が並ぶ

    かくれキリシタン信者の川﨑雅市さん宅の居間。宗教・信仰の異なる四つの祭壇が並ぶ

  • 組のご神体「御前様」。掛け軸仕立ての「お掛け絵」と呼ばれる聖画が奥にある。右手前にある鶴首の壺「お水瓶」には「サンジョワン様」と呼ぶ聖水が保管されている

  • 生月島と平戸島の間にある中江ノ島。かくれキリシタンの聖地とされ、聖水はこの島で汲む。禁教時代初期(1622年と1624年)に平戸藩によるキリシタンの処刑が行なわれた

    生月島と平戸島の間にある中江ノ島。かくれキリシタンの聖地とされ、聖水はこの島で汲む。禁教時代初期(1622年と1624年)に平戸藩によるキリシタンの処刑が行なわれた

  • 「行事では酒と肴は必須です。大きな行事ではおせち料理のようなものや団子、餅などもそろえます」と話す川﨑雅市さん
  • かくれキリシタン信者の川﨑雅市さん宅の居間。宗教・信仰の異なる四つの祭壇が並ぶ
  • 生月島と平戸島の間にある中江ノ島。かくれキリシタンの聖地とされ、聖水はこの島で汲む。禁教時代初期(1622年と1624年)に平戸藩によるキリシタンの処刑が行なわれた

「その後」に活きた古式捕鯨のノウハウ

川﨑さんが従事していた遠洋まき網漁業は、古式捕鯨と共通する点が多いと中園さんは考えている。

「どちらも集団での漁です。一人だけファインプレーをしてもうまくいかない。まき網の漁獲物も遠方に販売しますし、資本をどう再投資するかを皆で考え、行政とも折衝して漁獲量を調整する。大人数が協力しないと目的が果たせないという点で古式捕鯨のシステムと似ています」

古式捕鯨がその後につながるのは、太地と田島も同じだ。捕鯨が下火になったあと、太地の人たちは、アメリカに渡り、ロサンゼルス港にできた缶詰工場でツナ缶などの製造に従事し、またオーストラリア・ブルーム町の真珠産業にダイバーとしてかかわった。田島の人たちは、フィリピンのマニラで「打瀬網漁(うたせあみりょう)(注17)」を皮切りに造船業などに進出して財を蓄え、故郷に送金したという歴史もある。捕鯨がなくなっても、培ったものが途絶えたわけではなかった。

紀州・太地から伝わった突取法・網取法は、田島がそれに適した網を人の行き来を介して提供したことで、益冨組をはじめとする西海捕鯨の隆盛につながった。さらにその技やノウハウを活かす道を外国にも求めた。海という広大な空間を、船を操り生き抜いた先人たちの姿に、人間のしぶとさ、たくましさを感じる。

(注17)打瀬網漁
風の力で袋網を引いて魚介類を獲る漁法。海底に棲むエビ、カニ、カレイなどの魚介類を狙う。

太地町歴史資料室に展示されている「チキン・オブ・ザ・シー(シーチキン)」の缶詰。

太地町歴史資料室に展示されている「チキン・オブ・ザ・シー(シーチキン)」の缶詰。古式捕鯨が下火になったあと、アメリカへ渡った太地の人たちがその製造に従事した  太地町歴史資料室蔵



参考文献
『くじら取りの系譜(改訂版)』(長崎新聞社)
『鯨とり―太地の古式捕鯨―』(和歌山県立博物館)
『Taiji's Cultural Heritage 2015 太地の遺産』(太地町)
『鯨舟 形と意匠』(太地町立くじらの博物館)
『内海町の文化財 第八号』(内海町教育委員会・文化財保護委員会)
『クジラ網と双海(そうがい)~西海捕鯨で活躍した郷土の先人たち』(福山市内海町文化財協会)
『歴博 第一六八号』(歴史民俗博物館振興会)
『かくれキリシタンとは何か――オラショを巡る旅』(弦書房)
『生月島のかくれキリシタン(改訂版)』(平戸市生月町博物館・島の館)

(2016年7月23~24日、8月2日、8月26~27日取材)

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    機関誌 『水の文化』 54号,編集部,和歌山県,広島県,長崎県,水と社会,産業,水と生活,歴史,捕鯨,鯨,漁業,和船,網,江戸時代,信仰,キリシタン,釣り

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