機関誌『水の文化』55号
その先の藍へ

藍
Interview

浮世絵における「藍」の存在感

渓斎英泉『仮宅の遊女』 千葉市美術館蔵

渓斎英泉『仮宅の遊女』 千葉市美術館蔵

江戸時代、庶民へ売るためにつくられた浮世絵。絵柄、表現方法は流行(はや)り廃(すた)りが激しかったが、その一つに藍色の濃淡だけで刷った浮世絵版画がある。それが「藍摺絵(あいずりえ)」。藍一色で描く手法「藍摺」は、文政末期にドイツから輸入された合成顔料によって可能となったもの。それまでの色鮮やかな浮世絵と異なる「藍摺絵」は、江戸の人たちにどう受けとめられたのか。近世を中心に日本絵画史を研究する東京国立博物館の松嶋雅人さんに浮世絵と藍摺絵、さらに藍の存在感について伺った。

松嶋 雅人さん

東京国立博物館
学芸研究部列品管理課
平常展調整室長
松嶋 雅人(まつしま まさと)さん

1966年(昭和41)大阪府生まれ。金沢美術工芸大学 美術工芸学部卒業。東京藝術大学大学院博士後期課程単位取得満期退学。専門は近世を中心とする日本絵画史。展覧会企画として、没後400年 特別展「長谷川等伯」、特別展「京都―洛中洛外図と障壁画の美」などを担当。著書に『日本の美術 No.489 久隅守景』(至文堂 2007)、『日本の美術 No.534 狩野一信』(ぎょうせい 2010)などがある。

中世までの絵画は権威を象徴する道具

日本の絵画はもともと、天皇や貴族の宮廷文化のなかで主に宗教的な儀式の背景として造形されたものです。手本はすべて中国から来ました。鎌倉時代に武士が台頭すると、財力を蓄えた地域の守護大名などが自らの権威の象徴として絵画を描かせます。

すなわち中世までの絵画とは、一般庶民にはまったく縁のない、権力者を飾るための道具だったのです。

戦国時代以降は状況が変わります。江戸時代には、財を成した商人が権力者をまねて自宅を絵画で飾りました。画題もそれまでの宗教的な架空の世界のみならず、遊女や演芸や祭礼などを描いた風俗画が現れてくるのです。

江戸時代になって商業が発達すると、一般の商工階層の人たちも絵画を楽しめるようになります。通常の絵画は一点ものですが、木版画の技術が生まれ、一つの下絵から数百枚、数千枚も複製品を刷れるようになり、格段にコストが下がったからです。「浮世絵」はこうして誕生します。喜多川歌麿、東洲斎写楽といったビッグネームの浮世絵師が活躍する江戸中期ごろには、日銭を稼いで食べるのが精一杯ではない中流層の庶民の間でも、浮世絵は流通しました。

世界に先駆けて庶民が絵を楽しむ

浮世絵の主要なテーマは芝居町や遊里といった享楽的な場所や、遊女や歌舞伎役者などの人物画でした。新作歌舞伎の開演前には、人気役者が演じる見どころの場面が浮世絵となって出版され、よく売れました。

この時代、庶民が絵画を娯楽として消費した国はほかになかったと思います。西洋でも中世まで絵画は王侯貴族など特権階級の文化でしたし、印刷術が発達した近代でも、絵画は出版物の挿絵としては普及しましたが、浮世絵のように単体の絵画を庶民が楽しむ風習はありませんでした。

幕末以降、浮世絵が海を越えたとき西洋の人たちが驚いたのは、その表現技法というよりも、描かれていた内容の方です。遊郭や芝居小屋で興じる人たちを見て「なんと文化の進んだ国なのか」と。描かれていたのは実は富裕層なので、市民階級と思い込んだ多少の誤解はあったにせよ、当時の西洋の人たちは浮世絵の題材やそれを娯楽として消費する風習を知って、自分たちが貴族を倒してやっと手にしたような大衆文化に先駆けて興じていた国が東洋にあったのだ、と驚いたに違いありません。

洗練を極めた「藍摺絵」も当時は売れなかった

文政期(1818〜1830年)の末に合成顔料「ベロ藍」(ベルリン藍、プルシアンブルー)が輸入され、浮世絵によく使われるようになります。それまでの多色刷の錦絵は朱色や黄色が主で、青系統はめったに見られません。清々しい青色を出すには、中東産の高価な鉱石が原料の「ラピスラズリ」が必要で、それを用いることができるのは将軍大名の御用絵師などに限られていました。大衆的な浮世絵にはとても使えなかったのです。蓼藍も使われていましたが、やはり高価なので少なかったのです。

そこで安価なベロ藍が普及すると、人気浮世絵師の渓斎英泉(けいさいえいせん)が藍色の濃淡だけで描く「藍摺絵」を始めました。

歌川国貞はこの手法をさらに洗練させた美人画を描きます。吉原を代表する高級遊女が禿(かむろ/遊郭に住む見習いの童女)を引き連れて客を迎えている『中万字や内 八ツ橋』では、藍の濃淡だけで着物の柄を描いています。大正期の洋画家・岸田劉生(りゅうせい)は著書で「卑近な美しさは世界無比」「江戸絵の粋」と絶賛しました。

版元と絵師は一種の水墨画のつもりで藍摺絵を編み出したのでしょう。現代の私たちが見てもクールでエレガントだと思いますが、当時の人々がどう受けとめたかというと、実はそれほど売れませんでした。やはり刺激の強い彩色画の方が好まれたようです。ですので、同じ版木を使い、多色刷に変えて売り出されたりもしました。

芸術性を評価するのは後世の視点で、当時の浮世絵はあくまでも「商品」。このことを忘れてはなりません。版元は人々が求める趣味嗜好に応じて絵師に描かせました。当時は印税方式がなく買い切り。売れれば売れるほど版元は儲かりましたが絵師の懐は潤いません。人気絵師が弟子を抱えたりできたのは裕福な大名などのパトロンがいたからです。遊女屋を経営していた渓斎英泉などのように、別に本業や副業をもつ浮世絵師は珍しくありませんでした。

歌川国貞『中万字や内 八ツ橋』 北海道立近代美術館蔵

歌川国貞『中万字や内 八ツ橋』
北海道立近代美術館蔵

水や空の表現に効果を発揮したベロ藍

ベロ藍が広まるのと同時に、それまで美人画と役者絵が本流だった浮世絵に風景画が増えはじめます。『東海道五十三次』『名所江戸百景』などのヒット商品で風景画を確立したのが歌川広重です。広重は版木を斜めに切る「ぼかし摺り」の技法で藍色を水平線や空など背景の一部に使い、引き締まった鮮やかな印象を与えました。海や川の表現でも藍色は巧みな効果を出せます。葛飾北斎は『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』で、逆巻く荒波を白と藍のコントラストでダイナミックに描きました。発色が強くインパクトの大きいベロ藍は、風景画の点景にうってつけでした。

幕末になると、風景画のほかにも花鳥画や歴史画など浮世絵のテーマが多岐にわたるのは、幕府の目を逃れるためでもありました。天保の改革で市中の綱紀粛正が図られ、遊郭や歌舞伎界に対してのみならず、それらを描く浮世絵へも規制が強化されたのです。それでも版元と絵師は商魂たくましく、テーマをほかに求めて人々の欲しがる浮世絵を世に出しました。

広重や北斎の風景画がよく売れたのは、ガイドブックの役割を果たしたからでもあります。幕末にかけては関所を越える移動の縛りがゆるめられ、女性でも自由に旅ができるようになりました。広重の風景画などは大胆な構成と色づかいで現実の風景をデフォルメしていますから、実際に現地へ行っても同じ景色はあり得ないのですが、当時の人々はおそらく「広重の絵の通りだ」と思ったに違いありません。『名所江戸百景 水道橋駿河台』などは、前景に縦長画面を覆う巨大な鯉のぼり、中景に神田川の水道橋、遠景に富士山を配した極端な近接拡大の遠近法構図で視覚効果を高めています。浮世絵のイメージの方が現実に投影されるほどインパクトが強かったので、美人画や役者絵ほど刺激のない風景画でもヒットしたのでしょう。

江戸時代を通じて浮世絵は膨大に大量生産されました。今、残されている作品は氷山の一角にすぎません。版元も絵師も競争し切磋琢磨するのでクオリティはどんどん上がり、幕末の人気絵師、歌川国芳の絵一つとっても、描かれている情報量があまりにも多すぎて、現代の私たちがすべて説明しきれないほどです。

明治以降、浮世絵に取って代わったのは写真や映画など西洋から入ってきた文物。浮世絵が廃れたわけではなく、たんに娯楽が多様化したのです。戦後日本でマンガやアニメーションが隆盛を極め海外へも波及したのは、元をたどれば江戸時代、世界に先駆け娯楽商品として浮世絵を受容する文化の伝統があったからと言っても過言ではありません。

その浮世絵も一時代を画した娯楽の一つですが、藍摺のような洗練された技法も含め、これだけレベルの高い文化が庶民の生活を彩っていたことに、改めて驚かされるのです。

  • 葛飾北斎『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』 千葉市美術館蔵

    葛飾北斎『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』 千葉市美術館蔵

  • 歌川広重『名所江戸百景 水道橋駿河台』  国立国会図書館蔵

    歌川広重『名所江戸百景 水道橋駿河台』 国立国会図書館蔵

  • 葛飾北斎『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』 千葉市美術館蔵
  • 歌川広重『名所江戸百景 水道橋駿河台』  国立国会図書館蔵


(2016年12月21日取材)

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