機関誌『水の文化』13号
満水(まんすい)のタイ(タイランド)

アジアの水辺から見えてくる水の文化
タイ中部の水辺の住いと暮らし

アジアまち居住研究会

法政大学工学部建築学科専任講師
高村 雅彦

1964年生まれ。法政大学大学院工学研究科建設工学専攻修了。博士(工学)。2000年より現職。専門はアジア建築史・都市史。建築史学会賞、前田工学賞を受賞。

畑山 明子

法政大学大学院工学研究科建設工学専攻修士課程在学中。
1979年生まれ。日本女子大学家政学部住居学科卒業。

庄司 旅人

法政大学工学部建築学科在学中。1979年生まれ。

■調査・図面作成協力/岩城考信、広瀬尚紀、市川敬祐、井手禅、上田繁、許斐さとえ、船越恵、吉田千春(法政大学)
■通訳/森田淳朗(東京大学)、エガシット・ノンパックディー(タマサート大学)、パッタウェー・パンサコンナワット、スワタナ・ラートマノラット

2002年の夏は世界の各地で洪水の被害が相次いだ。とくに被害が大きかった中国、チェコ、ドイツ、オーストリア、ロシアは、日本のニュースでも取り上げられて記憶に新しい。洪水による被災者は、この20年間で7倍にも膨れ上がり、年平均では1億3千万人を越えている。地球の温暖化や異常気象に加え、人口増加や都市化による自然破壊が主な原因と言われている。

タイもまた、今年の夏は洪水に見舞われた。チャオプラヤー川流域では、上流から下流に向かって徐々に被害が報告されていく。3月に続き、ちょうど2回目の調査を実施した8月末には、私たちもスコータイで洪水に出会う。新市街地の中央を流れるヨム川が氾濫し、周囲の建物はまさに浸水寸前にあり、家族総出で土嚢を積む作業に追われていた。ところが、新市街地でわずかに存在する高床式住居の家の住人は、その作業を上のベランダから眺めているにすぎない。床下2mもあるのだから、浸水したところで何ら問題はない。それが高床式住居の最大の特徴であり、水とともに暮らすタイ人ならではの知恵だということを改めて気づかされた。日本にも、蔵の土地を高く造成し、同時に屋根裏を作って洪水から生産物と身を守る「水塚」という住居形式が利根川流域にある。ダム問題が叫ばれる昨今、こうした水と共生する住まいのあり方をもっと評価すべきではないだろうか。

そこで、私たちアジアまち居住研究会は、昨年のバンコク・トンブリー地区(『水の文化第10号』)に続いて、タイ中部のスコータイ、ピッサヌローク、ロッブリー、アユタヤーの調査を実施した。チャオプラヤー川の中流域にあるこれらの都市は、それぞれに独自の歴史があり、地形も異なる。それゆえ、水と人々の暮らしの関係も多岐に渡るため、そう簡単には理解できない地域である。だが、一方で中流域は、同時に上流と下流の両方の性格を少なからず帯びているから、今後、チャオプラヤー川の上流と下流へ調査の対象を広げるには、まずこのタイ中部を知る必要がある。そこから、タイの水の文化を読み解くキーワードを多く得ることができるはずだ。

タイ中部の多様な水辺環境に応じて、都市の各地区がいかなる住宅をどのように集合させて全体を形作り、その中で人々はどのような暮らしをしているのかを明らかにしようとしたのが今回の報告である。地区も住宅も暮らしも、どれもみな水との共存のなかで成り立っているタイ中部にあって、地区の空間構造から住宅の構成、暮らし方に至るまでを連続的に見ながら相互の関係を読み解いていく。そのためには、総合体として位置づけることができる地区の空間構造の分析を中心に、地形や水利といった地理学的な視点、暮らしや生活道具といった民俗学的な視点、家族やコミュニティといった社会学的な視点、住宅の構成といった建築学的な視点をその場に応じて加えていく。研究であるのだから、もっと分析の枠組みを固定しなければならないのかもしれない。だが、西欧近代の呪縛から離脱し、アジア独自の見方・調べ方を探す作業は今始まったばかりだ。そのうえ、人間が最初に引き付けられるのは、研究ではなく、その都市や地区の魅力それ自体であることを忘れている。まずは、その魅力のよって出るところを掘り起こすのである。

タイ中部では、どの都市でも水辺の住宅の多くが高床式住居であり、川や雨水の利用の方法も共通している。しかしながら、水辺の環境や家族などのさまざまな異なる条件が、個室化を拒み、増改築に対応しうる、やわらかな空間の住宅を生み出した。そして、ピッサヌロークでは川の上に浮き家が連なり、ロッブリーでは斜面と低湿地で住宅の集合の仕方や住まい方が異なり、アユタヤーでは同じ条件でもムスリムとそれ以外で水に対して違いを見せる。これらは、その都市の顔となり魅力となって、水辺の環境づくりと住いの関係を特徴づけている。ここで取り上げる事例の様子は、その都市全体を覆うものではない。しかし、まち全体を隅々まで歩き回って探り当てた、その都市の魅力を代表する地区ばかりである。

では、さっそくタイ中部の住宅の特徴から見ていこう。

タイ中部の住宅やわらかな空間

タイの伝統的な住宅は、いずれも木造高床式住居である。住宅の地上から床面までの高さは、立地や洪水の浸水の程度によって異なり、低いもので40cm、高いもので2m程度ある。

タイ中部の高床式住居の中でも伝統的なものにバーンソンタイ(タイ様式の家)がある。熱による対流を考慮して天井を高くできる切妻屋根と、熱帯のスコールから家屋を守るための約1mの庇が特徴的な住宅だ。屋根は空に伸びて反り、美しい飾り破風が象徴的である。屋根はかつてイネ科のヤーカーで葺かれていたが、最近はトタンが多く使用されている。ヤーカーは葺くのが難しく維持も大変であるが、トタンは安く修理もしやすい。その反面、雨が降ると雨音がうるさく、室内には熱がこもりやすい。

住宅は一般的に、バンダイ(階段)→チャーン(屋根のない移動のための空間)→ラビアン(庇下の居間)→ホンノン(寝室)の順に奥に行くにつれて私的空間の度合いを増す。ここで気を付けなければならないのは、これはあくまでも一般的な呼称であって、とくにチャーン、ラビアン、ホンノンは機能と空間のあり方が必ずしも固定的なものではないということである。つまり、居間や寝室といった機能面からだけで住民がそう呼ぶために、空間の形態や規模が一定ではないことのほうがむしろ普通で、それらの概念はきわめて曖昧である。本報告では、住民からのヒアリングに基づいて部屋名を記述している。

さて、地面と高床の床は、バンダイ(階段)でつながる。バンダイは大きな住宅の場合、複数設けられることがあり、一つは住宅の表に、もう一つは勝手口のように裏に置かれる。階段下が水際であれば、水上に小さな屋根を架けて床を張り、休息や談笑、時には食事など、実に心地よい空間をつくり出す。

バンダイを登ると、チャーンに出る。使われ方や家により微妙に呼び方は変わり、ノークチャーン、チャーンラーン、パライなどと呼ばれるが、空間としては、屋外広場、あるいは中庭のような屋根のない空間であることは共通している。主に棟と棟との移動に使われ、異なる空間を接続するための場で、いわば人工地盤といえる。タイは1年を通して水位差が大きく、また洪水も多く、増水すると地面がなくなってしまう。そのような人間と建物の地盤面が不安定な風土のもとでは不可欠な空間であり、地面がないなら自分で作ってしまえ、といったところである。

このチャーンと一段段差を高く付けてつながるのが、次のラビアンである。普通、幅2、3mほどのテラスや回廊に似た空間ではあるが、タイの住宅には欠かせない場だ。ラビアンは昼寝、休息、食事、談笑、接客など多目的に利用され、居間に似た空間となっている。就寝以外のすべての日常生活がここで行われる。チャーン側は壁がない吹き放しで、風通しがよく、長い庇が日中の強い日差しから守ってくれる。我々日本人のように生活の行為を室内外のどちらで、あるいはどこで行うか、という固定的な概念を彼らはあまり持っていない。その時々に応じて心地よい空間で生活するのだ。彼らの柔軟さがつくり出すタイならではの住空間が、この多目的なラビアンといえるでしょう。

ラビアンの奥には、壁で囲まれた寝室のホンノンが置かれる。日中は鍵を閉める家も多く、ホンノンは単に寝るためだけではなく、貴重品を置く場所としての意識も強い。

ホンノンの一角だけを壁で囲い貴重品を収納する部屋とし、壁のない場所に就寝することも多い。住民は壁がなくてもそこをホンノンと呼ぶ。その場合、壁で囲われた部屋を新婚部屋とする住宅がいくつか見られた。タイでは母系が一般的で、特に末娘が家を継ぐという。山岳タイ族やその系統の少数民族の風習が、こうした都市部でも見られるのは興味深い。時代や立地条件で住宅が変化しても、こうした儀式の空間だけは継承されることを示す一つの例といえるだろう。また、大規模な住宅になると、ホンノンの脇に仏像を納めた専用の仏壇部屋のホンプラを置くことがある。宗教儀式の際に、僧は一段高いラビアンに、住人は低いチャーンに座り、床の段差がいかに意味を持っているかが知られる。

すべてを屋根で覆い、壁だけで空間を分ける住宅に対し、床、壁、屋根などを巧みに使って空間を意味づけていくタイの家は、住宅の中にいるときでも屋外で感じられるような開放感のある空間を多くつくり出す。したがって、基本的にはバンダイ、チャーン、ラビアン、ホンノンから構成されるが、それらの組み合わせ方や数などは、実にバリエーションに富む。そうした中で、パブリックからプライベートな空間へと緩やかに変わって行くタイの住宅。人々はその時々で最もふさわしい空間に、自分の居場所を見出していくのだ。住宅そのものも最初のままの形であるケースは少なく、増改築あるいは移築を繰り返し、その時々にあった形に変化していく。増改築には、もとからある部分に屋根をかけたり壁をつけたりするもの、床下部分にレンガを積み室内化するもの、また新しい棟を作ってチャーンでつなぐものなど、さまざまな方法がとられる。それにより、空間の名前も変化してくる。それゆえに、部屋の呼び方も曖昧になりやすいのだ。タイの住宅はきわめて融通の利くいわばやわらかな空間を持ち、屋根を載せれば使い方は変わるし、壁を作れば寝室となる、と言ったように、変化は容易にかつ頻繁に行われる。その変化は、都市の変容に伴う外的要因や居住者のニーズによる内的要因によって起こり、住宅はその時代時代で居住者により住みこなされていくのだ。

  • 中央:バンダイ(階段) 右:手前がチャーン。おばあさんがドアを開けている冷蔵庫は、一段床が高くなったラビアンにある。

    中央:バンダイ(階段) 右:手前がチャーン。おばあさんがドアを開けている冷蔵庫は、一段床が高くなったラビアンにある。

  • 左:屋根のないチャーン 右:チャーンの隅には水瓶とコンロがあった。

    左:屋根のないチャーン 右:チャーンの隅には水瓶とコンロがあった。

  • 上とは違う住宅。 壁のない吹き放しのままだが、高床の床下部分を居住空間にしている。

    上とは違う住宅。 壁のない吹き放しのままだが、高床の床下部分を居住空間にしている。

  • 左上:バンダイを上がった右手にある台所 寝室を増築 元のチャーンを室内化し、床面積を増やす

    左上:バンダイを上がった右手にある台所 寝室を増築 元のチャーンを室内化し、床面積を増やす

  • 中央:バンダイ(階段) 右:手前がチャーン。おばあさんがドアを開けている冷蔵庫は、一段床が高くなったラビアンにある。
  • 左:屋根のないチャーン 右:チャーンの隅には水瓶とコンロがあった。
  • 上とは違う住宅。 壁のない吹き放しのままだが、高床の床下部分を居住空間にしている。
  • 左上:バンダイを上がった右手にある台所 寝室を増築 元のチャーンを室内化し、床面積を増やす

ピッサロヌローク水に浮く住まい

ピッサヌロークは、「空飛ぶ野菜炒め」が見られる場所として、日本のテレビ番組でよく紹介される。市内の中央を南北にナーン川が流れ、ほかに見どころといえば、仏像が美しい「ワット・プラ・シー・ラタナー・マハタート」があるくらいで、観光客も少ない町だ。しかし、ここでは興味深い住まいが見られる。水上に家を浮かせて住む「ルアン・ペー」、訳して「浮き家」が川に並び、ピッサヌロークならではの風景を作り出している。

現在、ナーン川東岸では開発が進み、リバーサイドウォークが作られて、切り立った堤防が延びている。2002年3月までは、東岸にも浮家が並んでいた。1995年の航空写真を見ると、数も今よりは相当多い。現在では、川の西岸に数十軒の浮き家が軒を連ねている。

浮き家は、竹を組んで、いかだのような土台を造り、その上に家を建てている。ドラム缶を並べて土台にする家もある。家は、川岸に結びつけたロープや竹を使って固定され、水際からは30cmほどの細い板を渡して、玄関までの道が造られる。川に浮かぶ家にも電気はしっかり通っているから驚きだ。川沿いの電線から引っ張っていて、竹竿による自作の電信柱を川岸に差し、家まで伸ばしている。屋根にはアンテナもついている。水位の低い時期には、広くなった川岸が洗濯物を干す場所としても使われ、生活が川岸まであふれ出す。

浮き家は、20世紀初頭までバンコクなどの都市でも一般的なものであったが、川にあるため舟運の妨げになったり、見た目の印象から撤去されることが多くなり、今では限られた地域でしか見られなくなった。

かつてのピッサヌロークでは、雨期と乾期の水位差が7、8mもあった。そのような変化の大きな水面に浮かぶ浮き家は、水位の上下に応じて、家もまた上下する。つまり、水と一体となった住まいなのである。日ごろから陸に住み、「建物は陸に建つ」という私たちの考えを変えてくれるユニークでダイナミック、しかも実に効率のよい住まいといえる。現在ではダムによって水位が調整されているが、それでも、ピッサヌロークで3、4mの水位の変化がある。

浮き家は水に浮かんでいるということもあり、2階建てはもちろん、規模の大きな住宅はなく、間取りもいたってシンプルである。しかし、小さいながらも陸上にあるタイの伝統的な住宅の構成、特に軒下空間のラビアンや寝室の在り方が類似している点は興味深い。規模の小さな浮き家では、庇下の30cmほどの狭い部分がラビアンに相当する。ここに子供が座わり、遊んだり、目の前の水をタライにとって洗髪したりする風景はよく見られる。寝室は陸側に壁で囲ってプライバシーを守り、川側には水に開く開放的な居間を配置する。高床ではなくても、タイの伝統的な住宅と同じ構成でつくられているのだ。

浮き家には、はね上げて開く大きな戸が川側に備え付けられている。日中にはこの戸を開けると、川からの涼しい風をとり込めると同時に、開けた戸はそのまま強い日差しを防ぐ庇としても機能する。

狭い浮き家で歩き回りながら必死に図面を書いていると、住宅の部材に頭をぶつけてしまうことがあった。これは建物自体のスケールが日本と違うから起きることで、タイ人の平均身長は日本人より10cmほど低い。家は、人体寸法に合わせて作られている。人間のの指や腕の長さを単位として、柱や梁などの部材の長さを決めているのだ。

こうした住宅では、どのように水が使われているのかを見るのが面白い。軒下にはタライや洗剤が置かれ、浮き家の住人は水浴びだけでなく、食器を洗うときも川の水を使う。そして、トイレはトタン板で囲まれて、床板の一部分を適当な大きさに切り取り、そこから水面に直接用をたして、川の水でお尻を洗う。住宅の中で、トイレが川の下流に位置していることもうなづける。しかし、下流にあったとしてもすぐ隣に別の浮き家が建つ。一見、不衛生に思えるが、川には多くの小魚が住み、トイレからの餌を待っていて、次の家に流れ着く前に食べてしまう。川の持つ自浄作用を最大限に生かした住まいといえるのだ。

屋外には舟が係留されている家も多い。移動はこの舟で行われる。家を出れば、すぐに自家用の舟で自由に川を行き来できるのだから、便利な環境といえよう。ピッサヌロークでは、陸上の公共バスが10年ほど前に開通した。それ以前は、タクシーボートが主流で、市民の移動は水上交通に頼っていた。川を移動することは、かつてはごく普通のことであったのだ。訪問した浮き家で「水浴びや舟での移動が簡単にできるから陸の家よりいいよ」と言っていたのが印象に残っている。

現在、ピッサヌロークでは浮き家が作り出す魅力的な景観が貴重な観光資源にもなっているということから、国王陛下の次女であるプラテープ王女が保護に乗り出し、浮き家の移築を禁止している。ただし、ここに留まる条件として、屋根をタイ中部の伝統的な形に変えることが求められている。しかも、その家をレストランにする意向もあるようだ。浮き家の保存運動が、距離だけでなく意識的にも、かえって住人の生活が水から遠のくことをもたらし、形だけを残した商業主義的な利用に留まるとしたら寂しい限りだ。住宅としての本来の浮き家とその生活の実態を失い、ただの水辺のテーマパークになってしまう危険性をはらんでいる。見た目だけではない、水とともに生きるくらしを価値づける必要がある。

  • 2棟のように見えるが1棟の浮き家。図と下の写真はこの家のもの。

    2棟のように見えるが1棟の浮き家。図と下の写真はこの家のもの。

  • 上:2棟のように見えるが1棟の浮き家。右図と下の写真はこの家のもの。 下:庇下のラビアンと室内。この家は幅1m以上のラビアンを持つ。

    上:2棟のように見えるが1棟の浮き家。右図と下の写真はこの家のもの。 下:庇下のラビアンと室内。この家は幅1m以上のラビアンを持つ。

  • 2棟のように見えるが1棟の浮き家。図と下の写真はこの家のもの。
  • 上:2棟のように見えるが1棟の浮き家。右図と下の写真はこの家のもの。 下:庇下のラビアンと室内。この家は幅1m以上のラビアンを持つ。

ロッブリー水辺の斜面地と住民組織

ロッブリーの歴史は、クメール帝国の経済、軍事の重要な都市として始まる。その後のアユタヤー時代には、ナライ王(1656〜1688年)が夏の離宮をつくり、ここで多くの時間をすごした。

ロッブリーの町は、南北に流れる川の両岸に形成されている。東岸が旧市街地で有名な寺院があり、宮殿や商店街が川に開く。フランス人建築家がデザインした宮殿からは、北に延びる川沿いの道に商店街が続いている。一方、南北のロップリー川と支流が合流する西岸は、蒸気の精米工場があり、いわば生産地域となっている。

さて、東岸の川沿いの商店街では、日用品から食料品までさまざまな店が軒を連ねている。店主の多くは、19世紀、中国潮州からの華僑で、20世紀初頭にはチーク材の卸売りで財を成した。

この商店街で特徴的なのが、メインストリートの道路から川に向かって伸びる何本もの細い路地だ。飲料品を扱う問屋横の路地では、裏に親族の住宅が1軒、さらに奥の川沿いに3棟の長屋が並んでいる。ほかの場所でも、道路から川に向かって漢方薬局、倉庫、住宅が路地でつながる。道路沿いの店舗が、川との間に短冊形の土地を所有し、斜面の上段、中段、下段でその場所にふさわしい土地利用をしているのである。しかも、1920年代の古地図を見ると、店舗しかなく、川に向かって、斜面の上段から、中段、下段へと時代を追って開発されていったことが知られる。

まず、上段の飲料品を扱う問屋は、約90年前から商売を営んでいる。1階道側に店を開き、その奥に作業場と厨房、2階と3階を住居としている。この店舗は、斜面に建つため、自然にできた川側の床下空間を倉庫として活用している。1階の天井の一部が開閉できるようになっているのは、20年前まで米を扱っていたころに、2階の倉庫からロープで吊って、荷の上げ下げをしていた名残である。このように、道側を店舗とし、川側を川からの荷の搬入や作業のためのサービス空間として、舟運と結びつくための合理的な工夫が見られる。

次に、中段は問屋の親族のために50年前に建てられた住宅である。高床式住居ではあるが、床下は最も高いところで1mほどしかない。住宅横にはサン・プラ・プームと呼ばれる土地神を祀る祠が置かれている。祠は水に浸かってはいけないとされているので、通常、雨期でも水はここまでしか増水しない。

さて、斜面下段では、中央に井戸のある広場で、男性や子供はセパタクローで遊び、女性が会話を楽しみながら家事をするといった、和やかな一帯がつくられている。この長屋群の中心部にある広場には、10cm角の柱がところどころに立てられている。これは、運搬用の桟橋の柱跡である。上段にある問屋は、20年前までロッブリー川西岸の蒸気の精米工場から米を運んでいた。船着場の土地は問屋が所有するが、桟橋はテーサバーンという公の市街地自治体が建設、管理する。それゆえ、近隣の店舗も共同で桟橋を使用していたという。

斜面下段の長屋は、いずれも高さ2mの高床式で造られている。3棟あって、いずれも上段の問屋によって20〜30年前に建てられた。30〜40年前に、ロッブリー川上流にダムが建設される前は、雨期になると、これらの長屋の床まで浸水していたという。ダム建設後、乾期には2階が寝室、1階をそれ以外の部屋として利用するようになった。

調理や洗濯の場は住宅の外部にまであふれ出す。広場には洗濯物が干され、調理用のなべやコンロが置かれている。しかし今でも、雨期には膝下くらいまでの増水がある。住民たちは1階の生活空間を移動し、日常の移動手段を確保しなくてはならない。そこで、板をつなぎ渡し、通行のための仮設の桟橋を建設して、雨期だけの道路を造り上げる。桟橋の部材は、上段の問屋の床下倉庫に保存し、繰り返し使用する。桟橋建設の作業は共同で行われ、その際の組織を「チュワイガン(地域共同体)」と呼ぶ。このような組織は、かつてバンコクのような大都市でも存在したが、住まいの拠点が陸上化するとともに、今日ではその姿を見ることができなくなった。しかし、ロッブリーのような水と共存する地域では、住みよいコミュニティーを保つため、共同体がしっかりと生きているのだ。

ここでは、斜面の上、中、下段で、それぞれにふさわしい用途の建物を置き、同時に水との関わり方によって、地面に直接立つものから高床へと変化させて合理的な土地利用がなされているのである。しかも、土地の使い方や住宅の工夫だけでなく、水とともに暮らす知恵が住民の固い組織にも反映されている点は実に魅力的だ。

  • 上:飲料品問屋の、開閉できる天井と主人夫妻    下:長屋中央の上手、屋根のある井戸はかなり大きい。 上:最も川よりの家は、出前料理店。 下:食事は出前をカサの下で。 上:雨期の終わった11月、まだサパーンが住居をつないでいた。 下:乾期の3月、上と同じところに水はない。

    左:飲料品問屋の、開閉できる天井と主人夫妻 中央:最も川よりの家は、出前料理店。
    右:雨期の終わった11月、まだサパーンが住居をつないでいた。

  • 左:長屋中央の上手、屋根のある井戸はかなり大きい。 中央:食事は出前をカサの下で。
    右:乾期の3月、上と同じところに水はない。

  • 道路から路地に入るところにはゲートが設けられている。 路地、川側から。

    左;道路から路地に入るところにはゲートが設けられている。
    右:路地、川側から。

  • 上:飲料品問屋の、開閉できる天井と主人夫妻    下:長屋中央の上手、屋根のある井戸はかなり大きい。 上:最も川よりの家は、出前料理店。 下:食事は出前をカサの下で。 上:雨期の終わった11月、まだサパーンが住居をつないでいた。 下:乾期の3月、上と同じところに水はない。
  • 道路から路地に入るところにはゲートが設けられている。 路地、川側から。

ロッブリーサパーン集落水上のリビング

ロッブリー川西岸では、蒸気の精米工場のまわりに、農村のような静かで穏やか地域が広がっている。東岸に比べて、低く平坦な土地に数十軒単位で点々と集落がある。低湿地であるため、住宅の床下には常に水面が広がり、その上に高床式住居が建つ。

我々が調査した集落もまた、もともと前の小道はなく、前方の川とは直接つながっていた。当時、住宅へのアプローチ手段は船だけであった。今も、住宅は必ずしも小道に面していない。かつては、住民が住宅の間や床下を小舟で自主自在に行き来した風景を想像することができる。それを物語るかのように、住宅の下には今でも舟が置かれている。つまり、舟の通れるスペースさえあれば、他の住宅との距離や位置関係、アプローチという制約を受けずに、自分たちが住みやすいように住宅を建設できるのである。その後の小道の造成によって、現在は川と家々の直接の結びつきが絶たれた。

しかし、もともと水はけの悪い土地なので、雨期には水がたまり、現在でも集落は水上にある。舟による直接のアプローチを断たれた住民たちは、道から住宅へ入る手段を新たにとらざるを得なくなった。そこで用いられたのが、サパーンと呼ばれる木製の桟橋である。水上に建設された住宅や雨期の増水によって陸を歩くことができない地区では、よく見られる方法である。奥に立地する住宅には、サパーンを作り、狭い板を縦に細くつなげて通路とし、住民は外壁を手つたいに隙間を縫って進む。奥に住む洗濯屋を営む女性は、両手いっぱいの荷物を持ちながら、慣れた足取りで細く続く20cmほどのサパーンをスイスイと歩いていた。

一方、小道側は板を数枚横につなぎ、150cmほどの幅を持つサパーンを共同で使用している。サパーンは、単に道としての機能だけではなく、洗濯タライや衣服を置き、そこを家事の場として利用することもある。また、近くの木から採れた果物や木の実を干し、作業場としても使う。植栽や椅子を置いて、くつろぎの空間としても機能している。散らかった遊具を見ると、子供たちの遊び場でもあるようだ。こうしたサパーンは、近隣の血縁関係のある家族が共同で建設したものである。女性たちは会話をはずませながら家事をこなし、その周りを子どもたちが走り回る。まるで、忘れられてしまった、日本の路地裏のような役割を果たしている。

サパーンは、いわばこの集落にとっての人工地盤である。そこが、居間の縁側ような共有の場として、住民たちの重要な生活空間となっている。まさに、チャーンともラビアンとも言える場所なのだ。

水上交通によってさまざまな制約を受けることなく成立した集落では、環境が変わった今もサパーンを用いることで、生活のスタイルを維持している。タイ人は、外的要因に左右されることなく、その場ごとの水辺の環境に応じて、住みやすい空間をつくり出す術を持っているようだ。

  • 共有の場としてのサパーン

  • 共有の場としてのサパーン

  • 共有の場としてのサパーン

アユタヤーマイボートが並ぶ住宅地

観光地としても有名なアユタヤーは、山田長政の日本人町があったことでもよく知られている。パーサック川をアユタヤー駅の南から東に曲がると、細い水路が伸びている。水路にせり出して茂る木々を掻き分けながら、舟は進む。両岸は多くの緑にあふれ、暑いはずの日中でも木陰の下は涼しく、舟上で受ける風が気持ちいい。水路の所々では水上菜園が作られている。魚も多く棲み、住民が夕食用のナマズを釣り上げる光景をあちこちで見ることができる。多いときには4、5匹の釣果があり、市場で売るときもある。チャーター船の船頭も、家の前の川で釣り竿をたらし、調査が終るまでの時間を潰していた。

こんな風景の中、水路の両脇には家々が点々と建っている。家は川岸から少し奥に建ち、地盤が確かで洪水時に浸水しないような場所を選んで作られている。護岸はコンクリート製もあるが、木の丸太で土を押さえたものも多く、木板や階段を使って舟から敷地に入る。敷地には多くの水がめが置かれ、周囲は緑で彩られている。この地区の家は高床式住居で、川に正面を向けている。気持ちのいい川側には居間などの主室を置き、奥に厨房やトイレ、風呂を配置している。特に、家正面の川に向かって付けられた階段が象徴的だ。現在は後背地に道路が造られ、陸への依存度が増して、車を持つ家もあるほどだ。だが、家も人もいまだに川からのアプローチを重視し、水路を中心に暮らしている。

比較的大きな都市であるアユタヤーでも、そのことは水の使われ方に表れている。このあたりには水道がまだ通っていない家もあり、洗濯などに川の水を使っている。また、ほとんどの家が現在でも舟を持っている。20年前までは、洪水時だけでなく、舟を使って商品を売りに行くこともあった。しかし、2年前にダムが完成してからは、一年を通して水位に変化はなく洪水も減った。今、まさに住民の生活が変ろうとしている。だが、それでもまだ舟を使う家は多い。そのうえ、船着場にあずま屋を増築して、水上に風通しのよい理想的な居間空間をつくり出す家もある。それが実に気持ちいい。住民は、むしろ積極的に川に近づいているようだ。水辺の利点を彼らはよく知っているのだろう。

この地区で興味深い家に出会った。1階は完成していて、ベッドなどの生活用品が置かれているが、2階は未完成で壁が無い。費用ができたら建設を再開するという。主人が大工だということも関係しているであろうが、住まいに対する柔軟な考え方には驚かされた。タイ人の住宅全般に言えることだが、増築や改築、移築などにも同じような考え方が根付いている。彼らは家族が増えれば増築し、引越しのときは家財道具とともに家ごと移動する。短期間に完成させることを競い合い、一度住めば手を加えず、あとは捨てるだけの日本の住まいと日本人の考え方が、いかに貧しいかを思い知らされた。

水上の居間空間 これが一軒一家族の家

水上の居間空間 これが一軒一家族の家

アユタヤームスリム住宅のタイ化

アユタヤー王朝は、海外貿易の拠点として、400年にわたって発展を遂げ、1767年に栄華の幕を閉じた。発展の要因となった管状につながるチャオプラヤー川、ロッブリー川、パーサック川など、恵まれた水路網は今も失われていない

しかも、水路に沿って高床式住居が並び、人々はその水と密接に結びつく生活をしている。舟による集落へのアプローチも、常に水路が生きていることを感じさせられるものの一つだ。水辺の集落や住宅へは、道路からアプローチするのが非常に困難である。タイの多くの都市で進む陸上化、水路の減少化という現在、アユタヤーに住む人々がいかに水との生活を重視しているかがわかる。だからこそ、水辺の集落には必ず一つ、また大規模な住宅であれば専用の船着場(ター・ルア)を持っているのだ。

海外貿易によって多民族都市となったアユタヤーは、現在でもバンコクに次いでタイ中部第二のムスリム人口を抱えている。都市を囲う楕円形の水路の南側には、アユタヤー時代からの3つのムスリム集落がある。

その1つ、ワッタナーと呼ばれる船着き場の周りに広がる集落を見ていこう。船着き場から陸に上がると、まず目に付くのがアユタヤーの太陽に照らされ輝くモスクである。川が間近にある環境では、当然、彼らにとって水との共存は大きな課題である。近年、このムスリム集落では、一年を通じての水位の変化が20〜30 cmしかない。しかし、この地域でも7年前に大洪水があり、床下の柱の3分の2まで水が上がった。こうしたことに備え、今も安定した土地の上に、高床式で住居を築いている。

多くの人々によって水路が使われているが、安定した土地を持つことは、集落内の生活において次第に陸化することを意味している。この集落では、船着場が集落の入り口であると同様に、陸側にもムスリムスタイルのゲートを持ち、川と陸の両面性を示している。

陸化は、集落の形成にも大きな影響を及ぼした。彼らの宗教施設であるモスクや共有の船着場は、生活の重要な要である。したがって、それらの近くに集まって住むには、陸によってつながる集落が都合がよい。それゆえ、仏教徒のタイ人集落はあまり多くの住宅が集合せず、一軒ごとが水に面しているのに対し、ムスリム集落はすべての住宅が水に面することよりも、むしろ公共空間のモスクや船着き場を中心に面的に密集して広がっているのだ。

川沿いに家々が並ぶ場所では、川に面する住宅よりも、その奥の陸に位置する住宅が古く、100年以上前にはすでに建てられていたという。その後家族が増え、川側に1軒、右隣に1軒と、新たに住宅が増やされた。増改築は、台所や床下の柱を替えた程度で、居住空間を増やしたい場合には、住宅を新築するといった方法をとるのもムスリムの特徴だろう。この集落が面的に形成された理由もここにあると言える。また、どの住宅もほぼ同じ規模であるという平等性もムスリムらしい。しかし、タイにおいて、高床式住居はムスリムの人々の習慣ではなく、本来タイ系の人たちの住まいである。タイ人の住宅のタイプを選んだ理由には、もちろん水との共存が挙げられる。水辺にふさわしい住居をムスリムの人々も認識し、宗教とは関係なく柔軟に取り入れている点は興味深い。

増改築をあまり行わないこの集落では、階段(バンダイ)を上がり、屋根のない空間(チャーン)から、一段高くなった軒下の空間(ラビアン)、壁にしっかりと囲まれた寝室(ホン・ノン)という、最もシンプルな高床式住居の構成をとっている。特に、階段下に足を洗うための水がめを置いている点は、いかにもムスリムの住宅らしい。チャーンとラビアンには、壁と屋根が取り付けられ、チャーンラビアンと呼んで、生活の多くをここで過ごす。川沿いには大きな窓と扉を設け、のどかなチャオプラヤー川の流れを臨みながら、生活するスタイルが受け継がれている。

住宅の脇には川へ向かう通路がある。その先端にはサパーン・ロン・ナムと呼ばれる川へ降りるための桟橋が造られている。住民が途切れることなく使うその桟橋は、共有の生活空間といえるだろう。食器を洗う主婦たちは、そこで作業とともに井戸端会議に花を咲かす。水浴びをする少年たちは笑顔を見せながら歯を磨き、女性も昔からの風習そのままに水浴びをする。

アユタヤーでは、人々の生活のみならず、集落や住宅にとっても、水がきわめて身近な存在となっている。そのうえ、タイ系とムスリム系では、水に対して集落の空間構造に違いを見せつつも、やはり個々の住居は水辺にふさわしい高床であった。バンコクなどの都市では、水と日常の生活が徐々に切り離され、高床式住居の床下を壁で囲み、屋内の生活空間として改築することが多い。しかし、ここでは床下に変化はなく、舟が備え付けられていて、増水時でも水との共存を常に図ることができる。タイ本来の水と人々の暮らしがそのまま生きている。

  • 左:2棟の後ろから。隙間から川が見える。 右:写真左手にチャオプラヤー川を望む大きな窓があり、涼しい風が入ってくる。右手に、壁で囲われた寝室がある。

    左:2棟の後ろから。隙間から川が見える。 右:写真左手にチャオプラヤー川を望む大きな窓があり、涼しい風が入ってくる。右手に、壁で囲われた寝室がある。

  • 左上:屋根は高く反り上がっている。 右上:川側棟の住人。 左下:タイ式のトイレ。ペーパーは無く、水瓶と柄杓(ひしゃく)が常備されている。 ムスリムの住宅は階段下に、足を洗うための水がめや水槽を設けている。

    左上:屋根は高く反り上がっている。 右上:川側棟の住人。 左下:タイ式のトイレ。ペーパーは無く、水瓶と柄杓(ひしゃく)が常備されている。 ムスリムの住宅は階段下に、足を洗うための水がめや水槽を設けている。

  • 左:2棟の後ろから。隙間から川が見える。 右:写真左手にチャオプラヤー川を望む大きな窓があり、涼しい風が入ってくる。右手に、壁で囲われた寝室がある。
  • 左上:屋根は高く反り上がっている。 右上:川側棟の住人。 左下:タイ式のトイレ。ペーパーは無く、水瓶と柄杓(ひしゃく)が常備されている。 ムスリムの住宅は階段下に、足を洗うための水がめや水槽を設けている。

水と暮らし

増改築が普通のタイ中部の住宅の多くは、各棟の軒先が互いに接し、その部分に大きな雨樋あまどいが設けられる。それは、日本と違って下水に導くためのものではなく、樋(とい)の先端の真下に水がめを置いて、雨水を貯めるためのものである。雨期には、家族が一年間使用できるだけの雨水を集中して貯める。住宅内や敷地には、雨水を貯めている水がめだけでなく、貯まった水を使用するまで寝かせてある水がめ、今まさに使用している水がめなど、大小さまざまな水がめが置かれている。

水がめの大きさの違いは、その利用方法に関係する。住宅の軒下に置かれた水がめは、直径、高さがともに130cmもあり、直接雨水を貯めるためのものだ。いっぱいになれば、樋の角度を変え、また別の水がめに貯水する。使用する際は、そこからポンプやバケツを使って屋内に移す。また、家のまわりや敷地の隅には、植栽や花壇、ちょっとした畑用の水として、中くらいの水がめも置かれている。チャーンの一角にコンロと一緒に置かれている屋内の水がめは、調理用に使われるもので、直径65cm、高さ85cmほどで、厨房の隅に置かれている。スコータイの住宅では、ビニールシートを使って直接厨房のかめに雨水を貯める工夫も見られた。いっぱいになれば、シートを床下に向けるだけで簡単に排水ができるというわけだ。水は、ただ自然に任せるだけでよい。

現在、タイの住宅の多くには、水道が通っている。にもかかわらず、これほどまでに雨水を貯めるのは、その味に理由があるという。水本来の味をタイ人は知っている。水不足の乾期に、水道水を飲まなければならないときでさえ、一度水がめにためることで味を落ち着かせるほどの徹底ぶりである。かつて茅葺きの屋根のころは、茅がろ過作用を持ち、異物を通さず清らかな水だけを得ることができた。トタン屋根が一般的になった今は、雨水さえも直接飲むには、多少寝かせる時間が必要だという。

水道水を使わない理由は、宗教にもあるようだ。かつては、雨水だけではなく、地区の核となる寺院の泉を住民が共同で利用していた。どの家庭も、毎朝、泉まで水を汲みに行くのが子供の仕事であったという。水は仏からの恵みそのものである。

伝統的なタイ中部の住宅には、まだ水洗トイレが普及していない。以前は、敷地の隅に穴を掘ってそこで用をたし、穴がいっぱいになると別の所にまた穴を掘り使用する、ということが繰り返されていた。最近では、チャーンの脇や、寝室裏の別棟にトイレが設けられている。便器は和式で、そこから土管が地中に伸び汚物が溜められる。そこがいっぱいになると、トイレも別の場所に移動する。

タイの川を舟で通ると、水辺で水浴びをしながら子供たちの姿が印象的だ。タイの人々が川の水で歯を磨き、体や髪を洗う様子は、我々が風呂場でするそれとまったく同じである。また、舟の少ない場所では、女性もパー・カオ・マーという布地を体に巻き、川で一日に何度も水浴びをしている。昔からの習慣であるという。女性たちは川で洗濯や食器洗いもする。限りなくつながり広がる川はすべてのタイ人のものであり、そこで日常の行為が自然に行われるのである。船着き場やあずま屋などでも食事をしたり、談笑したりと、タイ人は住宅以外の水辺にも快適な生活空間を持っている。そこは、近隣の人々とのコミュニケーションとして欠かせない場でもある。こうして、ゆったりと流れる川の横でのんびりと過ぎる時間を共有すれば、、タイ人の穏やかな性格の理由もわかるような気がする。

アユタヤーでは、多くの人や物を運ぶ船とは別に、まるで一寸法師のようなタライや一人乗り用の小舟で行き来する人の姿を目にする。彼らは巧みな平衡感覚で小舟を操り、川に育つ野菜を取り、市場で売っている。タイの暮らしにおいて、水と衣食住の一つ一つを切り離すことはできない。いつ害をもたらすかも知れない水があるから不安なのではなく、その水と共生することではじめて豊かな生活を送ることができることをタイ人は知っている。川を「メー・ナーム母なる水」と称するタイ語は、水こそ生活の源であり、生命そのものなのだと我々に訴えているのである。

  • 左:スコータイの住宅・厨房 右:屋根の真下に水がめが設けられている。

    左:スコータイの住宅・厨房 右:屋根の真下に水がめが設けられている。

  • 左:スコータイの住宅・厨房 右:屋根の真下に水がめが設けられている。

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