機関誌『水の文化』37号
祭りの磁力

生活行事のすべてが祭り

日本の祭りは、明治期の神仏分離というフィルターを外して見なくてはその本質がわかりづらい、と神崎宣武さんは言います。 神事・スピリチュアリティーの側面が強調される祭りには、神との共食から瞬時に力を得る、 スタミナドリンクのような側面も。なんとも変幻自在な日本の神様、仏様の姿が現われて、共同体にとっての祭りの役割が、未然の手当てであるとわかります。

神崎 宣武さん

民俗学者・旅の文化研究所所長
岡山県宇佐八幡神社宮司
神崎 宣武(かんざき のりたけ)さん

1944年生まれ。
主な著書に『「まつり」の食文化』(角川学芸出版 2005)、 『江戸の旅文化』(岩波書店 2004)、 『江戸に学ぶ「おとな」の粋』(講談社 2003)、 『おみやげ−贈答と旅の日本文化』(青弓社 1997)、 『「湿気」の日本文化』(日本経済新聞社 1992)、 『吉備高原の神と人』(中央公論社 1983)ほか。

明治のフィルター

今、我々が祭りと呼んでいるものは、ほとんど混乱状態にあって、とりとめがないことになっていて、そのために祭りの本質が見えづらくなっています。

混乱の始まりは、明治に神仏分離が行なわれたことにあります。法令上は〈神仏判然令〉(注1)。神仏の違いをはっきりさせるための法律でしたが、政府はそもそも文化土壌を無視した、あり得ないことをやったんですね。

日本人は、神仏習合で神も仏も渾然一体のものとして、日常生活を平気で過ごしてきたのでしょう。それを、はっきり分けようなんていうことはあり得ない。しかし、近代的な法治国家としては、宗教法人という制度に則り、神道と仏教を別なものとして登録する必要があったんです。

そして明治政府は神道を公事化して、国家神道という言葉を生み出しました。神道が「おおやけごと」で、逆にいうと仏教は私事、「わたくしごと」にされました。そのため、仏教は葬式仏教にならざるを得なかった。神道が公事となったということは、国の公の行事に用いられるということです。

国家的な枠組みでいうと、神道と仏教はこのように規定されて、肌合いを分かったということなのです。しかし、一般の生活の中では一つの家の中に神棚があって、仏壇があって、宮参りして、寺参りして、生まれたときは宮参り、亡くなったときはお寺さん、というような暮らしが続いてきました。その神と仏が渾然一体とした暮らしは、いまだに続いています。

だから、政府の建前と民間の実態とにギャップが出たことが、今の我々が宗教や祭りのことを理解する上で混乱が出ている大きな理由です。

日本人の宗教はなんだ、と言われたときに答えられる人が少ないことにも、こういう背景があります。明治の神仏分離というフィルターを逆の方向から通さないと、我々日本人の信仰や祭りの歴史というのが、明らかにならないんですよ。我々は明治のフィルターを軽視して、祭りや宗教行事が江戸時代を経て、古代から延々と続いているものだと思いがちだけれど、けっしてそうではないのです。フィクションがあるのです。そのフィクションを外せば、かなり素直に見えてくるはずです。

それで、極端に言ったら江戸時代までは、葬式以外は全部祭りなんですよ。明治になると神道が公事化するから、神社における祭りだけが〈祭り〉と呼ばれるようになるからです。

特に新嘗祭(にいなめさい)というものは、農村の収穫祭と重なって、大変重要な意味を持たされましたから、これにかかわるものが本来の祭りである、という認識が前面に押し出されてしまった。

だから今の我々は、混乱した認識の中でなんとなく神社で行なわれる祭りだけが祭りである、と思っているけれど、そうではない。家庭の祭りもあれば、お寺の祭りもあるのです。

(注1)神仏判然令
1868年4月5日(慶応4年3月13日)から1868年12月1日(明治元年10月18日)までに出された太政官布告と神祇官事務局達と太政官達など、一連の通達の総称で、これに基づき全国的規模で公的に行なわれた。

祭りの語源

〈祭り〉という言葉自体も同じです。言語学者は二通りの言い方をしていますが、私はどちらも正しいと思います。一つは示す偏に巳と書く〈祀る〉。これがなまって〈祭り〉。

もう一つは〈待つらう〉。民俗学者の柳田國男は、「神霊を呼び出し迎えてこれらに、供献侍し、以ってそれを慰めまいらしめること」と述べています。つまり、どこからか訪れる神様、仏様を〈待つ〉。そして我欲を捨てて服従、奉仕するのが祭りの起こりだったという説です。

祭りという言葉を、この二つの意味からとらえればいいと思うんです。分けてどちらかを選んで主張する必要はない。二つ重ねて正当な場合もありますから。

多様な祭り

中央部から遠い所、あるいは大きな祭りから離れた所では、明治以降、公事化された祭り以外のものもいまだに祭りと呼んでいます。私がフィールドワークに出た昭和40年代ころまでは、南九州や沖縄では「盆祭り」という言葉が普通でしたから。

八朔(注2)も祭りだし、正月も祭りだし。節句も祭りの言葉が部分的に残っています。

都市の祭りは、もとから実際に祭りを行なう人と見る人に分かれていたんですね。頭(当)屋に当たるのも、家持ちの人だけ。だから、熊さん、八っつぁんといった長屋住まいの人は祭りの構成員にはなり得ない。

村の祭りの場合は、ある年は構成員になれなくても、別の年は順番が回ってきて役目があるんですが、都市の祭りはそこが違う。村の祭りは収穫の予祝であり収穫の報告であったから、特に農村部では全員参加となるのです。

都市の祭りは、収穫は関係ありませんから。だから村の祭りは春と秋。町の祭りは夏なんです。夏にやるというのは、疫病封じです。

つまり、祭りというのは神仏などの超人間的存在を祀り上げて、その下に待つらん、とする行事のすべてをいうのです。ある特定の家庭でのみ行なわれる行事は除いておいたほうがいいかもしれませんが、それ以外のものを俯瞰して見た場合、日本には実に多様な祭りがあります。

大きく分けると、家庭の祭り、集団社会の祭りに分けられるかもしれません。集団社会も、地域集団の場合、職能集団の場合、民族集団、国家的集団などと分けて考えると、整理されて理解しやすくなるでしょう。

しかし、今のところその作業は行なわれていません。と言うのは、神社側が自分たちのやっている神道行事が祭りである、ということを信じて疑わないからです。

日本の神社神道は、明治以降大切に守られてきました。そのため、明治以前に神道はなかったのかと聞かれたときに、返事に窮するような状態になっています。一般的に、文化人や民俗学者も臭いものには蓋をするような感覚になって、そこには触れないでいるのです。

ただ、この公事的な神社神道が、戦前、残念なことに軍国主義と天皇制に大きく偏って利用されたので、そのダメージがいまだに残されていて、余計触れないようになっている。もうそろそろ、そういうことを平らにする時代になったのではないか。ただ、明治政府によるフィクションというのが、あまりにも我々の中で育ち過ぎている。その見直しを、祭りという切り口ならできそうな気がしています。

例えば、起工式のときに神道でお祓いをすることが特定宗教に偏るから憲法違反だ、と問題になっていますが、あれも明治以前は祭りととらえられていました。明治になってからは、正祭式に対する雑祭式(ざっさいしき)。その雑祭式の中に地鎮祭もあるのだから、民間の古習を認めていないわけではないのだけれど、一般の人にはわからなくなっている。あまりにも渾然としていますから。

(注2)八朔
旧暦8月1日(朔日)のことで、台風や病害虫の被害を被ることが多いこの時期に、風雨を避け、五穀豊穣を祈ることを主目的として行なわれる祭り。

遠山郷霜月祭り

遠山郷霜月祭り/諏訪神社での金剣(かなつるぎ)の舞。

祭りの要素とは

神事は祭りの一つのパーツです。祭りを構成する一つの要素です。そして、祭りを構成する対極の要素が直会(なおらい)です。

折口信夫(おりくちしのぶ)(注3)が祭りを構成する要素をある程度整理しているので、我々はそれを利用すればいいのですが、彼はこのように言っています。

まず第一に、神仏への祈願。これは神事、仏事と呼ばれるものです。神主や長老が神棚に向かってパチパチと柏手を打つようなこと、儀礼ですね。

もう一つが、飲食。ご馳走によって穢(けが)れを癒す。食養生ですね。つまり滋養になるものをそのときに集中して食べる。

私はこれから連想するのですが、多分ね、日本人のスタミナドリンク信仰なんかは、ここからきている。私がこう言うと、韓国や中国に行って、「ここだって同じじゃないか」と言う人がいるけれど、あれは日本のスタミナドリンクが渡っていって広まっているのであって、もともと彼らの習慣にはないことです。むしろ、日常的に医食同源の考え方があるが、日本にはそれが乏しい。日本では、祭りでのご馳走こそが癒しの元という考え方が強いはずです。

これが集団社会になると、〈酒〉になる。特に節句になると酒に薬味を浸けた〈薬酒(やくしゅ)〉が用いられる。桃酒、菊酒の類いですね。

飲食、特に酒が嵩(こう)じてくるとそれについてくるのが芸能です。芸能は神様を慰撫する、接待する神事的なものもあるけれども、酒とともに必要が生じてくるものでもあります。

もう一つ、祭りの大切な要素でありますが、最近は言いにくい、特に女性の前で言うと袋叩きに遭うものに、男女の交歓があります。川柳にも、「社前より裏がにぎわう村祭り」と詠うように、歴然とした歴史の事実として外せないものなんです。祭りというのは、男女の営みがその地域社会で黙認された日でもある。古く万葉集、風土記の世界からそれが黙認されてきた。

だから、私生児であってもさほど差別されることなく、村社会の中で平然と育てられてきた。我々の二、三世代ぐらい前までは、曖昧(あいまい)ながらそういう常識でした。明治政府は、そういう習慣も正そうとしたんでしょうが、それですぐに直らないのが庶民社会の伝統ですからね。親が誰だかわかっていても、「あの子は祭りの子供だ」と認め合う、今と違った村社会のルールがあったんです。

この風習は西日本のほうが強く残りましたね。それは、秋祭りの時期でも野外の交歓が可能だったからでしょう。だから、昔は「祭りの夜は出てゆくな」というのが、良家の教えだった。特に娘は、絶対に外に出さない。

古代の常陸・筑波山などには、〈〉(かがい:歌垣の東国方言)の風習が存在したことが『万葉集』などからわかっています。また〈妻問い〉という言葉もありますね。他所(よそ)の男が吾が妻を口説いている、ならば我も人妻を呼ぼう、という高橋虫麻呂の記述が有名です。この日だけは、この山をお治めになる神が、昔から禁じない技だから、咎めてはいけない、と詠っているのです。それには酒と芸能というのが、景気づけには誠によろしい、とされる。

折口はそこまで書いてはないんですが、祭りを構成する要素として、祈願・祈祷、酒食、芸能、性交を挙げています。

(注3)折口信夫(1887〜1953年)
日本民俗学、国文学、国学の研究者。異人を異界からの客人とする〈マレビト信仰〉を提唱し、日本人の信仰や他界観念を探るための手がかりとした。

  • 遠山郷霜月祭り

    遠山郷霜月祭り/神太夫と姥の面をいただく二人の役回りは、オコビッコ(おふざけ)。男女の交歓が表現され、周囲も囃し立てる。

神事か娯楽か

神輿(みこし)や盆踊りなどは、神仏を慰撫する意味合いと芸能としての娯楽の意味合いがあって、はっきりとは分け難い場合がありますね。

長野・遠山谷や三重・志摩半島の盆踊りなどは、芸能ではなく聖霊を慰撫するほうに主眼があるでしょう。音頭はあっても、動き自体が撫でる動作になっていますから。盆踊りの起源は、撫でることです。疲れたご先祖様、精霊が来たのを撫でてもてなすのです。つまり、手当て。手厚いもてなしにほかなりません。

こうして撫でていたものが、芸能化するに従って、手が上に上がる。足も高くなる。あげくは阿波踊りやよさこいソーランになる。

精霊を慰撫していたものが芸能になって、それも最初は流しだったのが輪踊りになる。輪踊りになったころから、さらに派手に芸能化していく。

今でも東北地方や南の島には、各家の庭で踊るという盆踊りが結構残っていますよ。それは、その家に招いた盆の精霊を、みんなで慰撫する。家々を回るから、盆踊りと言わないで盆回しとかも言いますね。

そういう所には、お葬式のあとに行なう〈貫気(かんき)〉という制度もまだ残っています。これはお葬式のあとに留まっている死霊や餓鬼霊の気を抜くために行ないます。宗派を問わず、このごろは般若心経(はんにゃしんぎょう)を唱えるところが多いですね。

同様に、祈祷もいろいろな形がある。神主が司る神事といわれるものから、シャーマンが行なうような呪術といわれるものまで。

酒食も宮座を組んでの限られたメンバーでの式三献(しきさんこん:酒一盃と肴一品を一応納めるのを一献とし、それを三度繰り返して供する。俗にいう三三九度のこと)や、神饌の神酒を下ろして行なう直会などいろいろです。儀礼的な酒宴、つまり礼講です。

礼講があっての無礼講ですからね。ですから直会にも、礼講的な直会と無礼講的な直会がある、ということです。このように日本の伝統文化は、おしなべて二重の構造になっている。これを整理していけば、見えにくかったものが見えてきます。

芸能も、より神事的に霊に向かっている芸能もあれば、娯楽的に人に向かっている芸能もある。

では、祀る対象となっている神はどういう神か。それにも二通りある。一つは、平安時代の『延喜式(えんぎしき)』の神祇式(じんぎしき)(注4)、式内社(しきないしゃ)(注5)の神名帳(じんみょうちょう)(注6)というあたりで、神様の鎮座まします所が明らかにされました。しかし、これは日本の神様全体のことでいうと、大社に限ったことで、10分の1ぐらいしか網羅されていないのです。

式内社には二千八百数社しか数えられておらず、その後、文字が使われるようになるにつれ、物知りがいろいろなものを書いていくので複雑になっているように思えますが、中、小全部の神社に祭神が定まるのは明治の神仏判然令以降のことです。神社神道を公事にしていくには、神様の名前がわからないと困るわけですから。

須佐之男命(すさのおのみこと)、大国主命(おおくにぬしのみこと)などの名前の通った神様を祀った神社が、全国的に圧倒的に多いのは、登録の期限に合わせて、やむなく祭神を設けたからなのです。

八幡様なんて、いまだに祭神の正体がバラバラです。本来、八幡様というのは神仏が合体しての〈八幡大菩薩〉であって、八幡様の正体が神功皇后なのか仲哀天皇なのか、はたまた玉依姫(たまよりひめ)なのか、ほとんど誰もご存知ない。残念ながら、明治政府をリードした人たちは、こういうことに関する素養がまったくない人たちだった、というしかありません。ヨーロッパの近代国家には、キリスト教という国の宗教がある、ということから、神仏習合の伝統的な信仰を無視して、神道の国教化を図ったのですから。

だから祭りの祭式も神饌も、すべて伊勢にならう形になった。それで旧勢力となった出雲と宇佐が独自性を主張することにもなる。全国的には、二拍手一拝という伊勢式の作法が正当化されていますが、出雲に行きますと四礼四拍手二拝です。宇佐に行きますと、二礼四拍手一拝です。元の形を守っている。しかし、それで戦争にならないのが、日本の良いところですね。このことは、評価しなくてはなりません。

(注4)神祇式
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)、つまり古代法典である『延喜式』(905年〈延喜5〉藤原時平ほか11名の委員によって編纂開始、927年(延長5)撰進。施行は、40年後の967年〈康保4〉)全50巻の内、神祇官関係の式である巻1〜巻10のこと。

(注5)式内社
『延喜式』の中の神名帳に記載された神社のことで、社格の根拠となっている。

(注6)神名帳
『延喜式』の巻9と巻10のこと。当時官社とされていた全国の神社の一覧。

大阪・天神祭

大阪・天神祭/地車講による舞の奉納。陸渡御に先だって舞われるが、なぜか指先はずっとピースサイン。

日本人の神・仏観念

日本の神観念は、基本的には祖霊信仰と自然信仰。仏観念も同じ。神道と仏教が習合できたのも、この二つを柱にしていたからです。

祖霊信仰というのは、稲作定住という歴史が背景にある。定住しているから、何世代も前のご先祖様の命日が決まって、墓参り、法要というのができるわけです。

これが点々と移動するのでは、あり得ないわけです。ですから、東アジアで稲作定住の歴史を1000年以上持っている所には、かなり共通している風習です。

祖霊という意識は、仏教伝来以前から日本人の中にあったのです。山の頂上に霊が棲むとした。自然神も山にいる。もちろん海も無視はできません。沖縄のニライカナイ(注7)もありますから。しかし、割合にすると圧倒的に山を精霊の霊場とした。

5万分の1の地図を見ると、生活圏に幾つか、必ず神様、仏様の山がある。御山、御嶽、御岳、明神岳、釈迦ケ岳、不動岳など。海に張り出した所をミサキというのも、同様の意味です。御崎。こうして見てみると、日本中に神様、仏様の山があふれ返っている。その中でも山容が優れている山には、富士山とか白山とか剣山という名前をつける。

ですから神様を祀る最も古い形が、山に登ること。それが定住社会になって少し山から離れていくと、山にいちいち登れなくなる。それで山の懐にお寺やお宮をつくって、山の上は本山(もとやま)とか、奥の院とか言いだす。それで山を遥拝する形式になる。さらに平場に人が住むようになると、神社や寺も平場に出るようになるけれど、お寺には山号を残している。浅草の浅草寺の山号は、金龍山。みんな、自分の旦那寺の名前は言えるけれど、山号を忘れていますね。それに山門もある。

神社は、いくら平場で新しくつくったものでも、鎮守の森をつくらなくてはならない。そうすることで、平地にあっても山にあったときと同じような、いうなれば原風景を残しているのです。

(注7)ニライカナイ
沖縄や鹿児島・奄美群島に伝わる他界概念で、東(かつては辰巳の方角といわれたので、南東)の海の彼方、または海の底、地の底にあるとされる。

長野県・南信濃地域の遠山郷霜月祭りは、集落ごとに少しずつ異なる作法で行なわれる。

長野県・南信濃地域の遠山郷霜月祭りは、集落ごとに少しずつ異なる作法で行なわれる。
この拾五社は、険しい山道を上った標高の高い土地にあるが、祭り当日は地元民、観光客合わせて、大勢の人で大変な賑わいとなる。

日本の神・仏は変幻自在

もともとは、山の上にすべての霊が集(すだ)く。そして必要なときに里に下りてくる。里に下りてもらえるから、周期的に祭りができるんです。

これは日本だけの感覚だといってよいでしょう。日本の宗教観というのは、あくまでも人間に都合よくできているんですよ。私はこれをアメーバ原理と呼んでいるんだけれど、神様、仏様は在所を固定しない。必要な時に、必要な所に、フーっと伸びていく。変幻自在。これはまだ本に書いていないけれど、やがて書こうと思っています。

だから10月を神無月という。神様が出雲のサミットに行って留守なのに、なんでここで祭りができるんだ、なんて馬鹿なことを言うのは、その原理を知らないからです。唯一絶対神としての神観念でものを考えると、そういう疑問が生じてしまう。しかし、アメーバ原理で考えれば、出雲のサミットに行っているのは、アメーバでぐうっと伸びている先っぽの部分だけ。いうなれば、外務大臣だけが出張するようなもので、ほかの大臣は常駐していることに等しいのです。

だから平場に出てきていても、山の上にはもともとの神様の一部が残っている。それを拝みたい人は、山まで登っていけばいい。それが奥の院です。便利なことに山の入口にも神仏はいるし、法要をやるときには町中の寺にも移ってきてもらえるし、家に招くこともできる。

法要というのが、ここまで制度化したのも日本だけですからね。韓国、中国、小乗仏教ですがタイなどには、法要という制度はありません。これは明治以降のお寺さんが、自立しなくちゃいけないから、営業化して強化されもした制度です。

宗派によって違うけれど、三十三回忌で〈弔(とむら)い上げ〉とする。そうすると、先祖霊は山からあっちの世界に行くと考える。極楽へ。そうすると、総体としてのご先祖様になる。山の上にいるから、個々に簡単に下りてくるんです。その間に名無しの権兵衛じゃ可哀想だから、中間社会にいる間は戒名とか法名を使う。三十三回忌というのは、その故人を知っている人間が供養できる一般的な限度、ということです。

そこから先は各家のご先祖様ではなく、集団社会総体のご先祖様になる。これを祀るのが氏神となる。氏神信仰。総祖霊、不特定多数の匿名化された祖霊。この辺が、仏教と神道が仲良くやってこられた秘訣といえるでしょう。両方とも、祖霊信仰が中心なのです。

人間の都合で、ここまでつくり上げていった日本人の神観念、仏観念は本当にすごいものだと思います。

祖霊信仰とともに自然信仰も根強いものがあります。世界でいうところのアニミズム。それは、未開社会で顕著な信仰形態とされていますが、日本ではいまだにしっかり伝えられているのです。

日本の自然信仰は、端的に言ってしまえば、始めに山の神ありき。さまざまな霊を所轄する、受け入れるのが山の神だとしています。

そして山の神は、最古代においては唯一万能神に近かった。正月の神様〈歳神様〉は、ある時期だけ山の神が里へ下りてきて、歳神様の機能を各家に分配して果たした。田植えが始まると、田の神様に変身する。また、八朔を過ぎて、雨や日照りの心配がなくなると、もう田を守護する必要がないと山に帰る。四季折々の自然循環と同じように、神様が一年を通じて循環している構図だった。

北関東の童歌(わらべうた)の中にもその構図が残っています。

正月様ござった
どこからござった
山からござった
ゆらゆらゆらと
(ゆずりは)に乗って
山からござった

山の常緑の木というのが、山から下りる神様の乗りものになった。正月に一般的には門松を立てますが、これも松枝を依代(よりしろ)として山から下りてきた証し。あれは、いうなれば歳神様が乗ってきたハイヤーですから。だから、家の中まで入れない。かといって放り投げておくのは失礼だから、入口に立てておく。だから、あの形式をとやかく言う意味はない。

江戸時代になると鳶職(とびしょく)が造形的につくって商うようになるから、松竹梅をあしらったり、和紙を飾ったりするようになった。しかし、本来的な意味からいうと、松が1本あれば結構なんです。楪を注連縄(しめなわ)に取りつけるのでもいい。

それから中国山地では、かなり広い範囲で、諺(ことわざ)が伝えられていました。

正月くれば 歳徳さん
節分過ぎれば 田の神さん
八朔過ぎれば 山の神

山の神が原始万能神だったことが明らかです。

龍神、水神といった水の神も山の神です。水を配るのは、水分神(みくまりのかみ) 。特に奈良盆地にはたくさん祀ってあります。水が分水嶺から川を流れて、地下をくぐっていくことは、昔の人だって当然知っている自然の原理ですから。だから、水が涸れたら、雨乞いは山に上がってするわけです。山の神を直接祀るから山に登るのであって、「あれは天に近いから」なんて馬鹿なことを言っちゃあいけません。

海上の神も忘れちゃいけないけれど、日本ではなんといっても山の神。絶対神ではないけれど、万能神なのです。

そうやって循環してくれる山の神なんだけれど、アメーバの一端が山に帰らないことがあるんですよ。居心地が良いから、家の中に居着いちゃうんですよ。それを我が家の〈山の神〉という。

怒らすと怖いよ。

まあ、これは冗談ではなく、主婦のことをなんで山の神というかというと、男と女とどっちが大事かというと、女のほうだということ。子供を産む、ということだけでも大変なこと。だから戦争が激しくなると、女性は自然と保護される。牛でいったって、10頭の雌に2、3頭の雄がいれば、子孫を保つことの用が足りる。逆はあり得ないから。だから、原始女性は太陽であった、と平塚雷鳥も言ったんです。

亭主元気で留守がいい、とも言います。そして、主婦は家の中でしっかり根を下ろす。だから、奥さんのことを〈大黒様〉ともいう。家の大黒柱は女性としたんです。それから〈家刀自(いえとじ) 〉ともいう。トジというのは、頭(かしら)のことです。字は違いますが、酒蔵の仕込みの頭は杜氏といいますね。

アメーバ原理を支えたのは

日本で神仏のアメーバ原理が発達したのは、喰うことにさほど困らなかったからです。270年間も鎖国を続けて、安穏と暮らしていかれるなんていうことは、ほかの国ではあり得ません。島国だから侵略が難しかった、という立地的な原因もあるけれど、この列島の中で自立して自給して喰っていけたんです。

もちろん、大飢饉のときに娘を身売りしたとか例外的なことはあるけれど、今までの歴史検証というのは、東北は毎年そうだったみたいにいうけれど、そんなはずはない。

これは、戦後の歴史学者が文献主義に偏り過ぎたことに因ることで、歴史観を偏狭なものにした。文献も大事なんですが、普通のことは書かない。特別なこと、異常なことしか書かないのですから。銘々の日記だって、下痢をしたことは書いても、通便が良かったことは書かないでしょう。じゃあ、一生下痢をしていたかというと、そんなことはないはずです。だから、絵図を挟むとか、庶民が書いたカナ釘流の道中記なんかも資料として併せて読む必要があります。

さすがに一国主義というか、日本人は一言語で一民族、という人はいなくなりましたが。こういう歴史観を長く幻想として抱いてきたんですよ。だから、日本人は日本人は、と一元化して言う風潮がつい最近までありました。

また、研究している人が、生活体験者でない人が多いのも問題でした。生活体験者なら、こういう結論には結びつけなかった、というような歴史観や民俗観が生じたのです。

日本列島は南北に3000km。中国やアメリカの南北にほぼ匹敵する距離です。自然信仰を考えたら、その広い範囲で、みんな同じであるはずがない。それが統一されて、いかにも一つとなったようにされるとどうなるか。神社神道の大きな祭具である榊(さかき)は、東日本にはない。だから、東京で売っているのはヒサカキといって、サカキもどき。葉が小さくて端にギザギザがある。だから当然、江戸時代以前で江戸で榊を祀っているかどうかの疑問を持っていいんですよ。

特に自然信仰については、本来、土地土地でさまざま。その多様性こそが日本の土着性であり、民俗文化としなくてはならない。その中で、ほぼどこでも望める高山が信仰の対象となり、広く共有されてきた、というのが妥当だろうと思います。

遠山郷霜月祭り/拾五社での直会の様子

遠山郷霜月祭り/拾五社での直会の様子

シャーマンの役割

祭りが定例化する以前の古い時代には、非日常的な出来事にはシャーマン(呪術師)が対応しました。日本に限ったことではなく、原初はどこでもそうだったでしょう。祭りの日立てもその人が行ないましたから、銘々勝手に行なうということはありませんでした。それにシャーマンは、どんなに神がかっていたとしても、自分が喰っていけなくなるようなことは占わない。

シャーマンは世襲ではなく、長老が認めた人がなっていきますが、普通の状態では認められにくく、舌を切ったり、目を潰されたりしました。身障者がなることも多かったようです。明治以前は片目の神主というのは多く見られ、シャーマンが神主に移行する過程がうかがえます。

日本では、古代は女性がなっていたシャーマンに、中世、近世では男がなるようになった。すると普通の形ではみんなが呪術性を認めないのです。そうすると、早い話が焼け火箸を目に突っ込んで修行したということになる。

私が23歳から24歳のころ、ヒマラヤを歩いていたんですが、各地でシャーマンが焼きごてを足裏や手の甲に押しつけて、失神した振りをして占う、ということを何回も見ました。日本でも山伏が火渡りをするでしょう。みんな、そうですよ。見ている人が「すげえなあ」と感心するようでないとシャーマンとして通用しない。

まあ、近世、あるいは近代以降はそこまでしなくても神主や僧侶が務まるようになったわけです。

韓国には、今でも家を建てるときなどに家相を見てもらって祓いをしてもらう〈ムーダン〉というシャーマンがいて、在日韓国人の人でも100万円ぐらい平気で出しています。〈ムーダン〉の基本的な条件は女性であるというのが標準化しています。

私が考えるに、身障者が自活するためにある分野の職業を空けていた、ということはあると思います。例えば、瞽女(ごぜ)(注8)とか宮城道雄さん(注9)のような琴の師匠とか、按摩とか、目の不自由な人が就きやすい職業というのがありますね。こういうことを差別という観点だけではなく、社会福祉に近い機能を持っていただろうということを、見直す必要があるように思います。

さっきの歌垣における男女のことにしても、身体の不自由な方のことにしても、今の価値観とは違う許容社会もあったということで、歴史は簡単にはとらえられないのです。

時間、空間、人間の三つの要素が循環している。テレビでは天地人なんてやっているけれど、今、天地人のバランスが崩れている、とまでは言わないけれど、崩れやすくなっていますね。

(注8)瞽女(ごぜ)
目が見えない女性が、旅回りをしながら三味線を弾き歌を歌って糧を得る。

(注9)宮城道雄 (1894〜1956年)
兵庫県神戸市生まれの作曲家・箏曲家。8歳で失明。1929年に「春の海」を発表。フランス人女流バイオリニスト ルネ・シュメーと競演し、世界的な評価を得た。

観光化する祭り

交通手段が発達したことで、祭りが観光行事として人を集めるようになった、ということがあります。他所の祭りをわざわざ見に行くというのは、鉄道や自動車が発達して以降のことです。ごくごく最近のことでしょう。

それの先駆けが京都の祇園祭りでしょうね。祇園祭りは昭和40年代(1965年〜)から、山鉾を曳くのに学生アルバイトを雇いましたからね。東京の三つの祭り(注10)の神輿かきも、連に任せるようになりました。祭りの一部を請け負いに出したところで、一番最近起きた大きな変容がある。かつては自分たちで汗水流して何らかの役をこなしていたものが、見物人になってしまったのです。

しかし、表向きに他所の人を雇ってやるような部分は、観光客にも見ることができるけれど、元の氏子組織による儀礼や行事は簡単には見られなくなりました。そこへの参加は一般人はできない。だから、そこの部分に古くからのしきたりが残っていることが多いんですよ。

例えば祇園祭りだって、町内の神酒所とか、稚児を出した家での行事とかは、昔のようにやっているし、部外者が入って行って見ることはできないんです。祭りが観光化して巨大化すると、かえってそういうところは見せないようになる。それは、中核にいる人たちの、ある意味でのアイデンティティーです。残念ながら、それが見えにくいから、表の大きく変わったところが前面に出てしまうわけですが。

伊勢神宮だって、式年遷宮はいくぶんか観光化しているでしょう。お木曳行事は、宮川渡会橋から外宮までの約1kmの道のりを曳くもの。もとは伊勢の旧領民だけが参加できる行事だったのですが、1973年(昭和48)の第60回式年遷宮のときに、初めて一般の人も〈一日神領民〉として参加できるようになっています。しかし、それはあくまでも陸曳きであって、川曳きは絶対に外からの人間は入れません。

(注10)東京の三つの祭り
神田明神・神田祭り/赤坂日枝神社・山王祭り/浅草神社・三社祭り

天神祭

天神祭/神域と現世を隔てる結界の役割を担う注連縄。普通の注連縄の前に、紙垂(しで)が下げられたアーチ状の注連縄が立てられ、両脇に笹竹が据えられている。

村の脆弱化と祭り

私が昭和40年代に歩き始めたときから比べて、消えていったり消えようとしている祭りは、やはり村の祭りです。都市は流動的に見えても、中核はほとんど変わらず維持されている限り、簡単には消えませんね。なんだかんだいっても、人が住んでいますから。

村の問題は、この20年から30年に起きた顕著な現象として、祭りのときに子供を帰さなくなったことが挙げられます。これは親の責任で、今、泣いても遅い。物わかりのいい親を演じ始めたことが原因です。

息子が都会の学校に行きたいと言えば、平日は工場に勤めて夜勤をやって、土日で田んぼを耕して、親はフル回転で働きながら子供を都会に出したが、その子供を時々にでも帰す手立てを考えなかった。その子供を放任することが、物わかりの良い親だ、と勘違いした。そのダメージが、今、もろに出ています。

祭りのことでいうと、20年前には頭屋に当たったときには長男を呼び返したものですよ。こんなことは数年に一度しかないんだし、一年も前からわかっているんだから、3日や4日の休みが取れないはずがないんです。所によっては次男、三男も帰ってくる。長男は妻や子供も連れて帰る。これも、村や家の伝統として継承されたわけです。帰ってこなくていいよ、と言うのは、今は祭りも省略化されているし、賄いだって仕出しを頼めば済む。お金さえ出せば、なんとかできる。だから老夫婦と近い所にいる親戚が手伝う。頭屋組といって、近所の人も手伝ってくれる。しかし、その家の跡取りがいない祭りというのが、珍しくなくなっていくと、祭りの伝承力は著しく後退していく。親ができなくなったときに、子供が五十面(ごじゅうづら)下げて帰ってきたところで、もう役には立たないんです。

これは日本の地方を脆弱にしている一つの理由ですね。もちろん、政治の責任もありますが、物わかりの良い親が増えたことが、地方の力を削ぐことになってしまった。

葬儀も、その後追いをしています。町村合併によって葬儀場が使えるようになったため、自宅で葬式を出すためのしきたりが継承されなくなってきたからです。そうすると、村の中でも顔を合わせる機会がますますなくなる。

私は、帰っていますよ。都会から帰ってくる人間が十何軒の集落に3人いれば、何とか祭りも維持できると思いますが。常駐するまでの必要はなく、時々でよいのです。

島の祭りは、昔から帰ることを義務づけた所が多かった。だから、残っているんです。

いったん崩したものはもう簡単には取り戻せません。そんなところでの村おこしは幻想にしか過ぎない。もっと早く手を打つべきだったんですよ。

先日私は、神戸の灘に行ってきました。震災であれだけのダメージを受け、ここのところの不景気で随分落ち込んでいるけれど、それでもあれだけの酒蔵が維持されているというのは感心する。やはり、酒蔵の旦那衆には見識があった。その一番の功績は、1951年(昭和26)に甲南大学をつくったことでしょうね。これは、後継者が東京の大学に行って、東京付きになって帰らなかったら困るからです。それじゃあ、慶応大学に匹敵する大学をつくろう、といって、みんなで資金を調達したということです。そのところでは、商業的な才覚といえばいいのでしょうが、灘では底力を感じました。

もちろん、人口が集積していない村に同じことをしろ、というのは無理でしょうが、人口の流出を未然に防いだかどうかという点には、学ぶべきものがあります。

沖縄が元気なことの一つの要因も、人口の流出をあの手この手で防いだことにあります。

その手だての一つが、中央に出て実績を残した人を野球の監督として呼び戻すことです。もう一つは、本土への練習試合に生徒を派遣し、その旅費はすべて後援会が持つ、というものです。だから離島の八重山高校だって、甲子園に出られるんじゃないですか。沖縄復帰直後は、特別枠で出場して負けていたんですから、大変な進歩です。それが、相乗効果としてアイデンティティーを高めている。

子供や人材が残っている。そして外に出た人間を郷友会でつなぎました。私も二度ほど参加しましたが、久米島郷友会なんて、そのときは東京・小金井公会堂を借りて盛大にお祭りをやっていました。そこで得たお金も久米島に還元されるんです。

こういうことも稀な例だけれど、存在する。沖縄の場合は、一例として野球での活性化が作用したわけです。

都会に出て稼いでいる人をどうやって戻すか、ということです。知恵がなきゃ金を出せ、金がなきゃ帰って働け、ということですよ。国土交通省が提案した二地域居住の制度など、もっと利用されるとよかった。年間100日ぐらい、都会で残った労働力を帰していく。地元は旅費と宿泊、食費を保証する。賃金は出来高制、ということにすれば必要な人材は確保できる。それには、まず地域の出身者を第一にすべきでしょう。これも、親が生きている間は帰れる。親が死んでからは帰りにくいでしょうから。

まだ間に合う所なら、親の生きているうちに、まずは祭りに帰郷してもらうことを是非検討してほしいですね。

奥能登、時国家の神棚。

奥能登、時国家の神棚。

穢れに対する未然の手当て

そもそも祭りをするのは、なぜでしょうか。なぜ、周期的に祭りを行ない、年中行事化されたのでしょうか。私は、考えを整理するための図式を書いてみました。

祭りをするのは、集団社会の穢れを癒すため。「気」が「枯れていく」ことに対する未然の手当てということで説明がつきます。

祭りをテーマにするからといって祭りだけで考えたらいけないのであって、「旅」というのもこれに当てはめれば、その意味は、一層、明確になります。よく言うように、日常(ケ=気)からの一時的な脱出というのは、充分に説明材料になるでしょう。

旅は祭りではないけれど、祭りに準ずる穢れ落としにはなっています。ただ、旅は祭りの構成員と一緒ではない。もう少し、任意性が強い。有志集団が主体となるのだし、個々にもばらける。その違いがある。

集団社会が全体的に疲れてきたときに、つまり穢れ(気枯れ)たときに祭りをする。今は、疲れたときには銘々で医者に行く。医療が不足の時代というのは、食養生ということが非常に大事だった。かといって、毎日、銘々が食養生しろっていったって、とてもできませんから。今だって、「メタボだから食養生しなさい」と言われて、自分でできる人は少ないですよね。それが集団社会でだったら、できるんですよ。何日間かいっせいに仕事を休んで、共同の目的のもとに役割分担をして、酒とご馳走を食する。今は集団社会のルールというのが稀薄になっているけれど、かつては生きるためには、集団社会の力というのに頼らざるを得なかったのです。

家を建てるにしても、村には建築会社なんてないですから、大工の棟梁のもとに集団社会に頼るしかなかったんです。

我々は集団社会の拘束というネガティブな側面ばかりをいったけれど、共働、扶助ということで考えると、集団社会というのは非常にまとまりが良いものであった。

同じような仕事、同じような考え方をしているわけだから、穢れが溜まる時期もほぼ量れる。それで「祭りをしようか」ということになって、来年も、再来年も、と定期的になるわけです。

忙しいときに、祭りはやりませんよね。だからその日程を組むときに、構成員のすべてが忙しさから解放される時期を見計らっているはずです。もしくは、忙しくなる前。その象徴的な時期が春祭り、秋祭りなんです。

それは漁村社会の祭りを見れば、一層、明白です。公事化した神道が入り、カレンダー通りに行なわれるようになったことで定例化しましたが、もとは流動的だった。なぜなら太陰暦の月齢に従っていたからです。月夜の晩に集まってくる魚もいれば、逆に月のない晩に集まってくる魚もいて、魚種によってさまざま。それなのに、捕れるはずの魚がまったく捕れないときもある。不漁が続けば、験直しの祭りをしようかとなる。本来、その種の祭りは、定期的ではありませんでした。

日常のケ(気) が枯れそうになる。つまり穢れ(気枯れ)てくる。それを防ぐためにハレ(晴)の行事として祭りを行なう。人間同士の申し合わせでは、時々の都合を言う人もあるから、神様、仏様、ご先祖様を冠することになる。それで、いっせいに休んで共同で飲食に興じる。気晴らしを共同で行なうことで、気が元に戻る。元気となる。と、まあ、こんな図が描けるでしょう。(下図)

祭りの必然は、信仰心は別として、それを共同で行なうことで集団社会の気を維持し、〈安心〉を得ることにある。そう言えるはずですが、それを必要としなくなると、いかなる弊害が生じるか。まだ、わからないところも多くありますが、今日のところはこれで終わります。

図表:神崎宣武さんによる「祭り」フレーム

図表:神崎宣武さんによる「祭り」フレーム



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