機関誌『水の文化』58号
日々、拭く。

五感
五感

「今、ここ」へ戻るために
── 触覚体験としての「拭く」

スマートフォンを始めとするモバイルデバイスの普及によって、いつでもどこでも視覚・聴覚で情報が得られるようになった。今後、AIの導入が本格化すれば、人間はますます「情報」と呼ばれる電気信号を重んじるようになるだろう。そのなかで「拭く」という行為はどのような意味をもち得るのか。比較文化史の研究者である鈴木禎宏さんに、「拭く」と「触覚」について語っていただいた。

鈴木禎宏さん

インタビュー
お茶の水女子大学基幹研究院 人文科学系 准教授
鈴木禎宏(すずき さだひろ)さん

1970年千葉県生まれ。1994年東京大学教養学科卒業。1999年同大学院比較文学比較文化博士課程退学。2001年お茶の水女子大学生活科学部講師に就任。2002年にバーナード・リーチの研究で博士号を取得。2007年から准教授。専門分野は比較日本文化論、生活造形論。『バーナード・リーチの生涯と芸術』(ミネルヴァ書房 2006)でサントリー学芸賞、日本比較文学会賞、ジャポニスム学会賞を受賞。現在、文化資源学会会長。

キッチンで起こる国際結婚のトラブル

日本では、水の豊かさが「拭く」という行為に大きく関係しているようです。水が豊富に存在するので、水を惜しまず流しっ放しにして洗い、きれいに拭きとる。もちろん、水を使わないで洗う人はいませんが、水がどれくらい貴重かで、洗い方も拭き方も変わってくるかもしれません。

私の知人に、日本人の女性とイギリス人の男性のカップルが何組かいます。皆さんが言うのは「最初のトラブルはキッチンで起こる」と。つまり、日本人の女性は洗剤で洗った食器をどんどん水道の水で流す。すると、それをそばで見ていたイギリス人の男性や彼の母親が「もったいない」と苦言を呈する。そんな場面があるらしいのです。

ドイツのご家庭にお邪魔したとき、私自身も同じような経験をしました。キッチンで食器洗いを手伝ったのですが、泡だらけの食器をいきなり大きな布巾で拭くのです。洗剤を水道の水で流さない。

古いヨーロッパ映画を観ていると、お風呂についても同じことがいえそうです。浴槽にせっけんを泡立てて体を洗い、そのままバスローブを羽織る。さすがに今はシャワーがあるので、ちゃんと流してから拭くのでしょうが……。

いずれにせよ、よくよく見ると「拭く」行為も文化によって違うようです。水が豊かな地域では、どんどん水を流して汚れを拭い去る。そうでない地域だと、なるべく水で流さずに拭きとる。そんなふうに言えそうです。「拭く」行為は気候・住居・設備との関係で考えねばなりません。

ちなみに、先の日本人女性とイギリス人男性のカップルがどう事態を収拾するかといえば、「熱湯をチョロチョロ流しながら洗剤の泡をすすぐ」というところで妥協に至るようです。

「今、ここ」から意識が拡散する現代

仏教の禅宗では掃除に代表される日常の作務(さむ)が精神的な修行につながると説かれてきました。掃除をするときは自分が雑巾になりきって「拭く」という作業に集中する。そうすることによって、ともすれば過去や未来の別の時間、あるいはどこか他の空間にあれこれと思いを馳せ、さまよいがちな雑念を振り払い、ひたすら「今という時間、ここという場所」に集中する。掃除、洗濯、炊事など日常の作務が、仏教でいう座禅の修行と同等の価値がある精神的な修養として昔から重視されてきたことは周知の事実です。

しかし、現代の生活を省みてどうでしょう。技術がどんどん進歩した結果、ますます人間の意識が「今ではないいつか、ここではないどこか」に飛びやすくなっています。何かをしているとき、その行為に集中せず、ついついほかのことを考えている。会議や授業に出席しながらスマートフォンをいじって意識をどこか別の場所に飛ばしている人は少なくありません。

SNS、グローバリゼーション、ボーダレス、シームレス、ユビキタス……現代を象徴するこうしたキーワードは、おしなべて人間の意識を拡散させる方向の言葉です。一カ所にじっとしていても、いつもどこかとつながっている気がしなければ落ち着かない社会になっています。

没入するための「模様化」

だからこそ、なおいっそう「今という時間、ここという場所」に帰ってくることができる行為を大切にすべきではないかと思うのです。炊事、洗濯、料理などの家事。洗顔、化粧、歯磨きなど、意識せずとも自然に体が動く生活習慣。このように毎日繰り返す行為がよいのかもしれません。それは一種の「型」であり、その動作によって心が落ち着くこともあります。

宗教哲学者で民藝運動を主導した柳宗悦(やなぎむねよし)は、茶道の点前(てまえ)の説明に「模様化」という言葉を使いました。よけいな動きが削ぎ落とされて、やるべきことを最低限の動きで、しかも格好よく行なう。繰り返し修練を積むうちに同じ軌道を描き、同じタイミングで体が動くようになる。動作が「型」になっていくさまを「模様化」と表現したわけです。

16世紀に成立した侘び茶もまた、茶室にいる間は余計なことを一切考えず、目の前のお茶にひたすら「没入する」営為です。「今という時間、ここという場所」に帰ってくるための修練ともいえる茶道が現代に続いている日本は幸運な国なのかもしれません。

帛紗(ふくさ)を用いて「茶杓(ちゃしゃく)」を拭く作法を実演する鈴木さん

帛紗(ふくさ)を用いて「茶杓(ちゃしゃく)」を拭く作法を実演する鈴木さん

触覚体験としての拭き掃除の価値

「今という時間、ここという場所」に帰ってくるきっかけとして、「拭く」行為に代表されるような「手の触覚」をもっと重視した方がよいと思います。下手をすると一日中スマートフォンの画面だけに触れている現代人の触覚体験は貧しくなっています。

なぜそれがまずいかというと、人体は性能がよすぎて、視聴覚の情報だけだと、頭はともかく体が満足してくれないからです。

ある研究によると、脳のなかで処理されている感覚の情報量は毎秒数百万ビット。そのうち意識できる情報量は多く見積もっても毎秒40ビット、実際はせいぜい16ビットだそうです。つまりスマートフォンなどの情報機器から得られる視聴覚の情報量は、無意識下で処理できる情報量に比べると少なすぎるのです。「見る、聞く」だけに頼りすぎるのは、人間にとって健全な状態とは言えません。

見失いがちな「今という時間、ここという場所」へ帰るきっかけとして、さしあたり拭き掃除に精を出し、触覚の豊かさを取り戻すのがもっとも手っ取り早く、かつ有効ではないでしょうか。

何気なく行なう拭き掃除が触覚の豊かさを取り戻す
撮影協力:昭和のくらし博物館

(2017年12月13日取材)

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