機関誌『水の文化』59号
釣りの美学

魅力づくりの教え11
まちの文化発信力を維持する人々
―― 岡山県倉敷市

美観地区を象徴する倉敷川と観光川舟

美観地区を象徴する倉敷川と観光川舟

人口減少期の地域政策を研究する中庭光彦さんが「地域の魅力」を支える資源やしくみを解き明かします。今回は倉敷の「美観地区」です。

中庭 光彦さん

多摩大学経営情報学部事業構想学科教授
中庭 光彦
(なかにわ みつひこ)

1962年東京都生まれ。中央大学大学院総合政策研究科博士課程退学。専門は地域政策・観光まちづくり。郊外・地方の開発政策史研究を続ける一方、1998年からミツカン水の文化センターの活動に携わり、2014年からアドバイザー。『コミュニティ3.0─地域バージョンアップの論理』(水曜社 2017)など著書多数。

倉敷美観地区の核は倉敷川

京都、大阪、金沢、柳川、など日本には水都と呼べる美しい都市が点在している。そこにはほぼ例外なく水の流れがあり、空間を美しく保全しようという地元の人々の思いがある。

今回訪れた「倉敷美観地区」もその一つだ。観光雑誌には岡山県随一の人気観光地として紹介されている。日本初の西洋美術館である大原美術館や蔵が倉敷川を取り囲む水辺景観は大変に美しい。年間およそ380万人もの観光客が訪れている。

景観保全の面からもモデル都市として有名で、他の都市にまねさせるだけの影響力をもっている。たしかに、美しいまちなみは多数見てきたが、倉敷のまちなみは別格というべき美しさだ。特に屋根が折り重なる眺望はすばらしい。この倉敷美観地区の基軸となっているのが、倉敷川だ。この水辺空間がなければ美観地区の価値は半減してしまう。

このまちを、人々は意図的に守ってきた。倉敷紡績株式会社創業者である大原家の役割のみならず、林 源十郎、原 澄治(すみじ)といった地元有力者の協力が大きい。

現美観地区はどのようにして形成されたのか、そして現代ではどのような人々がまちを守っているのだろうか。そのような疑問をもち、今回倉敷を訪れてわかったこと。それは、現在の美観地区すなわち倉敷川畔が、海に向かって干拓・埋立を繰り返してきた歴史と文化の境界地にあるという事実だった。

旦那衆がつくった倉敷川畔の景観

倉敷の江戸時代古地図を眺めると現美観地区は海岸だった。その後沖合に向かって干拓・埋立されたのだ。

倉敷川は美観地区から東に向かい、児島湾干拓地として知られる児島湖に注ぐ。倉敷川は舟運路であると同時に、干拓地が造成されるなかでの排水路だった。

その干拓・埋立は商人たちの力で行なわれた。江戸時代前半の水主(かこ)(注)を出自とする商人、さらに江戸時代後半の新興商人は財力で土地を取得し大地主となっていった。

土地持ちの旦那衆が富を蓄積してつくった景観。それが倉敷川畔に集まっている蔵であり、現美観地区の屋敷・商家群、そして1930年(昭和5)に建てられた大原美術館なのである。

美観地区を見下ろすことができる鶴形山の山上に鎮座する阿智神社には、江戸時代の川灯籠のレプリカが残されている。倉敷川舟運を思い出させる灯台だ。このあたりが海岸線だったころを想像することができる。

(注)水主
江戸時代の船舶の一般乗組員のこと。水夫とも書く。

黄薇中州地理図

倉敷川を通じて瀬戸内海とつながっていた倉敷。かつて島だった児島(備前児嶋)との間にある「藤戸海峡」は重要な航路だった。
提供:岡山県立図書館・電子図書館システム「デジタル岡山大百科」
※1706年(宝永3)から1829年(文政12)までに作成された図と考えられている

高梁川を一本化した倉敷の治水と用水

現美観地区がかつては干拓・埋立の境界地であったと聞けば、ここにどのようにして用水が届けられていたのかが気になる。

現在、倉敷の西側には、高梁川(たかはしがわ)が流れている。高梁川は明治時代前半まで酒津(さかづ)から二つの流れ(西高梁川、東高梁川)に分かれていた。

1892年(明治25)から1894年(明治27)に起きた大洪水を機に、その二つの流れを西高梁川に一本化し、東高梁川を廃川とした歴史がある。同時に酒津に笠井堰も竣工し、両高梁川に12カ所あった農業用水取水口が酒津1カ所にまとめられた。工事終了は1925年(大正14)

1928年(昭和3)の地図を見ると、この酒津から延びる用水路が、美観地区に水を届け、一部は倉敷川に流れ込んでいることがわかる。倉敷用水である。

現在、高梁川の酒津は桜のきれいな配水池の公園となっており、そこから東西用水が流れ出している。配水樋門には五つの口があるが、下流から見て左から西岸用水、西部用水、南部用水、備前樋用水、そして倉敷用水となる。また配水池北側からは八ヶ郷用水が流れ出す。

用水では子どもが遊び、揚水水車が据えられている風景が現在も見られる。

倉敷美観地区は、高梁川流域の用水路の先端につくられたことになる。

  • 「黄薇中州地理図」と見比べると、現在の倉敷美観地区から南に向かって干拓・埋立を繰り返したことがわかる

    「黄薇中州地理図」と見比べると、現在の倉敷美観地区から南に向かって干拓・埋立を繰り返したことがわかる

  • 笠井堰で取水された高梁川の水は、酒津配水池から倉敷市や周辺の農地などに配られる

    笠井堰で取水された高梁川の水は、酒津配水池から倉敷市や周辺の農地などに配られる

  • 配水池北側から流れる八ヶ郷用水沿いには揚水水車が点在する

    配水池北側から流れる八ヶ郷用水沿いには揚水水車が点在する

  • 「黄薇中州地理図」と見比べると、現在の倉敷美観地区から南に向かって干拓・埋立を繰り返したことがわかる
  • 笠井堰で取水された高梁川の水は、酒津配水池から倉敷市や周辺の農地などに配られる
  • 配水池北側から流れる八ヶ郷用水沿いには揚水水車が点在する

文化都市を夢見た大原家の遺伝子

美観地区を守ったリーディング企業は倉敷紡績だ。特に二代目社長大原孫三郎(1880-1943)、孫三郎の長男で倉敷絹織(クラレ)二代目社長と倉敷紡績四代目社長を兼任した大原總一郎(1909-1968)の役割は大きい。倉敷紡績創業は1888年(明治21)、翌年には倉敷アイビースクエアのある場所に本社工場を建てた。

大原孫三郎はイギリスの先進的工場経営者だったロバート・オーウェン(1771-1858)の影響を受け、工員が住む寄宿舎、病院、学校が一体となった工場をここに整備した。

なぜここに紡績工場をつくったのか。その背景には、原料となる綿花が塩分に強く、干拓地で好まれた樹種だったことがある。この工場都市に文化都市の夢を与えたのが大原孫三郎で、日本最初の本格的な西洋美術館である大原美術館を建てたのも彼だった。

息子の大原總一郎は、倉敷をドイツの城郭都市ローテンブルグのようにしたいと、美しい文化景観にこだわった。ローテンブルグの広さは約1km2の正方形。その程度の広さで歩いて暮らせるまちを總一郎は考えていた。真の職住近接ともいえる。

大原の下で倉敷アイビースクエアなど多くの設計を手がけた建築家の浦辺鎮太郎(しずたろう)(1909-1991)、地元の有力者、自治体が協力した結果、いち早く倉敷市伝統美観保存条例(1968年)が制定され、まちなみ景観が維持されてきた。

水で潤う倉敷美観地区は、このような人々により形成され、「美観を守る」という文化を根づかせた。

代替わりして今を支える人々

では、現在の美観を守る人々はどのような方なのか。

今回まちなかを案内してくれたのは三宅商店店主の辻 信行さん。本通り商店街の林源十郎商店をセレクトショップとして運営し、もとは小学校の先生だが、マスキングテープをプロモーションし若い女性の人気商品としたのは、なかなかの手腕だ。

その辻さんも倉敷の水文化の価値を認識されているのだろう。酒津配水池の北側に水辺のカフェを運営している。

倉敷を「人づくりのまちにする」と志してきたと言う辻氏が手がける林源十郎商店をはじめ、現在は本通り・本町通りの建築物の多くが保存され、内部はカフェや古本屋、飲食店、セレクトショップと観光地の魅力を前面に出している。

倉敷は路地の多さで有名だそうだが、ある路地に入ると古い商家の庭で「倉敷路地市庭(いちば)」という地元産品を扱った仮設マーケットが開かれていた。覗いてみると寿司、乾物、エスニック料理、フルーツ、スイーツ、有機栽培の野菜、カフェとなかなかイイ。週1回開かれているそうで、実行委員長は原浩之さん。名刺を見ると「倉敷天文台理事長」とある。日本初の民間天文台をつくった原澄治の縁者の方とお見受けしたが、立ち入った話はしなかった。

辻さん、原さん、ほかにもたくさんの若い方々が美観地区を舞台におもしろい事業を起こしていることがわかっただけで十分だ。

  • 八ヶ郷用水に面して建つ水辺のカフェ「三宅商店 酒津」。倉敷を案内してくれた辻信行さんが手がけたもの

    八ヶ郷用水に面して建つ水辺のカフェ「三宅商店 酒津」。倉敷を案内してくれた辻信行さんが手がけたもの

  • 倉敷美観地区MAP

    倉敷美観地区MAP

  • 「倉敷路地市庭」

    「倉敷路地市庭」

  • 「倉敷路地市庭」実行委員長の原浩之さん

    「倉敷路地市庭」実行委員長の原浩之さん

  • 林源十郎商店

    林源十郎商店

  • 林源十郎商店などいくつものプロジェクトを動かす辻信行さん

    林源十郎商店などいくつものプロジェクトを動かす辻信行さん

  • 八ヶ郷用水に面して建つ水辺のカフェ「三宅商店 酒津」。倉敷を案内してくれた辻信行さんが手がけたもの
  • 倉敷美観地区MAP
  • 「倉敷路地市庭」
  • 「倉敷路地市庭」実行委員長の原浩之さん
  • 林源十郎商店
  • 林源十郎商店などいくつものプロジェクトを動かす辻信行さん

倉敷が蓄えてきたソフトパワー

今、日本に限らず世界中の国や都市は、魅力づくりで競争している。まさにソフトパワーと呼べる文化発信力で競っているわけだ。ヴェネツィア、アムステルダム、ニューヨーク、シンガポールなど各都市が独自の魅力を発信している。それはたんに目に見える景観だけでなく、そこで活躍する人々の創造性の蓄積――まさに文化までもがメッセージとして伝わる都市である。

倉敷も「美観」というソフトパワーを蓄えてきた都市といえる。

江戸時代からどんどん干拓・埋立を進めた地元商人、明治期から文化的な工場都市づくりを目指した大原孫三郎、さらにこのエリアの「美観」を守ってきた大原總一郎や地元の人々、そして現在はその美観に自らの創造性を加えてみたいという人々が集まってきている。

この人々を私は「美観を守ってきた」と表現したが、実は美観を「創造しつづけてきた」と言った方が正確だろう。

用水の末端にできた陸と干拓・埋立の境界の土地で文化を蓄積してきたおかげで、倉敷美観地区は若い世代による新たな活動の舞台を提供しつづけている。

〈魅力づくりの教え〉

土地の文化を守りつづけることは、新たな世代の活躍の舞台づくりにつながる。都市のソフトパワーを生む大きな要因である。

参考文献
犬飼亀三郎『大原孫三郎父子と原澄治』(倉敷新聞社 1973)
大原孫三郎傳刊行会『大原孫三郎傳』(1983)
室山貴義・金井利之『倉敷の町並み保存と助役・室山貴義』(公人社 2008)
吉原睦『倉敷美観地区』(日本文教出版 2011)

(2018年3月30〜31日取材)

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