機関誌『水の文化』60号
水の守人


文化をつくる

守るために「攻める」守人たち

編集部

過去のいさかいを繰り返さない知恵

 大地を潤し、生きものを育む水。古来、人々はその水を暮らしに欠かせないものとして敬い、大事に使ってきた。そこにはさまざまな人たちの知恵と工夫と配慮があった。

 柴井堰(しばいぜき)(「伝統保存か近代化か ── 選択を迫られる「柴井堰」」参照)の取材で訪ねた串良川(くしらがわ)は、かつて激しい水争いが繰り広げられた地域だった。ひどい旱魃(かんばつ)に見舞われた1934年(昭和9)7月、川原園井堰(かわはらぞのいぜき)から水を引き込む串良町(右岸)の農民と、数百m下流にある林田井堰(はやしだいぜき)から水を引き込む東串良町(左岸)の農民が串良川を挟んでにらみ合い、ついに乱闘するという事態に至る。両町の農民が分水協定を結ぶまでの経緯を当時の新聞が報じている。「なんだ、戦前の話か」と思わないでほしい。これは今に通じる話でもある。

 柴井堰の中心人物である出水園(いずみぞの)利明さんが串良町土地改良区の理事に就任した33年前、東串良町から「用水が足りないので、架けている柴を一つ外してくれないか」という申し出があった。しかし柴を一つ外したら水流がそこに集中して、堰が崩れてしまう。構造上、これは応じられない相談だったが、過去のいさかいも知っているので無下(むげ)に断るわけにもいかない。

 そこで「仕上げに敷く筵(むしろ)の位置を低くして、柴の上から越流させる」という解決策を編み出す。これならば下流にも水が融通できる。今も柴架けの作業で出水園さんが高さ調整にこだわるのは、公の財産である水を独り占めしてはならないという配慮からだった。

見えないから遠のく「水」

 井戸や開渠(かいきょ/蓋をしていない水路)に代表されるように、かつて日本は水がどこから来てどこへいくのかという「水の通り道」が見えていた。

 しかし上下水道の整備が進んだ今、蛇口からは水がほとばしり、トイレもレバー一つ、あるいは自動で流れ、U字溝に生活排水が溜まる様を見ることはほぼない。これは当時の人々がそう望んだからであり、その望みをかなえようと懸命に努力した結果だが、水が見えなくなって関心が薄くなり、水の管理はすっかり他人任せになってしまった。しかも、それは都市部の住民に限った話ではない。

 前述したように、下流域に配慮しながら水を取り入れ分配している柴井堰でもそれは同じ。串良川の水で米を育てている農家の多くが、柴井堰のしくみや存在を知らないという。

 全国的に行なわれた圃場(ほじょう)整備によって張り巡らされたパイプラインで水が送り込まれているので、今は水田もバルブを開けば水をたやすく得られる。その裏では、柴井堰からの水がきちんと各地区に届くよう、水門の開け閉めなどの調整を出水園さんや土地改良区の職員が日夜問わず駆けずり回っているからだが、ごくたまに送水がうまくいかないと「どうなってるんだ! 早く水を送れ!」という苦情の電話が串良町土地改良区にかかってくるそうだ。

「水の通り道」が見えなくなった弊害は、都市部の住民のみならず、水と近しい関係にあった農家にまで及んでいる。

「攻めの姿勢」が守人たちの共通項

 見えないから遠のいた水と人の心理的な距離を再び縮めるにはどうすればよいのか。

 今号の冒頭にご登場いただいた川田順造さんは、文化についてこう定義している。

「文化とは他者からの影響を通じて得られるものも含み、だが本能に基づく要素も含む、ヒトの営みの総体」

 これを水の文化に置き換えるならば、きれいな水を見たら「飲みたい」と思うのは本能に基づくもので、水を大切に使うために「水の循環を守るしくみをつくる」のは他者から学ぶことも含めた後天的なものといえるだろう。

 今回の特集「水の守人」では、各地でどのような活動が行なわれているのかを多角度から探った。湧水に基づく暮らしを守るための住民活動、河川の水を利用した水力発電によるまちおこし、雨水利用の新たな追求、水の涵養をもたらす森林再生、下水道を「見える化」する広報事業、海にかかわる次世代の育成、伝統保存と近代化で揺れる地域、都市住民に水との接点をもたらす海外事例など、水循環に関連するさまざまな取り組みを行なう人たちを取材し、多くの学びを得た。

 そして、水の守人に共通しているのは、なにかを守るために新しいことに挑むという「攻めの姿勢」であることに気づく。連載(食の風土記)で取り上げた「いちご煮」も、実際に訪ねてみると、宅地化や太陽光パネルの設置などが原因で森からの滋養分が海に届かなくなったので、危機感を抱いた漁師たちが自ら昆布を養殖するようになったことを知る。これもまさに水の守人である。

 水害が頻発した今夏は、人々に水の恐ろしさを再認識させた。その一方で、水は天の恵みでもある。

 地球上を巡って命を支える水と人の距離感を再び縮めるには、身の回りにあるはずだけれど見えない水の通り道を考えることが第一歩だろうか。そして、水の守人たちから学んだ「守るためには攻めなければいけない」という意識も忘れてはならないだろう。

 ミツカン水の文化センターは活動20周年を迎えたが、攻めの意識を忘れることなく、「人と水のかかわり=水の文化」を伝えつづけていきたい。

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