機関誌『水の文化』61号
水が語る佐渡

佐渡
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二つの島がつながった金の島

佐渡が大陸の一部だったことがわかる南片辺付近の岸壁

佐渡が大陸の一部だったことがわかる南片辺付近の岸壁

日本のいわゆる離島のなかで、佐渡は沖縄本島に次ぐ面積をもつ。金銀の鉱脈が走る二つの山地と離島には珍しい広い平野を併せもったこの島の成り立ちを紹介する。

3000万年前の記憶が残る島

なぜ佐渡には、金銀鉱脈が豊富に存在し、島の真ん中に広大な平野があるのか。現地を歩きながら、佐渡の独特な地形や地質が生まれた背景について、佐渡市教育委員会ジオパーク推進室の市橋弥生さんに解説してもらった。

「佐渡島と日本列島の成り立ちはよく似ています。今からおよそ3000万年前、ユーラシア大陸の東側の縁が割れ、活発な火山活動とともに陸から引き離されていきました。これが日本列島の原型です。そこには将来、佐渡島になる部分も含まれていました。今の大佐渡、小佐渡(注1)の山々は、この時の火山噴出物や溶岩でできています」と市橋さん。

佐渡が大陸の一部だった証拠が見られるという南片辺(みなみかたべ)に行ってみた。海岸の岩肌を観察すると、大小の薄赤色の石が混ざっている。

「赤っぽい岩片は、大陸の岩盤をなす花崗岩(かこうがん)です。佐渡が大陸から切り離されはじめるとき、大陸の崖が崩れ、そこへ火砕流が流れ込んでそのまま固まり、このような片辺礫岩(かたべれきがん)として残ったと考えられます」

南片辺から少し南下した吹上海岸では、当時の激しい噴火の痕跡である球顆流紋岩(きゅうかりゅうもんがん/球状の石英(せきえい)の粒が含まれる火山岩)が荒々しい海岸線を形づくっている。これら約3000万年前にできた片辺礫岩や球顆流紋岩は非常に硬く、金の採掘が本格化した際には金鉱石を砕く石磨(いしうす)(注2)の素材として重用された。

(注1)大佐渡、小佐渡
北部の大佐渡山地、南部の小佐渡丘陵の略称。大佐渡の主峰は標高1172mの金北山(きんぽくさん)、小佐渡の主峰は標高646mの大地山(おおじやま)。

(注2)石磨
相川金銀山では、上磨に球顆流紋岩が、下磨に片辺礫岩が多く用いられた。

  • 激しい噴火の跡を示す球顆流紋岩。小さい粒が含まれることが特徴

    激しい噴火の跡を示す球顆流紋岩。小さい粒が含まれることが特徴

  • 片辺礫岩の岩肌。少し赤っぽい岩片が大陸の岩盤をなす花崗岩

    片辺礫岩の岩肌。少し赤っぽい岩片が大陸の岩盤をなす花崗岩

  • 平根崎にある貝の化石。かつて海底だった痕跡

    平根崎にある貝の化石。かつて海底だった痕跡

  • 平根崎付近の海岸。海に沈んだあと再び隆起したため、斜めになっている

    平根崎付近の海岸。海に沈んだあと再び隆起したため、斜めになっている

  • 平根崎付近の海岸。海に沈んだあと再び隆起したため、斜めになっている

    佐渡島の成り立ち
    1海の底にあった大地に押される力が加わって隆起が始まる 2大佐渡と小佐渡が海上に現れる 3二つの島から流れ出た土砂で島がつながり佐渡島となる

  • 佐渡市教育委員会社会教育課ジオパーク推進室で学芸員を務める市橋弥生さん

    佐渡市教育委員会社会教育課ジオパーク推進室で学芸員を務める市橋弥生さん

断層に沿ってつくられた鉱脈

「金銀鉱脈がつくられたのも、ちょうどこの時代(約2000万年前)です」と市橋さん。大陸から引き離そうと働く力によって、佐渡の岩盤には亀裂が入り、たくさんの断層ができた。そこにマグマで熱された高温・高圧の地下水(熱水)が、地中深くの岩石から溶け出した石英や金、銀などの鉱物を溶かし込んで何度も上昇し、断層の隙間を埋めるように徐々に沈殿していった。これが金銀鉱脈である。相川金銀山最大の鉱脈とされる青盤脈(あおばんみゃく)は、長さ2100m、深さ500m、幅6mにも及ぶという。

やがて日本列島が大陸から完全に切り離されると(約1700万年前)、日本海が誕生した。佐渡はその後いったん日本海の海底に沈んで姿を消してしまうが、平根崎(ひらねざき)では佐渡が海底だったことを窺わせる貝の殻、またウニが這(は)った跡などの化石を見ることができる。

「マングローブの花粉化石もあります。当時、ここは暖流の影響で沖縄のように温暖な気候でした」

長い年月を経て、佐渡が再び姿を現すのは今から約300万年前のこと。日本列島全体がプレートに押されて隆起を始めると、海底にあった佐渡にも力が加わり、大佐渡、小佐渡が二つの島となって海上に顔を出した。この時、約3000万年前の大地をしっかり抱えたまま隆起したおかげで、佐渡島には豊かな金銀鉱脈が存在するのだ。

  • 佐渡島の金銀鉱脈 マグマで熱せられた地下水に金や銀が溶け、断層に沿って上昇し、沈殿して金銀鉱床が生まれた(イラストは市橋弥生さん提供資料と佐渡市発行のパンフレットをもとに編集部作成)

    佐渡島の金銀鉱脈
    マグマで熱せられた地下水に金や銀が溶け、断層に沿って上昇し、沈殿して金銀鉱床が生まれた(イラストは市橋弥生さん提供資料と佐渡市発行のパンフレットをもとに編集部作成)

  • 相川金銀山で最大の鉱脈とされる青盤脈。この地形は金銀が掘り尽くされた跡

    相川金銀山で最大の鉱脈とされる青盤脈。この地形は金銀が掘り尽くされた跡

佐渡の食を支えた国中平野の成り立ち

大佐渡、小佐渡の山から出る大量の土砂は、川で運ばれて海岸線に堆積し、さらに波がその砂を動かして、今の真野湾(まのわん)と両津湾(りょうつわん)のあたりに砂州(さす)が形成された。

「砂州に挟まれた海が土砂で埋め立てられ、二つの島をつなぐように平野ができたのです」

国中平野が海だったことを示すのが、縄文時代の貝塚遺跡である。6000〜5000年前の縄文時代は海面が4〜5m高かったと推定し、当時の海岸線を地図上に再現すると、「堂の貝塚」など田畑のなかに無造作に点在する遺跡が、海を囲むように並ぶ。「人の営みは今も昔も大地があってこそなのです」と市橋さんは言う。

時は下って江戸時代。金山採掘のため相川集落の人口が増えると米が不足し、国中平野周辺の新田開発が一気に推し進められた。国中平野には大きい川もあり水は豊富だが、広大な水田に水を平等に分けるには工夫が必要で、複雑な江(え)(注3)が張りめぐらされた。

江戸時代から分岐する江の幅が変わっていないという「舟津江(ふなつえ)」を市橋さんと訪ね、地元の歴史にくわしい加藤洋さんとお会いした。加藤さん宅の水田は代々、舟津江の水を利用している。「舟津江は七つの江に分かれますが、その江の幅は各集落の田の面積に応じて決められています。元禄(1688-1704)初期につくられたものでしょう。300年前の佐渡の人たちが、水争いを避けるために知恵を絞り、このしくみをつくり上げたのです」と加藤さんは語った。

佐渡は、地域の地形や成り立ちによって、水とのつきあい方もさまざまだ。

(注3)江
佐渡では「江」を(1)水路、(2)水田に引き入れた水を温めるための水溜まりという二つの意味で用いるが、ここでは水路を指す。

  • 舟津江から分かれる七つの江。手前から順に、相ノ山江、下江(しもえ)、寺江(てらえ)、佐々木江、林江、新田江、橋爪江。七つの江の幅は江戸時代から不変

    舟津江から分かれる七つの江。手前から順に、相ノ山江、下江(しもえ)、寺江(てらえ)、佐々木江、林江、新田江、橋爪江。七つの江の幅は江戸時代から不変

  • 舟津江について説明する農家の加藤洋さん

    舟津江について説明する農家の加藤洋さん

(2018年11月29〜30日取材)

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