機関誌『水の文化』62号
再考 防災文化

再考 防災文化
CASE2【都市型】

近隣住民を巻き込み楽しみつつ備える町内会

荒川や江戸川などに囲まれた東京東部のゼロメートル地帯。その一角を占める葛飾区は、大規模な洪水が起こる可能性がある。仮に荒川の堤防が決壊した場合、想定最大浸水深は3〜5mに及ぶ。そうした事態に備えて、病人などの避難・救助用として二馬力のエンジン付きのゴムボートを保有し、操縦訓練を行なう町会が葛飾区内にある。1727世帯、約3500人が加入する東新小岩七丁目町会の活動を追った。

町会所有のゴムボートを中川に運ぶ東新小岩七丁目町会の市民消火隊の皆さん。ゴムボートは浸水時に使うことを想定し、年に何度も操縦訓練を行なっている

町会所有のゴムボートを中川に運ぶ東新小岩七丁目町会の市民消火隊の皆さん。ゴムボートは浸水時に使うことを想定し、
年に何度も操縦訓練を行なっている

つき動かしたのはカスリーン台風の記憶

消防士のような制服を着た男性たちがゴムボートを担ぎ、住宅街を歩く。これは「東新小岩七丁目町会」が所有する災害避難用のボートで、運んでいるのは同町会の「市民消火隊」のメンバーだ。

東京都東部の葛飾区新小岩北地区は、土地が東京湾の海面より低いゼロメートル地帯にあたる。もともと低地だったうえ、高度経済成長期に地下水の汲み上げによる地盤沈下が起きたためだ。中川の堤防から住宅街を眺めると、明らかに地盤が低いことがわかる。

この地域は北に中川、東に新中川、西に荒川が流れる。万が一、荒川が決壊すると大規模な被害が予想されることから、「新小岩北地区連合町会」では、2006年よりNPO、専門家、行政などと連携し、防災訓練や水害のリスクに備えるため住民へさまざまな働きかけを行なってきた。

その発端は、1947年(昭和22)のカスリーン台風に遡る。利根川の決壊で関東平野が浸水し、東京に戦後最大の水害を引き起こしたこの台風を経験したのが中川榮久(えいきゅう)さん。中川さんは、新小岩北地区連合町会の東新小岩七丁目町会の会長を務める。

新小岩付近は民家の1階が完全に水没し、当時小学6年生だった中川さんは、水が引くまで3週間の避難生活を家族とともに強いられた。この体験から中川さんは、地元の小学校などでカスリーン台風時の体験を伝えるほか、葛飾区の町内会活動に力を入れ、水害への危機管理の重要性を30年ほど前から説いてきた。

東新小岩七丁目町会の会員であり、2010年から市民消火隊として活動してきた竹本利昭さんは、次のように話す。

「水害経験のない私はリスクを想像できず、『堤防もあるし大丈夫なのでは』というのが当時の正直な思いでした。でも中川会長をはじめNPOの方や研究者の方々の話を聞くうちに、本気で考えてみようと思いはじめたのです。このまま何もしないより、いざとなったときに対応できる知恵や想像力は必要だと」。

  • 新小岩北地区および東新小岩七丁目の位置
  • 上空から見た葛飾区。右から左へ蛇行しながら流れているのが中川(提供:葛飾区)

    上空から見た葛飾区。右から左へ蛇行しながら流れているのが中川(提供:葛飾区)

  • 1947年9月のカスリーン台風で決壊した中川堤防(提供:葛飾区)

    1947年9月のカスリーン台風で決壊した中川堤防(提供:葛飾区)

  • 東新小岩七丁目町会の会長を務める中川榮久さん。カスリーン台風の経験から水防の大切さを訴える

    東新小岩七丁目町会の会長を務める中川榮久さん。カスリーン台風の経験から水防の大切さを訴える

  • 東新小岩七丁目町会の市民消火隊長、竹本利昭さん。子どもの小学校卒業と同時に「おやじの会」を抜け、市民消火隊へ

    東新小岩七丁目町会の市民消火隊長、竹本利昭さん。子どもの小学校卒業と同時に「おやじの会」を抜け、市民消火隊へ

地域を巻き込んだ住民参加型の対策

現在竹本さんが隊長を務める市民消火隊は、町内の初期消火を目的としたボランティア組織として1973年(昭和48)に結成された。竹本さんが入隊した2010年、水害にも備えようと2隻のゴムボートを購入。浸水時における緊急性の高い人の救助や、自宅に取り残されてしまった人に救援物資を届けるためだ。市民消火隊は15〜16名で活動し、防災訓練や操縦訓練などを定期的に行なう。

竹本さんたちの活動は多岐にわたる。東日本大震災での危機意識の高まりから、2011年に新小岩北地区連合町会が呼びかけ、「葛飾区新小岩北地区ゼロメートル市街地協議会」(以下、協議会)を立ち上げた。協議会には「NPO法人ア!安全・快適街づくり」「認定NPO法人日本都市計画家協会」「ゼロメートル市街地研究会」「葛飾区」の5団体が所属し、研究者や小学校のPTA会長、校長などを招き、水害対策を考えるシンポジウム「輪中会議」を年1回開催している。

さらに同協議会が開発した防災学習用のAR(注)アプリ「天サイ!まなぶくん」では、スマートフォンやタブレット端末から新小岩北地区の水害時の浸水状況を立体的に見ることができる。竹本さんによると、子どももイメージしやすいため親のダウンロード率が高いそうだ。

2018年は、東新小岩七丁目町会と葛飾区が連携し、水害が起きる数日前からの避難行動を示した「マイ・タイムライン」の作成、住民を対象に近くの小学校から上野公園までを移動する「広域避難訓練」を行なった。

水害からの避難は、高層マンションなど高い建物に逃げる「垂直避難」を考えがちだが、荒川や江戸川が越水した場合は葛飾区全体が浸水してしまうこと、さらに水が引くまでの日数を2週間と考えると、浸水しない地域まで逃げる「広域避難」が必要となる。

「広域避難訓練には80人近くが集まり、1歳〜93歳まで幅広い年齢層の方が参加してくださいました。大人数で移動することの苦労もわかり、非常に満足度の高い訓練でした。今年も町会の皆さんと組んでできたら」と話すのは、葛飾区地域振興部危機管理課の大田聖家(せいや)さん。大田さんは6年前から同課で、竹本さんたちと一緒に水防の啓発にあたっている。

(注)AR
拡張現実。ディスプレイに映し出した実在の画像(風景)にバーチャル情報を重ねて表示する技術。リアルでわかりやすい情報を得ることができる。

  • 運んできたゴムボートに空気を注入。気室が三つに分かれているため、沈没のリスクは低い

    運んできたゴムボートに空気を注入。気室が三つに分かれているため、沈没のリスクは低い

  • 空気がわずかに抜けていたので応急処置を施す。こうしたチェックのためにも訓練は大切

    空気がわずかに抜けていたので応急処置を施す。こうしたチェックのためにも訓練は大切

  • 緊急用船着場のはしごを降りて一人ずつボートに乗り込む

    緊急用船着場のはしごを降りて一人ずつボートに乗り込む

  • 市民消火隊のメンバーが代わる代わる操縦。いざというときに備える

    市民消火隊のメンバーが代わる代わる操縦。いざというときに備える

  • 葛飾区新小岩北地区ゼロメートル市街地協議会の構成
  • 防災学習用のARアプリ「天サイ! まなぶくん」。新小岩駅のそばで起動させるとこのような画面が表示された

    防災学習用のARアプリ「天サイ! まなぶくん」。新小岩駅のそばで起動させるとこのような画面が表示された

  • 葛飾区地域振興部危機管理課の大田聖家さん。災害対策係として町会と行政のつなぎ役を6年務めている

    葛飾区地域振興部危機管理課の大田聖家さん。災害対策係として町会と行政のつなぎ役を6年務めている

町会と行政が連携し地道に伝えつづける

今でこそ住民の危機意識もある程度定着しつつあるが、最初は「水害なんて起きないだろう」と考える住民の方が多く、洪水時の水位を示す標識の設置にも「地価が下がる」との理由から猛反対を受けた。しかし竹本さんたちの熱意が伝わり、標識は設置された。また、高齢者や障がい者、乳幼児などがいる家庭に注意喚起を呼びかけた際には、大田さんと竹本さんが約100世帯を一軒一軒訪問し、各家で1時間かけて説明した。

こうした町会と行政の地道な努力に加え、東日本大震災の記憶、さらに近年の度重なる洪水や土砂崩れによる被害などを目の当たりにし、住民の意識も「この地域でもあり得るかもしれない」と、加速度的に変わっていった。

「区が発行する災害対策向けのリーフレットも、文字ばかりだと堅苦しいので情報を整理し、地域の皆さんにいかに興味をもってもらうかを重視しています。私たちの案を町会の方に見ていただき、意見を参考にブラッシュアップしたものを地域の皆さんに配ることもあります」と大田さん。捨てられないよう町会の会員名簿に綴じ込みにする工夫などもしている。

東新小岩七丁目町会と葛飾区が協力して制作した水害に関するパンフレット。イラストが豊富でわかりやすい

東新小岩七丁目町会と葛飾区が協力して制作した水害に関するパンフレット。イラストが豊富でわかりやすい

つながりを基盤にときに楽しみながら

町会では子どもたちへの防災教育にも力を入れる。葛飾区立二上(ふたかみ)小学校への出前授業のほか、PTAが主催する子ども祭りの際には、アトラクションの一つとして学校のプールでゴムボートの体験乗船も行なう。竹本さんたちの防災教育を受けた児童が中学校で「地域防災部」をつくった例もある。

竹本さんは、「コミュニティの基盤として小学校があるのは大きい」と言う。二上小学校には休日に子どもたちと遊ぶ「おやじの会」なるサークルがある。竹本さんのように子どもが卒業しておやじの会を抜けて時間ができた父親が市民消火隊に入るケースは珍しくない。

「勉強会ばかりでなく楽しむことも大事です。子どもたちにはボートで遊びながら水害のことを考えてもらいますし、お父さん方とは訓練後に一杯飲みながら話をすることもあります。この地域には中川という資源があるので、たんに恐れるのではなく、水と親しむなかで地域の方と一緒に備えていければ。人の意識を変えるのは時間がかかります。とにかく継続して、一人でも増やしていくことが大事」と、竹本さんは力を込める。

2019年4月、市民消火隊には、小学校のPTA出身の女性などからなる「女子隊」ができた。なかには、昨年の広域避難訓練を経験して参加を決めた女子高校生も。ご主人が市民消火隊の一員で、自身も女子隊に加わった稲葉美哉子(みやこ)さんは、「男性が仕事に出ているときは地元にいる女性でカバーできれば。ゴムボートの操縦もやってみると楽しいです」と話す。「みんな楽しそうだしやってみようと思った」と話す女性も。見ていると、たしかにワイワイ楽しそう。

東新小岩七丁目町会に続き、ここ2〜3年でゴムボートを配備する町会がほかにも増えてきた。「まだまだ」と話す一方で、竹本さんたちの思いは着実に新しい芽を育んでいる。

  • 東新小岩七丁目町会の市民消火隊の皆さん。2019年4月には女子隊も発足、さらに活動が広がっていく

    東新小岩七丁目町会の市民消火隊の皆さん。2019年4月には女子隊も発足、さらに活動が広がっていく

  • 女子隊メンバーの稲葉美哉子さん。このあとゴムボートに乗り込み、操縦訓練を行なった

    女子隊メンバーの稲葉美哉子さん。このあとゴムボートに乗り込み、操縦訓練を行なった

(2019年5月19日取材)

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