水の文化フォーラム

ミツカン水の文化交流フォーラム2019
江戸東京からの学び
廻船が運んだモノと文化とは

江戸東京からの学び 廻船が運んだモノと文化とは

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 かつての江戸は、運河が網の目のように張り巡らされた水の都でした。人口百万ともいわれた江戸の生活と文化を支えた物流ネットワークは、全国各地からさまざまな物資をもたらす海運によって成り立っていました。そして船による輸送に欠かせない道具であった「桶」と「樽」は、江戸時代に急速に普及し生産と生活のあらゆる場面で活躍したのです。優れた循環型社会でもあった江戸時代の生活の知恵は、これら流通や道具にどのように息づいていたのでしょうか。
 2020年を目前に控え、「ミツカン水の文化フォーラム2019」では、東北学院大学教授の斎藤善之さん、家具道具室内史学会会長の小泉和子さんの講演と、立教大学特任教授の木村直也さんのファシリテーションによるパネルディスカッションを通じて、水とのかかわりを念頭に置きながら、現代に引き継ぐべき持続可能な「江戸の知恵」を探りました。
 また今回のフォーラムでは、シンポジウムの内容を体感できるクルーズも実施。斎藤さんの解説を聞きながら、今に残る運河を船でたどり、江戸と東京は今もつながっていることを再認識しました。

目次

シンポジウム
講演1
江戸後期の市場を支えた船・商人・港
講師 斎藤善之さん
講演2
桶樽が支えた江戸時代
講師 小泉和子さん
パネルディスカッション
江戸東京から学ぶ、
持続可能な社会・暮らしに引き継ぎたい知恵
パネラー 斎藤善之さん 小泉和子さん
ファシリテーター 木村直也さん
クルーズ
案内人 斎藤善之さん

実施概要

シンポジウム
日時
2019年10月19日(土)
13:00~17:00
会場
立教大学 池袋キャンパス
参加者数
90名
登壇者
斎藤善之さん 小泉和子さん
ファシリテーター:木村直也さん
主催
ミツカン水の文化センター
クルーズ
日時
2019年10月26日(土)
8:00~12:00
会場
佃・日本橋川・小名木川など
参加者数
24名
案内人
斎藤善之さん
主催
ミツカン水の文化センター

10月19日 シンポジウム

登壇者プロフィール

斎藤善之さん

講師

東北学院大学 経営学部 教授
斎藤善之 (さいとうよしゆき)さん

1958年生まれ。1987年早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得。1995年「内海船と幕藩制市場の解体」で文学博士。日本福祉大学知多半島総合研究所嘱託研究員などを経て現職。専門は日本近世史、海運港湾史。



小泉和子さん

講師

家具道具室内史学会 会長/昭和のくらし博物館 館長/重要文化財 熊谷家住宅館長
小泉和子 (こいずみかずこ)さん

1933年生まれ。女子美術大学芸術学部洋画科に学ぶ。
1970年東京大学工学部建築学科建築史研究室研究生となり、1975年工学博士号授与。1971年小泉和子生活史研究所設立。
1999年東京都大田区の自宅を「昭和のくらし博物館」として公開。専門は家具道具史を中心とした生活史。



木村直也さん

講師

立教大学 文学部 特任教授
木村直也 (きむらなおや)さん

1956年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得。産業能率大学経営学部教授を経て現職。専門は日本近世・近代史、東アジア国際関係史。

【講演1】斎藤善之さん
江戸後期の市場を支えた船・商人・港

斎藤善之さん

 江戸時代後期に台頭した「新興海運勢力」の研究の進展によって、近世後期から明治期に至る百年(18世紀後半〜19世紀後半)の海運流通のイメージは大きく変わりました。新興海運勢力とは次の3者です。

  • (1)北海道から大坂に至る日本海沿岸および瀬戸内海の航路で活動した北前船(きたまえぶね)
  • (2)尾張を拠点に下関および大坂から江戸に至る瀬戸内海および東海太平洋沿岸の航路で活動した尾州(びしゅう)廻船
  • (3)北海道から江戸に至る東北太平洋沿岸の航路で活動した奥筋(おくすじ)廻船

 これら3者がそれぞれ活動域の末端で連結することによって、日本列島を全周する民間主導の海運ネットワークが形成されました。さらには地域ごとに活動した地廻りの海運勢力や、主要河川で活動した川船勢力も、ここに連結することにより、全国——地域の重層的な市場圏が形成されました。こうした新しい流通網は生活物資を送り届けることで人々の生活文化に大きな変化をもたらしたのです。

江戸前期の海運は幕藩体制による流通機構

 近世の海運は、まず領主の需要を満たす流通機構として形づくられました。近世初期に、諸藩および幕府は年貢米を江戸や大坂に輸送する「廻米船(かいまいせん)」を整備しました。寛永9年(1632)仙台藩による江戸廻米、6年後の加賀藩による大坂廻米を端緒として、諸藩は自ら建造運航する直営船と民間船の雇用により年貢米を廻送する体制を整備しています。その後、河村瑞賢が東廻り・西廻り航路を整備(1670~1671)し、幕府の廻米船(御城米船[ごじょうまいせん])による天領の廻米体制が確立しました。ちなみに御城米船であることを示すために掲げた「日の丸船印」が現在の日本国旗の起源となったという説が有力です。

 近世前期になると経済の発展に伴い、上方から江戸への物資輸送が活発化し、海運は発展期を迎えます。元禄文化の発展を支えた物流です。この時期の海運を担った廻船に「菱垣廻船」と「樽廻船」がありました。

 元和年間(1615-1624)に堺商人が仕立てた菱垣廻船は、やがて江戸の荷受問屋らが結成した十組問屋仲間の差配下に置かれ、最盛期には260艘の勢力となりました。元禄年間(1688-1704)に大坂―江戸間の所要日数は平均32日、早くて10日、年間4往復程度とされています。菱垣廻船の主な積荷の一つに木綿類があり、秋に集荷された新綿を大坂から浦賀まで運ぶ速さを競った菱垣廻船の年中行事が「新綿番船(しんめんばんぶね)」です。これは到着順位が賭けの対象となるなど、江戸の人々の人気を集めました。

 享保年間(1716-1736)に菱垣廻船の荷主のうち上方の酒造家たちは、十組問屋仲間による荷役(注1)や海損(注2)の方式に不満を募らせ、十組問屋を脱退して独自に酒荷専用の船「樽廻船」を仕立てるようになりました。樽廻船でも大坂と西宮から江戸新川までの早着を競う年中行事の「新酒番船」を開催し、総一番(優勝)の船がもたらした新酒がその年の酒の基準相場となるなど人気を博しました。寛政2年(1790)の総一番船は大坂-江戸を58時間で走破し、平均速力6.5ノットという速度記録を樹立しました。

(注1)荷役(にやく)
船荷のあげおろしをすること。また、それをする人。

(注2)海損(かいそん)
航海に関して船舶または積荷について生じる損害および費用。

大坂の住吉大社沖をゆく千石船(弁才船)。29反帆なので1500石級、乗組員は14人程度ととみられる。1831年(文化8)の船絵馬『粟崎八幡神社奉納絵馬額面』(粟崎八幡神社蔵[金沢市有形文化財指定]/画像提供:金沢市文化財保護課)
大坂の住吉大社沖をゆく千石船(弁才船)。29反帆なので1500石級、乗組員は14人程度とみられる。1831年(文化8)の船絵馬『粟崎八幡神社奉納絵馬額面 万徳丸』(粟崎八幡神社蔵[金沢市有形文化財指定]/画像提供:金沢市文化財保護課)
コミュニティデザインのフィールドと考え方
左が菱垣廻船、右が千石船(弁才船)。菱垣廻船はひし形に組んだ垣立の格子が特徴。1785年(天明5)に若宮八幡宮に奉納された『菱垣廻船絵馬』より(若宮八幡宮蔵/画像提供:岡山県立博物館)
安治川(あじがわ)の切手渡場(スタート地点)の賑わい。右上には天保山沖で出発を待つ新綿番船が描かれている。安政期(1854-1860)の作。含粋亭芳豊『菱垣新綿番船川口出帆之図』より(公益財団法人 日本海事科学振興財団「船の科学館」蔵)
安治川(あじがわ)の切手渡場(スタート地点)の賑わい。右上には天保山沖で出発を待つ新綿番船が描かれている。安政期(1854-1860)の作。含粋亭芳豊『菱垣新綿番船川口出帆之図』より(公益財団法人 日本海事科学振興財団「船の科学館」蔵)
江戸後期の新興海運勢力は積荷を売買していた

 江戸時代後期になると、農業生産の活性化、北方市場の開発といった背景のもと、新たな民間海運勢力が出現しました。それらの特徴は市場原理に即した買積み方式を採用したこと。つまり、買い付けた積荷を自分荷物として運び、輸送先で売却し、売買差益を獲得したのです。輸送に応じて定められた運賃を獲得する運賃積方式の菱垣廻船や樽廻船とは対照的でした。
 それら主な新興海運勢力のうち、日本海沿岸(蝦夷地―下関―上方)で活動したのが「北前船」、東海太平洋沿岸(下関―上方―江戸)で活動したのが「尾州廻船」、東北太平洋沿岸(蝦夷地―三陸沿岸―江戸)で活動したのが「奥筋廻船」でした。

 北前船は、蝦夷地(北海道)産の鰊・鮭・昆布、北国産の米などを西国・瀬戸内・畿内地方へもたらし、畿内・西国からは木綿・古着・塩・砂糖・酒・紙・雑貨などを、北国からは藁(わら)製品・米などを蝦夷地にもたらしました。とりわけ蝦夷地から上方への上り荷は「一航海千両」ともいわれ、大きな利益を得たのです。

 尾州廻船は、大坂・兵庫・瀬戸内諸港で米や大豆、肥料、塩などを、江戸・神奈川・浦賀で魚肥、大豆などを買い、米・塩を江戸方面に、肥料・大豆・塩などを伊勢湾方面にもたらしました。尾州廻船には「内海船(うつみぶね)」、塩専門の「野間船」、半田・亀崎の酒や酢を江戸に運んだ「半田船」、常滑焼を江戸に運んだ「常滑船」などがありました。

 北前船と尾州廻船に比べて、同時期の東北太平洋地域で活動した海運勢力の研究は遅れていましたが、史料調査が進みいくつかの船主の実態が解明されました。石巻に近い田代島の平塚八太夫家に残された廻船経営の史料によれば、主力商品は秋味(塩鮭)・塩鱒・鰯〆粕・数の子・身欠き鰊など。購入地は蝦夷地、箱館、松前城下、江差。売却地は仙台・那珂湊・江戸および上方でした。

 以上三つの海運勢力の運航方法や経営形態はきわめて似たものでした。天明~化政頃を成立期とし、天保の飢饉情勢下で躍進し、幕末動乱下で最盛期を迎え、明治中期になって鉄道網に代替されて終焉を迎えるという時期的な推移も、ほぼ一致しているのです。

1858年(安政5)に佐渡の宿根木(しゅくねぎ)で建造された千石船「幸栄丸」の版図(設計図)をもとに復元された「白山丸」。佐渡国小木民俗博物館に展示されている(画像提供:佐渡市教育委員会)
1858年(安政5)に佐渡の宿根木(しゅくねぎ)で建造された千石船「幸栄丸」の版図(設計図)をもとに復元された「白山丸」。佐渡国小木民俗博物館に展示されている(画像提供:佐渡市教育委員会)
コミュニティデザインのフィールドと考え方
幕末に日本海五大船主の一つに挙がられた右近家の繁栄ぶりを留める「北前船主の館 右近家」。全盛期には約30隻余りの北前船を有したという(画像提供:南越前町役場)
三つの航海圏が結節した新たな民間全国市場

 三つの海運勢力の航海圏をみると、日本列島の周囲を三分割するように分布していたことがわかります。さらには、各航海圏の両端部分すべてにおいて、隣接する航海圏と拠点港を共有する構造を有していました。各航海圏の両端が重なる三つの地帯を仮に「結節地域」と呼ぶとすれば、そこで連結されることにより、三つの航海圏は日本列島の全周を完全に抱合していたことになります。

 すなわち近世後期には、近世前期の三都(大坂・京・江戸)を頂点とした幕藩制のもとでの領主的な流通市場とはまったく異質な、民間型の新しい全国市場が成立したのです。そして興味深いことに三つの海運勢力の本拠地は、いずれも各航海圏のほぼ中央に位置していました。

 食料と肥料を中心として、衣料・雑貨・燃料・建材・船具など、産業と生活の全般を支える品々が三つの航海圏で盛んに取引されました。商品作物の生産拡大に寄与した鰊〆粕や干鰯などの魚肥。今なお東北・関東の食生活に深く浸透している塩鮭。江戸や大坂へ集中した江戸前期の領主米流通とは逆方向に蝦夷地へ向けて輸送された米。これらは民間型全国市場を象徴する物流品目といえます。

 近世後期の全国市場は、海運勢力による輸送手段、運ばれた商品の品目と量、輸送の方向・頻度・経路、さらには輸送コストや運賃決定に至るまで、近世前期に確立した幕藩制流通機構とはまったく異質なものでした。そうなった要因の一つは、蝦夷地の漁場開拓が進み、新興海運勢力によって本州各地と結びつく流通網が形成されたことにより、巨大な北方市場が初めて全国市場に組み込まれたことでした。

 近世前期の幕藩制流通機構を支えた菱垣廻船や樽廻船は、領主の規制と保護のもとに運航され、積荷商品も三都の上層民を含む領主の需要を優先する海運勢力でした。それに対して近世後期の新興海運勢力は、18世紀半ば以降に盛んとなった農民による商品生産が生んだ民間市場の流通需要を背景に急成長した民間型の海運勢力でした。需給バランスという市場原理が買積方式を通してその海商活動を突き動かすようになっていきました。

開港場に選ばれた結節地域の流通拠点

 近世前期の幕藩制流通機構の時代、もっとも重要な拠点は江戸・大坂・松前でした。これら3都市は、近世後期の民間型全国市場圏の時代にも、結節地域に含まれていました。しかし各航海圏では、それぞれ「関東3港」「上方3港」「松前3港」といったぐあいに拠点が拡散していたのです。

 むしろ、江戸よりも神奈川・浦賀、大坂よりも兵庫・堺、松前よりも江差・箱館の方が、取引拠点として活発化していました。横浜・神戸・函館が開港場に選ばれ、近代貿易港として大きな発展を見せた前提には、近世後期の民間型全国市場圏の時代に、神奈川・兵庫・箱館が結節地域の流通拠点になっていた事実があると考えられます。

 以上見たように、人口百万ともいわれた江戸の人々の生活を支えた物流ネットワークは、近世後期に台頭した新興海運勢力が担ったものでした。江戸前期と後期では海運物流の在り方がまったく違っていたのです。そしてそれら物資だけでなく、振興海運勢力によって浮世絵や漢籍などの文物も一緒に運ばれていました。江戸末期の文化~文政年間に花開いた爛熟文化は、民間型全国市場の成立に伴う豊かな海運物流がもたらしたといってよいでしょう。

 ちなみに、愛知県半田市の一般財団法人招鶴亭文庫に所蔵されているミツカングループ創業家の中埜家文書には、江戸末期・明治・関東大震災それぞれの時代に、江戸東京へどのように酢が運ばれたかをいきいきと伝える、取引先との書状が残されています。その一部は「MIZKAN MUSEUM」にて一般公開しており、貴重な史料ですので機会があれば見学に足を運ばれてはいかがでしょうか。

大正期の中埜酢店の醸造蔵と船入江(半田運河)。ミツカンの酢はここから船で江戸(東京)に運ばれた(招鶴亭文庫蔵)
大正期の中埜酢店の醸造蔵と船入江(半田運河)。ミツカンの酢はここから船で江戸(東京)に運ばれた招鶴亭文庫蔵)
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【講演2】小泉和子さん
桶樽が支えた江戸時代

小泉和子さん

「桶」と「樽」の違いはどこでしょう?
 そう、蓋を固定しているのが樽、蓋を固定せず外せるのが桶です。しかし共通した構造は桶も樽も、短冊状の板を円筒形にして箍(たが)で巻き締めた容器であること。これらを総称して「結物」(ゆいもの)といいます。

 古来、日本の木工技術には「刳物」(くりもの)「曲物」(まげもの)「指物」(さしもの)「結物」の四種類がありました。刳物は、木をくり抜いてつくる鉢のようなもの。曲物は、薄い板を湾曲させてつくる曲げわっぱのこと。指物は、板を直線的に指し合わせてつくる箱や机などのたぐい。桶・樽は短冊状の板を結わえてつくるから、結物です。

『職人歌合画本』(伴信友 写、天保9[1838])より「結をけ(桶)師」。かつて桶は生活道具だけでなく、農業や漁業、鉱工業などの産業全般を支える道具だった(国立国会図書館蔵)
『職人歌合画本』(伴信友 写、天保9[1838])より「結をけ(桶)師」。かつて桶は生活道具だけでなく、農業や漁業、鉱工業などの産業全般を支える道具だった(国立国会図書館蔵)
桶・樽がまだなかった時代には?

 桶・樽の前史にさかのぼってみましょう。『古事記』に次のようなよく知られた一節があります。

「天宇受売、天の香山の天の日影(羊歯・蔓状)を手次(たすき)にかけて……天の岩屋戸に汗気(うけ)〈この二字は音をもちいよ〉伏せて踏みとどろこし、神懸かりして、胸乳(むなち)を掛き出て喪紐を番登(ほと)におし垂りき」

 天の岩戸(あまのいわと)で天宇受売尊(あめのうずめのみこと)「うけ」の上に乗り、踏み轟かして艶っぽく踊ったことによって、このあと天照大神(あまてらすおおみかみ)が現れた、と続く有名なくだりですが、この「うけ」は今の「おけ」ではありません。結物が出現する以前の神話時代ですから、この頃の桶は曲げわっぱ。それだと、踏みとどろかして踊ったら潰れてしまいます。
 この「うけ」は「穿げ」ともいい、木をくりぬいてつくった刳物なのです。これなら縄文時代からありました。大きくて深い刳物の鉢のようなものなら、その上に乗って踊れば大きな反響音が出るわけです。
『日本書記』にも「覆槽(うげ)(ふ)せ」とあり、『延喜式』にも「宇気槽(うけふね)」という言葉が見られます。これらも刳物です。

 桶の語源は麻糸づくりに関係があります。「おけ」の「お」は苧で麻の古名です。麻糸をつくるには、麻を水につけてしごき、繊維を容器(いれもの)に入れて一本ずつ引き出して撚って糸にしていきます。「け」は笥(瓮の転)で容器のことですから、「(お)を入れる(け)」で「おけ」です。ただし、その頃の「おけ」は、先述したように曲げわっぱ。杉などの薄い板を円形や楕円形に曲げて、桜や樺などの皮で綴じ合わせ、底をつけたものです。籠や土器では細い繊維が引っかかってしまうので、平滑な曲物が使われたのです。曲物は弥生時代からつくられていました。

『万葉集』には「麻苧(あさお)らを麻笥(おけ)に多(ふすさ)に績(つ)まずとも 明日着せさめや いざさ小床(おどこ)に」という歌があります。夜遅くまで奥さんが桶でたくさんの麻糸をつくっているけれど、そんなにしなくても明日でいいじゃないか、さあ寝床へおいで――という歌です。

 一方、樽の語源は、注器から酒が垂れる「たり」から来ています。酒の注器には木製、土器、金属製などがあり、形もさまざまでした。樽という字が木偏に尊と書くのは「神に供える尊い酒壺」という意味です。

なぜ全国普及まで数百年かかったか

 結桶・結樽の導入の歴史は1期から5期に区分されます。
導入期の1期は11世紀後半から13世紀。博多、箱崎、太宰府など、中国人が多く住んでいた北部九州から小さな結桶・結樽が発掘されているので、日宗貿易との関連で製品が輸入されたと考えられます。
 普及期の2期は14世紀。北部九州から佐賀・瀬戸内海に広まり、小型容器のほか、井戸の側壁が崩れないように付ける井戸側(いどがわ)として発見されています。
 確立期の3期は15世紀から16世紀。関東甲信越に普及し、早桶(棺桶)や便槽にも使われるようになります。
 展開期の4期は17世紀から20世紀前半。全国に展開する桶・樽の全盛期です。特に江戸時代は桶と樽がなければ生活も産業も成り立ちませんでした。
 そしてガラス瓶や金属・合成樹脂の容器などの工業製品に取って替わられ衰退するのが、終末期の5期、20世紀後半ということになります。

 曲物から結桶に変るのは15世紀から17世紀にかけて。すでに11世紀後半から結桶を知っていたのに、全国的普及に300~400年もかかったのはなぜでしょうか?
 木工技術としては曲物も結物も基本的に同じ。鉈で木材を縦に割り裂く「割裂法」でつくります。だから結桶が広まらなかったのは、技術的な問題ではありません。当時は洗濯や物入れなどの容器には曲げわっぱを、液体の貯蔵には甕を使っていました。甕の産地で窯業が栄えたのは常滑、越前、備前。生産活動が小規模で商品流通も少ない時代には、曲物と甕だけで十分間に合っていたのです。

 ところが戦国時代から江戸時代にかけて全国的に産業が盛んになり、商品流通も活発になり、特に酒造業が発展すると海上輸送用の容器の需要が増えました。遠方へ運ぶのでも大甕では重いうえに割れやすいので、結樽が使われるようになります。大甕や曲物の用途の範囲が狭まり、代わって桶・樽が主役に躍り出ました。
 商品流通の発達が桶と樽の全国的普及を促したので、技術的な問題ではなく、社会経済的な要因が大きかったといえます。

 ちなみに桶と樽は同じ技術ですが、細かくいうと、おおむね桶は丸太の中心に向かって割り裂く「柾目取り」、樽は年輪にそって割り裂く「板目取り」でつくられます。板目取りのほうが頑丈で、中の液体の浸出もないのです。このため桶も醸造用の大桶なども板目取りでつくられました。

『農具便利論』(大蔵永常 著、横川陶山 画、文政5[1822])より、農夫が井戸から水を汲んでいる場面。井戸の側壁が崩れないように井戸側が使われていることがわかる(国立国会図書館蔵)
『農具便利論』(大蔵永常 著、横川陶山 画、文政5[1822])より、農夫が井戸から水を汲んでいる場面。井戸の側壁が崩れないように井戸側が使われていることがわかる(国立国会図書館蔵)
あらゆる産業を支えた近世の桶・樽
「明治7年府県物産表」の木製道具

 桶・樽は生活で使う容器のみならず、ものを生産するための“装置”でもありました。『明治7年府県物産表』は日本初の全国統計で、申告制だから正確ではありませんが、およその傾向はわかります。木製道具の内訳をみると、全国総生産額169万7817円のうち、桶樽類が58%、指物が35%、木地挽物(ろくろで挽く椀など)が4.5%、曲物が2.5%。明治初期にも6割近くが桶・樽でした。

「明治7年府県物産表」の木製道具

 産業分野では、まず酒、醤油、味噌、酢などの醸造業で多く用いられました。江戸時代の酢づくりを例にとれば、酒粕熟成→もろみ造り→圧搾→沸かし→仕込み→貯蔵(オリ下げ)→濾過(灰ごし)→詰め口→荷造り、という全工程にわたって、桶(最後の2工程は樽)はまさに製造のための“装置”だったのです。
 農業では、井戸水を汲み上げる「つるべ」、底の穴から水が滴り畑にまく「水かき桶」、水路から水を田畑に汲み上げる「取桶(くくりおけ)」、防寒防水用の「足桶」、「すり臼」「肥桶」……等々に使われました。
 漁業だと、磯漁で小回りのきく「たらい舟」、はえ縄漁のウキ「浮遊樽」、流し網漁で位置を明示する「幻灯樽」、魚肥用の魚油を搾る「しめ桶」……等々。桶は“道具”だったのです。
 鉱工業でも活躍しました。たとえば佐渡金山で排水用に導入された「水上輪(機関誌『水の文化』61号p.12参照)」は、桶を連ねた筒の内部に螺旋形の羽根がついており、段差の上でハンドルを回すと段差の下の水が上がっていくしくみでした。

『農具便利論』(大蔵永常 著、横川陶山 画、文政5[1822])より「水かき桶」「取桶(くくりおけ)」「足桶」および農夫が足桶を履いて大根を洗っている場面(国立国会図書館蔵)
『農具便利論』(大蔵永常 著、横川陶山 画、文政5[1822])より「水かき桶」「取桶(くくりおけ)」「足桶」および農夫が足桶を履いて大根を洗っている場面(国立国会図書館蔵)
『農具便利論』(大蔵永常 著、横川陶山 画、文政5[1822])より「水かき桶」「取桶(くくりおけ)」「足桶」および農夫が足桶を履いて大根を洗っている場面(国立国会図書館蔵)
持続可能な循環型社会のシンボル

 あらゆる生産現場でこれほど桶・樽が使われた国は日本しかありません。
 割り裂いてつくるのに適した杉や檜などの針葉樹が多いこと。雨量が豊富で気候も温暖なため木が育ちやすいこと。箍(たが)の材料となる竹も多く生えていたこと。
 こうした自然条件が桶・樽づくりに適していたのです。

 桶・樽は、また樽丸といって山である程度まで加工を施せたので山から下ろす運搬が便利でした。山から下ろしたら全国津々浦々にある桶樽屋ですぐ桶や樽がつくれます。桶・樽の普及は林業の発展にも寄与したのです。
 また、格別に高等な技術ではく、特殊な材料も道具もいらないので、加工が比較的容易でした。このため価額も高いものではありませんでした。
 そして修理もできます。箍(たが)を外して傷んだ板を差し替えれば何年も使えました。村々を渡り歩いて桶・樽の修理を請け負う「軒端職人」もいました。
 桶・樽の新品はきれいな白木です。暮れにたらい桶などを買い替えて新年を迎える家も多く、消費財としての側面もありました。白木を好む日本人の美意識は、桶・樽の使用に起因するのではないかと思います。
 さらには、リユースの優等生でした。酒樽から醤油樽へ、醤油樽から酢樽へなど、転用が可能です。そのため空き樽問屋が繁盛しました。

 そんな桶・樽も、高度経済成長期以降は日常生活から跡形もなく消え失せ、使い捨ての時代となりました。しかし、江戸時代の持続可能な循環型社会を支えていた桶・樽の価値を、いま再び見直すべき時が来ているように思います。

コミュニティデザインのフィールドと考え方
コミュニティデザインのフィールドと考え方
佐渡の小木半島に残る「たらい舟」。かつてアワビやタコ、ワカメなどの漁に用いられていたものを観光に転用した。桶を半分に切ったような形から地元では「はんぎり」と呼ばれる。たがを締めているのは宿根木の金子啓次さん。たらい舟を自作しており、修理も自身で行なう(詳細は機関誌『水の文化』61号参照)
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【パネルディスカッション】
パネラー:斎藤善之さん 小泉和子さん ファシリテーター:木村直也さん

江戸東京から学ぶ、
持続可能な社会・暮らしに引き継ぎたい知恵

(発言箇所は敬称略)

パネルディスカッション
リサイクル、リユースのしくみが根づいていた
木村
江戸の都市社会ではリサイクルが発達していました。たとえば、し尿を業者が回収して田畑の肥料にするしくみ。歴史を研究していて、実感として復元できず、もどかしい思いをするのが「匂い」ですが、現代の私たちは「匂い」まで含めて想像力を働かせる必要があるのかもしれません。江戸時代には船もリサイクルされていたのですよね?
斎藤
廻船に使われた大型の弁才船の耐用年数は20年ですが、リサイクルのしくみが整っていました。大坂に解船(ときふね)町と呼ばれた解体専門業者が集まる町があり、そこでは全国から買い取った古船を解体して古材をリサイクルしていたのです。船板は厚さ20~30cmもあって20年経過してもまださまざまな再利用が可能でした。船から出る大量の舟釘を回収する業者もいて、千石船でもすべて解体されてかなりのお金になりました。そして最後の最後は燃料に。
小泉
解船町のそばに、解体船の部材で流しや床下収納の上げ板などをつくる業者のまちもあったようです。それだけでなく、波に洗われてケバだった風合いを活かして飾り棚などもつくられていました。
木村
桶・樽も盛んにリユースされたのことですが、庶民用の中古の桶樽市場もあったのですか?
小泉
あったと思います。私は昭和8年生まれで戦前の家庭生活を知っていますが、酒屋の樽が空くともらい受けて漬物樽にしていました。
木村
江戸時代は古着屋も大きな市場でした。基本的に庶民は木綿。朝鮮半島から中世末に入ってきました。洗濯は、たらい桶でしていたわけですね。
小泉
室町時代末くらいまでは、ひしゃくで川の水をかけながら石の上で踏み洗いしていました。そのころの庶民の着物は麻だから踏んでも頑丈でした。たらいで洗うようになったのは、江戸時代になって木綿と桶が普及したからです。
醸造系の調味料が流通して花開いた食文化
木村
食文化とのかかわりについてはいかがでしょう。
小泉
小型の石臼が日本では発達せず、製粉は石皿でしたが、やがてすり鉢になります。すり鉢は室町時代になると調理器具として使いはじめます。ごま和えや魚のすり身など、すって使うのが和食の確立期の特徴でした。江戸時代になるとかつお節や昆布で出汁をとるようになり、食材も豊富になって、それまで塩と酒だけだった調味料が味噌や味醂、醤油などによって味の幅が広がります。農薬もないし健康的でおいしかったでしょうね。
斎藤
江戸時代前期に醸造系の調味料はまだまだ庶民にとっては高級品でした。それが江戸時代後期になると物流の進展によって庶民にも手が届くものになってきたのです。中期には塩や味噌が、後期からは酢や味醂や醤油も盛んに流通するようになりました。こうした調味料の普及によって江戸の食文化にさまざまな工夫が加えられ、現代の和食につながる握り寿司などが考案されていったのです。
木村
清酒も一般化しました。こうした食文化を支えた流通が江戸後期の海運ネットワークであり、そこで使われた道具が桶・樽だったわけですね。
エコロジカルな技術遺産も選択肢の一つに
木村
江戸時代に変化しつつ発展した循環型社会は、近代の殖産興業を経て現代の大量消費社会へと移行しました。人類の生存にかかわるような地球規模のさまざまな問題に直面している現在、ご先祖が営々と築き上げた持続可能な知恵を、私たちはどのように活かせるのでしょうか。
斎藤
江戸時代の物流を支えた弁才船は風力のみで動くという点でもっともエコロジカルな輸送手段ということができるでしょう。そのような歴史的体験を日本社会は遺産としてもっていることを、昔語りではなく、今日的な意味でとらえ返すこともあり得るのではないでしょうか。
 ミツカンでは明治14年(1881)に蒸気船を購入しましたが、古い帆船も廃棄しませんでした。そのおかげで、燃料がない関東大震災のときにも江戸に酢を運べたというのです。同じように帆掛け船も燃料が途絶えた太平洋戦争中に一時復活し、昔の川船を引っ張り出して薪などを運んでいました。過去の遺産は、今もなお活用の場を待っているはずです。
小泉
まだ桶・樽がかろうじて残っていた昭和30年代初め、高度経済成長が始まるころの暮らしが「ちょうどいい」のではないでしょうか。あまりに便利で快適すぎる生活は人を育てません。不便でも手仕事によって工夫を重ね、そこから生活の知恵が身につきます。携帯電話はおろか、固定電話も一家に一台などない時代には、呼び出し電話のあるご近所や大家さんと喧嘩するわけにはいきません。「適度に不便な」暮らしは人づきあいも円滑にします。今さらあの時代に戻るわけにはいかないでしょうが、考え直すところはあると思います。それが私の現代へのメッセージです。
木村
ありがとうございました。ところで江戸といえば、縦横に走っていた水路が物流の根幹でした。次週のクルーズイベントに参加される方に、ぜひ船上からそれを体感していただければと思います。
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10月26日クルーズ

プログラム

日時
2019年10月26日(土)
8:00~12:00
会場
佃・日本橋川・小名木川など
参加者数
24名
案内人
斎藤善之さん
主催
ミツカン水の文化センター

斎藤善之さん(さいとうよしゆき)
斎藤善之(さいとうよしゆき)さん
東北学院大学 経営学部 教授

クルーズルート

クルーズルート

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佃島沖に停泊した廻船から小舟で運河へ

 台風一過の朝。門前仲町駅に近い、大横川の黒船橋乗船場から24名の参加者が乗り込み、船は出発しました。隅田川へ出て日本橋川を上り、亀島川(かめじまがわ)を経由して隅田川に戻ったあと小名木川(おなぎがわ)をしばらく進んで黒船橋まで戻る約2時間のコースです。

 まずは隅田川の佃大橋手前でUターンし、佃島沖で停泊。

「江戸時代、まさにこのあたりで、全国からやってきた巨大な弁才船が何艘も錨を下ろしました。積荷を小舟に移して運河を通り、江戸の町の至るところへ運んでいったのです」(斎藤さん)

 ここでは佃島近辺を描いた広重の浮世絵など、斎藤さんはクルーズ中に適宜、その場所の成り立ちがわかる歴史的図版を掲げ、近世へタイムスリップさせてくれました。

江戸時代は漁師町だった隅田川河口の佃地区(旧佃島)
江戸時代は漁師町だった隅田川河口の佃地区(旧佃島)
浮世絵は広重『江戸名所 永代橋佃島』。江戸時代の永代橋付近の賑わいがわかる
(国立国会図書館蔵)

 永代橋を抜けて左折し日本橋川へ。ミツカンの建物が右岸(川の上流から下流を眺めた右側)に見えます。このあたり、隅田川との合流地点近辺の両岸は江戸時代に南新堀、北新堀と呼ばれ、酒問屋の蔵が建ち並んでいました。

「このあたりは江戸で消費される酒、酢、醤油などの醸造品が一手に取引されていた場所です。大坂から江戸までレースをした新酒番船のゴールもここでした。船が佃島沖に停泊し、本船から伝馬船を下ろしてここまで漕いで一着を競いました。総一番船の船乗りはもたらした樽酒を鏡開きし、周辺をパレードして歩いたそうで、たいへんな賑わいでした」(斎藤さん)

 茅場橋、鎧橋、江戸橋をくぐり、日本橋川をさかのぼります。

「江戸時代の初めまでこのあたりは海が入り込んでいました。そこに突き出した江戸前島を掘り割ってつくられた運河が日本橋川です。江戸橋と日本橋の間は土蔵がずらり並んでいて壮観でした。今は金融証券街に変貌しましたが、江戸時代は一大物流センターだったのです」(斎藤さん)

 川から見ると日本橋のかたちがよくわかります。豊洲に移転した築地市場のルーツ、日本橋魚河岸発祥の地です。

「荷物を積んだ船が寄り付き荷揚げする場所が河岸でした。江戸中にこうした河岸が数多くありました。西河岸から竹橋のあたりが江戸湊の発祥の地とされています。菱垣廻船の問屋も最初はここにありました。そして江戸の町が埋め立てにより拡大するにつれ、湊の機能も東へ東へと移っていったのです」(斎藤さん)

 堀割の交差点で8本の橋が同時に見られたことから「八つ見橋」とも呼ばれた一石橋。普請事業として各藩が幕府から割り当てられ造成した石垣の一部が今も残る常磐橋のあたり。目を凝らして見ると石工が刻んだ三角や田の印が石垣に刻まれている一ツ橋周辺。ここまでで引き返し後半の航路へ向かいました。

隅田川から日本橋川に入って遡る。かつてこの付近には酒問屋の蔵が建ち並んでいた
船から日本橋を眺める。今の石橋は1911年(明治44)に建造されたもの
日本橋川の右岸にある石垣。よく見ると石に印が刻まれている
5 江戸湊発祥の地はこの西河岸橋の周辺となる
江戸湊発祥の地はこの西河岸橋の周辺となる
全国物流による産業の発展を象徴する場所

 亀島川に入って左側の区画が霊岸島(れいがんじま)。江戸初期に茅の原が開発されてできた茅場町は、明暦の大火で霊巌寺が移転したあと問屋街に変わりました。「いま東へ抜けている道路が新川という運河。酒問屋が建ち並び小舟が行き来して、ものすごい交通量だったようです」(斎藤さん)

 霊岸島の南端、亀島川と隅田川の合流部でマンションの建つあたりには幕府の船手組の屋敷があり、江戸に入る廻船を見張り入港税を徴収していました。

隅田川から日本橋川に入って遡る。かつてこの付近には酒問屋の蔵が建ち並んでいた
船から日本橋を眺める。今の石橋は1911年(明治44)に建造されたもの
亀島川の左岸(写真右側)が霊岸島。京阪(京坂)など上方から送られる酒を扱う問屋が多かった
かつて幕府の船手組の屋敷があったという亀島川(左)と隅田川(右)の合流地点

 隅田川に戻り、今度はさかのぼります。江戸時代初期は海だった左岸の深川も問屋地帯。「読売新聞のビルの一画が仙台藩の下屋敷でした。ここに入る仙台米が江戸で消費される米の半分を占めていたといわれます。明治になって接収され払い下げられた下屋敷跡地で浅野セメントが創業し近代化が一気に進んだのです」(斎藤さん)

 小名木川の入口へ。「新大橋の下手の東岸辺りに幕府の船蔵がありました。幕府の船が14の船庫に。徳川家光が船手頭の向井将監に命じて建造した巨大軍船『安宅丸(あたけまる)』も係留されていましたが、平和な時代には無用の長物として建造から48年後に解体されました。このあたりにはあたけの呼称が語り継がれています」(斎藤さん)

 家康が行徳塩田の塩や関東・東北の米を江戸城に運ぶため小名木四郎兵衛に命じて開削させたのが小名木川です。「隅田川から中川を経て、江戸川・利根川流域の関東平野、さらには銚子から東廻り航路によって東北の太平洋岸にも繋がっていた水上交通の大動脈です。沿岸には干鰯場(ほしかば)、すなわちイワシを干した粕の物流ターミナルがありました。九十九里あたりで生産された干鰯が奥筋廻船によって集積し、尾州廻船に積み替えられて東海、関西方面へ運ばれ、そこで肥料として使われて木綿などの栽培を促進させたのです。物流ルートによって全国が結ばれた結果、産業が飛躍的に発展したことを象徴する場所といえるでしょう」(斎藤さん)

隅田川と旧中川を結ぶ小名木川(高橋付近)。徳川家康が開削させたこの運河は、東廻りの船が積んできた物資を江戸へ運ぶ大動脈だった

 大横川との交差点から引き返し、帰路をたどります。思いのほか川船が少なかったのでスムーズに運航し予定到着時間よりも早かったため、船上では活発な質疑応答が繰り広げられました。このあとクルーズ参加者は昼食に門前仲町の「三ツ木寿司」で、江戸後期に尾張から江戸に船で運ばれた酒粕酢を用いる「再現江戸前握り寿司」を試食。五感をフル動員し、江戸の物流を支えたのは、舟運ネットワークであったことを再認識した半日でした。

クルーズを終え、参加者は門前仲町の「三ツ木寿司」へ
一般的な握り寿司よりも大ぶりな「再現江戸前握り寿司」を試食
クルーズを終え、参加者は門前仲町の「三ツ木寿司」へ。一般的な握り寿司よりも大ぶりな「再現江戸前握り寿司」を試食

江戸は、百万人が住んだとされる世界でも有数の大都市でした。そこに暮らす人々の生活を支え、文化を形づくったのが、全国から船で運ばれてきた物資でした。また、その舟運に欠かせないもので、さまざまな産業で使われていたのが桶と樽でした。斎藤善之さんには江戸後期を軸とした海運流通について、小泉和子さんには桶と樽の黎明から隆盛に至った経緯について、それぞれお話しいただきました。また、パネルディスカッションでお二人の意見を引き出し、方向性を見出してくださった木村直也さん、そしてご来場いただいた皆さまに感謝いたします。講師の方々のお話をお聞きし、実際に日本橋川、隅田川、小名木川などを巡り江戸の痕跡をたどることで、江戸と東京は今でもつながっていることを再認識するとともに、かつての知恵をこれからの循環型社会に活かすためのヒントが得られたと思います。

(文責:ミツカン水の文化センター)
(2019年12月10日更新 第二版)

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