人間を支援するための社会関係とは

〜ボトムアップ型人間関係をつくる〜

サトウタツヤ 立命館大学文学部心理学科助教授

写真:サトウタツヤ
サトウ タツヤ
立命館大学文学部心理学科助教授

1962年生まれ。東京都立大学人文学部卒業。福島大学行政社会学部助教授を経て現職。
主な著書に『日本における心理学の受容と展開』(北大路書房、2002)、『「モード性格」論』(紀伊國屋書店、2005)他多数。

 当センターでは、水をめぐる「人々の関わり」を大きな研究テーマとしています。この「関わり」にもいろいろな形があるわけで、りっぱな父親が子どもを見守ってやるような上下関係もあれば、住民同士の関係に行政が介入するような三者関係もあります。

 こうした多様な社会関係の中で、「支援」という言葉をキーワードに、強い個人からなる社会に異議申し立てをしているのがサトウタツヤさんです。サトウさんの目には、現代社会に何が欠けていると映るのでしょうか。

ボトムアップ型人間関係論の構築?

 私は、ボトムアップ型人間関係論の構築ということを提唱しています。簡単に言うと、水平型の人間関係の構築ということです。特に、私たちがターゲットとしているのは職業上の人間関係ですね。例えば、医師と患者の関係、先生と生徒の関係、このような関係をいかに水平にしていくか。ボトムアップ型人間関係論の構築というのはそうしたことを考える枠組みです。そのような関心から、いま、法における人間関係にも注目しています。

 いま日本で議論されている裁判員制度にも関心があります。裁判員制度は、刑事裁判に国民が参加して判決と量刑を裁判官と共に決定しようという制度です。日本では2009年までに実施予定ですが、評判が悪い。しかし、私は導入していかなくてはならないと考えています。一人一人の国民が投票という形で政治に参加するのと同じように、裁判員という形で司法にも国民が参加すべきだと思います。

裁判員制度から見えてくる人間関係

 ではなぜ評判が悪いのでしょうか。一つは実施までの持って行き方が悪いというのがありますが、それはおいておくとして(笑)、日本の文化では、裁判というものはお上がやってくれるという発想です。お上がダメな場合はどうするの?というと水戸の副将軍がきて悪い人を懲らしめてくれる(笑)。そういう世界観をもっている。お裁きに自分たちが関わるのは役割過剰ではないか、という発想があるから、裁判員などにも忌避感情が強いと思うのです。

 アメリカはお上に裁きをまかせる文化ではありません。アメリカはもともと植民地ですから、自分たちで裁こうという意識が強く、多少まちがいがあってもいいから自分たちで行いたいということで、陪審員による裁判になっています。ただし、間違いがあったらたいへんだから、刑事裁判の判決は慎重になるというシステムです。O.J.シンプソンの裁判が典型で、刑事裁判は無罪となりましたが、損害賠償金は支払っています。本人も民事的にはほぼ罪を認めているとも言えます。日本でも最近、刑事と民事の判断が分かれた事件がありましたが、憤っている人が多かったようです。刑事が有罪なのに民事の損害賠償を認めないのであれば大変ですが、その逆の場合は慎重な判断だとして尊重されるべきでしょう。

 日本では司法に国民が参加するという意識がまだないので、「裁判員のつとめをはたすために、一日とられるのは困る」という次元の話が多いようです。しかし、実際にやるとしたら何が必要なのか、もっと議論する必要があるでしょう。何が問題になるでしょうか。

 大事なことは「理解の支援」をどうするか、ということです。広い意味で「対人援助」と呼べると思いますが、人が何かをする時に主体的に判断できるようなバックアップシステムをつくらないと、いくら良い制度であっても、機能しません。裁判人になった人が「裁量の判断」ができるような「支援」を進めてほしいのですが、実はこれが先行きが明るいわけではないのです。たとえば、一般の人がホームページで裁判員制度を調べてもまったくわからないのではないでしょうか。単純に言えば、ホームページの漢字にルビをふるとか、そういうことから国民の理解を支援してほしい。おそらく法曹関係の方々は裁判員制度について「ホームページに情報を掲載している」=「国民に周知している」と考えているのだと思いますが、理解を支援しているとは思えません。それなのに、理解できないのは国民の責任、みたいなスタンスをとるとすれば、裁判員制度がうまく回っていくとは思えません。 俗に裁判所、検察、弁護士のことを法曹三者と言いますが、これらが別々に裁判員制度のHPを作っているのに、相互リンクが張られていないのです。まず法曹の人たちが一致団結して物事にあたってほしいと考えるのは私だけではないはずです。

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