機関誌『水の文化』10号
アジアの水辺から見えてくる水の文化

かたちにならぬ「水の文化」を残すには?寸劇「淳史君の溜池たんけん」に見る滋賀県湖東町の楽習実験

左:左から西堀榮三郎記念探検の殿堂館長の嶋林栄さん、学芸員の角川(すみかわ)咲江さん。 右:左から「淳史くん」こと福田淳史さん(滋賀県立大学人間文化学部地域文化学科)、「源四郎おじいさん」こと野村源四郎さん、「典子ねえさん」こと山口典子さん。この劇の舞台回し役として登場する 3人だ。

左:左から西堀榮三郎記念探検の殿堂館長の嶋林栄さん、学芸員の角川(すみかわ)咲江さん。
右:左から「淳史くん」こと福田淳史さん(滋賀県立大学人間文化学部地域文化学科)、「源四郎おじいさん」こと野村源四郎さん、「典子ねえさん」こと山口典子さん。この劇の舞台回し役として登場する 3人だ。

左:西堀榮三郎記念探検の殿堂 右:第 9 回世界湖沼会議のワークショップで「淳史君の溜池たんけん」演じる湖東町大澤の皆さん。

左:西堀榮三郎記念探検の殿堂 右:第 9 回世界湖沼会議のワークショップで「淳史君の溜池たんけん」演じる湖東町大澤の皆さん。

昨年11月、滋賀県大津市で開かれた「第9回世界湖沼会議」で「水の文化を表現する」と題したワークショップが開かれました。ここで、自ら暮らす地の溜池について聞き取り調査した結果を寸劇に仕立てた発表が行われ、このプログラムは国内外の参加者から盛んな拍手を浴びました。 演目は「淳史君の溜池たんけん:Exploring the local knowledge through surveying the neighboring ponds」。演じたのは滋賀県愛知(えち)郡湖東町大澤の皆さんでした。 「水の文化」を表現するのに、なぜ「劇」なのか。今回の取材はこの疑問から出発しました。劇中で表現された昔からの伝承漁法や地搗唄(ぢづきうた)、地元の言葉使い、溜池の配水ルール、溜池を大切にする理由・・・このような無形の水の文化を後の世代に残すのに、もしかしたら「住民による聞き取り調査」と「劇による表現」という組み合わせはたいへん効果的なのかもしれません。 今回は、形として残らない文化を伝える「水の文化楽習」プログラムを紹介いたします。

編集部

劇で伝えたい水と暮らし

湖東町は琵琶湖を取り囲むように広がっている滋賀県の東部、近江八幡市にほど近い農村地帯にある。人口は約九千人あまり。今回の寸劇を上演した皆さんが暮らす大澤(おおざわ)は六十五戸の集落から成る地区だ。同じ湖東町には、第一次南極地域観測越冬隊隊長として知られる西堀榮三郎氏の記念館「探検の殿堂」(一九九四年に町営で設立)がある。

今回の寸劇は、この記念館の事業の一つとして二○○一年四月から始まった「溜池たんけん隊」の活動成果を、劇仕立てにしたものだ。「溜池たんけん隊」には、湖東地域に住む親子と、滋賀県立大学の学生が中心に、ボランティアグループ「ガッハの会」「湖東地域の環境を考える会」他のサポートを受けた約九十名が参加した。

かつては湖東町に五十五もあった溜池は、圃場整備後は十七に減り、必要のなくなった溜池は埋め立てられ、田んぼや宅地に姿を変えた。そこで、溜池をテーマに現地踏査を行い、自然に触れ、そこに暮らしている方からお話をうかがう聞き取り調査を行ったのだ。

溜め池たんけん隊のみなさんが世界湖沼会議会場で配布したパンフレットには、彼等のメッセージが載せられている。

湖東地域には、江戸時代などに造られた溜池が多くありましたが、農業用水の確保のためダムができ、圃場整備事業が行われたことによって、いくつもの溜池が農地や建物の敷地に変わりました。しかし、湖東町の大澤という集落では、快適な農村づくりの一環として、「八楽(はちらく)溜池」を新たに親水公園として整備しました。しかも、この溜池は、昔から農業用水だけでなく、防火用水などとしても集落には欠かせない存在であったため、その特徴を生かして溜池の水をパイプラインで集落とその周辺に引き込み、現在も利用しています。また、溜池を住民の憩いの場としたりしているなど、生活の中で今も活用されている数少ない事例の一つといえるでしょう。

本日の私たちの発表を通して、そこに住む人々の心や営みが、みなさま方に少しでも伝わり、これからの私たち=「溜池や湖沼、河川などを共有する者」が、「水と暮らし」と、どのように関わっていかなければならないかを考えるきっかけになれば幸いです。

上:湖東町大澤は、名前の通り琵琶湖の東側、鈴鹿山脈の麓、湖に添った平野部にある。 左:親水公園として残った八楽溜池では、実際に昔の道具“蛇車”(じゃぐるま)も使って、水を確保することの大変さを説明してもらった。

上:湖東町大澤は、名前の通り琵琶湖の東側、鈴鹿山脈の麓、湖に添った平野部にある。
左下:親水公園として残った八楽溜池では、実際に昔の道具“蛇車”(じゃぐるま)も使って、水を確保することの大変さを説明してもらった。

劇でないと伝わらないこと

劇は、大学に入学したばかりの「淳史くん」と「源四郎おじいちゃん」「典子ねえさん」三人の茶の間での会話から始まる。テレビ放映された昔のオオギ漁(溜池で、オオギという漁具『伏せ籠』を使い鯉をつかむ漁)の映像を見て、「オオギ漁ってなにぃ」と尋ねる淳史くんに、おじいちゃんの源四郎さんが「よし」とばかりに「お前さんには、わからんよなあ。そーりゃ面白いもんやで。」と若い頃を思い出しながら、身ぶり手ぶりを交えオオギ漁を楽しそうに語り出す。これに興味を覚えた淳史くんは、「溜池たんけん隊」で半年間の調査を行い、そこでわかったことを源四郎おじいちゃんに聞いてもらう。そこで、「八楽溜(はちらくだめ)」と呼ばれる大澤に唯一親水公園として残った溜池が、かつてはどのように利用されていたか、「貰い風呂」の習慣、「カットリ」という分水のしくみ、溜池を維持するために土手を固める「ひょうたん石」の使い方、「溜普請(ためぶしん)」の後に食べる「かしわめし」、オオギ漁の様子、昔の諺などを、「地元の言葉」でやり取りしていくのだ。

住民による調査を単に発表するだけならば、取り立てて珍しいことではない。ただ、こうした発表は、地元の方にとっては、何となく現実感がないか、当たり前のことをただ並べているだけと映ってしまう危険性が往々にしてある。現実感が感じられないのは、地元の人々の暮らしのルールや習慣が、一見客観的な書き言葉や数字で削ぎ落とされてしまうからだ。また、具体的な聞き取り結果をただ並べただけでは、「そんなことは、口には出さないけれど、わかっている」と思われてしまう。

ところが、劇だとそうはいかない。今回の劇では、「聞き取る側」「聞かれる側」双方が出演者。しかも、全部実名だ。調べたこと、すなわち劇で伝えられることは、すべて自分達の現在の生活や、自らが体験してきた暮らしの記憶でもある。自ずと、ありのままの暮らしを出さないと、演じている本人達の気がすまない。かくして、具体的な調査成果と、人々の暮らしのルール・習慣が丸ごと盛り込まれ、湖東町大澤の物語が生まれることになる。調査成果を物語として表現することで、見えないものも丸ごと伝えてしまうことができるのだ。

  • 左:滋賀県立大学の聞き取り調査にも、積極的に協力している湖東町大澤のお年寄りたち。この日は大澤町の地蔵院に伺う。
    右:2001年7月に開催された溜池シンポジウム「八楽溜と大澤の今むかし」。「カットリ」を中心に、いのちを分け合うことがテーマとなった。

  • 溜普請に使った瓢箪石 大澤の人たちは、昭和30年代後半までは、農閑期の春先に溜池を補修するための協同作業「溜普請」を行っていた。石に何本もの縄を巻き付けて、皆で縄を引っぱりあげたり落としたりしながらドスンドスンと土手を固めた。

    溜普請に使った瓢箪石 大澤の人たちは、昭和30年代後半までは、農閑期の春先に溜池を補修するための協同作業「溜普請」を行っていた。石に何本もの縄を巻き付けて、皆で縄を引っぱりあげたり落としたりしながらドスンドスンと土手を固めた。

  • 昔ながらのオオギ漁の様子を再現。大学生も体験した。単なる聞き取りではなく、実際に体験するということが大切だ。

探検の精神はそのまま目線は「地元」

こうした試みは、なぜ生まれたのだろうか。やはりここにも中心となる方がいた。今回の中心者は、西堀榮三郎記念館探検の殿堂の学芸員・角川(すみかわ)咲江さん、館長の嶋林栄さん、そして劇中で「源四郎おじいちゃん」を演じた野村源四郎さんだ。

西堀榮三郎といえば初代南極地域観測越冬隊長にして真空管の発明などでも知られるパイオニア精神の固まりのような方で、記念館は氷点下二五度の疑似南極体験もできる立派な施設を備えている。ただ、入館者は徐々に減ってきていたこともあり、2000年度、この記念館を今後どうするべきか考えてみることとしたのだ。町の人からも、「せっかくの施設なのにもったいない」という声もあがってきた。この機会を「チャンス」と考えたのが角川さんだ。「もしかしてこれはチャンスかなと思いました。本来の意味での町営博物館、住民が自分たちのものだと実感できる地域に開かれた博物館に再生できないものかと思いました」

この角川さん。実は東京都の出身だ。彦根市出身のご主人と結婚してこの町に勤めている。もっともっと湖東町を知りたい、何かきっかけがつくれないものかと考えていたのだ。そして、博物館の今後の方針を検討する委員会ができ、彼女はその舞台回しにあたることになる。この委員会の委員で、その後強力なサポーターとなる、滋賀県立大学地域文化学科の武邑尚彦助教授や琵琶湖博物館の嘉田由紀子氏からは、「上から見下ろすような博物館ではなく、地元の意見、地元の子供たちからも意見を求めたらいかがですか」とアドバイスをいただいたという。

こんな時、角川さんは「記念館の存続の決め手になる企画ってなんだろう。ここを起点に何か面白いことができないだろうか」と、考えていた。そんなある日、あるところでわら細工を目にした。「この作り方を、こどもたちに知ってもらうとおもしろい」と、すぐにその場で「これ作った人誰」と尋ね、角川さんは野村源四郎さんに出会うこととなる。現在74歳の源四郎さんは、県認定の農の匠にも指定された方。伝統技術の継承者名人である。頭の中は湖東町の情報・人材データバンクのような方で、70年来の友だちネットワークをもつ地元のキーマンでもあった。「お元気だし話が楽しいんですよね。源四郎さんのおかげで『ガッハの会』は芋蔓式人材バンク状態なんですよ」と記念館の角川さん。「ガッハの会」会長、人づくり町民学芸員としても大活躍の源四郎さんだ。ちなみに「ガッハの会」は「探検の殿堂」のボランティアグループ。会名の由来は「私が『ガハハ』と笑うから」と豪快な笑みを浮かべて語っていただいた角川さんには、皆をその気にさせる原動力がみなぎっていた。

平成九年、当時の館長だった野村信太郎氏(現在は大澤区長)は、西堀榮三郎の「探検精神」を受け継ぐ活動として、町内の子供たちや保護者に呼びかけ「湖東探検クラブ」をスタートさせた。山に登ったり、水鳥を観察するなど、町外、県外のいろいろなところへ探検に出かけていった。しかし、よく考えてみると「足元の地域」に目を向けた活動が少ない。そこで、平成十三年からは、何でもよく知っている地元の名人、達人を巻き込んでの、ものづくり教室から、湖東地域を中心に溜池を探検することまで、開かれた探検精神で活動するメニューが博物館事業として増やされた。そこへ地元の大人たちも「応援団」(=ガッハの会や湖東地域の環境を考える会)として合流し、さらに、滋賀県立大学地域文化学科の学生たちが参加(協同プロジェクト)するようになり、町行政(博物館)と地元住民、そして大学(教育機関)、三者の連携が生まれることとなった。

目標ができと皆がまとまる

さらに追い風が吹いてきた。2001年2月頃「世界湖沼会議で、この溜池探検でわかったことを、発表してみないか?」と、話が舞い込んできたのだ。湖沼会議といえば11月。あと十ヶ月しかない。できるだろうか。

ところが、終わってから振り返ると、心配は無用だった。具体的な目的が与えられたことで、みんなの行動力が猛烈な回転を始めることとなったのだ。
嶋林館長は当時をふりかえって言う。

「町では郷づくりや溜め池イベントが進んでいた時で、タイミングも良ったのです。うまい具合に八楽溜を題材にする寸劇発表の話が舞い込んできた。世界湖沼会議での寸劇発表の決定が、町の盛り上がりとうまくドッキングしたのですね。応援団のメンバーも人が人を呼ぶように集ってきました」

滋賀県立大学が協同プロジェクトとして参画し、記念館も正式な事業としてサポートした。嶋林館長は、シナリオづくりから実際の芝居づくりという初めての体験で、これまでの「溜池たんけん隊」のフィールドワークや聞き取り調査が一気に生かされることになったと考えている。

「溜池の歴史をただ紹介するだけでなく、源四郎さんはこの湖東地域のお年寄り代表、淳史くんは若者代表、典子さんは新旧世代の間でそれをつなぐ代表というように、このような役づくりを、皆でああでもないこうでもないと練りながら、それぞれの世代代表の心のプレゼンテーションができたと僕は思っているんですよ。それに聞き取り調査を体験されたお年寄りたちが、自分の言葉で語ることの新鮮さを知って、出演しながら意識が変わっていった。自分たちの文化を伝えるためにしっかり協力しなくては、とね。芝居づくりが参加している人たちの誇りを引き出したんです」

上:2001年8月12日に開催された、大澤運動会でのボートレース。この年、初めて八楽溜で運動会が行われた。ボートレースは大変人気のあった種目。
下:聞き取り調査の後には、話の中に出てきた「かしわ飯」が炊かれ、参加した人たちみんなで会食。同じ釜の飯を食う「なおらい」でいよいよ交流を深める。
右:地搗唄は、大澤の溜普請で歌われた労働歌だ。 源四郎おじいさんや地元の方々が調子を合わせて歌っていただいた。中央下の写真は、地搗唄の第一人者 杉浦信雄氏

あたりまえは、あたりまえのことではない

この言葉はたいへん興味深い。最初、源四郎さんは「わしら年寄りは先祖から伝わってきた技術でも知恵でも、何でも伝えたいと思っているんや。若い者が聞いてくれたらいくらでも答える。聞いてくれるのは嬉しいこっちゃ。でも、昔のことを言うと、ぼやきと思われるから」と思っていたという。そして、滋賀県立大学地域文化学科の学生さんたちと交流が始まったことは、これまでにないうれしい体験で、それは聞き取り調査に協力している他の方も同じ感想だと語ってくれた。

すでに三十年以上、溜池はこの地の人々の意識の上では「特別に語るものではない、あたりまえのもの」であり、そのまま心の中にしまわれ、「過去のもの」とラベルを貼られ、埋もれていた。溜池にまつわる伝承や行事も、みんなの心に残りながら、世代としてはつながらない。「忘れられた」のではなく「つながらなかった」のだ。

限られた水が、かつては、どれほど貴重なものであったかという体験談や言い伝え、溜池の掟や暗黙のルール、水を循環させながら見事に使いきる暮らしの知恵、溜池を修理し保全するためのきめ細かな管理技術、人の手になるさまざまな工夫。そんな「あたりまえ」と思っていたかつての生活のひとこまひとこまに、たんけん隊の若い世代が感心し驚く様子に、お年寄り世代は逆に励まされ、誇りを取り戻す。

滋賀県立大学地域文化学科四年生の武藤恭子さんは「五十年くらい前のことでも、私にはちょっと想像できないような、まるで別世界のお話のように聞こえるんです。溜池の水が流れるカワトに布団カバーなどの大きな洗濯物を持って行って洗ったり、井戸からつるべで水を汲むたいへんさとか、貴重な水を無駄無く使うために、たいへんな労働があったこと。それを皆さんが苦労と思っていないのがすごいと思いました」

淳史くんたち若い世代にとっては、単に昔からあったにすぎない八楽溜が、「溜池たんけん隊」に参加してからすっかり違う意味をもって見えだしてきた。自分の町の普通のおじいちゃん、おばあちゃんによって語られる話はどれも、普段の暮らしで、あたりまえのようにある「苦労」と「知恵」に溢れている。何でもないことのように語られる水にまつわる苦労話や、生活の細部にわたる知恵の蓄積に、若い世代は「すごい」と驚き、素直に感動する。語る側のお年寄りも、今まで同年代の、同じ苦労をしてきた者以外に語る機会のなかった苦労話・昔話が孫世代の若者たちに真剣に聞かれ、学生たちの勉強に役立つことがわかってくると、「次に来た時には、こう話そう、あんな話もしてみよう」と、伝える話を意識しながら、自分たち世代の生きてきた時代を筋道だてて振り返ることができたようだ。

自分があたりまえのことと感じる事は、必ずしも他の人間にとってあたりまえのことではない。むしろ「驚き」なのかもしれない。同じ屋根に住む家族同士でもそうかもしれない。そして、何が「驚き」なのかは、お互いが話してみないと分からないが、一旦、驚きがあった時、お互いの距離はぐんと縮まり、楽しい関係が幾重にも編まれていくこととなる。

「あたりまえ」は「あたりまえのことではない」。

劇に仕立てるのは楽しい

さて、多くの聞き取り結果を、次はシナリオにしなくてはならない。角川さんは「実はこの劇は正味一ヶ月の稽古しかできなかったんですよ。シナリオの完成が遅れに遅れたものですから。『世界湖沼会議』という、すごい所で発表できることになって、それも九百近い希望団体の中から選ばれたものですから、皆、張り切りまして。シナリオづくりから、ああでもないこうでもないとたいへんだったんです。全員芝居経験などない素人で。でも自分たちの言葉で伝えたい想いが強く、あちらを立てればこちらが立たず。あれも言いたいこれも言いたい。それで、なかなかまとまらないんです。国際会議ですから同時通訳用に完全シナリオを提出しなければならないんですが、結局出来上がったのは上演三日前」。

みんなが自分の言葉で語りたいため、結局時間がかかったというわけだ。若い淳史くんたちも、ふだんはただのおっちゃん、おばちゃんと思っていた人の凄さに感動したと言う。「人が作ったお話ではなく、これは自分たちの言葉や」というこだわりがうまれ、うそではない生きた言葉を皆で掘り起こす楽しさがあったという。誰もが「自分たちのほんものの言葉とは何だろう」とこだわり、考えに考え、そこにある暮らしの現実感の大切さに気付き出したのだ。

湖東町大澤のみなさん総出で「水の文化」を伝えるために熱演。 国内外の世界湖沼会議参加者も大拍手。

あたりまえから生まれる、きらりと光る一言

こうして出来上がったシナリオだけに、劇には迫力がある。

大澤では、一九六二年(昭和三七年)頃までは四年に一度、村中の住民が八楽溜に集って「オオギ漁」を行ってきた。池の水をぬいてから、オオギという篭状の漁具を伏せて養殖の鯉を掴んで生け捕りにする。村中総出でこのオオギ漁に興じて、捕った鯉はお正月の料理として食べるという娯楽のイベントである。このオオギ漁を、「鯉はようけ捕れるし、その鯉の美味しかったこと」と劇中で源四郎じいちゃんはなつかしがる。

「溜の水はな、上(かみ)の集落の田んぼの排水や雨水を入れて溜めるんや。大雨でも降るとね、濁り水が流れてきて、水とともに流れてくる泥が水の底にたまって、年々溜が浅うなるんや。そうすると、当然貯水量が少なくなる。そやから四年に一度、村中の人が出て、男はオオギ、女の人や子どもはミスクイを持ってバチャバチャと鯉を捕まえかたちにならぬ「水の文化」を残すには?ながら、水の中を歩き回ることで、溜の底の泥と水をかきまぜて、一気にどっと流し出す。これを何度も繰り返し、底にたまった泥を流し出して、貯水量を確保するための大掃除だったんや」

淳史くんは、あの八楽溜でそんな行事を昔していたこと、しかも源四郎じいちゃんたちが総出でこの溜池を守ってきたことを知る。溜池は自然の一部、子どもの頃から当たり前にそこにあるものと思っていたのに。

「お米をとるためには、長ーい期間、四月から八月までやけど、ようけ(たくさん)水がいるので、日照りが続くと米とれへんのや。それで、昔の人が苦労して造った水溜なんや。だから人の手がいるんや。昔から道は道普請、川は川掘り、溜は溜普請というてな、村中の人が集って修繕してたんや」溜池は人が造って人が手入れし、長い間この地に暮らす皆が守ってきたものだということが胸に響くように伝わってくる。

また、劇中では「カットリ」の説明を聞いた淳史くんが「田んぼの面積に応じて公平に(分水する)」と感心するのに対し、源四郎おじいさんは「まあ、みんなが生きていくためには『分かち合い』の気持ちは強かったな。そうせんと、田んぼは十分に作れなかったんや。強いもの勝ちでは、いかんということや。だから、溜をみんなで修繕して守っていくのも、当たり前のことやったんや」と話す。そして、最後に、典子姉さんは「様々な技術や知恵は、人が「わかち合い」の気持ちをもって生きていこうとする中から生まれてきたものやと、源四郎さんに教わったような気がしてるのよ」と語っている。

もしかしたら、こうしたきらりと光る言葉も、大澤のみなさんにとってはあたりまえのことなのかもしれない。でも、都会暮らしの人間が見たら、また違う感想をもつのではないだろうか。

左:田んぼの水入れを公平に行うため考えられた仕掛け。溜池から流れて来る水を田んぼの耕作面積に応じて、石と木で水平に塞き止め川幅を決めて配水した。水を分割して取る、「割取り」と書いて「カットリ」。本誌1号で紹介した香川県満濃池の分水のしくみ「線香水(線香の燃えている時間で配水時間を管理する)」と対比すると興味深い。
中央:水路より高い所にある田んぼには、蛇車と呼ばれるもので、足踏みにより水を汲み上げていた。これも女性にとっては大変な仕事だった。(昭和34年6月。彦根市の日夏町地先)
右上:昭和30年代まで、農耕の主役は牛であり、湖東地方でも多くの農家で牛が飼われていた。(昭和36年3月。近江八幡市の大房町地先)
右下:湖東町大澤では、4年に1度、八楽溜でオオギという漁具を使った「総つかみ」の行事を行っていた。字中が総出のこの行事は、魚つかみと同時に、溜底の泥さらいをする目的もあった。平成10年には31年ぶりにオオギ漁が復活した。子どもが手にしているのがミスクイ(昭和37年10月)
下中央:これら写真を撮り続け、今回写真を御提供いただいた野村しずかずさん。

持続する学生との関係

今後「溜池たんけん隊」はどのように発展していくのだろうか。一月に開かれた反省会ではいろいろな意見が出された。探検は継続させながらも、他に実行するテーマは目白押しということだ。劇で注目を集めるようになった源四郎さんは、方々からひっぱりだこ。記念館の角川さんは「いろいろな名人、暮らしの知恵を持っている方が、湖東町の中だけでなく、湖東町民として外へ出て行って活躍して欲しい。また、『溜池研究会(仮称)』の発足が決まっています。学生たちは、次に野井戸の調査を始めようとしているようですね」と、笑みを浮かべていた。

最後に、劇中での淳史くんの台詞を紹介したい。

「夢中になって遊んで実感する。例え遊びやったとしても、昔の人たちの気持ちに少しでも近づくことができたら、ほっから環境問題について考えることもあるんちゃうかな?」



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