機関誌『水の文化』42号
都市を養う水

春の小川の蓋は開くか 大都市水利用の現状

蓋をされた春の小川の下に、下水が流れていることを、生活に必需な水がどこからきて、どこにいくのかを、私たちは、長い間、まったく無関心で暮らしてきました。その無関心が、都市の中小河川を暗渠化し、下水道化してしまった一番の原因なのかもしれません。里川や多自然川づくりの使命は、人々の関心を川に向けること、と中村晋一郎さんは言います。川が暗渠化した経緯と、流域外から持ってきた水に支えられた都市生活の実態を学び、川のこれからについて考えたいと思います。

中村 晋一郎さん

東京大学総括プロジェクト機構 「水の知」総括寄付講座特任助教
中村 晋一郎(なかむら しんいちろう)さん

1982年宮崎県都城市に生まれる。2006年芝浦工業大学卒業、2008年東京大学大学院修士課程修了。パシフィックコンサルタンツ株式会社勤務を経て現職。専門は河川工学。
主な著書・論文に、『水の日本地図』(共著/朝日新聞出版 2012)、中村ら『36答申における都市河川廃止までの経緯とその思想』(水工学論文集 第53巻 2009)、中村ら『2011年タイ王国Chao Phraya川洪水における水文及び氾濫の状況』(水文水資源学会誌 Vol. 27 2013)ほか

流域外の水で支えられている都市生活

1964年(昭和39)に東京オリンピック開催が決まり、東京都では大規模なインフラ整備を進めなくてはならない状況になりました。

オリンピックに関連したインフラ整備は大きく二つに分けられ、一つは交通、もう一つが水インフラでした。

整備された水インフラの内、上水道のほうから話をすると、武蔵水路(注1)を整備しました。これにより、利根川からの取水した水は、武蔵水路を通って、荒川の秋ヶ瀬取水堰から朝霞や東村山などの浄水場を経て、東京都の広範な地域に生活用水として供給されています。

渋谷川流域を例に取ると、現在、流域内で使われている水は、流域に降った雨だけではまったくまかなえません。大都市では、生活用水を確保するために流域外のいろいろな河川から水を引っ張ってきています。渋谷川流域の場合、多摩川や利根川などから水を持ってきています。

私たちは、他所の水系から水を持ってくることで水の恩恵を享受できている。私たちの生活が成り立っている背後にはこのような広域な水システムが存在しています。まずは、この事実を正しく認識する必要があります。人口が密集する大都市ではこのような大規模な水システムに頼らざるを得ないわけで、都市で生活を送る私たちは、もう少しこの事実を意識する必要があるんじゃないかな、と思います。

また、都市流域における水利用を考えるとき、降雨をどう利用していくかは重要な鍵になります。今は流域内に降った雨のほとんどを、下水と一緒にしてそのまま下水処理場へと流してしまっていますが、生活用水や河川へ流す維持用水を雨でどれぐらいまかなえるのかということも、正確に把握しなくてはなりません。

都市流域といえども、地下水や湧水が結構な量あるはずなんですが、その正確な量は、今の科学技術をもってしても誰も把握できていません。目の前で起きている現状への理解もまだまだ足りないので、まずは流域内の自然的な水循環の地道な評価から始める必要があります。

降水などの自然な水循環系と、都市活動による人為的な水循環系を比較できるように表わした図(下図)を見ると、1467mmの降雨の内の438mmが蒸発し、906mmが雨水流出となっています。つまり、渋谷川の場合もおおよそこれだけの量がそのまま下水道へと流れてしまっているわけです。それにもかかわらず、ほかの流域から1810mmもの水を持ってくることで、私たちが使う水や川へ流す水が補われている。都市河川をどのように再生するかについては、このような現状をまず正しく評価した上で、議論しなくてはならないと思います。

武蔵水路での利根川からの導水は、当時「東京沙漠」といわれた都市の深刻な水不足を補うために行なわれた一大事業でした。ですが、そこにはもう一つ、別の目的がありました。それが隅田川の浄化用水の確保です。今では隅田川もだいぶきれいになりましたが、当時(昭和30年代)を知っている人から話を聞くと、臭いし汚いし、恒例だったボート大会や隅田川の花火大会さえも、この年代には中止されていたぐらいの状態だったのです。水質が悪化して川が汚れるというのは、文化をなくすことに等しいということですね。

ですからこのときの水インフラ整備の目的は、水不足もありましたけれど、都市環境の改善のための水質改善ということも大きな意味を持っていたということなんです。

(注1)武蔵水路
首都圏の水不足を解消するために、利根川の水を荒川に引くための導水路。利根大堰(埼玉県行田市)で取水し、鴻巣市で荒川に注ぐ全長14・5kmの開水路で、1965年(昭和40)見沼代用水路の一部を使用して緊急送水を開始し、1967年(昭和42)完成した。現在の管理は、水資源機構が行なう。

東京だけでは収まらない水収支

東京だけでは収まらない水収支
村上道夫さん提供の資料「渡部春奈、村上道夫、小村拓也、諸泉利嗣、古米弘明 : 国内主要都市における水収支構造と水利用ストレスの評価、用水と廃水、51(2)、pp.137-148、2009」をもとに編集部で作図

春の小川の蓋は、住民の意志だった

大きな川の話では隅田川が代表されますが、一方、東京の山の手にある中小河川についてはどうだったのか。渋谷川、目黒川、呑川(のみがわ)、神田川、その支流の善福寺川といった川が山の手を流れていますが、その当時の川の状況を写真などで確認すると、いわゆるドブ川という状態でした。

なぜ、そんな状態になってしまったかというと、当時(昭和30年代)、東京都区部でもまだ20%程度だった下水道普及率の低さがその一番の理由です。つまり、私たちが使った水のほとんどは、都市を流れる河川へそのまま垂れ流しになっていた。この生活汚水の垂れ流しによって川が汚れると、そこにゴミを投げ入れる人も増えてくる。そうすると一段と川は汚れ、蠅や蚊が発生したり、見た目も臭いもひどい状況になってしまったわけです。

ただ、注意が必要なのは、当時のトイレは汲み取り式であり、今のような水洗トイレではありませんから、汚物に関しては河川へはほとんど流れず、汲み取って東京湾の外まで船で持って行って捨てていました。

それを見た周辺の人は、「こんなものを残しておいても、仕方がないじゃないか」と思うようになります。当時の東京都の担当者に聞くと、都民からの請願のほとんどが「川に蓋をしろ」というものだった、ということです。

ですから、東京都としても川には蓋をして暗渠化するのは当然だ、という気運だった。むしろ、それが住民の念願でもあった、ということです。

今、渋谷川の支流の河骨川(こうほねがわ)が童謡「春の小川」のモデルだということで注目され、春の小川の蓋を開けようという運動が起こっていますが、そういう思いと当時の住民感情との間には、大きな差があります。

  • 春の小川の歌碑

    春の小川の歌碑

  • 〈合流〉と書かれたマンホール(東京都渋谷区松濤にて)。

    〈合流〉と書かれたマンホール(東京都渋谷区松濤にて)。

  • 春の小川の歌碑
  • 〈合流〉と書かれたマンホール(東京都渋谷区松濤にて)。

元に戻せる仕組みに

このような事情の中、1961年(昭和36)に通称〈36答申〉という取り決めが東京都から下されます(下図参考)。下水道整備にあたり、道路の下に下水道を敷設することも技術的には可能でしたが、この答申では川に蓋をして下水道に転用することを選びました。当時の学識経験者もエンジニアも、川に蓋をすることが経済的であり効率的であると判断したわけです。

今考えると、非常に乱暴なやり方ですが、当時の河川と都市環境の状況や直近に迫ったオリンピック開催、今後も人口が増加すると予想される状況下で下された判断なので、一概に間違った判断だったとは言えないのではないかと思っています。投入するコストと得られるメリット、許された時間を考えると、致し方ない判断だったのではないでしょうか。

今、急激な経済成長と人口増加を遂げている発展途上国はある意味、1960年代の日本と同じ状況にあり、実際に水路や河川の暗渠化が進みつつあります。しかし私は、暗渠化してしまった場合でも、その国に経済的、精神的なゆとりが出てきたときに川や水路を元の状態に戻すことを想定しながら暗渠化するべきだと思います。

当時の東京では、のちに蓋を外すことをまったく想定せずに暗渠化を進めたので、結果的に元の川に戻せるような仕組みにはなっていません。蓋の下には汚水が流れているわけですから、単に蓋を外したらとんでもないことになるし、道路の下に下水道を全部敷き直すとなると大変なお金がかかります。蓋を開けたら済むことではなく、全体の仕組みを変える必要が生じます。水の構造物というのは、線的なんですね。箱モノは点なのでそれだけ建て替えれば済むんですが、線的な構造物は1カ所だけ変えるということができない。

ですから発展途上国では、将来、市民の価値観が変わることを前提に、水インフラを整備していってほしいと思います。それが、元に戻れない仕組みを導入してしまった日本が発展途上国にできるアドバイスの一つではないでしょうか。

渋谷川における法的変遷

渋谷川における法的変遷

タイ水害から学ぶこと

例えば昨年大水害が発生したタイでは、1996年(平成8)にJICA(独立行政法人国際協力機構)がチャオプラヤ川の治水マスタープランをつくっています。しかし、昨年の段階ではそれが計画通りには進んでいなかった。今回の洪水は、もちろん大雨に伴う大洪水の発生という原因もありましたが、日本とは大きく異なる治水の考え方にもこのような事態を招いた原因があったと考えています。

実際に現地に調査に行って一番驚いたことは、タイには治水を担当する部署がないことでした。つまり、日本では当然とされる〈治水の概念〉が存在しないわけです。それは、タイがこれまで「川はあふれて当たり前」の暮らしを受け入れてきたからだと考えられます。

ダムや水門など河川施設の管理は、主にRID(Royal Irrigation Department )つまり灌漑(かんがい)局が管理しています。タイは農業国家なので、農水省のようなところが、水の管理をしているんです。

去年の洪水被害がここまで大きくなったことには、理由があります。

今回浸水したのは、日本企業の工場が数多く進出していた工業団地やバンコク周辺に広がった新興住宅地です。昔の地形図を見ると、それらの地域は水田として利用されていた地域でした。さらに悪いことに、工業団地の立地している地域のほとんどは、浸水するとひときわ水はけが悪い後背湿地でした。つまり、タイの経済成長以前であれば浸水しても困らない場所に開発が進んだことで、水害に対する脆弱性(ぜいじゃくせい)が増していた。そこを今回の洪水が襲ったわけです。

水害を受け入れられないような状況に、社会のほうが変わってしまった。そうなってくると、当然灌漑局だけでは対応しきれないので、昨年の水害以降、首相が直接リードする形で治水対策を取りまとめる治水対策委員会が設置されました。

今後、日本がタイをはじめとする発展途上国に技術協力をする場合、日本の技術をそのまま持っていくというのは違っている、と私は考えています。

日本だと水系一貫管理(注2)の思想の下で、治水整備を行なっています。つまり、一定の区間については一括して国土交通省や県が治水整備を行なっている。しかしタイでは、堤防をつくるのも個々の県単位でやっています。国土交通省の河川事務所というのではなく、〇〇県の土木部が堤防の部分部分を整備するという感じです。やはりこれだと弊害もあって、まさに昔、筑後川にあった佐賀藩と福岡藩(俗称は黒田藩)の争いのように、上下流左右岸で争いごとが起こります。実際に、昨年のタイの洪水でも、堤防や水門を挟んでいくつも争いが起こったことが現地調査でわかりました。

1953年(昭和28)に筑後川で大水害が起こったときに、当時行なわれた調査で「堤防をつくればつくるほど、下流側の流量が大きくなって洪水が激しくなる」ということが明らかになりました。この結果を示したのが高橋裕(注3)先生の博士論文「洪水論」です。

つまり、水系一貫管理をしないで、まったくバラバラに堤防をつくっていくと、本来あふれていた場所であふれなくなって、それだけ下流に洪水が流れてしまい被害が大きくなる可能性が増える。今回のタイの洪水でも上流につくられた緊急堤防によって洪水が一部に集中してしまい、資産が集中しているバンコク周辺に大量の氾濫流が押し寄せました。上流の治水対策が下流に影響してしまったわけです。日本が60年前に経験していた現象が、タイでも起こってしまった。このように、日本の経験が生かされることは多いはずなのです。

日本では1964年(昭和39)に河川法が改正されて以降、水系一貫で管理をするようになるのですが、じゃあ、タイでもまったく同じやり方を導入すればいいのかというと、決してそうではない。タイにもともとあった思想と日本が持っている技術をどう対応させていくかというのが、今後求められる本当の技術支援じゃないでしょうか。

日本の技術をそのまま導入したら、必ず弊害が出る。例えば、現地で話を聞くと、実は多くの人が水害に対してあまり不満を持っていない。逆に、最近堤防で守られるようになった地域に住んでいる人たちは、水害に対してたくさんの不満を持っている。守られるようになったことで、それだけ水害に対する体力のようなものが失われた、とも考えられます。タイの人たちに元来備わった水害観のようなものを見極めた上で、技術を適用することが重要なわけです。

(注2)水系一貫管理
1964年(昭和39)に改正された新河川法は、中小河川までまとめて一貫管理する、水系主義を取った。一級河川(水系)は国の管理に、二級河川は都道府県管理と定め、それまで河川法の適用外であった普通河川の内、市町村が指定したものについて河川法の規定の一部を準用することとした。これは準用河川と呼ばれる。
(注3)高橋裕(1927年〜)
河川工学者。東京大学教授、WWC(世界水会議)理事・IWRA(国際水資源学会)副会長など主要政府委員を歴任、現在は国連大学上席学術顧問。 河川工学の第一人者であるとともに、河川・水資源工学に歴史的・文化的視点を導入し、多くの後進を育成。治水・水質汚染・水不足・洪水・水関連の紛争など、水全般にかかわる幅広い研究を行ない、多くの著書、論文、提言がある。

タイ・バンコク郊外。雨期には、こういう光景が日常的に見られる。

タイ・バンコク郊外。雨期には、こういう光景が日常的に見られる。

無関心からの転換

話は東京の高度成長期に戻りますが、東京オリンピックに備えた1961年(昭和36)10月に、〈東京都都市計画河川下水道調査特別委員会〉が開かれました。委員長の伊藤剛から東京都知事の東龍太郎へ調査報告書が提出され、それに則って東京都の中小河川の暗渠化を進めることが決定しました。ここで出された答申が前述の〈36答申〉です。私はこの委員会の議事録を入手して、当時のエンジニアや関係者が、どういう考えの下で東京の河川を暗渠化するに至ったか、ということについての研究を行ないました。

〈36答申〉によって、東京都市部の中小河川の多くに蓋がされ、同時に下水道普及率が飛躍的にアップし、東京の都市環境は大きく改善されました。

しかし、渋谷川に蓋がされてからというもの、そこに下水が流れているなんて、長い間誰も気にもとめなかったと思うのです。ところがここ10年ぐらい、みんながそのことに気づくようになってきた。そして「蓋を外すべきだ」という意見が出てきた。ですから、人の川に対する考え方は、こういう風にどんどん変わるものなのです。それに合わせて、川の在り方とか水インフラの在り方とかも変わっていくものなんだな、と思います。

東京の暗渠化河川の考え方が大きく変わる契機となったのが、1985年(昭和60)の築地川埋め立て反対運動でした。築地川は、当時、銀座のボートクラブがあって、ボートの所有者を中心に反対運動が起こった。それをきっかけに、東京の川には蓋をしない方針に変わりました。この当時は、柳川でお堀の埋め立てに対する反対運動が起こるなど、環境意識が高まり始めた時期に重なります。

下水道は、自然流下で処理場まで汚水を流したほうが効率がよく経済的で、日本の下水道では基本的に自然流下方式で汚水を処理場に運んでいます。しかし、中小河川を下水道に転用した場合、河川の勾配が緩くなる地点から下には自然流下で汚水を流すことができません。そこから処理場までは、下水道を川から分岐させて勾配を保ちながら、道路の下などに敷いた下水管で汚水を処理場へと運ぶ必要があるのですが、そうなると上流から流れてきた水はすべてその下水管のほうに流れてしまい、分岐した地点から下流はまったく水が流れない河川、水無し川になります。河川工学では、このような川を〈残存河川〉と呼びます。

〈東京都都市計画河川下水道調査特別委員会〉の中で最も問題となったのは、この〈残存河川〉をどうするかという点でした。つまり、水が流れていない川が川といえるのか?という問題です。委員会では残存河川の処理の方法として三つの案が提案されましたが、結果として残存河川についても暗渠化して雨水渠として利用することが決定されました。この決定の下、1986年(昭和61)に渋谷川下流側の暗渠化工事が開始された矢先、築地川埋め立て計画に対しての住民反対運動が起こりました。この暗渠化反対運動を受けて、当時の建設省と東京都が協議して「原則として中小河川の新たな埋め立ては行なわない」という方針が出されたのです。〈36答申〉によって暗渠化されるはずだった渋谷川下流は、この築地川埋め立て反対運動によって、今の川の姿がかろうじて守られたといえます。

求められる水リテラシー

最近になり渋谷川をはじめとする東京の川の再生に対する機運が高まってきていますが、しかしまだまだ多くの人たちは川に興味など持っていません。蓋をされて下水が流されていても、誰もそれが問題だとは思わないわけです。

これは川だけでなく水そのものにもいえることです。蛇口を捻(ひね)ればすぐに水が出ます。だから水がどこからきているのかとか、どうやって飲めるようにしているのかとか、どこで処理されているのかといった、水の背後にある仕組みを、まったく意識していない、というのが本音ではないでしょうか。

実際にこのような仕組みを、まったく意識しなくても私たちは生活ができます。しかし、住民意識を水と完全に切り離すようなやり方をするのは、やはり問題なのです。水害を防ぐ場合にも、すべて国や行政に任せてしまって無関心になったら、いざというときに自分の身が守れないのが良い例です。

私たちの生活を支えている水が、いったいどこからきているのか、どこへいくのか、ちゃんと知るべきです。そのことは、私たちがこれからどういう暮らしをしていくかについて考えることにつながると思います。

と言うのも、気候変動や人口減少が進んでいく状況で、必ずしも同じ質の水を飲めたりとか、同じ治水安全度を今と変わらずに享受できるとは限らないからです。明治以降、近代的な考え方でやってきたけれど、おそらく今後はそれを変えなければならない時代がくる。

そのときに一番重要なのは、水のリテラシー(物事の意図や目的を見抜く能力)です。個人が水のこれからについて判断できるような知識や情報を、最低限、持たなくてはならないでしょう。でも、現状は多くの人が川に蓋がされていても何も思わないし、水道の水がどこからきているか知らないし、川や水に対して関心がない。ましてや、川に行って遊ぶなんて考えは、ほとんどないと思うんです。

だから川や水に関心を向ける、というのがこれから最も大切になると思っています。これらの問題意識の下に『水の日本地図』という本を書きました。

水への関心と川の復活は、非常に深く影響し合っています。ですから川に関心が持てる場所というものを、世の中にどれだけつくれるかが、水への関心の掘り起こし、川の復活につながっているのです。

  • 細い路地は、暗渠化された川の跡。

    細い路地は、暗渠化された川の跡。

  • 川に面していた形跡やマンホールなどから、もとの流れが推測できる。

    川に面していた形跡やマンホールなどから、もとの流れが推測できる。

  • 渋谷駅南東側を流れる、渋谷川。

    渋谷駅南東側を流れる、渋谷川。河川の水は、この場所から下水幹線を通じて落合処理場に運ばれる。もう少し下流にいくと、水量維持のために処理水が入れられる箇所がある。

  • 細い路地は、暗渠化された川の跡。
  • 川に面していた形跡やマンホールなどから、もとの流れが推測できる。
  • 渋谷駅南東側を流れる、渋谷川。

川に多様性を

最近、神奈川県足柄上郡開成町で酒匂川の調査をやっているところなんですが、東京からたった1時間の場所に、霞堤があり、多くの水路が流れている。貴重な治水や利水技術の宝庫で、私たちから見ると驚くべき場所なのですが、住んでいる方々にとっては日常ですから、そのすごさにあまり意識がない。上流にダムができたことで洪水の頻度が下がったり、水道ができたことで水路を使う機会が減ったり、みんなの水に関する関心が薄れています。まさに近代技術の弊害の部分です。

水に恵まれているから、目の前の水とのかかわりがどんどん減っていってしまう。水路が埋められても、霞堤が埋められても何とも思わなくなっているのです。そんな状況で、地元の心ある人たちが水路や霞堤に関する勉強会やシンポジウムを行なっています。

今の技術に求められているのは、今までの水インフラを維持しながら住民の関心を醸成するということを、どのようにバランスを取りながら成立させるか、ということなんです。

どんな都市だって、インフラを確保することは行政の使命。しかし、あまりにも規模が大きすぎたり、専門家しか理解できないようなインフラだと、人口が減って税収が減ったら維持できません。線的構造物である水インフラは、どこか一点がダメになったらシステム全部が使えなくなってしまう。だから、地域ごとに土地利用の在り方や生活の仕方など根本的な部分から、具体的な方策を考えていく必要があります。

今、どこの川に行っても、全部が同じ風景で、面白くないですね。やはり、どんなものでも均質なものは、見ていてつまんないじゃないですか。渋谷川に行っても、目黒川に行っても、神田川に行っても、全部一緒に見えるようでは、誰もそこを訪れてみようとは思わない。やはりそこに多様性があって、違いがあるからこそ、いろいろな所に行ってみようという気になるし、魅力を感じる。その地域ごと川ごとの多様性をどうつくるかが、川の再生にとって大切なわけです。

里川の意味

その中で、多分重要になってくるのは、治水事業の多様性です。それをどう見つけていくかが川の再生に向けた鍵を握っている。

堤防を両岸で同じ高さにするとか、上下流で同じ安全度にするというのは、管理や整備する側からすると非常に効率的です。地域間の利害調整といった非常に面倒な問題を解決できる。でも実際にこれまでの考え方で整備が進んでいる堤防は、1級河川で計画の6割程度しかない。その上、今後気候変動で洪水が激化したり、税収が減って、より一層整備が進まないことが予測されますから、今後はこの面倒な地域間調整を避けることは不可能になると思います。

つまり、絶対に守る場所をつくらなければならない代わりに、必ずどこかにあふれる場所もつくらなければならない。すべての地域が平等に安全なんていうことはあり得なくて、じゃあ、どう差をつけていくの?というのが大きな課題になります。この課題に対してヒントを提示しているのが、東京工業大学の桑子敏雄(注4)先生がやっている〈合意形成論〉ではないでしょうか。

少なくとも、これから生ずるであろう多くの課題を解決するには、まずは市民が水に関心を持って現状を知ること。そしてより多くの身近な水を復活させること。昔のように生活に水を使うのは難しいから、現代に見合った使い方をつくり出すことです。

関心を向ける一番の方法は何だろう、と考えてみると、多自然川づくりや里川がなんで重要かということにつながってきます。つまり、これらの手法は、水に関心を持ってもらうことに貢献できるという点です。

川の良さや水の大切さは、本を読んだり映像を見るだけでわかるものではないと思います。実際に体で触れてみて、初めて理解できる。体験の下で学ぶ知識というものが、本当の水のリテラシーであって、そのような場所をつくることが、多自然川づくりや里川の一番の目的なんじゃないかな、と思います。だから多自然川づくりが是か非かというような問題じゃなくて、川や水と人との接点を増やすことが最大の目的なのです。そして、川だけ多様性が出てもダメで、次の段階としてその周辺も空間として魅力的にならないといけません。

今まで無関心でいられた、というのはある意味で恵まれていたからだと思います。これからは雨の降り方も変わっていって、安定的に今と同じ質の水が得られるとは限らない。水は恵みだけでもないし、害だけでもない。両方あるからこそ、関心を持って、つき合っていく必要がある。

同様に、私たち河川工学者も変わらないといけないと思います。専門家になってしまって、住民の意識との乖離が広がっていると感じます。まずは私たち専門家が使っている水の定義や川の定義をつくり直さなくてはならないでしょう。新しい河川工学とか新しい水文学が求められていると感じます。

現在、九州大学の島谷幸宏さん(河川工学者)や杉並区の人たちと善福寺川再生に取り組んでいます。善福寺川も他の東京の川と同じように、カミソリ護岸で個性がなく、豪雨時には下水道から汚水が流入する川です。ここを東京の里川にする。多くの人が無理だと思うかもしれませんが、それぐらいインパクトのある大きなことをやってモデルをつくらないと、世の中は変わらない。みんな、できないと思って諦めている。でも、できるんだということを、いつかどこかで示す必要があるんです。

(注4)桑子敏雄(1951年〜)
東京大学文学部哲学科卒、同大学院博士課程を経て、現在は東京工業大学大学院社会理工学研究科教授。専門は哲学、倫理学、合意形成学、プロジェクトマネジメント論。社会的合意形成では、理論研究だけでなく、行政や市民とともに社会基盤整備の実践に参加している。

(取材:2012年8月21日)

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