機関誌『水の文化』36号
愛知用水50年

愛知用水 工業用水としての足跡

愛知用水が通水50年を迎える今日まで、つつがなく経営を続けられた背景には、都市用水としての利用を含んだ総合開発であった、という事実があります。そして、都市用水への転用を受容した人たちの柔軟な姿勢がありました。特に工業用水は、愛知県の工業化に貢献しました。 モノづくりナンバー1を誇る「強い」愛知に発展させた縁の下の力持ちは、愛知用水かもしれません。

写真:土井 康夫 さん

愛知県企業庁水道部水道計画課主幹
土井 康夫
(どい やすお)さん

写真:野口 興晴 さん

愛知県企業庁水道部水道計画課主査
野口 興晴
(のぐち こうせい)さん

農業用水マップ 水道事業マップ 工業用水道事業マップ

◆農業用水マップ(左)
愛知用水土地改良区、愛知県企業庁提供のデータ、国土地理院基盤地図情報(縮尺レベル25000)「愛知、長野、岐阜、静岡、三重」及び、国土交通省国土数値情報「河川データ(平成20年)、湖沼データ(平成17年)」より編集部で作図
◆水道事業マップ(中)及び、工業用水道事業マップ(右)
愛知県企業庁提供のデータ、国土地理院基盤地図情報(縮尺レベル25000)「愛知、長野、岐阜、静岡、三重」及び、国土交通省国土数値情報「河川データ(平成20年)、湖沼データ(平成17年)」より編集部で作図
美浜調整池より下流の幹線水路は愛知県企業庁の送水管、これより上流は(独)水資源機構の送水管である。

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愛知用水への参加

愛知用水事業は1951(昭和26)年度に、農業用水主体で閣議決定されましたが、当時の国の財政事情では資金確保の問題もあって、世界銀行から借款することになりました。この借款を受けるには、農業用水のみでなく都市用水などを含んだ多目的事業にする必要がありました。このため、愛知用水事業は農業用水、都市用水(水道・工業用水)、発電の3部門からなる多目的事業として事業実施されることになったのです。

1952年度(昭和27)、農林省は都市用水の参加を愛知県、名古屋市、名古屋商工会議所に要請しましたが、話はまとまらず暗礁に乗り上げました。農林省は愛知県知事に「愛知用水に都市用水が参加するように調整してほしい」と強い要請を行ないましたが、名古屋市及び、名古屋商工会議所との話し合いは進展しませんでした。

愛知用水事業を成功させるために、愛知県は毎秒1.7m3の都市用水を引き受けることで愛知用水事業への参加を決定しました。このうち、工業用水道の水量は幾度も調整した結果、毎秒0.693m3となり、全量を名古屋南部臨海工業地帯へ給水する計画を作成しました。これが県営の愛知用水工業用水道第1期事業の始まりです。

創設期

名古屋南部臨海工業地帯は名古屋港の浚渫土(しゅんせつど)を埋め立てて造成したもので、当時は工業用水に地下水を使用していました。

工業用水道の創設時の水利権、毎秒0.693m3が決定したものの、当初は給水先の名古屋市南部地区に立地する製鋼、石油化学、造船などの工場には工業用水について理解が得られませんでした。

しかし1953年(昭和28)に深井戸の実態調査をした結果、地下水の汲み上げが限界に達しており、地下水位低下などの障害が発生していることがわかり、名古屋港付近では地盤沈下による荷揚場や防潮堤の大規模な沈下が確認されました。このことを工場に説明して、深井戸から工業用水道への転換をPRした結果、次第に関係者の認識が深まっていきました。

一方、工業用水法制定の動きもあり、1957年(昭和32)には日量約7万m3の水量が申し込まれ、この需要量を基として、1958(昭和33)年度に日量8万6400m3の給水計画で愛知用水工業用水道第1期事業が着手され、1961年(昭和36)12月に給水が開始されました。

第2期事業

名古屋市を中心とする中部産業圏の産業は、これまで名古屋南部地区及び四日市を除くと繊維、木材などの軽工業が主体でした。この産業構成の歪みを直し、さらに高度化を図るため、中部経済連合会を中心として伊勢湾臨海部へ重化学工業を誘致する運動が進められていました。この中で中心となったのは、基幹産業である鉄鋼一貫の製鉄所を誘致することでした。

1959年(昭和34)6月に名古屋南部臨海工業地帯に東海製鐵(現・新日本製鐵)の立地が決定。大同製鋼(現・大同特殊鋼)、製鉄化学(現・東レと現・東亜合成)、石川島播磨重工業、出光興産といった重化学工業が次々と進出することになり、工業用水の需要量は、うなぎ登りに増加しました。

この需要量の増大を、第1期事業の日量8万6400m3では満たすことはできないことから、拡張事業として第2期事業(1961〜1964年度工期)が必要となり、給水能力日量25万9200m3で計画されましたが、この水源は愛知用水の高度化により生み出すよりほかに方策がありませんでした。

愛知用水事業の当初計画では、農業受益面積は約3万700haでしたが、精査したところ約2万3500haに減少することが判明。この分と、佐布里(そうり)地区に約500万m3の調整池を築造することで、毎秒3.0m3を農業用水から工業用水に転用して水源を確保しました。

第3・4期事業

名古屋南部臨海工業地帯には、我が国の基幹産業ともいうべき鉄鋼、石油化学などの工場が既に進出し操業していました。その後、新規進出企業が次々に立地するのに加え、既設工場も生産設備を拡充していく高度成長状況で、工業用水の需要は1970年度(昭和45)には給水開始時の約4倍の日量約59万m3に達すると見込まれ、第3期事業(1965〜1972年度工期)に依存する水量は日量20万m3として計画されました。

第3期事業の水源は、全量を愛知用水に依存するより他に方策がありませんでした。このため、農業受益面積の減少と、岐阜県東濃用水の一部利用により、都市用水として毎秒3.805m3を農業用水から転用して確保しました。そのうち工業用水道の水源は毎秒2.218m3です。

第3・4期事業では、愛知用水への水源依存が限界となり、西三河地域の工業用水道水源として確保していた矢作ダム水源の一部を愛知用水地域へ振り替えて水源としました。このため、延長約16kmの矢作導水路を愛知池まで建設して給水しています。

阿木川ダム、味噌川ダム

名古屋南部臨海工業地帯では、既設工場の拡充に加え、内陸部(大府市、阿久比町など)の企業立地も進み、需要はさらに増加。これに対応するため、水源事情も考慮の上、第4期事業として日量30万m3の計画を立てました。この水源として、阿木川ダム(岐阜県・恵那市)に毎秒2.098m3の水利権を1991年度(平成3)に確保し、味噌川ダム(長野県・木祖村)に毎秒0.7318m3の水利権を1996年度(平成8)に確保しました。

工業化に果たした役割

地下水による工業用水確保が限界に達している状況で、愛知用水事業から工業用水を給水するようになって、まず、地盤沈下が沈静化しました。

さらに、第1期事業から需要の増大に合わせて給水能力を随時拡張し、第4期事業までの短期間に日量84万5600m3の給水が可能となりました。こうした大量の工業用水が確保できたのは、愛知用水事業に参加したために、当初は農業用水の転用で対応できたこと。そして、開発水源である阿木川ダム、味噌川ダムの通水に、愛知用水幹線水路をそのまま活用できたことが大きく貢献しています。

急激に増大する工業用水需要に対応できたことで、企業に安心感が確保され、新規企業が次々に立地し、さらに既存工場は増産、施設拡張をしていきました。安定した工業用水の供給が、名古屋南部臨海工業地帯の発展につながったと考えられます。

また、東海製鐵の誘致の際の建設候補地としては、三重県桑名市、四日市と名古屋南部が名乗りを上げ、三者の激しい誘致合戦が行なわれました。この誘致条件の一大要素として工業用水が取り上げられました。この工業用水の確保について、愛知県は県営の愛知用水工業用水道事業により供給することを約束し、1959年(昭和34)6月12日に協定書を締結して、誘致が決定しました。

東海製鐵の誘致成功に伴い、重化学工業が次々と進出し、ここに一大基礎素材型工場群が実現することとなりました。愛知用水事業に参加したことで、急増する工業用水需要にも対応できたと考えられます。愛知用水が存在しなかったら、急激な工業化に工業用水の供給が追いつかなかったでしょう。

図:愛知用水の都市用水における経過

図:愛知用水の都市用水における経過
愛知県企業庁提供のデータより編集部で作図

「モノづくり」産業の集積に貢献

愛知県では産業政策の大きな柱として「モノづくり」を掲げ、愛知県企業庁ではその政策の一環として、用地の造成と工業用水道の整備に努め、積極的な誘致を進めてきました。工業用地については名古屋港周辺を名港管理組合が造成し、その他の地域(衣浦港、三河港、内陸部)については愛知県企業庁(旧・企業局)が造成してきました。

工業用水については、名古屋市南部の一部を除き、愛知県企業庁(旧・水道局)が整備してきました。

このような産業政策の結果、現在の愛知県には製鉄や石油化学などの「基礎素材」産業や自動車、工作機械、電気製品、航空宇宙などの「モノづくり」産業が集積し、製造品出荷額は1977年(昭和52)以来、33年間連続して全国第1位となっています。

水需要の変遷

愛知用水工業用水道事業が給水を開始した1961年度(昭和36)の延べ事業所数は12事業所、契約水量(注1)は日量約9万6000m3です。第2期事業が完了した1964年度(昭和39)は、21事業所で日量約19万3000m3の契約であり、わずか3年間で当初の約2倍に増加しました。

第3期事業が完了した1972年度(昭和47)は、45事業所で日量約56万3000m3の契約で、当初の約5.8倍、2期完了時の約3倍となっており、2期完了からの8年間で急激に工業用水需要が増大していることがわかります。

今後、愛知用水工業用水道事業に求められることは、工業用水の供給という観点からは、「安定供給(水量)」と「良質な水(水質)」と考えています。また、工業用水道事業という観点からは、「経営の効率化と安定」と考えています。

(注1)上の表内の数字は計画給水量で、ここで語られる契約水量とは異なる。
工業用水の水道料金は使用量に応じるのではなく契約水量に応じて徴収し、これを〈責任水量制〉という。水道水のように不特定多数のユーザーではなく、特定の限られた数のユーザーから、安定的に料金を徴収する仕組みだ。そのため実際には、契約水量の全量がすぐさま使われるということにはならない。見込まれる不足分を補うために、次なる事業が計画されていった。



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