機関誌『水の文化』15号
里川の構想

里川の構想

編集部

使いながら守る川「里川」

里川は里山の「山」を「川」に置き換えた造語である。 聞き覚えがない、と言われても仕方がないが、実は本家ともいえる「里山」自体がそれほど古い言葉ではないようだ。江戸時代に使われていたともいわれるが、昭和30年代後半に森林生態学者の四手井綱英(していつなひで)が、それまで「農用林」とか「戸山」と呼んでいた居住地に近い森林を「里山」と呼ぶようになったのが最初らしい。

「奥山という言葉があるんだから、その対照で里山って言葉があっても言葉としてやさしいし、いいだろうと、山里をひっくり返して、集落や都市の近くにあって人間が入ったり木の実を採ったり遊んだりできるところの山という意味で使い出した」と、森まゆみ『森の人 四手井綱英の九十年』(晶文社 2001)の中で四手井が話している。

さらに「『日本昔ばなし』ってテレビ番組みたいにね、集落があって、小川が流れていて、向こうに里山が連なっていて、というのはちょっとユートピアみたいな気がしますがね、人が山に入り、そこのものを利用して生きていく以上、山は荒れざるを得ないし、人間が伐採したあとに別の木が生えて、二次林になり、植生も変わっていく。(中略)問題は、かつては里山があり農地があり、集落があった。いまは農地がほとんど宅地になり、宅地が山まで迫っている。緩衝地帯がなくて、また灰などの加里肥料や人糞をリサイクルさせる所がない」と続けている。

一般に里山というと農の有無にかかわらず、手ごろな自然風景が思い浮ぶ。しかし、里山は手を入れてはいけない森林ではなく、二次林だから天然林と比べ価値が劣るというわけでもない。里山が貴重な自然であることは間違いないが、神棚に祭り上げるような森というわけでもないのだ。

将来の水資源を考える上で、里山がヒントを与えてくれる点は、里山が「使いながら守られた共有資源」であったことと、「守る仕組みを持っていたこと」。つまりは、コモンズとして機能していたことにある。この2点が、里川としての水利用の管理に光を当ててくれるだろうことは、大いに予想できる。

もちろん「使わずに守らねばならない」原生自然があることは承知しているし、その判別もしなくてはならない。しかし、行政に厳しく管理された川と、ほとんど管理されていない川のどちらかしか目にしない現在、当事者が「使いながら守る」ということを、現代の川でも考えてみることは大きな実験になるのではないだろうか。もしかすると居住者と川との新たな関係が見えてくるかもしれないし、川という共有資源を自分たちで守る仕組みの輪郭が、浮かび上がってくるかもしれない。そこで、あえて「里川」という造語を使ったのである。

里川を、第一には居住地に近い川、第二には、多様な人々によって使いながら守られている川、という意味で使用してみたい。

里山はなぜ消えたのか

しかし、読者の中からは、こんな疑問が上がるかもしれない。「里山は都市部ではほとんど消えてしまっているではないか。消滅を許してしまうシステムを川に応用しても、期待できないのではないか」と。確かに、そのとおりである。

ただ里山が消えた原因を追うと、ますます「使いながら守る」ことの有効性を真剣に考えざるを得ないのである。そこで、もう少し、里山の話を続けたい。

四手井の話から考えさせられることは、自然環境とつきあう際の「里」の意味である。

里とは人が住む場所、つまりは居住地のことである。別に農村を意味しているわけではない。里がたまたま農業集落であれば、その近くに共同で利用する資源としての農用林があったし、それは農業を営む上では必要な土地利用でもあっただろうが、そのことは里山を農村と限定することにはつながらない。里山とは、居住地の近くという「空間的な意味」、生産や生活に必要不可欠な肥料や薪などを利用した「資源としての意味」、そして、それを守る「居住者たちのルール」という三位一体の意味を持って成立している「仕組み」なのである。

したがって、里という居住地が変貌すれば、里山も変わる。

昭和30年代の住宅需要増で都市近郊の不動産価格が上昇すると、里山を利用してきた農業者も土地を手放し、そこには新たな居住者として多くの第二次、第三次産業の勤め人が住むようになった。さらに、農業のみで生計を立てることの困難さ、後継者不足などの要因が重なり、里山から資源としての意味が急速に薄れていった。かくして、里山は農業者とのかかわりがなくなり、都市近郊では里山そのものがほとんど消え、結果として現在では奥山近くに里山的な自然が残っているにすぎない状態になっている。

つまり、里が都市化し拡大していく中で、里の居住者が変化して、里山が伐採されたり都市の遠方に追いやられ、農業資源として居住者とつながっていた里山の意味さえも切れてしまったのである。

里山がなくなった原因は、システムにあるのではなく、居住者の変化により土地の使い方が変わり、里山に資源を残しておく必然性を感じなくなった点にあるのである。

「里川」の場合は

里山に起こったことと似たことが、居住地に近い川、すなわち里川でも同様に見られた。現在では大都市となっている都市近郊でも、昭和30年代までは、農業者をはじめ居住者がいろいろな形で川を使っていた。東京の昔の写真を眺めると、例えば、現在は首都高速道がかぶさっている港区を流れる古川で、石炭の積みおろしの姿が見られるし、現在は一面の宅地になっている渋谷や杉並の辺りでは、多くの農地で川が使われていた様子がわかる。現在でも、都市化がおよんでいない地方に行くと、「使い川」という言葉で、農業用水や生活用水に利用される川が残ってはいる。しかし、都市河川の多くは、蓋をされたり排水路となっていたりする。大きな河川は、河川管理者の厳しい管理下におかれ、都市居住者にとって心理的な距離は必ずしも近いとは言えない。

とは言いながらも、里山と川では、異なる点がある。

それは、少なくなったといいながらも、まだ多くの川が実際に残っている点だ。それに、市民が意識するかしないかは別としても、上下水道などをとおして現代の都市居住者は川を利用しているのである。

現在、人口・住宅需要の増加もピークをすぎ、新たな里という居住地と川の関係を考えねばならない時期がきている。しかも、そこでは持続可能な成長が望まれている。現在、日本の人口の約7割が都市部に居住している。川を「流域」としてとらえれば、下流に多数住んでいる都市的ライフスタイルの居住者を抜きにして、人間と川との関係を考えることは不可能だ。上流〜中流部の農家だけではなく、都市生活者をも、川とつなぐことで、いったんは切れかかってしまった居住者と川とのかかわりをもう一度つくってみようではないか、というのが里川に込めた編集部の言い分でもある。

東京、渋谷川も里川だった

東京、渋谷川も里川だった

人々と川のつきあい川は資源か

川は自然の資源という側面を持っている。しかし、一口に資源と言ってもいろいろある。ある人にとっては川の水そのものが資源かもしれないし、別の人にとっては、川を泳ぐ魚かもしれない。農業用水、航路としても重要だし、排水路、緑地、やすらぎを与える空間、等々、さまざまな側面を持っている。

さらに、川には大小もある。また川は流れ下ることで、一つの流域を形成している。その川に流れ込む堀や水路まで考えるならば、流域という川のネットワークの果たす資源としての役割はかなり広がることになるだろう。流域に居住する人が増えれば、発電のために、上下水道の取水・排水路として、ヒートアイランドの緩和に、などと規模も大きくなり広がってくる。

このように「川は資源か」と問いかけると、答える側は「誰が、どのような用途で使うから重要なのだ」という理由を一緒に考えなければ答えられないということに気がつく。川の魚が資源だと答える人も、魚を食用としてとらえているのか、生物多様性を維持する指標としてとらえているか、釣りの対象としてとらえているのかで、立場が異なってくるのだ。

向一陽『日本 川紀行』(中公新書 2003)は太田川、最上川、石狩川、多摩川、筑後川の流域の暮らしぶりをルポしたものだが、川がどのような意味で暮らしの資源としてとらえられるのかを気づかせてくれて、興味深い。

川とは多くの人とかかわり合いを持つ、まぎれもない資源であるが、そこを使用する人、資源として見る対象、見込まれる用途などによって、資源としての質や内容が決まってくるものなのだ。

  • 『日本 川紀行』

    『日本 川紀行』

  • 『日本 川紀行』

「消費」と「利用」は違う

なぜ、使いながら守ることが大事なのだろうか。このことを考えるとき、いつも思い浮かべるのは、唐突だが、地元のラーメン屋のことである。

最近、町にラーメン屋が出店してきた。これがなかなかおいしい。贔屓(ひいき)にして通っていると、最初は客のほとんどが地元の客である。「この店は自分が発見したのだ」という秘かな誇りもあるらしい。小さい店だがなかなか繁盛してきた。そのうち、その店がテレビで取り上げられ、翌日から店に行列ができるようになった。店の贔屓だった地元の固定客は、いつ行っても待たされる。待つなどということは、遠方からコストをかけて来るから引き返せないだけで、地元の人間は「じゃあ、また来るか」と帰っていく。それがたびたび続くと「贔屓にしているのに、混んでいて入れない」と結局店から離れてしまうことになる。そうこうする内に、一時は集まっていた遠来客も来なくなって店がさびれるというのが大概の場合の結末だ。

雑ぱくなことを承知で誤解を恐れずにいうならば、このラーメン屋は町の共有資源なのである。この例で考えさせられるのは、客にも2種類あるということだ。

一つは、遠くからやって来るような無責任な物見遊山の客。彼らは金を支払うことで「お客様」になっている。味を買いに来る「消費者」だが、店が続こうが続くまいが責任は感じない。

もう一方の客は、店主に義理があるわけではないけれど、店がなくなったらやはり寂しい、困ると思っている贔屓の客である。彼らにとって店は資源であり、彼らは店の「利用者」なのである。

もちろん、店の所有管理者はラーメン屋主人であるから、理屈から言えば、店を閉めようが他業種に衣替えしようが、店主の責任で自由にできる。けれど、「あの店を支えている一人が俺だ」と感じ贔屓に思う、いわば、ちょっとだけ責任を感じている客も存在するのである。

持続する店には、概してこの「利用者」が多い。

店主はこの利用者を大事にしないと生き残れない。贔屓の引き倒しをするような客もいるかもしれないが、そのような客とうまくつき合っていくことが、共有資源としてのラーメン屋を維持していく秘訣なのである。

利用客はラーメン屋に資源を発見すれば、贔屓にしても良いという誘因が生まれる。彼らが何度も通えば、通うことでいろいろな楽しみを発見し始め、店はラーメン屋を維持するコストも下がる。

逆に、消費者ばかりがラーメン屋に通うようになると、店主も客を「一見さん」と見なし、文句を言わない効率的な客と見て、モラルハザードを起こす。そして、結局店は続かなくなる。一方、客は客で「そう頻繁には来ない店」と思えば、ちょっと店を汚してもいいだろうとか、煙草を吸ってほかの客に迷惑をかけてもいいだろうと、こちらもモラルハザードを起こしていく。

使いながら守ることが大事なのは、この「共有資源の利用者」を生み、育て、モラルハザードを起こすような人間関係を防ぐからであって、これは川でも森でもラーメン屋でも変わらない。

川を介した人々のつき合い

結局、川を共有資源として守るには、川に資源を見出す「川と人のつき合い」が必要であるが、それと一緒に、その資源を維持するための「川を介した人々のつき合い」がないと十分とはいえないのである。それはいわば、共有資源を守る仕組みである。

人々のつき合いの中で、協力関係を引き出すのに大事なことは何か。協調関係の安定に不可欠なのは「未来の重み」と、「関係の継続」である。コンピューターのシミュレーションでこのことをわかりやすく説明したのが、アクセルロッド『つきあい方の科学』(ミネルヴァ書房 1998)で、「これからもつきあい続ける」とか、「当分ここに住み続けるだろう」という未来の重みは、人と人の協力関係を生みやすいのである。つまり、変わらずに続けることが、結果として人々の信頼を招き寄せるということだ。

このことは、川を使いながら守る仕組みをつくる上でも、大変重要なポイントと思われる。

菅豊氏のインタビューの中で、「社会関係資本」(Social Capital)の話を紹介しているが、それもこのような信頼関係の話である。

人々がある共通の縁で結びついた人間同士のネットワークは、多様な信頼関係を生み、それが民主主義を円滑に機能させるというもので、そのネットワークを社会関係資本と呼ぶ。このコンセプトを本格的に取り上げたのがロバート・D・パットナム『哲学する民主主義』(NTT出版 2001)である(ただ、この邦題は意訳すぎる。原題はMaking Democracy Work:「民主主義を機能させる」という意味)。

コモンズにしても、社会関係資本にしても、関心が持たれる理由は、地域に応じて異なる人のネットワーク形成を誘導することで、持続可能な開発を実現するための資源管理組織をうまく機能させられるのではないか、という思いにある。国連や世界銀行では持続的な開発を実のあるものにするために、社会関係資本を研究プロジェクトとして取り上げている。

信頼は、つきあいの維持そのものから生まれるのである。

日本映画の名匠・小津安二郎は、自ら監督した映画『宗片姉妹』の中で田中絹代に「変わらないってことが新しいことなのよ」という科白(せりふ)を与えている。小津自身の口癖でもあったらしいが、協力関係と信頼というテーマを考えると、なぜかいつもこの言葉が思い出される。

  • 『つきあい方の科学』

    『つきあい方の科学』

  • 『哲学する民主主義』

    『哲学する民主主義』

  • 『つきあい方の科学』
  • 『哲学する民主主義』

これからも都市は変わり続けるのだろうか

考えてみれば、日本の都市ほど協力関係が生まれにくい場はなかった。明治時代以降、東京を中心とする都市は、田舎のしきたりが嫌で飛び出してきた人にとって自由の空間であった。常に変わり続けて、じめじめした人間関係がない場所のはずだったのである。特に戦後は、転勤などの雇用慣行の出現で、人口移動も頻繁になった。庶民の持つ蓄財もまだまだ少なく、未来の重みは今より軽かったと思われる。

それに歩みを合わせるように、昔の建物が壊され、新たに建て替えられ続けた。都市が建て替わるということは、その社会が未来を軽く見ていることの表れである。居住し続けることで生まれる、空間や人間関係などの価値を、必要以上に割り引いて見ているからである。

サスティナブルな都市をつくろうと、英国を中心にコンパクトシティと呼ばれる都市像が唱えられているが、その根底には、未来の価値を尊重することがあることを忘れないでいたい。

福川裕一・文、青山邦彦・絵、『まちに自然をとりもどそう』(岩波書店 1999)は、未来を生きる子供たち向けに書かれた、まちづくりの手引き書である。ただ、その中身は川、水の通り道、住居、それらがどのような歴史をたどってきたのかもおさえられ、里川を考える大変わかりやすい入門書となっている。里川は里山と同じように、居住地との関係を常に考えないとわかってこない。

人口増加にブレーキがかかり、時間の価値が高くなってきている今、都市は依然としてスクラップ・アンド・ビルドされていくのだろうか? 私たちは暮らしと川をどのように結びつけていくべきなのか。

『まちに自然をとりもどそう』

『まちに自然をとりもどそう』

「里川」の合意形成

川を流域で考えるならば、どうしても川に注ぐ流れまでも面で考えねばならない。流域のどこに住むか、どのようにその川を利用するか、今後どのように居住者が管理すればよいのか。おそらく、さまざまな意見の違いが生まれるに違いない。それらも、結局は話し合いを「時間をかけて」続けることで解決するしかないだろう。

この「時間をかける」という表現も、非常に誤解を招きやすい。実は、時間をかけて、できるだけ多くの参加者の意見をジグソーパズルのように組み合わせれば、理想の川が描ける、というのは幻想にすぎない。むしろ多様な価値観を持って、混沌としていてまとまりのない人々が、時間をかけて人の意見を聞き、自らの意見を話しているうちに、自分の感じ方や考え方が少しずつ変わり、結果として意見を進化させて合意に向けて落ち着いていくととらえたほうが正確だろう。

このような合意形成の方法も、日本人は忘れてしまっているかもしれない。日本中を歩き回った民俗学者、宮本常一『忘れられた日本人』(岩波文庫版 1984)の冒頭には、対馬での寄り合い風景が描かれている。二日以上も続けて寄り合いが行なわれているのだが、みんなが納得するまで何日も話し合っている。と言っても、熱い議論が交わされているわけではない。端から見ると、雑談のようでもあり、用事のある者は途中で抜けても構わない。そのうち、昔のことをよく知っている老人が参考意見のような世間話をする。そしてまた、ひとしきり話をしているうちに、「まあ、あなたが言われるならば、もう誰も異存はなかろう」と決まるのである。「話に花がさくとはこういうことなのだろう」と、著者は述べている。

正しいか正しくないか、得か損か、が第一なのではなく、そういう感情が入り交じりながらも、互いが納得することが大事なのである。互いが納得するには時間がかかるのだということを、宮本常一の取材は、我々に思い起こさせてくれる。持続可能な社会を多様な意見でつくろうと謳っている今、かつての定住社会の慣習は、大きなヒントを与えてくれる。

『忘れられた日本人』

『忘れられた日本人』

「里川」の構想

使いながら川を守る。そうした里川づくりは、まさにこれからの課題である。

このような視点に立った今、川の使い方はどのように開発したらいいのか。本号では、現在のいろいろな利用方法を紹介した。しかし上下水道や里川を維持させるための住宅やライフスタイルなど、今回触れることができなかった大きな問題も多い。さらに、「水みちも里川に含めよう」など、思い切った提案も出てくるかもしれない。

里川の構想は緒についたばかりである。当センターでは、今後継続して取り組むべきテーマであると考えている。今回を出発点に、適時、活動内容をご報告していきたい。



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