機関誌『水の文化』27号
触発の波及

大東京、水辺空間の変遷
身近な都市の水辺に夕暮れ文化を

上:法政大学ボアソナードタワーから、東京・飯田橋駅前 中央線に沿った外堀を見下ろす。 下:東京の下町を夕暮れどきに出航した屋形船がレインボ ーブリッジをくぐるころには、残っていた日差しもすっか り暮れている。

上:法政大学ボアソナードタワーから、東京・飯田橋駅前 中央線に沿った外堀を見下ろす。
下:東京の下町を夕暮れどきに出航した屋形船がレインボ ーブリッジをくぐるころには、残っていた日差しもすっか り暮れている。

「都市における水辺の重要性」を一貫して訴えている陣内秀信さんに、変遷の背景と未来の水辺のあり方をうかがった。陣内さんが提唱するのは、水辺でゆったり過ごす「夕暮れ文化」。そこには水辺の理想的環境ばかりではなく、私たちの暮らし方への示唆も含まれているようだ。

陣内 秀信さん

建築史家 法政大学デザイン工学部建築学科教授
陣内 秀信 (じんない ひでのぶ)さん

1947年福岡県生まれ。1973〜1975年イタリア政府給費留学生としてヴェネツィア建築大学に、翌年ユネスコのローマ・センターに留学。帰国後、1983年東京大学大学院工学系研究課博士課程修了。東京大学工学部助手・法政大学工学部建築学科助教授を経て現職。主な研究領域は、イタリア建築・都市史。ヴェネツィアとの比較から江戸や戦前の東京が水の都であったことを論じた、『東京の空間人類学』(筑摩書房1985)でサントリー学芸賞(社会・風俗部門)を受賞。 主な著書に『都市を読む-イタリア』(法政大学出版局1988)『ヴェネツィア-水上の迷宮都市』(講談社1992)『地中海世界の都市と住居』(山川出版社2007)他。

変遷を重ねた東京の水辺

東京の水辺は、ここ30年間で何段階も変遷を重ねてきました。

東京に限らず、60年代の工業化で壊され、汚された水辺と緑を取り戻そう、という動きが全国的に始まったのが70年代でした。

まず小樽、柳川の環境復活が行なわれ、東京でも「隅田川からきれいにしていこう」という活動が始まった。川の水質を改善し、屋形船や花火が復活したのもこの時代です。

80年代に入ると、川での動きがベイエリアにも広がりました。美濃部亮吉都政時代(1967〜1979年3期在任)から東京湾の開発を抑制し、海浜公園を整備していたお台場が、人気スポットになったのです。ウィンドサーフィンのメッカにもなり、ベイエリアがトレンディな場所になってきた。

この時代のお台場の光景は、とてもチャーミングでした。お台場から眺めると、高い建造物は東京タワーと、浜松町の貿易センタービル、東芝ビルぐらい。品川埠頭には通称キリンと呼ばれるクレーンが立ち並び、そこに西日が当たると、何とも言えないシュールな眺め。60年代型工業社会の残照を見ているような感じでした。

当時のベイエリアは、埋め立て地につくられた工場や流通施設が次々空洞化していた時代です。

中央区など都心に目を移すと、夜間人口が急速に減っていた。高度成長期時代の影響で、住居も工場も大学も、こぞって郊外へ追いやられた時期だったのです。

あまりに都心人口が減ってしまったため、東京都と中央区は、ここでプロジェクトを立ち上げます。これが、隅田川河口で展開した大川端大作戦。「都心に人を戻そう」と、ベイエリアの工場跡地などに、マンションをつくり始めたんです。

典型的な建物が、石川島播磨造船所の跡地に建設されたリバーシティ21。その周辺にもマンションが建設され、水辺の生活も再び活気づいてきました。

お台場人気を第一ラウンド、大川端大作戦を第二ラウンドとすると、第三ラウンドはロフト文化の誕生です。

すでにこのころ、船による貨物輸送から陸上輸送が主流になり、無用になった倉庫が数多く残されていました。その倉庫がレストランやギャラリー、ライブハウス、ディスコ、イベントスペースとして活用され始めたのが、80年代前半。これが、いわゆるウォーターフロントブームにつながるわけです。

水辺をきれいにして自然が回帰し、住宅の供給で人も都心に戻り、ウォーターフロントの賑わいで町が活気づいた。ここまで、ポジティブな要素が3つ重なりました。

ちょっと立ち止まった時代

今考えると、80年代前半は非常に面白い時期でした。でもそれは突然始まったことではなく、70年代からさまざまな分野の人たちが仕込みをしてきた結果なんです。一つ例を挙げると、奥野健男さんの『文学における原風景』(集英社1972)という本がきっかけになって、町や文化、歴史に対する関心が高まってきた。従来の学問では飽き足らない研究者たちが、東京をそれぞれの分野から見直したわけです。

建築分野でいえば、槙文彦さんが「奥の思想」を唱えたり、芦原義信さんの『街並みの美学』(岩波書店1979)、川添登さんの『東京の原風景』(日本放送出版協会1979)などの本が出版されました。都市の歴史を研究している鈴木理生さんの『江戸の川、東京の川』(日本放送出版協会1978)もこのころ出版されて、「東京は面白いよ」という流れが徐々につくられてきたんです。

70年代後半から80年代に入るころが、ちょうど過渡期でしょうね。経済的に停滞感があって、都市の性格づけが難しかった時期でもあります。未来志向一辺倒ではなく、もう一度町のあり方や文化を振り返ってみようという空気が漂っていた。

そこで出てきたのが「廃墟」です。廃墟を題材にした写真や劇画が話題になったり、建築分野でも磯崎新さんが廃墟に着目していました。その視線の先にあった場所が、時の蓄積や沈殿を感じさせる廃工場や廃倉庫だったわけです。

こうした建物が、ギャラリーやショールームとして次々生まれ変ったのが80年代の初め。これがロフト文化の始まりです。ひときわ活気があったのは、芝浦の運河沿い。レストランやギャラリー、ディスコがオープンしていきました。

このころ、若い人たちの嗜好や行動にも変化が見られました。モボ・モガやアールデコが再評価されたり、「町歩き」がトレンドになってきた。新宿型の盛り場から、原宿、渋谷、あるいは代官山に興味が移り、ファッショナブルに町を歩くようになったわけです。

その延長線上で、若者がウォーターフロントを発見したのが80年代前半だと思います。メディアも「水辺の可能性」「ビジネスチャンスの場」の両面で、ウォーターフロントを盛んに取り挙げるようになりました。

熱かったですね、あのころのウォーターフロントは。僕自身、廃倉庫やだるま船が並ぶ運河が少しずつ形を変え、光り輝いていく様子を見ながら、わくわくしたものです。

当時のベイエリアの魅力は、異次元感覚が味わえたことだと思います。特に夜がいい。たとえば田町駅から海辺まで歩いていくと、真っ暗な闇が広がっているんです。そこにきらきらっと照明が反射すると、非日常性を体感できた。

橋もまたいいんです。当時もっとも話題を集めたインクスティック芝浦ファクトリーは、橋を2つ越えた場所にあって、直接水に面していました。元は倉庫ですから、土木的なプロムナードはなく、水との関係がダイレクト。一歩間違えば水に落ちるかもしれないけれど、それも魅力の一つ。管理されていない素朴な空間だからよかったんです。

「ベイエリアはこうあるべき」

あのころ、僕は研究者の立場からそんな発言をしながら、一人のユーザーとしてウォーターフロントを満喫していました。でも、そんな時代は、あまり長く続きませんでした。

水辺もバブルに躍らされ

80年代も半ばになると、東京は高度情報化社会を迎え、ベイエリアの状況はまた変化します。「世界を代表する金融都市」などと呼ばれて、大掛かりな開発が始まった。東京湾周辺で50件は下らないプロジェクトが発表されたと記憶しています。86年から88年にかけては、インテリジェントビルという、今思うと恥ずかしい名称のビルが乱立しました。後に振り返ると、これがバブル経済時代の始まりだったわけです。

実は、時代の流れにいち早く対応したのは、横浜や幕張でした。横浜には「みなとみらい21」、幕張には「幕張メッセ」ができ、東京はそこに割り込む形でオフィスビルを集積させたテレポートタウン(臨海副都心)構想を立ち上げました。当時の鈴木俊一都知事(1979〜1995年4期在任) は、そこで都市博を開催しようと目論んでいましたが、それに反対する青島幸男新都知事(1995〜1999年1期在任)の登場とバブル経済の崩壊で、テレポートタウン構想自体が凍結してしまった。

結局、86年ごろから91年ごろまでのバブル期に実現した水辺の開発は、浜松町のシーバンスと品川の天王洲アイルぐらいのもの。シーバンスの開発は昭和初期の石垣を残し、天王洲アイルも一度解体した石垣を一部復元する形で行なわれました。その意味ではよかったのですが、この開発を期に、ウォーターフロントを盛り立てていた若者やクリエーターの情熱は、潮が引くように冷めていったのです。

80年代前半に栄えたロフト文化は、小規模な資本や斬新なアイデアに支えられていました。ところがバブル期に入ると、開発が大規模になり、若者の文化やクリエイティブなものは入り込む余地がなくなってしまった。

90年代も、この状況は同じでした。バブルは崩壊したものの、政府のてこ入れで、大規模開発が進められました。「特区」として「都市再生」の大義名分をもらい、高層のオフィスビルが新設されていきました。

ただし、新しいオフィスビルが建てられたのは、汐留、丸の内、六本木など、どれもやや内陸部。足の便の悪さから、「臨海部にはオフィスは向かない」と考えられたからです。ちなみに汐留は海に近い立地ですが、水がまったく意識されていません。

この時代にも、もちろんベイエリアの大切さにこだわっている人々はいましたが、一般的にベイエリアへの関心は、ますます薄れた時期だと思います。

水辺の再評価と居住地区化

人々の関心が再びベイエリアに向くようになったのは、21世紀を迎えてからでした。それまでの風向きががらりと変わって、ベイエリアに超高層マンションが建ち始めたのです。

80年代に住居や大学が郊外へと追いやられた流れが逆転し、「都心回帰」の動きが急速に強まってきたのです。

時代の気分を表わすキーワードとしては、「成熟社会」「コンパクトシティ」といったところでしょうか。ともかく、都心は「刺激的」で「魅力的」だと、再評価されてきた。その流れの中で、臨海部の価値ももう一度上がったわけです。

ただし、この動きを手放しで喜ぶわけにはいきません。

だいたい、これほどダイナミックに都市構造を変えている国なんて、先進国では日本だけ。欧米の都市は、18世紀から19世紀にかけて、中心部にしっかりした中層建物ができています。マンハッタンにしても、ところどころに超高層の建物はあるけれど、中層の建物とのバランスを考えて建てられている。歴史や元の風景に関係なく既存の建物を壊し、新しい建物を建てているのは東京しかありません。言い換えると東京は、長期的な都市計画もビジョンがないまま、市場原理だけで形を変えているんです。

2000年以降、ベイエリアに建設された超高層マンションは、お金のあるエリートしか住めません。しかも、ベイエリアにありながら、水との距離はそう近くない。部屋からの眺望は素晴らしいかもしれないけれど、水辺まで出て楽しむ環境になっていないんです。

超高層マンションを建てただけでは、文化は生まれません。マンションを出たら水際までの散歩道や船着場があって、周囲にはレストランやバーなど商業施設もほどよく配置されていないと、本当の意味でのベイエリア開発にはならないと思います。

80年代前半と現在のベイエリアの大きな違いは、「わくわく感」でしょう。さきほど言ったように、80年代前半のベイエリアには、非日常的な刺激がありました。水辺を間近に体感する面白さがあったんです。それを仕掛けていたのは、小規模資本でした。

ところが、大規模資本による超高層マンションが立ち並ぶ現在の水辺からは、わくわくする気持ちが生まれてこない。ベイエリアに居住人口が増えたこと自体は、いいと思います。でも、それならもっと水辺の日常を楽しむゆとりがほしい。現状では、開発が大規模過ぎて、かえって水辺が遠くなっているように感じます。ここが今のベイエリアの問題ですね。

失われた「身近な」水辺

2003年になると、東京都が「運河ルネッサンス」を提唱しました。民間から発案される水辺のサロンやレストラン設置に対し、水域占領許可規制を緩和して、水辺の文化や価値を高めていこう、という試みです。まずは芝浦、品川、つづいて月島、晴海とエリアを限定して、モデル地区づくりが始まっています。

とは言っても、船着場の設置などの認可は、大企業による巨大プロジェクトにしか下りにくいのが現状のようです。

80年代前半に誕生した小規模な商業施設は、ほとんど潰れてしまいました。地価の高騰だけではなく、不法占拠という理由で立ち退き命令を受けたヨットクラブなどもあります。確かに行政側から見れば、不法占拠だったのでしょう。

でも、従来は、水域占領に対しても、悪いことさえしていなければ見逃してくれる大らかさがあったはずです。バブル以降は厳しくなって、市民が長年親しんできた水辺の施設を潰してしまっている。

ただ、逆に考えれば、市民の側にも「もっとベイエリアを楽しみたい」という、強い意志やゆとりが必要だったのかもしれませんね。

都市在住の人を対象に行なったこの水の意識調査の結果を見ても、「好きな水辺」として選ばれるのは、海の砂浜、渓流、温泉など、遠くの自然ばかり。すぐ身近にある水辺を楽しむ、ということを忘れているようです。江戸時代には町の中や川端、海辺に人気スポットがたくさんあって、地域の中で楽しんでいたのに。

でも、今からだって望めばその可能性はあると思います。現にここ数年間で、ポジティブな動きも出てきました。大規模開発が進む一方で、市民が水辺に親しむ空間も着実に広がっています。

たとえば天王洲のTYハーバー。倉庫スペースを利用した、運河沿いのレストランで、ボートも接岸できるつくりです。ここが今、新しい水辺のスポットとして、話題になっています。TYハーバーの前にも、東京で初めてのフローティングレストラン&バーが今年オープンしました。

東京初のフローティング・レストラン&バー、天王洲のTYハーバー。

東京初のフローティング・レストラン&バー、天王洲のTYハーバー。

夕暮れ文化を生活空間に

もう一つ、飯田橋のお堀沿いにあるカナルカフェも、人気を集めています。ここは1918年に創業した貸しボート屋が母体。すぐ後に東京市長となる後藤新平さんのサポートで開業した由緒正しい施設です。今も貸しボートはありますが、お堀の周囲でレストランとカフェを営業している。特にオープンテラスのカフェは、すぐそばに水があって、非常に気持ちの良い空間です。僕や学生たちもよく利用しますし、水上ジャズコンサートの企画にもかかわっています。

カナルカフェは外国人のお客さんも多く、日本人にも評価する人が大勢いる。水辺を享受したい、という感覚は、世界共通なんでしょうね。

イスタンブールには漁師さんが自分で獲ってきた魚を自分で揚げて売っている店がありました。マルセイユの古い港でも、漁師さんが自ら魚を売っていた。そこまではいかないにしても、東京の水辺にも人間が元気に息づいている空間がもっとあればいい、と思います。

こういう思いを抱いているのは、僕だけじゃないはずです。だから何でも行政任せにしないで、声を上げていくことが必要だと思う。

ベイエリアでお店を開く人には、「店の前の敷地にボートを係留したい」と、どんどん申請を出してもらいたい。利用する側も、「船で遊びに行きたい」と訴えたいですね。ベイエリアの超高層マンションに住んでいる人たちにも、もっと水辺を楽しむためのアイデアを出してもらえたらいいと思います。

広島には、国土交通省の応援で、太田川沿いにオープンテラスのカフェができました。常設の建物も許可されたそうです。東京も、夕暮れどきに散歩や食前酒を楽しむスペースが増えたらどんなにいいでしょう。

イタリアなど地中海沿いの町で、一番の幸せを感じるのは夕暮れどきなんです。夕日を浴びながら一人で、あるいは友だちや恋人とゆったり時間を過ごす。それにもっともマッチする空間は、間違いなく水辺なんです。

地中海沿岸だけじゃなく、東京にだって、かつては夕暮れ文化がありました。福岡の中州や大阪の道頓堀、京都の加茂川沿いの一部には、今も夕暮れ文化があると思います。夕暮れを楽しむゆとりを、東京にも取り戻したい。

TYハーバーやカナルカフェをいち早く発見した若者に遅れをとらず、80年代にウォーターフロント文化を楽しんだ世代も、ベイエリアを歩いてくれるといいですね。巨大プロジェクトの隙間に夕暮れ文化を育てていけば、ベイエリアの可能性も広がると思います。

飯田橋駅そばの外堀に浮かぶ、カナルカフェ。都心にあるため、仕事帰りの普通の人たちが、気軽に訪れ、水面と川風を楽しんでいる。日本には少ない「水辺に面した飲食」を、洒落た形で提供してくれる、まさに都会のオアシスだ。

飯田橋駅そばの外堀に浮かぶ、カナルカフェ。都心にあるため、仕事帰りの普通の人たちが、気軽に訪れ、水面と川風を楽しんでいる。日本には少ない「水辺に面した飲食」を、洒落た形で提供してくれる、まさに都会のオアシスだ。



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