ポルダーの水が風車やポンプによって、より上の水路に押し上げられ、海へ排出される道筋がよくわかる。また、海水からの浸潤、地下水、雨水、蒸発などの水循環にポルダーが位置づけられている点にも注目したい。(F.S.Hoep 'Holland Compass' 2002より)
編集部
計画の国、オランダを学べ。ここ数年、日本の経済界では「オランダの奇跡」と呼ばれる経済成長が注目されている。ワークシェアリングなど整備されたセーフティネットが、日本が目指すべき模範と映るというのが背景にあるらしい。
日本の名目GDP比にあたるオランダの国民負担比率(税負担+社会保障負担)は1996年(平成8)時点で44.7%。日本は28.5%。まぎれもなくオランダは大きい政府、日本は小さい政府だ。しかし今や、高い経済成長率、失業率の減少、労使関係の安定、ワークシェアリングという四つの特長を持ったオランダ経済は、「オランダモデル」、別名「ポルダーモデル」とも呼ばれるようになっている。ポルダーモデルは、経済活動の現場での労働条件の柔軟さ、話し合い重視の気風に支えられているのだが、この「ポルダー」とはどういう意味なのか。
水に関心のある人なら、すぐに「干拓地のこと」と答えるに違いない。確かに、ポルダーを辞書で調べると「干拓地」と記されている。しかし、日本でいう干拓地とは異なる意味がこの言葉にはある。
オランダの建国は1648年(慶安元)だが、国土がつくられ始めたのは13世紀からである。ライン川、マース川、スヘルデ川が流れ込む泥炭地域を堤防で囲み、中の水を排水し、干上がらせてつくったのがネーデルランド(下の土地の意)だ。そこに自治都市が生まれ、その連合体が当時のスペインから独立したのが現在のオランダである。
ラインラント水委員会の広報担当官ホエクさんは「自分たちの堰を持ち、水門を持ち、運河を持ち、排水口を持つ。これがポルダーだ」と話しているのだが、これはあくまでも施設面からの説明だ。デルフト工科大学教授のフォルカーさんは、ポルダーを「自然状態では高い地下水位であるが、その地表水・地下水の水位が人工的に管理されている干拓された平坦な地域」と説明している。つまり、ポルダーは、周囲に巡らせた堰や排水ポンプを使い、地表水と地下水の水位が管理された土地なのだ。
実際、オランダ人の地下水位へのこだわりは、大変に強い。
日本では、「自分の土地だけが守られればあとはどうなっても構わない」という自己本位の気持ちを「輪中(わじゅう)根性」と呼ぶが、ポルダーではそんなことは言っていられない。一つのポルダーだけではなく、各ポルダーが連合して地表水と地下水の両方をコントロールしなくては、暮らしている土地そのものが海水に浸かるかもしれないからだ。
輪中根性ならぬ、「ポルダー根性」というものがあるとすれば、それは「とにかく連携して、水をコントロールする」という感覚であり、それが反映された社会システムといえるのではないだろうか。
オランダには489の自治体があり、それを束ねる12の州政府がある。ゼーランド州(Zeeland)は最も南にある州で、州都はミデルブルグ。ベルギーと国境を接しており、Zeeは英語のSeaと同義で、「海の土地」という意味だ。その名の通り、州の4分の3は海水位より低い。
オランダの特集を、ゼーランド州から始めるのには意味がある。
それは、ゼーランドがかつて大洪水に見舞われた土地であり、これから説明する大治水計画・デルタ計画の当事者であり、さらには、地球温暖化による海面上昇に対処するための計画変更の当事者でもあるからだ。
そのゼーランド州の水管理業務の責任者、ブラウさんとラーゲンダイクさんにお話をうかがった。ラーゲンダイクさんによると、ゼーランドの人々にとって、1953年(昭和28)1月31日は、記憶に焼き付いて離れない日だという。この日の夜半、北海から発達した低気圧が接近し、アムステルダムのダム広場にあるオランダの標高基準点NAP(New Amsterdam Pile)を4.55m超えるいくつもの高潮が発生、20万haの土地が水に浸かり、30万人が家と財産を失った。この高潮による死者は1853名。オランダ人にとって未曾有の大災害となったのである。
このような被害を二度と起こさないために、海から海水が侵入してくる河口のすべてに蓋をしてしまおう、というのが世紀の大土木工事といわれたデルタ計画だ。
堰を閉めるといっても、用水の堰を閉めるのとは訳が違う。海岸線の河口出口を全部ふさぎ、何があっても高潮から陸地を守ろうとしたのだ。その規模は壮大なもので、可動堰も含めると建設する堰は13カ所におよび、計画通りに進めば、河口部の汽水域は失われ、淡水化されていたはずだった。
1957年(昭和32)にデルタ計画がつくられ、翌年からザンドクレークダムやハリングフリートダムなどが順次着工されていった。
しかし、1970年(昭和45)ころから生態系への影響が問題視されるようになってきた。そこで、1973年(昭和48)にクラーセンス委員会が開かれ、事業の見直しが行なわれた。その結果、すべての堰を閉めきるという計画は、東スヘルデダムを高潮のときだけ水門を閉める可動堰にするという計画に変更されたのである。これが第一の計画変更だが、最終的に計画は完遂された。
ところが、1985年(昭和60)ころから、まったく予期していなかった事態、地球温暖化問題が現われ始めた。ブラウさんは言う。
「いまデルタプランには四つの問題が持ち上がっています。第一は生態系への影響、第二は都市化、第三は海岸線の更新、第四は河川流量の増加です。
これらの問題を引き起こしているのは、地球温暖化です。これにより、我々は北海の海面上昇と、ライン川の流量増加に直面しています。気候変動に対しては、三つのシナリオを想定しています」
平均気温が上がると、海面が上昇する。それを、1℃、2℃、4〜6℃と三つの場合でシミュレーションしたのが下図数字だ。
しかも、脅威はそれだけではない。温度が上昇することでアルプスの融雪が進み、ライン川やマース川の流量が増える。現に1990年(平成2)と1995年(平成7)には、何回も洪水が起きている。海だけではなく、前方と背後の両方から水が迫ってきているのだ。
これまでは堤防をどんどん嵩上げして水の侵入を防ぐことで洪水に立ち向かってきた。しかし、それも限界に近づいてきている。この800年間、海水と闘って土地をつくり守ってきたオランダ人にとって、地球温暖化こそが、「今ここにある危機」なのである。
デルタ計画立ち上げのときの条件が、温暖化による海面上昇、河川流量増加で成立しなくなってきた。このため、オランダ運輸省は治水政策の一大転換を行なった。
この点については、NOVEMのリサーチャーであるスピッツさんが、こう話す。
「現在オランダは、新たな水政策が必要だと考えています。1990年(平成2)アルプスの氷が融けライン川の水位が上がり、イタリア、スペイン、オランダ等が洪水に見舞われました。死者は出ませんでしたが物的被害は大きかった。このころから、政府は新しい政策が必要だと考え始めたのです」
NOVEMは水に関する持続的開発を支援するコンサルタント団体。財団法人だが給与上の扱いは公務員であり、政府のエネルギー政策や水政策実施のための調査、分析を行ない、政府にアドバイスするのが仕事である。
「かつてオランダは、水と人をいかに切り離すかに専念してきました。しかし、温暖化で海面レベルは上がり、雨も多くなる。人口が増え、住宅もつくらなくてはならない。農業政策、土地利用も変わりました。農業は集約的になり、表流水だけではなく、地下水を大量に使うようになっています。このような中で、堤防を高くしても限界があります。そこで洪水そのものを防ぐのではなく、洪水をいかにコントロールするかが課題になるわけです」
「水を入れない治水」から、「コントロールする治水」に転換したというわけだ。この経緯は運輸水利省がつくった政策パンフレット『水への異なったアプローチ:21世紀における水管理政策』(2000年〈平成12〉)にも解説されている。その中には、洪水をコントロールするために、一人ひとりが取るべきアクションを示す具体的な絵が掲げられている。
アクションは三つの段階として説明され(下図)、第一段階は「retaining」。まずは水をその場で保全する。第二段階は「storing」。水をその場でできるだけ溜める。第三段階は「discharging」で、どうしても維持できなくなった少量の水を放流する、という具体的な指針だ。この絵をよく見ると、地下水の流れもきちんと記されている。彼らにとって地下水はまさに管理すべき対象であることがわかる。
ともあれ、このような政策変更に合わせて、州、市レベルでも水管理のあり方を見直すことになったという。
ゼーランド州も、地球温暖化という新たな要因が加わったために、デルタ計画でできあがった水管理の秩序を変更することになった。具体的な方策としては、閉めきった河口堰を開けたり、氾濫原をつくったり、二重堤防をつくるために住宅を移転させるための保障をするなどの多様な対応が挙げられる。地域の人々の暮らしに変化を強いるこのような方策を進めるにあたって、ゼーランド州が踏んだプロセスは以下のとおりである。
「とにかく、何回も何回もディベートを行ないました。その結果、河口の流れのダイナミクスを回復するというビジョンが選択されました。
第1に都市洪水の安全性が高まる、第2に自然環境に良い影響を与える、第3に漁業を持続可能なものにする、第4に都市住民にとってのレクリエーションの場所が確保される、第5に水とつき合う新たな居住方法が見つかる可能性がある、第6に船舶輸送がより速くなる、という利点があります」
河口の流れのダイナミクスの回復には、すでにつくられて30年以上経過した河口堰を開けることも含まれている。しかし、堰を開けることは、漁業に従事する人や、レジャー産業で生計を立てている人だけでなく、いろいろな立場の人の生活基盤を変更することにもつながる。なおかつ、水道への塩分混入や地下水への影響などは、まだ明確になったわけではない。州としては、今後も話し合いを続けていかねばならないのである。
2000年(平成12)6月に、オランダ政府はゼーランド州の北隣りの南ホラント州にあるハリングフリート堰を、2005年(平成17)1月に開けることに決定した。とはいっても、いきなり全開にするわけではなく、水門の3分の1を95%の時間開放するという方式で、2009年(平成21)までの5年間、試験的に監視して影響を評価し、2010年(平成22)には、その後の方針の見直しがされることになっている。
2004年(平成16)6月の段階では、セップさんや何人かの関係者に「堰が開くそうだが」と訊ねたところ「まだ決定には至っていない」という話だった。政府方針は決定されても、地元での話し合いと合意形成がなされなければ、実施されないのがオランダ流なのだと感じた。
地球温暖化という「今ここにある危機」を前に、過去の計画にとらわれず、ガイドラインとしての計画を多方面から提案し、地元の合意をつくっていくオランダ。一方、脅威も計画も何となく上から情報が降ってくる日本。オランダと日本の合意形成のやり方は、どうも違うものなのかもしれない。
オランダ人は地下水位に神経質だ。なぜなら、地下水位をコントロールせずに土地を乾燥させてしまうと、土地がどんどん沈降してしまうからだ。ポルダーは水路で囲まれているが、その水路の水位が、そのポルダー内の地下水位を規定する。したがって、水路の水位をコントロールすれば、地下水位もある程度コントロールできることになる。ただ問題は、望ましい地下水位が人によって異なることだ。
農業者はできるだけ地下水位を下げたい。そのほうが質の良い牧草がよく育つし、トラクターなどの重機を走らせても沈んでしまうようなことがない。しかし、地下水位が下がると、水位が高いときに比べ、土地の年間沈下量が大きくなる。国の立場としてはできるだけ土地の沈下量を抑えたい。農業者と国の間で、地下水位の望ましさについての言い分が異なってくるのである。
そこで、ワーゲニンゲン大学のリサーチャー、ホビングさんは、排水チューブをどの程度の間隔で敷設すれば、最適な地下水位が保てるかについて、実験データをとっている。地下水位を農家がコントロールするために、水路水位の調整のみならず、排水チューブを使うことの可能性についての研究を行なっているのだ。この実験で実証された方法で、農家が自分の農場の地下水位を積極的に調整するよう、指導していくのが目的だ。国が求める地下水位と、農家が主張する地下水位のギャップを埋めるために、実際どこまでだったら歩み寄れるのか、牧草の生育度合いなどを検証している。
「話し合いに役立てるためにデータを集めています。科学的データを集めないことには、話し合いになりませんから」。どんな事柄であっても、話し合う端緒につくために、説得力のあるデータを集める、という姿勢がこんなところにも現われている。
スヘルデ川河口につくられた東スヘルデ堰は、自然保全の声に応じて、1973年に可動堰に設計変更されたダムだ。この横に、デルタプロジェクトのこれまでを展示した「ネーヤンス博物館」がある。その館長が、オランダ運輸省でこのプロジェクトの技術的責任者だったセップさんだ。
やはり技術者だけあって、堰建設の苦労談になると力がこもる。何と言っても苦労したのがダムの土台づくり。波による土台の洗掘を防ぐ技術が当初は確立していなかったため、工法も含めてすべて最初から考えねばならなかった。強い潮流で流される礎石を固定していくために開発されたのが、砂・小石・石の三層から成るマットレス。これを河口に敷きつめ、杭でとめ、その上に土台を載せていく方法で、堰の建設を実現させた。「安全で確実な技術を求めるために、何度もシミュレーションした。毎日、大変なストレスだった」とセップさんは当時を振り返る。
「技術で自然を封じ込められると思いますか」という少し意地悪な質問に、「そんなことは、絶対にできない。我々にできることは、防衛することだけだ」という答え。
「プロジェクトリーダーに必要な能力は何ですか」「まずは、本物の水利工学の専門能力。そして経験。さらに、プロの知識が発揮できる環境。そして、何よりも、同じ目的に向かって進んでいることを、みんなに知らせることだ」。この発言も、デルタ計画の設計変更の歴史を背景に聞くと、持つ意味が変わってくる。