機関誌『水の文化』57号
江戸が意気づくイースト・トーキョー

坂本クンと行く川巡り 第13回 Go ! Go ! 109水系
坂本クンと行く川巡り 第13回 Go ! Go ! 109水系

山里の暮らしを縫い、平野の暮らしを紡いだ庄川

砺波平野を流れる庄川

砺波平野を流れる庄川

川系男子 坂本貴啓さんの案内で、編集部の面々が全国の一級河川「109水系」を巡り、川と人とのかかわりを探りながら、川の個性を再発見していく連載です。

坂本 貴啓さん

国立研究開発法人
土木研究所 水環境研究グループ
自然共生研究センター 専門研究員
坂本 貴啓(さかもと たかあき)さん

1987年福岡県生まれの川系男子。北九州で育ち、高校生になってから下校途中の遠賀川へ寄り道をするようになり、川に興味をもちはじめ、川に青春を捧げる。全国の河川市民団体に関する研究や川を活かしたまちづくりの調査研究活動を行なっている。筑波大学大学院システム情報工学研究科修了。白川直樹研究室『川と人』ゼミ出身。博士(工学)。2017年4月から現職。

【庄川流域の地図】
国土交通省国土数値情報「河川データ(平成20年)、流域界データ(昭和52年)、ダムデータ(平成26年)」より編集部で作図



109水系
1964年(昭和39)に制定された新河川法では、分水界や大河川の本流と支流で行政管轄を分けるのではなく、中小河川までまとめて治水と利水を統合した水系として一貫管理する方針が打ち出された。その内、「国土保全上又は国民経済上特に重要な水系で政令で指定したもの」(河川法第4条第1項)を一級水系と定め、全国で109の水系が指定されている。

川名の由来【庄川】

古名は雄神川。その後、雄神の床名より雄神庄川と称し、略されて「庄川」となる。飛騨地方では「白川」とも呼ばれる。

庄川
水系番号 : 41  
都道府県 : 富山県、岐阜県  
源流 : 烏帽子岳(1625 m)  
河口 : 富山湾  
本川流路延長 : 115 km 42位/109
支川数 : 48河川 70位/109
流域面積 : 1180 km2 58位/109
流域耕地面積率 : 2.8 % 101位/109
流域年平均降水量 : 1631 mm 69位/109
基本高水流量 : 6500 m3/ s 45位/109
河口の基本高水流量 : 7155 m3/ s 58位/109
流域内人口 : 4万6201人 88位/109
流域人口密度 : 39人/ km2 95位/109

(基本高水流量観測地点:雄神〈河口から25.4km地点〉)
河口換算の基本高水流量 = 流域面積×比流量(基本高水流量÷基準点の集水面積)
データ出典:『河川便覧 2002』(国際建設技術協会発行の日本河川図の裏面)

20代最後の川巡り

庄川(しょうがわ)は大学時代に研究室のゼミ合宿で2013年8月に訪れた川です。4日間かけて、源流から河口まで巡りました。あれからちょうど4年。同じように上流から河口まで巡ってみました。以前とどんなふうに自身の川の見方に変化があったか、20代最後の総括として……。

川の風景というと、上流、中流、下流を思い浮かべる方が多いと思いますが、そうでない川もあります。庄川は全川の3分の2くらいが山間の風景が続き、残り3分の1の部分までくると一気に開けて平野風景に一変します。日本海側にはこういう特徴の川がいくつかあります。過去に紹介した黒部川もその一つですが、黒部川には山間に人の住める余地が皆無でしたが、庄川は山間でも暮らしが見える場面があります。今回はそんな庄川を巡りました。

階段のように連なるダム群

庄川の特徴は、なんといってもダム群です。上流の御母衣(みぼろ)ダムから数え、本川に9基ものダムが存在します。車で川沿いを下ると、ダム→ダム湖→ダム→ダム湖……と連続していて、水面の高さを断面から線でつなぐと、階段のように連なっていることがわかります。庄川の急峻な地形と豊富な水が水力発電に適していたことから、電源開発が多く行なわれてきました。庄川を紹介するにあたり、ダム群なしでは語ることはできません。川だけ見ると、電源開発の川といえるでしょう。

山間の集落文化

世界文化遺産の地として知られている合掌造り集落(注1)の白川郷(しらかわごう)・五箇山(ごかやま)(注2)ですが、庄川沿いにあることはあまり知られていません。白川郷と五箇山は同質の景観を有し距離も近いのですが、白川郷は飛騨の天領(現在は岐阜県)、五箇山は加賀藩領(現在は富山県)だったため結びつきが強い地域がそれぞれ異なっています。

白川郷道先案内人の上手(かみで)重一さんは白川郷の合掌造りについてこう解説しました。

「切妻型の合掌造りは庄川沿いにしかありません。屋根の両端が本を開いて立てたように三角形になっているのが特徴で、積雪が多く雪質が重いという白川の自然条件に適したつくりになっています」

建物は南北に面して建てられています。これは風の抵抗をできるだけ小さくし、かつ民家(屋根)への日照時間を確保するための工夫です。夏は涼しく、冬は保温されるようになっています。庄川山間の気候風土に合った優れた建築様式です。

白川郷でもう一つ驚いたのが、充実した防火対策。上手さんは「火の用心たのんます。と言いながら、家々を日に3回も巡ります」とのこと。家々に防火用水設備を張り巡らせており、放水設備は59あります。11月上旬には冬場の火事予防に備えて、放水設備の一斉点検を行ない、放物線を描く水のカーテンは迫力があるそうです。

少し下って白川村を抜け、富山県に入ると五箇山地区です。

五箇山は合掌造り集落以外にも、「こきりこ唄」という民謡や「五箇山豆腐」の食文化が受け継がれてきました。五箇山は古くより浄土真宗が信仰されてきた地域で、親鸞聖人の法会に精進料理として五箇山豆腐が出されてきました。また、こきりこ唄とは日本でもっとも古い民謡で、竹を割いて束ねた民族楽器「ささら」で、囃子(はやし)に合わせて踊ります。

どうしてこの山間の集落にこのような伝統や食文化が残ったのでしょうか。

名産品の五箇山豆腐づくりとこきりこ唄の保存を行なっている岩﨑喜平さん(越中五箇山筑子唄保存会事務局長/喜平商店)は、「庄川は遡っていくと、長良川に出る。そこから川沿いを伝って、尾張まで出ていける。行き止まりでないというのが大きかったのではないか」と答えてくれました。

岩﨑さんのおっしゃるとおり、川を遡っていき、山を越えられないと人の往来は少なくなります。人が行き来することで、衰退せずに守られてきた庄川沿いの集落の豊かな文化といえるかもしれません。

(注1)合掌造り
木材を梁の上に手の平を合わせたように山形に組み合わせて建築された、勾配の急な茅葺きの屋根を特徴とする住居。
(注2)五箇山
赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の5つの区域を合わせて五箇山と呼ばれている。


  • 白川郷の合掌造りの茅葺き家屋。堂々としたたたずまいだ。

    白川郷の合掌造りの茅葺き家屋。堂々としたたたずまいだ。

  • 左は防火用の放水銃を説明する白川郷道先案内人の上手重一さん

    防火用の放水銃を説明する白川郷道先案内人の上手重一さん

  • 五箇山の合掌造り集落の景色。

    五箇山の合掌造り集落の景色

  • (左)五箇山豆腐とこきりこ唄の保存に携わる岩﨑喜平さん</p> <p>(右)名産品の五箇山豆腐。縄で縛っても崩れない、しっかりとした硬さだ

    (左)五箇山豆腐とこきりこ唄の保存に携わる岩﨑喜平さん (右)名産品の五箇山豆腐。縄で縛っても崩れない、しっかりとした硬さだ

  • 「ささら」を手に踊りを披露してくれた大瀬輝夫さん

    「ささら」を手に踊りを披露してくれた大瀬輝夫さん

  • 白川郷の合掌造りの茅葺き家屋。堂々としたたたずまいだ。
  • 左は防火用の放水銃を説明する白川郷道先案内人の上手重一さん
  • 五箇山の合掌造り集落の景色。
  • (左)五箇山豆腐とこきりこ唄の保存に携わる岩﨑喜平さん</p> <p>(右)名産品の五箇山豆腐。縄で縛っても崩れない、しっかりとした硬さだ
  • 「ささら」を手に踊りを披露してくれた大瀬輝夫さん

庄川と流木の歴史

山間を抜ける庄川の歴史は流木の歴史でもありました。江戸時代から明治時代にかけて飛騨地方の庄川流域の雑木林は木材として使われ、庄川は日本海側に運ぶための川として使われていました。

庄川美術館主任学芸員の末永忠宏さんは、「山から切り出した木材の運び方は、谷川をせき止め小さなダムをつくって木材を止めておき、堰を切って、水の勢いで一気に庄川に流します。これは『鉄砲出し』と呼ばれています」と当時の木材運輸について語ってくれました。

鉄砲出しの流れに乗って庄川本川に流れ出てからは、流送夫(りゅうそうふ)という人たちが、木材が引っかかって止まっていないか、確認しながら下流へと導く「川狩り」を行なっていました。このように、木材産業が山・川を一体として盛んな庄川沿いでしたが、突如、小牧ダムによる電源開発の話が持ち上がります。富山県の実業家の浅野総一郎によるダム開発が進行すると、木材で生計を立てていた人たちからは反対運動が沸き起こりました。これがのちにいう「庄川流木事件」です。

この事件について、庄川水資料館館長の松村樹さんは詳細を語ってくれました。「電力側は賠償金と、流木をダム湖から揚げるベルトコンベアの設置の補償を行ないました。しかし、木材側もわざとベルトコンベアの能力以上の木材を上流から流すなど、反発をやめませんでした」。この事件は小説(山田和『瀑流』(文藝春秋2002))にも登場します。庄川の河川開発の歴史を語るうえで、重要な出来事の一つです。

  • 庄川と流木の歴史を話す庄川水資料館の松村樹館長

    庄川と流木の歴史を話す庄川水資料館の松村樹館長

  • 庄川美術館主任学芸員の末永忠宏さん

    庄川美術館主任学芸員の末永忠宏さん

  • 庄川と流木の歴史を話す庄川水資料館の松村樹館長
  • 庄川美術館主任学芸員の末永忠宏さん

庄川がつくった砺波(となみ)平野

庄川は山間を抜けると一気に開けます。ちょうど夕暮れ時、展望台へ上りました。黄金色に輝く、砺波(となみ)平野の田んぼのなかにぽつりぽつりと家が見えます。これは地理学では「散村(さんそん)」と呼ばれている農村の景観形態です。家とその周りの田んぼを一つのユニットとして、一つの世帯が暮らしを営んでいます。特に家の周りを取り囲む屋敷林は「カイニョ」と呼ばれ、杉を中心とした木々が強い南西風から家を守る防風林の役割を果たしています。

「屋敷林の管理が難しい高齢世帯などの剪定(せんてい)を支援したり、新婚世帯には屋敷林の苗木を提供するなどの補助を市の施策として行なっています」と語るのは、となみ散居村ミュージアム館長の川原国昭さん。人の住みやすさに景観は大きな影響力をもっています。砺波市が市町村住みよさランキング(注3)全国2位である要因の一つに砺波平野の秩序ある景観が守られていることも関係していそうです。

(注3)住みよさランキング
東洋経済新報社が全国の都市を対象に毎年公表している。2017年のランキングで砺波市は第2位。

  • となみ散居村ミュージアム館長の川原国昭さん

    となみ散居村ミュージアム館長の川原国昭さん

  • 豊かな水を利用して古くから農業が発展した砺波平野。散居村は田畑の開拓のために生まれた。

    豊かな水を利用して古くから農業が発展した砺波平野。散居村は田畑の開拓のために生まれた

  • となみ散居村ミュージアム館長の川原国昭さん
  • 豊かな水を利用して古くから農業が発展した砺波平野。散居村は田畑の開拓のために生まれた。

急流河川の治水の術

庄川の川筋は、時代を追って変化していきます。山間部を抜けると庄川は小矢部川に向かって流れ、次第に東寄りに流れを変えていきました。何本もの川筋が洪水を起こしながら土砂を運んでできたのが砺波平野(庄川扇状地)です。江戸時代の初めまで庄川は今より西側を流れていましたが、加賀藩は築堤で流れを一本化しようとします。

以前から小矢部川と合流して富山湾に注いでいた庄川は、明治時代になって小矢部川から分離され、新しく海に注ぐ河口ができます。

川筋の変遷について、国土交通省北陸地方整備局富山河川国道事務所調査第一課長の池田大介さんに聞きました。

「庄川は砺波平野を奔放に流れる川で、洪水のたびに流れを変えていました。そんななか、加賀藩によって、渓谷から平野に開けたすぐの扇頂(せんちょう)付近に堤防がつくられました。堤防を固めるために松を植えたため『松川除(よ)け』と呼ばれ、弁財天付近の堤防では名残の松を見ることができます」

現在の堤防の上にも松の木が点々と見られ、当時庄川の西流する流れを締め切ったことをなんとなく感じとることができました。

また、庄川沿いには霞堤(かすみてい)が発達しています。本川に沿って二重三重に不連続な堤防があり、上流の堤防が決壊した場合でも、霞堤の開口部から氾濫流を受け入れ、河道に戻し氾濫被害が拡大するのを防ぐ優れた治水の術(すべ)です。かねてこのような治水術がとられてきましたが、現在も急流河川においては有効で、霞堤を庄川の平野の各所で見ることができます。

  • 坂本さんに庄川について説明する国土交通省北陸地方整備局富山河川国道事務所調査第一課長の池田大介さん(右)と専門官の奥井淳さん(中)

    坂本さんに庄川について説明する国土交通省北陸地方整備局富山河川国道事務所調査第一課長の池田大介さん(右)と専門官の奥井淳さん(中)

  • 堤防を固めるために植えられたという「松川除け」の松

    堤防を固めるために植えられたという「松川除け」の松

  • 坂本さんに庄川について説明する国土交通省北陸地方整備局富山河川国道事務所調査第一課長の池田大介さん(右)と専門官の奥井淳さん(中)
  • 堤防を固めるために植えられたという「松川除け」の松

河口は流通の交差点

かつて庄川の下流を射水川(いみずがわ)、上流を雄神川(おがみがわ)と呼んでいました。江戸時代、射水川(庄川の河口付近)の右岸側は北前船がとまる港として栄えた放生津湊(ほうじょうづみなと)がありました。砺波平野でつくった米を放生津に集め、運び出す経済圏を確立していました。

射水市新湊博物館主任学芸員の松山充宏さんは、「放生津とその西にあった六渡寺(ろくどうじ)の湊は、富山湾に沿って延びる浜往来と射水川が交差する交通の要地として、中世から発達していました」と語ってくれました。

江戸時代になると浜街道が主要な交通路として発達しているので流通は川に依存していないものの、上流から砺波の米が川ルートで運ばれてきて集積するという意味で、庄川の河口付近は富の集積地として賑わっていたことがわかります。

  • 射水市新湊博物館主任学芸員の松山充宏さん

    射水市新湊博物館主任学芸員の松山充宏さん

  • 江戸期の地図に記されている庄川の流れ。今とは異なり、小矢部川と合流して海に注ぐ。左 下にあるのはかつての放生津潟。

    江戸期の地図に記されている庄川の流れ。今とは異なり、小矢部川と合流して海に注ぐ。左 下にあるのはかつての放生津潟。

  • 射水市新湊博物館主任学芸員の松山充宏さん
  • 江戸期の地図に記されている庄川の流れ。今とは異なり、小矢部川と合流して海に注ぐ。左 下にあるのはかつての放生津潟。

川ゴミの流れ着く先

川は海に注ぐまで、流域のゴミも多く運んできます。庄川の水は用水として使われた後、地形の関係で排水路を伝って小矢部川に流れ込みます。上流から徐々に集まってきたゴミは、庄川本川、小矢部川本川から富山湾に流れ込みますが、潮流と風の影響を受けその一部が河口付近の六渡寺の海岸に溜まります。そのゴミの量は年間約100トンにも及ぶそうで、地域の大きな課題でした。六渡寺海岸の清掃活動について、六渡寺自治会会長の境信誓(のぶちか)さんに話を聞きました。

「今から10年前、一線を退いた人たちが8人くらい集まって、何か社会貢献をしたいと話し合ったのが始まりです。海岸の惨憺たる状況を見て、もう一度、泳げる海岸を取り戻そうと始めたのです」と境さん。

海岸の清掃とともに、ゴミの状況を上流の地域にも発信しました。月に1回、第3日曜日に行なう海岸清掃は、六渡寺の住民だけでなく、富山県の働きかけで、庄川、小矢部川流域の市町村から住民バスツアーが来るまでに発展してきており、年間約2600〜3000人が河口のゴミの問題に向き合っています。

下流の問題を上流の人たちに伝え、上流の人たちが下流の問題を我が事として行なうことは、流域連携の理想的な形だと思います。

  • 取材当日の六渡寺の海岸。数日前に清掃が終わったばかりなのできれいな状態という

    取材当日の六渡寺の海岸。数日前に清掃が終わったばかりなのできれいな状態という

  • ゴミの流れを説明する六渡寺自治会会長の境信誓さん

    ゴミの流れを説明する六渡寺自治会会長の境信誓さん

  • 取材当日の六渡寺の海岸。数日前に清掃が終わったばかりなのできれいな状態という
  • ゴミの流れを説明する六渡寺自治会会長の境信誓さん

二度目の庄川を巡って

庄川をしっかり回ったのは二度目ですが、一度目に比べて、川の所々の暮らしに目がいくようになった気がしました。

庄川は、険しい山に隔てられ孤立したようにも見える山間部の村々をまるで糸で縫うようにつないでいました。そして美しい砺波平野も、庄川が開いた人々の暮らしを編み込んでつくった、華やかで大きな布地のように見えました。

昔、自身の師に109水系を巡った話をしていたとき、「川を一度見て、見た気になってはいけないよ。何度も訪れることで理解が深まる」と言われたことがありました。今回は前よりも深まったとは思いますが、30代でももう一度庄川を巡るとどんなふうに見えてくるのか、再々訪が楽しみです。

  • 水面がきらめく庄川。鮎を狙う太公望の姿も

    水面がきらめく庄川。鮎を狙う太公望の姿も

  • 人の手によって開削された庄川の河口

    人の手によって開削された庄川の河口

  • 二度目の庄川巡りを終えた坂本さん。奥に見えるのは庄川河口と隣り合わせの小矢部川河口

    二度目の庄川巡りを終えた坂本さん。奥に見えるのは庄川河口と隣り合わせの小矢部川河口

  • 水面がきらめく庄川。鮎を狙う太公望の姿も
  • 人の手によって開削された庄川の河口
  • 二度目の庄川巡りを終えた坂本さん。奥に見えるのは庄川河口と隣り合わせの小矢部川河口


(2017年8月30日〜9月1日取材)

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