機関誌『水の文化』15号
里川の構想

現代都市の「里という居住地」とは
みんなが共有感を持つまちを持続させる
谷根千の人づきあい

東京・上野の北に広がる「谷中(やなか)・根津(ねづ)・千駄木(せんだぎ)」地域、通称「谷根千(やねせん)」は、かつて流れていた藍染(あいぞめ)川の周りに広がった都市の記憶が残る場所です。この地で、地域雑誌『谷根千』を20年余りにわたり発行し続けている森まゆみさんと、東京の探検と解読を続けてきた陣内秀信さんにお話をうかがいました。
「都市再生」という言葉をよく目にしますが、『谷根千』という地域雑誌が20年もの長きにわたって続いてきた背景に、居住地の歴史や川とのかかわり、「都市の暮らしを守り、持続させる働き」を見出すことができます。

森 まゆみさん

作家 地域雑誌『谷中・根津・千駄木』編集人
森 まゆみ (もり まゆみ)さん

東京都文京区生まれ。早稲田大学卒業。1984年に地域雑誌『谷中・根津・千駄木』(愛称 谷根千)を創刊。雑誌を続けながら、作家活動とまちづくりを展開。 主な著書に『即興詩人のイタリア』(講談社 2003)、『森の人四手井綱英の九十年』(晶文社 2001)、『取り戻そう東京の水と池』(岩波書店 1990)、『谷根千の冒険』(現在ちくま書房 2002)ほか。



陣内 秀信さん

法政大学教授
陣内 秀信 (じんない ひでのぶ)さん

1947年福岡県生まれ。1980年東京大学大学院工学系研究科博士課程単位取得退学。 主な著書に『水辺から都市を読む』(法政大学出版局 2002)、『イスラム世界の都市空間』(共著/前同 2002)、『シチリア 南の再発見』(淡交社 2002)、『東京の空間人類学』(筑摩書房 1985)ほか。

『谷根千』創刊のころ

―― 森さんたちが地域雑誌『谷根千』を創刊されたのが1984年(昭和59)。日本がバブルに入るちょっと前のことですね。

【森】始めたころ、「今までこの地域は話題がなくて困っていたけれど、良いものが出た」と、新聞記者がよく取り上げてくれたんですよ。都内版に大きく「主婦たちが地域雑誌を発刊」と出してくれたこともあります。

【陣内】江戸東京ブームが85〜86年からですね。その前に『谷根千』が創刊され、ブームに弾みがついたんですよ。
 本当に冒険的なことだったですね。というのは、地域の雑誌というのは、それまでも銀座や日本橋、深川、上野などにありました。けれど、それは商店街で発行していて、スポンサーと結びついた形でお店や町の紹介をしているものでした。経済的にきちんとした後ろ盾があって成り立っているタウン誌です。でも、森さんたちは地域を丸ごと理解していたし、志したものが全然違う。そういう意味では初めての試みですよね。

【森】今思うと、「よくこんなことやったな」と思います。お金もないのに。今でいう、起業家みたいなものでしょうからね。

【陣内】どこからそんなにエネルギーが出たのかなぁ。

【森】ほかにできることがなかったから。子供が生まれて、子育てのために地域に帰ってきたわけでしょう。地域で子育てしながらできることをみんなで考えて、出てきたものがこれだったんです。

【陣内】確かに、小さなお子さんを抱えていらっしゃった。自転車に乗せて、よく取材に回っていましたね。

【森】最初は3人のメンバーに4人の子供がいた。それが今、10人にまで増えました。お互いに面倒を見合ったり、研究仲間の学生さんにも、子育てまでお世話になりました。
 飲み屋さんに雑誌を置いてもらうお願いをしたら「あんたら、仲居に来てくれるんなら置いてもいいよ」って言われたこともあるんです。しょうがないからね、資金稼ぎも兼ねて交代で、週2日ずつ、飲み屋にアルバイトに行きましたよ。でも今考えてみると、よく旦那たちが許してくれたよねぇ。地域雑誌発行するために、妻は週2回飲み屋で働いていたなんて。赤ん坊も、うじゃうじゃいるのに。

【陣内】でも、森さんたちが耕してくれた、本当に貴重な地域の情報や記憶がどんどん出版されていくのを見てね、あれだけ日本は情報化社会といわれていたのに、今まで自分たちが見ていた情報というのは何だったのだろうと思った。確かに、区史のようなオーソドックスな歴史の編纂はあったけれど、あまり生き生きした感じではなかったから。ああいうものは、地元の人に取材したりヒヤリングしたりしたわけではないでしょうし。そういうみんなの財産として眠っていた地域の情報を、情報化時代といいながら、それまで誰も扱っていなかったことが、森さんたちのお蔭でわかったんです。

【森】郷土史家の方たちも、いつも大変ですよ。自費で史料を買って研究しても発表の場もなくて。取材に行くと、ガリ版刷りのものを見せられたりしました。でも行政はいばっていてね、「そんな素人のやるものは」と言われて、本当に苦労されていました。根津、根岸(ねぎし)、日暮里(にっぽり)にも郷土史研究会があり、最初はそういうところで話をうかがってね。

谷中・根津・千駄木の魅力

【陣内】谷根千という地域は、多様な地域性が重なっていて、面白い。みんな、この辺りを簡単に「下町」と括ってしまうけれど、歩いてみればわかるように坂を上がった所にも広がっていて、下町ではない。谷根千には本当にいろいろなものが集まっていて、東京の縮図のような面があると思います。

【森】不思議な所ですね。本郷台地の上に並ぶ武家屋敷と寛永寺から続く寺が、この地域を性格づけたのだと思います。それで谷底には根津の町人地、遊廓もあった。

【陣内】この辺は、山の手の北のほうにあたります。同じ山の手でも、南の港区の辺りとは違いますよね。歴史が沈潜していたり、文学的であったり、大学があったり。

【森】それが大きいですね。近代になると上野に美術館、博物館ができ、東京美術学校や音楽学校(今の東京芸大)ができる。本郷のほうには東京大学がまとまってできた。両方に囲まれて、この辺りの近代の性格が決まるんです。

【陣内】谷中辺りで地域活動している人たちには、芸大出身の建築の若い人が多い。それに外国の人が地域の魅力に惹かれて来たり、住み着いたりします。

【森】明治のころは大学の先生も多かったようですね。ただ、だんだん東京が拡散して、今は大学の先生は中央線の沿線とかに・・・。

【陣内】追い出されてしまいましたね。

【森】私は大学生のときに朝倉彫塑(ちょうそ)館の館員になり谷中という町に本当に出会ったのですが、当時はまだまだ古い屋敷が残っていました。私が大学生のころと、『谷根千』を始めた29歳の間の10年間を比べても、相当変わってしまいました。100棟壊される中で、1、2棟どうにか残っているという印象です。バブルの時代に入ると、表通りにビルがどんどん建ち始めました。この辺りは井戸も多いのですが、路地の調査をしたときに、湧水で金魚を飼っているおじいさんに出会って、ほっとした覚えがあります。いずれ自分たちも住めなくなるのではと思っていたのに、まだまだコンクリートやアスファルトを一皮むけば、自然が息づいている町なんだなあ、と。それがうれしかったのを覚えています。

―― 陣内さんは、84年当時、既に谷根千には注目されていましたか?

【陣内】私にとって、東京の中で興味を惹かれる場所がいくつかありますが、その内の一つです。谷中や、根津神社は大好きな場所でしたし、実は今日、谷根千工房のすぐ近くにある須藤公園とも、久しぶりに再会しました。最初に来たのは、80年代の初め。公園で子供たちが遊んでいるのを見て、良い場所だなあと思いました。この辺りの高台は近代になって碁盤目状に開発されたのですが、元は大名屋敷だったんですよ。

【森】そうです。松平飛騨守の屋敷ですね。

【陣内】当時は、現在の2500分の1の地図に、江戸時代の切絵図情報を書き込んで、路上を探検しました。あれはね、自分たちで重なるかどうか確かめながら歩くと、肉体化されて面白いですよ。感激も大きい。それをつくって、片っ端から歩き回っていたんです。

【森】根岸のことを調査された結果が、『東京の町を読む−下谷・根岸の歴史的生活環境』(共著/相模書房 1981)という本になっていましたよね。私は「自分の家の近くのことが書いてある。じゃあ、この方のところに相談に行っちゃおう」と、仲間と二人、ぶっつけ本番で陣内さんにお会いして、アドバイスをいただきました。

【陣内】私はもともと下谷(したや)根岸を調べていたんです。あそこは関東大震災の影響も戦災も受けていないから建物が全部残っているし、下町でわかりやすい。ただ、東京に受け継がれている魅力というのはそれだけではない。もっと普遍的に描ける場所がないかと思い、麻布(あざぶ)や三田(みた)から根津、千駄木辺りまでの山の手を歩き始めたんです。
 歩いてみるとわかるのですが、東京には本当に「ひだ」があるんです。山や丘があり、下って行って低地があり川があって、また登って行くとちょっと高い所に神社がある。里川でまとまった地域ができていて、そのような生活圏がたくさんある。それがいっぱい集まって、巨大東京ができ上がっているのです。
 昔、よく外国人が「東京は村の集合体だ」と言っていましたが、それは当たっていると思います。でも、多くの人は巨大都市東京を、のっぺりと一つの塊ととらえてしまっている。歩いてみないと、そういうことはわからないんです。特に顕著にわかるのがこの辺りです。

―― 住み手としての森さんは、それを聞いてどう思いますか。

【森】『谷根千』を始める前の私は、ここが魅力ある場所とは思っていませんでした。よその地域がどんどん近代化しビル化していくのに、うちの地域はいつまでも汚くて、すすけていて、古くさい。近代化していないと思っていた。けれど結婚して子供が生まれ、子供と一緒に町をゆっくり歩くようになって、町もゆっくりと見ることができた。ゆっくり見るとね、「こんな所にお稲荷さんがある」とか、「天水桶(てんすいおけ)がある」、「木の電柱がある」、そういうことに気づくわけ。そのうちに、「この町は戦災で焼けていなかった」ということに気がついたんですよ。
 最近の若い子は、こういう古い町を新鮮と感じるようです。自分たちが知らないからでしょうか。郊外住宅とか、共同アパートとかマンションというものが前提で、わりと白くてピカピカした家に住んできたから新鮮に映るのでしょう。こういう町の古い家の陰影とか、階段や長押(なげし)、欄間(らんま)を見て感激している子が多いですね。

道という流れも使い方次第。その空間に魅力を持たせて賑わう谷中銀座。

道という流れも使い方次第。その空間に魅力を持たせて賑わう谷中銀座。

根津には藍染川が流れていた

―― 『谷根千』3号で早くも藍染川を特集されていますね。

【森】『谷根千』を始めたときに、陣内さんにご相談すると「単に建築史だけではなく、生活史、つまり、着るものや食べるものとかもやったら」と、良いアドバイスをいただいた。そこで、そういうことを地元の方にいろいろ聞き始めると、藍染川という名前を皆さんがよくおっしゃるんです。関東大震災後に暗渠(あんきょ)になりましたけれど、昔はあった川のことを、本当に皆さん懐かしく話される。郷土史研究会のお年寄りの話の中でも、必ず藍染川の話が出てきました。それを聞いて「川は町を貫くものなんだな」と思いました。誰にとっても、何か思い出がある。川沿いにリボン工場があって、川の色が黄色に染まったり赤に染まったりすることで、そのときにつくっているリボンの色がわかるとか。赤ちゃんが死んで流されてきた、という話が出ると、「あ、それ覚えている、あれはかわいそうだったよね」とおばあさん同士で話が弾んだりする。そこでトンボを捕ったとか、ツバメを追いかけたとか、川にまつわるいろんな話が出てきます。「震災のときに川を渡って逃げた記憶があるから、あのときまではあった」とかね。そういう個々の人の心の中にある藍染川を調べようと思ったのです。
 でも当時は、やり方がまったくわからないでしょう。だから、『谷根千』仲間の山崎と二人で、藍染川沿いの家を一軒一軒訪ねて、「藍染川が流れていたときのことを知りませんか」と聞いて歩いたの。そういう幼児の砂いじりのようなやり方で調べていました。今、あんな悠長なことはとてもできません。

―― でもそのお蔭で、細大漏らさず聞き取りができた。

【森】そういうことです。暇だったんです。まだ部数も少ないし、他に仕事もないし。だから「今日はここからここまで聞いて歩こう」と地道にやっていたんです。

―― そのとき、森さんは藍染川の名をご存じでしたか。

【森】いいえ、知りませんでした。ただ、よく話に出てくるので、何かなと思っていました。上流に行くと谷田(やた)川というし、下流に行くと忍(しのぶ)川と呼ばれる。他にも「しじみ川」、「境(さかい)川」と、いろいろな名前があるとおっしゃっていましたね。この川は、上野の山と本郷の山の両方から絞り込まれた地下水が集って低地へと流れている。石神井(しゃくじい)川の本流だという説もあります。
 この写真(写真左上)がかつての藍染川です。「田端の大根」というのが有名で、昔はこのような農家があったところ。1902〜1903年(明治35〜36)ころの田んぼで、橋の手前に野菜の洗い場が見えます。もっと下流の根津の辺りは、町家が建て込んだ商業地となっていった。

【陣内】これは1915年(大正4)に出水した時の写真ですね(写真右上)。

【森】ええ。土地の高低差があるので、上に住んでいる人と下に住んでいる人がいつも張り合っているんです。上に住んでいるのはホワイトカラーの人が多くて、下には町工場があったり職人さんが住んでいる。でもけっして差別とかコンプレックスとかではない、一種の意地とか対抗心だったりするところが面白い。例えば、雨が降ると昔はよく不忍通りに水があふれた。藍染川幹線が詰まるからで、ごく最近までの話です。すると下の人にお見舞い金が出たりする。上に住む人は面白くないから、「あんなもの出す必要はない」と言うし、下の人は「おまえの所の庭木の葉っぱが詰まってあふれたんだ」などと言うんです。

―― 聞き取りと一緒に、写真などの史料もたくさん集まったようですね。

【森】この写真(写真左下)は不忍の池。日清戦争の時の清の軍艦「鎮遠(ちんえん)」の錨(いかり)と巨弾10個が置いてある。こんな写真を見つけると、びっくりします。話には聞いていたけれど、実物はこれだったとは。明治時代のアマチュア写真なのです。お宅に古い写真はありませんか、と言って集めると、こんな意外な宝物が出てきたりします。
 私の一番好きな写真は、戦時中の食糧難の時代に、庭がないので家に蔓(つる)を這わせてかぼちゃを育てている写真です(写真右下)。
 面白いでしょ。今で言ったら、壁面緑化。

【陣内】確か永井荷風の『日和下駄(ひよりげた)』の中で、「芝の櫻川、根津の藍染川、麻布の古川、下谷の忍川の如き其の名のみ美しき溝渠、もしくは下水」とありましたね。

【森】藍染川という名の川は他に神田など3流あったようですね。荷風は東京、ことに下町をよく歩いています。

【森】この辺りには藍染川だけではなく、川に注ぐドブが何本もありました。高台にも地下水が豊富に出るため、井戸がたくさんあります。団子坂や弥生坂でも、道の脇を水が流れていたらしいですね。何本もの溝が交差して橋がかかり、その溝に「大どぶ」とか「5人堀」とか名前がついていた。本当に水の豊かな地域だったんです。

【陣内】こんなに水路がいっぱいある町は、珍しいと思いますよ。

【森】現在は蓋をしたため川が見えなくなっていますが、最終的には不忍池まで流れて、そこでようやく水が見えます。蓋をしたのは震災後です。よくあふれたので、この辺の有力者が集まり役所にかけあいに行ったということです。

【陣内】染物屋の丁子(ちょうじ)屋さん。今でも明治の建物が残っているんですね。

【森】染物屋は、川を利用していた仕事ですからね。紅絹(もみ)工場や、リボン工場の三角屋根の工場の建物が今も残っています。
 1888年(明治21)6月までは根津遊郭があり、そこにも川が流れていて、逢初(あいぞめ)橋という名の橋がかかっていました。明治のジャーナリストであった福地桜痴が名づけたのです。悪所に橋を渡って入る、というのは川を越えて異界に入る、という境界の感覚があった。
 今でも区の境界は、不忍通りではなく、これに平行した元の藍染川筋です。埋め立てた跡が商店街になっていて、そちらが区の境です。不忍通りは田んぼを埋め立てて、あとでつくった道にすぎませんから。元の藍染川を遡っていくと田端銀座を経て駒込銀座になり、商店街がつながっています。

※注 日和下駄
大正4年、荷風が36歳のときに刊行された東京散策記。この中で「東京の水を論ずるに当たってまず此を区別して見るに、第一は品川の海湾、第二は隅田川中川六郷川の如き天然の河流、第三は小石川の江戸川、神田の神田川、王子の音無川の如き細流、第四は本所深川日本橋京橋 下谷浅草等市中繁華の町に通ずる純然たる運河、第五は芝の櫻川、根津の藍染川、麻布の古川、下谷の忍川の如き其の名のみ美しき溝渠、もしくは下水、第六は江戸城を取巻く幾重の濠、第七は不忍池、角筈十二社(つのはずじゅうにそう)の如き池である。井戸は江戸時代にあっては三宅坂側の桜ヶ井、清水谷の柳の井、湯島の天神の御福の井の如き、古来江戸名所の中に数えられたものが多かったが、東京になってから全く世人に忘れられ所在の地さえ大抵は不明となった」とある。

  • 写真はすべて谷根千工房『谷根千同窓会』1991より

  • 写真はすべて谷根千工房『谷根千同窓会』1991より

  • かつての藍染川、よみせ通りに立つ三角屋根の建物。現在は製版会社が使っている。

    かつての藍染川、よみせ通りに立つ三角屋根の建物。現在は製版会社が使っている。

  • かつての藍染川、よみせ通りに立つ三角屋根の建物。現在は製版会社が使っている。

まちづくりはコモンズを守ることか

―― 最近、バブル崩壊で地価が下がった影響もあり、都心回帰の風潮があります。再び開発の危機にさらされる恐れに対して、守らねばならないという思いはありますか。

【森】もう20年近く、いろいろな保存運動をしていますから、私たちにとっては、誰が何をできるかはわかっているし、そのような人間関係もできているつもりです。すぐ「何々の会」をつくっちゃうし、実際にできてしまう。このような動きを行政も無視できなくなってきているためか、何か行動を起こすときには向こうのほうから相談してきます。昔なら、「根津なんてスラム・クリアランスして開発しよう」などと言いかねなかったのですから、地域活動をやってきた甲斐があるというものです。
 例えば、昔は谷中墓地ではどんどん木を伐った。谷中墓地は私たちにとって地域の緑地であって、憩いの場であったり散歩したりする大事な所なのに、公園事務所にとって利用者はお墓を持っている人だけなんです。ですから、お墓を持っている人から「木を伐ってくれ」と言われると、いとも簡単に伐っちゃうの。こういう木は「支障木(ししょうぼく)」と呼ばれるんですよ。失礼な話ですね。木のほうが昔からあるのに、その脇にお墓を建てておいて、だんだん木の根が伸びてきてお墓が傾いたり、木陰で暗くてお墓に日が当たらない、痴漢が出る、などという理由で邪魔者扱いするなんて。最近は相談を受けるようになったので、ここをフィールドにしている自然観察会の人たちなどと、現場に見に行って相談したりします。
 最近では、日暮里富士見坂を守る活動もしました。本郷に建つマンションが、日暮里の富士見坂から見た富士山の眺望を遮ってしまう。これを守ろうというものです。実際は建築基準法だけでは、拘束力がなかったので守れなかったのですが。

【陣内】景観条例の中に、そういう軸になるような文言があればよかったのだけれど。

【森】建築基準法だけでは、どうしても防げないのです。遠くの山並みや、富士山を見る権利とか、これからはある程度考えていかないとならないのではないでしょうか。例えば岡山の倉敷市では、山が見えなくなるマンション建設をやめさせるために、市が土地を買い取ったりしています。アンコールワットではその周りに変なものが建たないようにバッファゾーン(緩衝帯)を設けている。そういうことも考えないと。
 このマンションは、日暮里富士見坂から2km離れた本郷通りにあるために、富士山を遮るというようなことは建て主も知らなかった。それを私たちは、何階下げてほしい、下げた場合の損失を計算してほしいと言ったわけですからね。でも、それによってあの周辺の人たちは「自分の所にこういう計画があるけれど、富士山は大丈夫ですか」と気にするようになりましたね。

―― 2km離れた情報が、どのように地域の人に伝わるのですか。

【森】伝わらないですよ。それが問題です。しかも日暮里は荒川区で、途中は台東区、マンションが建つ本郷は文京区です。文京区が確認申請を出した後にわかりました。3区で富士見坂を守る会ができましたし、町会長や区の職員も入っています。これからは情報も通い合うようになったし、各区の景観条例なども罰則規定や強制的な力はありませんが、眺望という言葉を入れてもらうようになりました。眺めというのはみんなの財産だということを定着させないとね。

―― そういう意味では、このような人のネットワーク活動は大事ですね。

【森】そうですね。行政区画にとらわれていては、動けませんからね。それから、「保存運動をどうしたらいいか」とか、「井戸を大事にして地下水を大事にするまちづくりをしたい」とか、そういう人たちがいろいろいらっしゃいます。「雑誌をつくりたい」という方たちも来る。谷根千工房が相談センターのようになっています。現在は、相談と情報センターという不採算部門が大きくなっているんですよ。

【陣内】普通は、古い建物に興味を持つ人、自然系の人などのように専門が分かれるんですけれど、森さんのところは、オールラウンド。だから頼りになる。専門化した人は、専門外のことはまったくわからないから。行政も、そういう全体の有り様が大事ということを、少しずつ理解してきたのでしょう。

【森】あまりにもたくさんの活動にかかわり、自分でも全体として何をしているのかわからなくなるときもありますが、私の中ではメリハリをつけて活動するようにしています。美術史などの研究会、映画を見る会、教育問題の会や、不登校の子が来ていることも。そういう活動の会合では、ここのスペースが使われています。酸性雨調査研究会、文京建物応援団とか、いくつもの会の会合でこの場所を使っています。

―― ここが共有スペースなんですね。

【森】そうです。町のコモンズというのか。谷根千工房に来る途中に飲み屋が何軒かあり、それを門前飲み屋と称して、会合が終わるといつもそこに流れていく。そこへ行くといつも愛想良くしてもらえます。

町のコモンズとして機能している谷根千工房のサロン。「ここには買ったものなど、ほとんどないの」と森さん。必要なものは、壁の貼紙に書き込んでおけばよいそうだ。

町のコモンズとして機能している谷根千工房のサロン。「ここには買ったものなど、ほとんどないの」と森さん。必要なものは、壁の貼紙に書き込んでおけばよいそうだ。

サラっとした人間関係が持続する

―― 『谷根千』が、これまで続いた秘訣は何でしょうか。

【森】何でしょう、みんなが支援してくれるからでしょうか。地域の人のレベルが高いですよ。
 陣内さんが以前、「森さんたちもすごいけど、こういうものを1万人も読む人がいる地域もすごいね」とおっしゃった。受け止めてくれる人のレベルが高いということは、事実でしょう。問題意識もあって、難しい話も嫌がらずに読んでいただけます。
 地元の店にはほとんど置いていただいているのですが、全部置いてもらうと自分たちが休まらないの。自分がよく行く店には、置かないようにしてる。こちらは業者ですから、どこ行っても、「いつもいつも置いていただいてありがとうございます」と言っていると疲れちゃって。ですから、編集者の方によく根津で飲みましょう、と誘われますが、私は「勘弁してよ、町では顔が割れているから。局地的に有名なんだから、別な所に連れてって」と断るときもあります。
『谷根千』を始めた動機は、そんな大それたものではない。ただ、どんどん古いものが壊されていくし、古いことがちっとも記録されていないということに、忸怩(じくじ)たる思いがあった。同時に、自分たちは子供を持ったために地域に縛りつけられている。しょうがないから、子供を育てながら地域でできる仕事をつくっていくしかないな、と思って始めたのです。
 それに夫の収入から趣味で雑誌をつくって、タダで配るほど優雅ではなかったし。何とか仕事として成り立たせたかった。配達とか集金とかお金の計算とか、そういうことがあったからこそ、地域の中に根差すことができたのだと思います。逆に言うと、配達があるから300ものお店と知り合いになれたわけですし、そういうことが一番大事です。

【陣内】森さんたちの活動に憧れて、「自分たちも」という人たちがたくさん出ましたよね。場所に力があるからみんな惹かれてやってきて、人間的な出会いが生まれました。伝統的なコミュニティだけで終わらなかった。谷中の面白いところは、お寺があって、職人さんがいて、その後に芸大ができ、アーティストが来る。人の構造が、そのように二重にも三重にもあるのは、すごく魅力的なことでしょう。それと、60歳でも若者扱いで、お年寄りの層が厚い。

【森】町会でいうと、60歳は青年部ですよ。白髪でも。

【陣内】年寄りがいばっていて、若い人も興味を持って集まり、住み込んでいる。そのような融合しているコミュニティで、小ぎれいなコミュニティではないですね。いろんな種類のネットワークを、森さんが全部つないでいったんですよ。
 既存の面白いグループや組織はいっぱいあったけれど、それはそれぞれ分かれて活動していた。あるいは狭い地域とか限られたジャンルで活動していた。その人たちは森さんの活動をとおして、見えてくるようになったのではないでしょうか。いろんなネットワークがさらに大きなネットワークになって、地域に網の目が急に広がっていった。そういう成功例は、あまり聞いたことがありません。

【森】すれていない人が多いんです。ゆったりとした人間関係も相変わらずですし。みんな優しいですよ。ゆとりがあるんでしょうね。寺町だし、家作(かさく)を持っている人も多い。あるいは寺の店子(たなこ)で、あまりうるさく言われずに借家住まいを続ける人もいる。
 この辺りの人は、子供が来ると「何かあげなきゃいけない」と思っていますしね。私もちょっと訪ねると、「漬けもの食べてけ」「梅酒飲んでけ」とか。なんか、もらう話ばかりですね。もらいものが多いですよ、この事務所の中にあるのも全部もらいもの。「今欲しいもの」なんて紙に書いて貼ってある。うちだけじゃなくて、ここに出入りする人みんなで、ぐるぐるたらい回すんです。

―― 仮に「谷根千」という言葉を知らずに今のお話だけをうかがうと、「それどこの田舎ですか?」と聞いてしまいますね。

【森】そうですねぇ。でも、今、個人の輪郭ははっきりしないし、家族の絆がばらばらで地域社会もないとしたら、ものすごく不安定な社会でしょう。ですから、ここではある程度死守したいと思っているの。マンションに住んでいる人も、なぜかここに住むと馴染みますし。お寺も琴や三味線の教室があれば、丹田(たんでん)呼吸法などもあり、写経もやっている。そういうのをうまく使いこなして、住む人との距離を近くしているんです。お祭りに行ったり、縁日に行ったり、求める人にはいろんなものがある場所、それが谷根千です。

―― そういう話を聞くと、一見、田舎の人間関係が残っているような錯覚を覚えますね。

【森】本当は、そういうことがうっとおしくて東京に出てきたはずなのに。都市の空気は自由にするってね。程良さが大事と思っています。集まって騒ぐ権利があれば、行かないで放っておかれる権利もある。だから、そこらへんはサラっと風通しをよくしておきたい、という気持ちでいます。

【陣内】例えば僕は杉並に住んでいますが、町会のお手伝いをしたりする中から、ある発見をしました。これは僕が住む地域だけではなく、ほとんどの所でも言えることと思うのですが、コミュニティに4種類あります。一つは商店街。そこは商業地が中心で、政治の世界ともつながっている。町会長が区議に立候補したりするのです。もう一つは氏子圏の神社。これは住宅地まで根を伸ばしています。それから、子育てとか学校とかのコミュニティ。それと目的別のコミュニティで、ジャズフェスティバルみたいな催しを通してつながる集団です。
 実はこれらのものをうまく重ね合わせて育てれば、多様なことができるのではないかと思ったのです。ベタベタといつもくっつき合っているだけが、能じゃない。谷根千の面白さは、いろいろな人がかかわっていても、サラっとしているところにあると思います。
 欧米から来た人もアジアの人も、国内のまちづくりの人も、ここに案内すると感激するんです。暮らしの中に自然と歴史が入っているというのが、独特な意味を持つのでしょう。
 欧米の人は東京というと、大きなビルのイメージを持っているので、ここに来るとそのイメージが覆されて驚くようです。しかも、人の顔が見えているから、ほっとしてくつろいで帰ります。プライベートとパブリックの空間が混じっていることも、彼らにすれば、有り得ない空間として新鮮に感じられるのです。
 アジアの人は、「ここは実にうまく建て替わっている」と言います。古いものを残すだけではなく、変わり方が良いのです。中国から来た建築の先生が感心していましたが、路地が残り、空間の関係性が良いと言います。そういう意味で、これから変わっていかざるを得ない都市にとって、一つのモデルになるはずです。
 それと、全国のまちづくり関係者から見ると、町並みの残り具合の程が良い。町並みを残しても生活空間が商売する空間になって、テーマパークみたいに変貌したケースも多いでしょう。ところが、ここは逆。声を大にして言うほどには残っていないけれど、程良く残っています。
 だから、この谷根千の価値は世界的な視点で評価できるはずだけど、それを言葉で表そうとすると、結構難しいですよ。森さん、これからは、ぜひ外国にもアピールしてください。

【森】やっと子育てが一段落して、20年ぶりにパスポートを取って出かけてます。

『谷根千』を20年やってきて思うのは、仲間をしみじみと同志だということ。お互い動いて、子供を産んで、ということを見てきているしね。時間をともにすごしてきた「しみじみ感」がある。最初のころは私たちもおねえちゃんで、町のおじいちゃんたちに人気もあった。でも、最近は日本女子大のゼミの若い子たちに、みんなの目がいっている。やっぱりエロスというのは大事だと、実感しちゃう。聞き書きも、私はおじいさんは得意だけど、おばあさんは怖い。私が行ってだめでも、若い男の子を差し向けるとちゃんと聞いてきたり。

【陣内】そういう意味で「元気にする」というのは大事なこと。僕もイタリアで調査しているときは、おばあちゃんたちにもてた。

【森】でしょう。私だって、若いお兄ちゃんが一緒に活動してくれると元気が出ます。



PDF版ダウンロード



この記事のキーワード

    機関誌 『水の文化』 15号,森 まゆみ,陣内 秀信,東京都,谷根千,水と社会,都市,コモンズ,谷根千,バブル,人間関係,会話,まちづくり,活性化,都市再生

関連する記事はこちら

ページトップへ