機関誌『水の文化』59号
釣りの美学

ひとしずく
ひとしずく(巻頭エッセイ)

水惑星との交信

ひとしずく

作家 東京経済大学教授
大岡 玲(おおおか あきら)

1958年(昭和33)東京都生まれ。東京外国語大学外国学部イタリア語学科卒業。同大学大学院外国語研究科修了。1987年『緑なす眠りの丘を』で作家デビュー。1989年『黄昏のストーム・シーディング』で三島由紀夫賞を受賞。1990年『表層生活』で第102回芥川賞を受賞。2006年から東京経済大学教授。2012年に開高健、井伏鱒二、坂口安吾、山本周五郎など日本の文豪14人が描いた釣りと旅の作品の舞台を、自ら釣竿片手に巡り歩いた『文豪たちの釣旅』(フライの雑誌社)を上梓。

いきなりネガティヴなことを書くようだが、釣りという遊びには、「うしろめたさ」がつきまとう。少なくとも、私の場合はそうだ。どこがうしろめたいのかというと、まず釣りが生きものを相手にする遊びだ、という点。漁を生業にしているのならいざしらず、一時の快楽のために魚をだまして捕まえてしまおうというのだから、真面目に必死に水中で生きている相手にしてみれば迷惑千万な話ではないか。

しかも、カジキやマグロといった巨大魚をのぞけば、たいていの魚はヒト族より非力なので、一度鉤(はり)にかかってしまえば勝負は見えている。まさに「いじめ」そのものである。いや、いじめは魚に対するものだけではない。生き餌を使う方式では、魚が好むゴカイやミミズといった生き物を鉤に刺し、もがき苦しむのも顧みず、錘(おもり)とともに水中へどぶん。残酷ここに極まれり。

作り物の仕掛けで釣って放すなら、その罪も多少やわらぐ(?)という気やすめを持ちだす手もあるかもしれない。が、鳥の羽や合成繊維などで作った「虫」=毛鉤で魚をだまし、さんざんひっぱりまわして疲れさせたうえに、自然に優しいキャッチ&リリース、「もっと大きく育ったら、また会おうね」なんてつぶやいて元の水の中に帰す。いやもう、どこが「優しい」のかさっぱりわからない。

そんなにいけない趣味だというなら、さっさとゴルフにでもくら替えすればいいではないか。そんなお声がかかるのは必定である。だが、しかし、ううむ、やっぱりどうしてもやめたくないのである。なぜなら、魚がかかった瞬間の、あのまばゆく輝く恍惚、いや時に恍惚という言葉をはるかに凌駕するほど真っ白に「空白」になる、あの感覚を知ってしまっている今、それなしで暮らしていくのはきわめてむずかしいからなのだ。それは、いささかおおげさだが、「地球に触れる」、というような感じなのである。

さほど器用でもない指先を使い、なんとか羽アリのような形に仕上げた毛鉤に、水面を割って巨大な鱒が食らいつく瞬間、いつもの時空とは異なる場所への回路が開く。糸の彼方であばれる生きものの震え、波打つ水の重さを介して、私と美しき水の惑星・地球が瞬時つながる。この惑星の脈打つ体液の中で生きる魚の命を通じて、私もまた地球と交信することが可能になるのだ。その時、自然と私とをへだてる膜が消え去り、自分の体内の細胞の衰える流れがふっと止まって、腐食しないすべすべの物質に刷新されたような気分になる。

だが、それは一瞬のまぼろしに過ぎない。水際で喘ぐ鱒の口から鉤をはずし、そっと流れに戻す。いくぶん力を取り戻した魚影が、水の深みに姿を消した途端、地球からの通信は途絶える。そして、またうっすら濁ったおなじみの時空が戻ってくるのである。

きっと、釣り以外の趣味でも、たとえば山登りなどをする人には、きっと似たような「つながる」感覚があるのではないかと思う。電流がながれ、ほんのまばたきするほどの間、地球と合体できる。よるべなく覚束なく生きている感覚から、ほんの少し離脱することができる。私が釣りという暴虐を愛するのは、そういう幸福感を手にできるからなのだ。そして、その幸福感が一瞬であるからこそ、またいっそういとおしく感じるのである。

毛鉤に食いつき、あばれるイワナ。

毛鉤に食いつき、あばれるイワナ。欺かれたことに気づき、危機を脱しようともがく命の手ごたえが釣り人たちを魅了する



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