機関誌『水の文化』31号
脱 水(みず)まわり

ダイニングキッチンの誕生
女性建築家第一号 浜口ミホの描いたもの

今では当たり前になったダイニングキッチン。そのモデルは「公団2DK」であるというのが、定説でした。しかし、北川圭子さんは女性建築家第一号の浜口ミホを調べるうちにそうではないルートがあったことを発見します。 戦後の日本住宅を一変させた発明品である、ダイニングキッチン誕生の物語をうかがいました。

北川 圭子さん

郡山女子大学家政学部人間生活学科教授
北川 圭子 (きたがわ けいこ)さん

1976年北海道工業大学工学部建築科卒業、2005年同学大学院博士後期課程修了。工学博士、一級建築士、インテリアプランナー。
主な著書に『ガウディの生涯―バルセロナに響く音』(朝日新聞出版 1993)『ガウディの奇跡―評伝・建築家の愛と苦悩 』(アードダイジェスト 2002)『ダイニング・キッチンはこうして誕生した―女性建築家第一号浜口ミホが目指したもの』(技報堂出版 2002)

ダイニングキッチンの生みの親

そもそも、なぜキッチンを研究するようになったのかと言いますと、女性建築家の第一号はどなただったんだろう、という疑問から、浜口ミホさん(注1)に行き着いたことにあります。女性建築家第一号にはいろいろな説があってハッキリ一人に絞れない状況でした。恩師である遠藤明久先生が「浜口ミホさんでしょう」とおっしゃって、心が決まりました。

ですからダイニングキッチンに興味があったのではなく、そもそも浜口ミホさんに興味があって始めたことなのです。

台所の位置は北側で、寒くて暗くて、男子厨房に入るべからずということからもわかりますように、男尊女卑の象徴的な存在であったと思われます。

戦後、ダイニングキッチンによって食事と台所の両方が椅子式になり、南側に配置されるようになって、男女平等の象徴的な存在となりました。

このように戦前と戦後の生活を一変させたものが、日本住宅公団(現・独立行政法人都市再生機構)の「55-4N-2DK」のダイニングキッチンです。7.97m2のごく小さな空間で、造り付けのテーブルが置かれました。

私の研究は、1955年(昭和30)に「55-4N-2DK」が成立するまでの過程です。私が行動を起こしたときには、ミホさんは既に亡くなられていて、元・東大助教授で日本で初めての建築評論家だった、ご主人の浜口隆一先生にお話をうかがいました。

ミホさんは、戦後の住様式を変えたといわれている『日本住宅の封建性』(相模書房1949)という著書を書かれ、隆一さんはミホさんの功績は『日本住宅の封建性』を著したことと「ダイニングキッチン」であると、はっきりおっしゃいました。

ダイニングキッチンの成立は、1941年(昭和16)の西山夘三先生の食寝分離論、それから10年後1951年(昭和26)の吉武泰水先生と鈴木成文先生の「公営住宅51C」、このルートから公団住宅「55-4N-2DK」に、そして全国に普及する、というもの。これが定説になっていたわけです。(「家の中心は水まわり」参照)

ところが、東京・等々力に建てた自邸のダイニングキッチンは前川國男先生(注2)から教授されドイツで流行っていたヴォーン・キュッへ(Wohn Kuche)であったという、まったく違う話が隆一さんの口から聞かれたんです。この家は疎開前に売ってしまい、戦後すぐに壊され、残念ながら写真も図面も残っていません。

(注1)浜口 ミホ(はまぐち みほ 1915〜1988年)
前川國男設計事務所を経て浜口ミホ住宅相談所を1949年に設立。1955年に日本住宅公団で台所改善のアドバイスをして、ステンレスの流し台が一般に広がる。1949年に書いた著書「日本住宅の封建性」(相模書房1949)が出版され、土間やキッチンは北側というそれまでの日本の間取りの常識を打破して、西洋風な考えを取り入れるという提案をする。この本は、日本モダン建築に大きな革命をもたらし、以降日本の住宅建築のプラン(間取り)が徐々にこの方向に向かうきっかけとなった。
(注2)前川 國男(まえかわ くにお 1905〜1986年)
東京帝国大学工学部建築学科を1928年に卒業し、ル・コルビュジエ事務所に入所。アントニン・レーモンドの元でも学び、モダニズム建築の旗手として、第二次世界大戦後の日本建築界をリードした。主な作品に東京文化会館(1961年 昭和36)、紀伊國屋書店新宿店(1964年 昭和39)、東京都美術館(1975年 昭和45)など。

ヴォーン・キュッヘ

ミホさんと隆一さんは前川國男先生の事務所の所員として出会います。当然前川先生の機能主義的な薫陶は受けているはずです。

ヴォーン・キュッへというのは、ドイツ語で、Wornraum(居間)とKuche(台所)を合体させた言葉です。私もこのドイツ語は初めて聞きましたし、今では建築業界でも忘れられてしまっていると思います。

日本では1930年(昭和5)ごろに『国際建築』(国際建築協会)と、ほかの何冊かに紹介されています。当時の広辞苑に載っているほど広まった言葉です。今でいうダイニングキッチンですが、ミホさんは戦前にもう既に、ヴォーン・キュッへを提案しています。

1949年ごろ、ドイツ語だったヴォーン・キュッへが、敗戦という背景があって英語のリビングキッチンに置き換わっていきます。

ヴォーン・キュッへ

ヴォーン・キュッへ

封建性の打破

ミホさんが盛んに言っていたのは「メイド・レス・リビング」ということです。どの世帯でも、女中さんがいなくても使いやすいリビングにしなければダメだ、ということです。だからコンパクトになっていった。

ミホさんが育ったのは大連の海関(中国税関)の官舎で、れんが造りの洋館でした。生活様式はすべて椅子式で、3時にティータイムをとるなど、すべてイギリス式に倣っていました。中国人の使用人に囲まれていましたから、家事を手伝うことなどなく、そのことは結婚後に隆一さんを驚かせることになります。

こうした生育環境があったからこそ、この時代に「メイド・レス・リビング」という発想が出てくるんです。

それで『日本住宅の封建性』が出されるんですね。この本は、中原暢子さん(注3)も「食い入るように読んだ」とおっしゃっていました。

1953年(昭和28)に再版したときに、ミホさんが著者の言葉として「台所はダイニングキッチンが当たり前になっているから、今となっては見当違いのようなことを書いている」と言っているんです。この5年の間にものすごい変化があったということですよね。

1955年(昭和30)に日本住宅公団ができたときに、本城和彦さん(「家の中心は水まわり」参照)がミホさんに白羽の矢を建てて、ああいう台所が実現したのです。

ダイニングキッチンという言葉は本城さんが使い始めます。その理由は、公団は面積制限のために居間が基本的につくれなかったんですね。それで、リビングではなくダイニングだろうと。図面には、食事室兼台所と書いてありますから。終戦後、ドイツ語を敬遠して英語化が進んだために一時期リビングキッチンと呼ばれた時期もあって、名称に混乱が生じました。

(注3)中原 暢子(なかはら のぶこ 1929〜2008年)
埼玉県出身の建築家。国際女性建築家会議日本支部初代会長。

イギリス・ロンドンの超高級住宅地チェルシーのテラスハウス。

イギリス・ロンドンの超高級住宅地チェルシーのテラスハウス。オリジナリティあふれる特注品のキッチンシステムとアンティークのダイニングセットという豪華なDKの一例。

生活最小限住宅運動

狭い空間の中でいかに最小限の生活機能を満たすかという「生活最小限住宅」の概念が最初に出てくるのは、第一次世界大戦後のドイツを中心としたヨーロッパです。敗戦国で戦地からの引揚者が戻ってきたことによる住宅不足がその原因です。この運動はアメリカにまで広まりました。

生活最小限住宅はCIAM(注4)の第2回会議(1929年)のテーマにもなり、前川先生はコルビジェの事務所から参加して目の当たりにしました。

ですから前川先生のご自邸(>>参照ページ)も、そういう影響を受けたものになっていますね。1942年(昭和17)に建てられたもので、資材不足のため柱に電柱が使われています。

あれはヴォーン・キュッへスタイルではなく独立したキッチンですが、今見ても非常にモダンな設計ですね。夫婦二人で住むということで、こういうことも可能だったのかもしれませんが、狭い敷地を吹き抜けなどで広く見せる工夫をしています。

生活最小限住宅の中で試みられたのが、ヴォーン・キュッへなのです。あちらは靴を履きベッドで暮らすわけですから、かなり無理があります。ソファをベッドにして、押し入れにも子供を寝かせなければ、家族4人が暮らせないような間取りです。夫婦が中心になるところが、やはりヨーロッパですね。38m2だったかな。日本の場合は、和室で逃げることができますので、少しは楽でしょう。

前川先生の影響か、東大では生活最小限住宅運動が非常に盛り上がったわけですけれど、私がキャッチしていないだけかもしれませんが、ほかではあまり聞いたことがありません。京大とか、西山夘三先生はどう考えていらっしゃったのか。この時代、東大ではヨーロッパに目が向いていたのかもしれないな、とも思います。

(注4)CIAM 近代建築国際会議(シアム:Congr'es International d'Architecture Moderne)
都市・建築の将来について、建築家たちが討論を重ねた国際会議。モダニズム建築の展開のうえで大きな役割を担った。1928年から1956年までに10回開催された(195 9年の第11回オランダ・オッテルローでの会議を含める説もある)。

フランクフルト・キュッへ

生活最小限住宅がテーマになったCIAMで、エルンスト・マイとマルガレーテ・シュッテ=リホツキーが提案した、フランクフルト・キュッへ(1929年)

リビングキッチンの零落

戦後、住宅難を解消するために政府が公布した「延べ床面積15坪制限」が解除されるのが1950年(昭和25)末なんです。

このことを境に、財力のある人は、また大邸宅に戻っていきます。女中部屋があったり、キッチンも独立型になっていく。そして1960年代の高度経済成長に入ると「リビングキッチンというのは狭い住宅しか建てられない人たちのスタイル」という考え方が定着してしまいます。

ところが、1960年代後半から変わってきて、70年代に入るとリビングキッチンが再び伸びていくんです。ですから、規制によるのではなく、みんながリビングキッチンを支持するようになったのは、1970年代後半のことだと思います。

私がこちらに赴任しましたのは、前任の菅原文子先生にお誘いいただいたからなんですが、菅原先生はミホさんの所員だったんです。ちょうどミホさんが日本住宅公団の仕事にかかっているときに、本学で学んだ家政学の素地をミホさんに評価され、食器棚の収納の計画に携わったと聞いています。確かにミホさんは、そういったことは苦手だったかもしれません。ご飯をつくるのが嫌だとおっしゃるくらいですから。

隆一さんは『ヒューマニズムの建築』(雄鶏社1947)を著されて、建築評論家第一号になられるんですが、ミホさんも同じ考えだったと思います。お二人は大量生産のことをよく話題にしているんですが、日本住宅公団のステンレス流し台で日本の住宅もようやく大量生産が可能になった、と評価しています。日本の近代化、建築の工業化が、これによって実現されたという考えですね。それにミホさんが貢献したんだ、ということをおっしゃっていました。

お二人はギーディオン(注5)に影響を受けていました。隆一さんは前川先生に、「日本のギーディオンのように建築評論をやらないか」と言われたらしいですね。

(注5)ジークフリート・ギーディオン(Sigfried Giedion 1888〜1968年)
スイス人建築家。モダニズム建築の推進者で、第1回CIAMの議長を務めた。

採用の苦労話

とにかくステンレスの流し台に象徴されますね。当時、ステンレス流し台を磨くことが、主婦の幸せといわれたほどですから。

日本住宅公団の第一号には間に合わなかったのですが、前川先生が手掛けられた晴海高層アパート(1958年 昭和33)から公団一号型が導入されています(一体成型のものは同年竣工の多摩平テラスハウス)。

ただ、ステンレスの流し台を中心に据えたミホさんの「ポイントシステム」(センター・シンク・システム)に対して、家政学で常識とされた「流れシステム」が障害となり、その解決のために実験が行なわれました。

「流れシステム」とは、食品に手が加えられていく順序(準備→流し→調理→加熱→配膳)に従って「流し台→調理台→加熱台」という配列を指します。これが家政学の常識となったのは、鈴木式高等流し台以来で、長い間支持されてきたことでした。鈴木の理論は、当時もっとも進歩的とされていたアメリカを手本としたものでしたから、ミホさんの提案は大きな抵抗を受けました。

ミホさんは多くの反対の声に対して、公団DKにならったキッチンを設計していた津幡修一氏邸に試作品を持ち込んで試用します。津幡さんはアントニン・レーモンド(注6)の事務所を辞めて公団に入ってきた建築家です。それでもやはり受け入れられず、結局、女子栄養大学の助教授だった武保(たけやす)に実験への協力を申し出ました。

1956年(昭和26)7月に女子栄養大学で行なわれた実験は、10人の主婦を被験者として、実際に献立をつくって「調理時間」と「歩数」を測定するもの。結果は「調理時間」はそれほど変わらないものの、「歩数」では27・5歩対2歩という圧倒的な差で「ポイントシステム」に軍配が上がりました。

ちなみに当時は食材を洗う作業が多かったため、このような結果となりましたが、加工食品を多用する現代ではその限りではないため、このスタイルのキッチンは今はほとんど見られません。

幅1800mmという限られたスペースにどう収めるか、という問題なのですが、家事作業の順から考えるのが家政学だったんですが、ミホさんは家事作業は慣れの問題だ、と言っています。ミホさんの中には建築家として、大量生産する場合1パターンで済ませたい、という考えもあったんではないでしょうか。流れ式だと、左右対称に2パターン必要になりますから。

本来であれば、公団住宅の台所設計という仕事は家政学の専門家に協力を仰ぐところでしょう。本城さんがミホさんに声をかけたのは、隆一さんが帝大の同期だった縁もありますが、何よりミホさんが『日本住宅の封建性』を著し、日頃の主張から表れる見識に頼ったところがあるのでしょう。

(注6)アントニン・レーモンド(Antonin Raymond 1888〜1976年)
チェコ出身の建築家。1914年にアメリカの市民権を取得。フランク・ロイド・ライトのもとで学び、帝国ホテル建設のために来日。その後日本に留まり、モダニズム建築の作品を多く残す。日本人建築家に大きな影響を与えた。インテリア・アーキテクトのノエミ夫人は、公私にわたりアントニンを支えた。代表作に、東京女子大学総合計画(東京都杉並区/1921年)など。

川喜田式の配置

建築家の川喜田煉七郎が、1934年に発表した狭小住宅に適した台所設備。川喜田は人間工学の視座から、当時主流だった流れシステムの見直しを提案している。これはのちに浜口ミホが主張したポイントシステムに先鞭をつけたものと思われる。

「奥さんまわり」の改良

当時の公団では「奥さんまわり」という言葉が使われたんですが、台所を中心に、浴室、トイレ、洗濯、洗面といった家事労働の場をそのように呼びました。まさに水まわり空間そのものですよね。台所は、その中心だったわけです。

世の中が男女平等に向かいましたから、女性の地位を上げなくてはいけないという風潮になっていきました。しかし、まだ社会進出という時代ではない。それで、主婦の地位向上をしようとなると、必然的に「奥さんまわり」の改良に目が向けられていったのです。

暗く陰湿な北側にあった台所を、南側に持ってきて家の中心的存在にするということが、主婦の地位向上につながったのです。あまり言われていないことですが、ダイニングキッチンには、こういう背景があったと思います。

ダイニングキッチンのあと、ミホさんが言っているのは「次は洗濯機を置く空間の確保ね」ということです。しかし、それ以後はミホさんは公団にかかわることがありませんでした。そこで終わっているわけです。ただ洗濯機が普及し始めるのは1960年代に入ってからですから、この時点では置き場を確保することはあまり重要ではなかった。

だから「水まわり」という発想は、なかったんではないでしょうか。ですから台所、浴室、トイレ、洗濯、洗面という空間を「水まわり」としてまとめて意識することは、当時はなかったのではないでしょうか。

住まい観は退化している?

『新しい住まいの設計』(扶桑社)という雑誌のバックナンバーを遡って、ミホさんがやったダイニングキッチンがその後どうなっていったかを分析したデータがあります。

ここで見られるのは新築住宅ですし、斬新な設計だから雑誌に掲載されるわけですから、一概に当時の平均的住宅というわけにはいきませんし、実は5年ごとの資料を拾っていったんですが、それではあまりにもアバウトすぎるということで、頑張って2年ごとのデータを落とし込んでいます。

それをみると1975年(昭和50)ぐらいに、すべての台所平面パターンが出そろって、ほぼ同数で並ぶという時代を迎えています。ハッチで仕切ったり、独立型で豪華なシステムを入れてみたりという経験を経て、今はもうリビングキッチンが当たり前になりました。

ただ、今台所の危機がいわれています。水は必要でしょうが、あとは電子レンジと分別ができる大きなゴミ箱があればいいと。

「奥さんまわり」なんて言われていた時代とは隔世の感で、男女同権は言うに及ばず、家族形態も独居が激増しています。家で食事をつくらない場合も多い。こういう論文にも「主婦」とは書けません。「調理人」と書いたかな。嘘みたいな話ですが。

これらのことからいっても、キッチンや食に求められることが多様化し、変わってきていることは確かです。ただ、一人ひとりの求めに応じたキッチンがちゃんと与えられていないような気がします。

実は、1歳児と3歳児の検診のときに、LDKタイプの家に住んでいる人と、田の字型つまり続き間タイプの家に住んでいる人の二通りで調べました。すると、田の字型の住宅のほうが育児のストレスが大きいという結果が出たんです。

一概に間取りの問題だけとはいえませんが、LDKタイプのほうが、子供の動きが目に届きやすいから安心感がある。見える、というのは想像以上に大事なことなんですね。

意外なことに、自分の家が南に面しているか北に面しているかといった方角を把握していない人が多かった。住宅に無頓着で生きている人の多さに、ちょっと愕然としました。日本は、子供に住宅について教えていませんものね。ヨーロッパ、特にフィンランド辺りでは住宅教育が非常に盛んで、煙突の位置で熱効率を考えるとか、デザインの善し悪しまで、子供のときに考えさせます。

日本では、中学の家庭科でも住宅のところは飛ばされがち。本当は小さいときから住環境を意識して、いろいろなライフスタイルに合った住環境がつくれるんだということを、もっと多くの人に知ってもらいたいですね。



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