機関誌『水の文化』53号
ぼくらには妖怪が必要だ

魅力づくりの教え5
制約を味方にする
小さなベンチャー
長崎県小値賀島(五島列島)

小値賀島の北部にある「長崎鼻」。ここは牛の放牧地で、草を食(は)む牛の姿と青い海がすばらしい光景をつくる

小値賀島の北部にある「長崎鼻」。ここは牛の放牧地で、草を食(は)む牛の姿と青い海がすばらしい光景をつくる

人口減少期の地域政策を研究し、自治体や観光協会などに提案している多摩大学教授の中庭光彦さんが「おもしろそうだ」と思う土地を巡る連載です。将来を見据えて、若手による「活きのいい活動」と「地域の魅力づくりの今」を切り取りながら、地域ブランディングの構造を解き明かしていきます。その土地ならではの魅力や思いがけない文化資産、そして思わぬ形で姿を現す現代の水文化・生活文化にご注目ください。今回は九州本土からおよそ50kmほどの西の海上にある、かつてアジアの交通の要衝として栄えた「小値賀島(おぢかじま)」です。

中庭 光彦さん

多摩大学経営情報学部事業構想学科教授
多摩大学研究開発機構総合研究所副所長
中庭 光彦(なかにわ みつひこ)さん

1962年東京都生まれ。中央大学大学院総合政策研究科博士課程退学。専門は地域政策・観光まちづくり。郊外や地方の開発政策史研究を続け、人口減少期における地域経営・サービス産業政策の提案を行なっている。並行して1998年よりミツカン水の文化センターの活動にかかわり、2014年よりアドバイザー。主な著書に『オーラルヒストリー・多摩ニュータウン』(中央大学出版部 2010)、『NPOの底力』(水曜社 2004)ほか。

隔絶は魅力なのか?

「大半の島には人をひきつけるような歴史もないし風景もない。それでいて島には魅力がある。隔絶せられた社会だからである。憩いの場として、海を利用したスポーツ、保養の場として利用するならば、利用の道は多いし、それなら島民もともに参加することができる」

1970年(昭和45)に書かれた「離島の現状」の一節だ。書いたのは宮本常一。全国を見て・聞いて・歩いた民俗学者として有名だ。彼は1953年(昭和28)離島振興法成立に尽力し、同年設立された全国離島振興協議会の初代事務局長になった。時代は戦後復興から高度成長期へと移る。島から人口が流出し無人島が増えるなか、島の人々の生活を支援したいと考えた。

時を経た現在。島の文化を人々はどのように捉え、生活しているのか?島に抱く私たちの離島イメージをそのままにしてよいのか?そこで、今回は宮本も訪れた長崎県五島列島の小値賀島を訪ねてみた。

かつての小値賀のベンチャーたち

佐世保からフェリー「なるしお」で3時間20分。小値賀港に着く。長崎県小値賀町はこの小値賀島と周辺の島々からなる人口2602名(2016年5月6日)のまちだ。

港のある笛吹郷は島の中心街だ。島の歴史は古く、奈良時代には遣唐使の経由地だったし、江戸時代から明治時代にかけては捕鯨拠点でもあった。さらに五島列島の島々を結ぶ商人ネットワークの中心地でもあった。笛吹の曲がりくねった道と路地には歴史が刻まれている。

例えば中心部にある「歴史民俗資料館」。ここは島の旧家・小田家の屋敷をミュージアムにしたもので、平戸藩を治めていた松浦の殿様もここを訪れていた。松浦氏は捕鯨を保護したのだ。

小田家の初代・小田伝兵衛重憲(おだでんべえしげのり)は壱岐から小値賀に移り、捕鯨業を始めた。二代目・小田伝次兵衛重利(でんじべえしげとし)(1671年生まれ)は対馬や平戸まで出漁した。そこで得た膨大な富の一部を藩にも献上した。その後、海産物販路を開拓するばかりか自ら船をつくり、廻船業、酒造業、さらには新田・植林の開発も行なった。

小田家と同様にいわば島のベンチャーとして特筆されるのが尼﨑家だ。初代の尼﨑忠兵衛は1869年(明治2)笛吹郷生まれ。彼は海藻を燃やした灰がヨード、そして火薬や薬の原料となることに目をつけ、小値賀沃度製造所を創立。その後は1907年(明治40)に劇場布袋座を設立。魚市場、海運業、発電所建設、銀行、醤油・酒醸造、衣料品販売と、五島と長崎をまたぐ島々の総合商社となっていった。島の方に歴史を伺うと「尼忠(あまちゅう)さん」という呼び名が何度も出てくる。

笛吹郷は要衝の島ならではのベンチャーの活躍が刻まれたまちなのだ。

歴史民俗資料館の前にある古い石畳の坂。捕鯨で栄えた小田家のかつての船着場跡だ

活版文化で小値賀を世界に発信

その笛吹郷の小路に、島唯一の印刷所、晋弘舎(しんこうしゃ)活版印刷所がある。100年以上続いている印刷所の四代目として活動しているのが横山桃子さんだ。「活版印刷を通して小値賀を世界に発信していきたい」と言う。

今は珍しくなった活字棚がずらりと並んだ工房は圧巻で、観光客にも公開している。

横山さんは笛吹郷生まれ。大学でデザインを学び、東京でも編集の仕事をした。現在は島に戻り、ホームページやSNSでも情報公開し、北海道から沖縄まで顧客を広げている。

活版は名刺によく使われていたが、紙に少し窪みができ独特の書体が並ぶ風合いが美しい。大量の文字の活版棚から文字を拾い、それを組んで版にして印刷する。PCで版をつくるのが現在の印刷業界の主流だが、活版の質感を求めて横山さんに注文が集まるのだ。

「活版のよさは、すぐにはできないことです。時間がかかる。時間がかかることはデメリットとは思っていないので。島の人は船が欠航したらあきらめなくてはいけない。自然とよりそっているので、自分ではどうしようもできない」

島に生きる自然の制約感覚と仕事の制約感がつながっている。

「パソコンはなんでもできる。でも活版にはいっぱい制限がある。組み方、文字の大きさも決まっている。制限があるなかで、どれだけおもしろいものができるかが活版のよさ」と言う横山さんのデザインは、小値賀島特産のピーナッツペーストのラベルや多くの印刷物に使われている。制約をなくそうとするのではなく、制約を受け止め強みに変える創造力に、私は感じ入ってしまった。

先々代となる祖父は、活版印刷は文化と話していたという。

「続けることが大事だと思っています。100年続いているので、それに魅せられている人がいる。それを継がなくてはいけない。200年続けばさらに魅力的になる」と、歴史そのものが魅力の源と横山さんは話してくれた。

  • 「活版のよさは、時間がかかること」と言う晋弘舎活版印刷所の四代目、横山桃子さん。

    「活版のよさは、時間がかかること」と言う晋弘舎活版印刷所の四代目、横山桃子さん。

  • 活版印刷の昔のイラストは、円内の写真のように一つずつ手で彫った版を用いていた。

    活版印刷の昔のイラストは、円内の写真のように一つずつ手で彫った版を用いていた。

  • 笛吹郷にかつてあった劇場布袋座の宣伝チラシ

    笛吹郷にかつてあった劇場布袋座の宣伝チラシ

  • 「活版のよさは、時間がかかること」と言う晋弘舎活版印刷所の四代目、横山桃子さん。
  • 活版印刷の昔のイラストは、円内の写真のように一つずつ手で彫った版を用いていた。
  • 笛吹郷にかつてあった劇場布袋座の宣伝チラシ

島の環境を活かして健康的な子牛を育てる

小値賀島にはたくさんの牛がいる。畜産業が盛んなのだ。一般に、畜産農家は繁殖農家と肥育農家に分かれる。

繁殖農家は母牛に子を産ませて1年未満で出荷する。その牛を全国の肥育農家が仕入れ、三重に行けば松阪牛になるし長崎に行けば長崎牛と、肥育された土地のブランド牛となる。小値賀は牧草に海水によるミネラル分が増えるため質がよいと、昔から繁殖農家による畜産が盛んなのだ。

迎真志(むかえまさし)さんも繁殖農家の一人だ。牛を育てるおもしろさは何か。

「牧草、畑、育て方、それぞれ異なるなかで育てた牛に値段がつく。それがうれしい」という。千葉や新潟の牧場からも買い付けに来るそうで、販路は広い。

「健康的な子牛がたくさんできればいい。島だから病気も入ってきにくい」と、健やかな牛にこだわって育てている。

畜産業も、島の環境を活かした商社と同じようなビジネスではないか? 健康な牛を育てるのにこんな適した場はないと私には思えた。

牛を50頭ほど育てる迎真志さんは二児の父。諫早市の農業大学校で学び、帰島した

牛を50頭ほど育てる迎真志さんは二児の父。諫早市の農業大学校で学び、帰島した

親戚の家に来たような民泊の雰囲気

さて、島の宿泊。われわれは濱元さん夫婦が営む「民泊おくばと」にお世話になった。ホームステイという意味の「民泊」で小値賀島ではこの民泊受け入れ家庭が約30軒ある。

濱元さんご夫妻も畜産農家、そして息子さんとの三人暮らし。イナカの親戚に帰省した感じだ。

夜は濱元さん一家とお食事。新鮮な鰤(ぶり)刺などをいただき、話も盛り上がる。

「家って昔はこんな感じだったな」と思い出した。民泊は、家族のかかわりを思い起こさせてくれる場なのだ。お客さんのなかには「帰りたくない」と泣きじゃくった女子高生もいたそうだが、それもわかる気がした。

  • 「民泊おくばと」

    「民泊おくばと」

  • 「民泊おくばと」の濱元さんご一家。弥一郎さん、照美さんご夫婦は民泊がスタートした当初からの受け入れ家庭

    「民泊おくばと」の濱元さんご一家。弥一郎さん、照美さんご夫婦は民泊がスタートした当初からの受け入れ家庭

  • 「民泊おくばと」
  • 「民泊おくばと」の濱元さんご一家。弥一郎さん、照美さんご夫婦は民泊がスタートした当初からの受け入れ家庭

きめ細かなサービスを提供するツーリズム協会

これまで登場した方々を紹介いただき、小値賀島でのアクティビティ提案、ガイド、これらをワンストップサービスで提供いただいたのがNPOおぢかアイランドツーリズム協会の皆さんだ。

理事長は尼﨑豊さん。そう、尼忠さんのお孫さんだ。今、この協会は日本版DMO(注)の先駆けになるのではないかと注目されているのだが、尼﨑さんは流行に流されることなく慎重に成り行きを見守っている。

小値賀町では観光協会を1996年(平成8)に設立し、尼﨑さんは事務局長となった。

2001年(平成13)には、1989年(平成元)から続いていた廃校を簡易宿泊所として使った「野崎島自然学塾村」が、「ながさき島の自然学校」という全国に自然体験学校をつくる総務省プログラムに採用された。夏期に2週間、子どものキャンプを野崎島で行なうのだが、途中で小値賀島本島にいったん戻るようになっていた。ところが、その子どもたち全員を島の旅館だけでは収容できない。そこで民泊を導入したのがきっかけだった。当時、大分県の安心院(あじむ)でも同様の取り組みを始めており、尼﨑さんは研修に赴き「やれる」と思ったという。

2006年(平成18)には民泊の組織であるアイランドツーリズム推進協議会、観光協会、ながさき島の学校(野崎島自然学塾村)、この三つが合併してNPO法人になり現在に至っている。民泊は目玉サービスに育っている。私たちは3日間在島したが、きめ細やかなサービスは小値賀島のようなコンパクトな規模だから可能なものなのだろう。

この協会には12名のスタッフがいる。木寺智美さんは神奈川県平塚生まれ。東京でシステムエンジニアをしていたが、エコツーリズムガイドの育成研修で小値賀に来たところ「ビビッときて」こちらに住むようになった。小値賀に来てから「自分が幸せだな、と感じることが増えました」と語る。

一方、地元生まれの畑村真美さんは、地元で仕事がしたかったという。「自分の地元を好きになってくれる人が増えるのはありがたいし、気づかせてくれるのもありがたい」と話す。

お二人だけではなく、お会いしたみんなから感じられる、島を信じる、おそらく理由などない心もちは、どのように生まれるのだろうか。

(注)日本版DMO
行政、観光業者、地域住民など立場ごとに分かれている機能を、地域全体の観光マネジメントとして一本化する、着地型観光のプラットフォーム組織を指す。DMOとはDestination Marketing Organizationの略。

  • 廃校となった小値賀小中学校野崎分校は、簡易宿泊施設・休憩施設「野崎島自然学塾村」として利用され、夏には子ども向けのキャンプも行なう

    廃校となった小値賀小中学校野崎分校は、簡易宿泊施設・休憩施設「野崎島自然学塾村」として利用され、夏には子ども向けのキャンプも行なう

  • NPOおぢかアイランドツーリズム協会の尼﨑豊理事長

  • 東京を離れて小値賀島に移り住んだ木寺智美さん

  • 小値賀島生まれの畑村真美さん

  • 廃校となった小値賀小中学校野崎分校は、簡易宿泊施設・休憩施設「野崎島自然学塾村」として利用され、夏には子ども向けのキャンプも行なう

制約を強みにして稼ぐビジネスを

われわれは野崎島にも渡った。2001年(平成13)に最後の住人が離村し、うち捨てられた集落を抜けると「野崎島自然学塾村」に着く。そこから5分ほど山を上がると「旧野首(のくび)教会」だ。禁教令が撤廃(1873年)された後、潜伏キリシタンたちが信仰の証としてつくった教会で、建築したのは他にも長崎の多くのカソリック教会建築を手がけた鉄川与助。1908年(明治41)に完成した。

空間には意味があり、その歴史と出会うことで体験が生まれる。ほぼ無人の島の教会のなかに佇むと、私は3日間の体験について考え込んでしまった。

今回お会いした人々は、皆さん島のベンチャー、言い換えれば「仕事を創っている人々」だ。共通していた思考は「島であることの制約」に魅力を感じ強みにしていることだった。制約を打ち破るビジネスではなく、制約を受け入れ稼ぐビジネスを進化させている。

小値賀島の旅で触れることができたのは、多くの人を雇う「大きい」ベンチャーの夢ではなく、魅力を伴った仕事を営んでいる「小さい」ベンチャーの確かな現場だった。地域創生の鍵がここにある。

  • 野崎島の高台にそびえる「旧野首教会」。

    野崎島の高台にそびえる「旧野首教会」。建設費をつくるために、17世帯の信者たちが共同で暮らし、食事も一日二食に切りつめて建てたもの。廃村後は荒れてしまったものの、小値賀町が改修した

  • 廃村後は荒れてしまったものの、小値賀町が改修した

    廃村後は荒れてしまったものの、小値賀町が改修した

  • 野崎島の高台にそびえる「旧野首教会」。
  • 廃村後は荒れてしまったものの、小値賀町が改修した

〈魅力づくりの教え〉

地域には必ず制約がある。制約を破壊するベンチャーもいれば、受け入れて進化させるベンチャーもいる。制約とどう付き合うかは、文化と魅力づくりの大きな論点だ。

(2016年3月22〜24日取材)

PDF版ダウンロード



この記事のキーワード

    機関誌 『水の文化』 53号,魅力づくりの教え,中庭 光彦,長崎県,島,長崎,ベンチャー,小値賀,活版,飼育,牛,農家,畜産,民泊,NPO,協会,五島列島

関連する記事はこちら

ページトップへ