機関誌『水の文化』12号
水道(みずみち)の当然(あたりまえ)

私にとっての水の文化

荒俣 宏さん

翻訳家評論家小説家
荒俣 宏 (あらまた ひろし)さん

1947年東京都生まれ。慶応義塾大学法学部卒業後、日魯漁業勤務のかたわら幻想文学関係の翻訳に携わる。その後、博物学の新たな見直しを試み、古今東西の博物学書や図鑑の収集をはじめる。博物学、図像学、産業考古学、コンピュータ関係から、風水研究や小説まで、幅広い著作活動で知られる。 最近の著書は『ヨコオ論タダノリ』(平凡社、 2002)『読み忘れ三国志』(小学館、2002)、『新編別世界通信』(イースト・プレス、2002)他多数。

最近、自分の中で一つのキーワードが浮かんでいる。「水芸」というのである。

水の文化は、河川の埋め立てのような土木工事に始まり、治水・利水、さらには茶の湯や名水に至るまで、実に多種多様の分野があり、これを選んだら一生楽しめると断言できるほどの奥深さをもっている。

その中で、あえて選んだのが水芸なのである。

なぜ水芸なのか。

たとえば東京でいうなら、浜離宮などにある潮入り庭園である。庭の池に海水を引き込み、干満の潮位差を利用して、池の水面を上下させる。まさしく、池が大海に一変し、地球の呼吸のようなものを実感できる。

わたしは清澄庭園が潮入りの池を人工動力で再現している現場を見に行ったことがある。池の浅瀬が干潮で干上がると庭が広くなり、満潮になるとこんどは池が広大になる。その変化の妙に感心した。江戸時代にはこれを人工動力でなく、自然の干満を活用して行っていたというのだから、ちょっと驚愕する。

東京都立浜離宮恩賜公園の「潮入の池」を中島の御茶屋より臨む。浜離宮は潮入の池と二つの鴨場をもつ江戸時代の代表的な大名庭園。潮入の池とは、海水を導き潮の満ち干によって池の趣を変えるもので、海辺の庭園で通常用いられていた様式。中島の御茶屋は1707年に造られて以来、将軍や公家達がここで庭園の見飽きぬ眺望を堪能した休憩所。

東京都立浜離宮恩賜公園の「潮入の池」を中島の御茶屋より臨む。浜離宮は潮入の池と二つの鴨場をもつ江戸時代の代表的な大名庭園。潮入の池とは、海水を導き潮の満ち干によって池の趣を変えるもので、海辺の庭園で通常用いられていた様式。中島の御茶屋は1707年に造られて以来、将軍や公家達がここで庭園の見飽きぬ眺望を堪能した休憩所。



ヨーロッパならば、さしずめ、斜面に造られた噴水庭園である。こちらの水芸もすばらしい。イタリアやフランスのそれは、もうすっかり観光地の目玉になっているので、ヴェルサイユ宮の大庭園にせよフィレンツェのボボリ庭園にせよ、だれでも見物することができるのだが、わたしは2002年にたまたま縁あってサンクト・ペテルブルグを訪れたとき、ビョートル大帝がみずから設計図を引いたといわれるペテルゴフ(大宮殿)の大庭園を見物する機会を得た。

18世紀初頭、フランスのヴェルサイユ宮庭園よりもさらに驚異的な庭を造ろうとしたピョートルは、庭園のいたるところに噴水を設置した。斜面に形成された庭園の上の方に、巨大な貯水池を四つ堀り、ここを水源として、大宮殿から海へ至るまで、全長1キロメートル余りの敷地に、水を配流した。この水流が総計150にも達する大小数々の噴水に水を噴き上げさせるのである。しかも、多くの噴水は単なる噴水ではない。いわゆる仕掛け噴水になっており、水圧をコントロールすることによって水の噴出口が自動的に回転するもの、人がそばを通るときにだけ急に水を噴きかけるもの、などなど悪戯心にあふれている。とくに心引かれたのは、大宮殿の海側前方にある大斜面の半ばに設置されたグロッタである。このグロッタの正面は、大きなテラスになっており、その下から大滝が落ちている。この滝の横に大噴水群があり、無数の水を噴き上げていて壮観だが、グロッタ自体に仕組まれた巧みな「水芸」には敵わない。

グロッタとは、元来、巨大な洞窟を意味した。発祥の地イタリアの海辺には、海水が流入する洞窟があり、ここに海神ネプチューンだの豊穣の女神ウエヌス(ヴィーナス)などの像が祀られていた。ローマ人は洞窟へ詣でて、子宝をさずかるための祈祷を行ったり、生命力のシンボルである水を浴びて若さを取り戻す宴会などを行った。ときには、誰はばかることのない愛の交感も行われたらしく、グロッタの伝統は後世フランスあたりへ伝わると、「ニンフの館」と呼ばれるようになった。ニンフとは本来「愛」と「出産」の女神だが、近世では好色な森の精霊の名で通っている。

そのような洞窟に関する伝統が、ルネサンス朝にひょんな形で再燃した。皇帝ネロの住宅跡が発掘された折り、その地下におもしろい模様で飾られた部屋がみつかった。神や動物たちの連続模様がやがて植物に変わったり、唐草模様の先端がまた動物や神々の姿に戻ったりという、だまし絵のような模様だった。すぐにこの様式がブームとなり、あちこちの館に壁の装飾として連続模様が伝えられた。これをグロテスク模様という。なぜなら、ネロ邸の洞窟(グロッタ)で発見されたから、グロテスク(グロッタ風な)なのである。もっとも、ネロ邸の地下にあった部屋は、実は地下ではなく、地上1階の部屋だった。長い間に瓦礫に埋もれ、洞窟のようになったのである。

このグロテスク模様とともに、水の文化も洞窟内で生命を生み、再生させる力の源として、復活した。人工洞窟をつくり、そこに水を引き、あちこちに噴水を出させて遊んだので、ヨーロッパの「竜宮城」と呼んでもよい。

そのような水芸の文化を継承したピョートル大帝は、ペテルゴフに仰天すべきグロッタを築いた。天井や壁に粗い溶岩を貼りつけ、さながら鍾乳洞内部のような演出を施し、内部のあちこちに水芸を仕掛けた。たとえば主洞窟の広間には大きな石製のテーブルが用意されている。テーブルの上に、エキゾティックな果物が山盛りになっている。宮殿の主が、ささ、果物はいかが、と悪戯っぽくすすめるので、誰かがリンゴを1個手に取ると、テーブルの上の重量が変化して仕掛けが作動する。いきなりテーブルの周りから水が一斉に噴き上がり、リンゴを取った人はズブ濡れになる。

え、そんなカラクリができるのか?

と、ご不審の読者もいるだろう。しかしペテルゴフの庭に水を配する水道管は常時メンテナンスが行われ、完璧を期されていた。ピョートルは狭い水道管内部にもぐりこんで掃除をさせるための子どもを、この庭園に用意してもいたほどだ。もっとも、前記したテーブルの仕掛けには、さらにおもしろい落ちが待っている。実は、リンゴを取り上げて重量が変わったから水が噴き出た、と思わせておいて、ほんとうは近くに水道レバーの操作人が潜んでおり、誰かがリンゴを取ったのを確認してすばやくレバーを動かすのである。これなら、まちがいなく、

狙った人をズブ濡れにできる

世界遺産に登録されている、ロシア、サンクト・ペテルブルグにあるピョートル宮殿の噴水。(写真提供:JTB フォト)

世界遺産に登録されている、ロシア、サンクト・ペテルブルグにあるピョートル宮殿の噴水。
写真提供:JTB フォト



それにしても、大金を文字通り湯水のように使って、水遊びに興じるとは、いったいどういう魂胆なのか?答えの代わりに、尾張藩二代目藩主、徳川光友の事例を引こう。

光友は、藩内に剣法の新陰流を広め、徳川家の流派として定着させた武道の大名だったが、反面、尾張名物エビせんべい造りの基をひらいたり、江戸の下屋敷に一大テーマパークを建築したりする文化大名でもあった。

江戸の下屋敷は新宿区戸山あたりにあって東京ドーム10個分もの面積を誇った。これを戸山荘というが、ここに興味つきない遊興のための仕掛けを設らえた。荘内には日本の風景を凝縮したような山水の景観がつくられ、龍門の滝と呼ばれる大滝があった。この大滝の下に飛石が点々と置かれ、人々がこの飛石を渡り終えると、いきなり滝の水量が増加して洪水のように降りそそいだという。人々は目を丸くして驚いたというが、まるでピョートル大帝の大宮殿の趣向と同じだ。

さらにすごいのは、尾張藩主が国と江戸とを往来するときに通る東海道小田原の宿を、実物大のサイズと規模で、庭内に再現してしまったことである。ほんものの街道の両脇にある店や町屋も、そのとおりに再現し、殿様が遊びにいらっしゃる際には、藩士や腰元たちが店の主人だの使用だのに扮し、「小田原宿ごっこ」を展開したという!

そして決め手が、小田原からよく見える箱根の山々である。戸山荘につくった小田原宿の野外セットにも、山がなければいけない。それで、ほんとうに人工の山を造ってしまった。これが戸山の箱根山である。今も早稲田の一角にそびえており、23区内では最も高い。

ということで、壮大な水芸は、決してビョートル大帝ばかりではない。徳川光友だって負けていなかったのである。これを浪費と見れば、そのとおりである。小田原宿の野外セットなど造っても、実経済や民生には何の役にも立たなかったろうから。

しかし、わたしは産業や科学技術が大発展する前提として、壮大な無駄使いとしての「水芸」が存在しなければならない、と最近思うようになった。追風のように、現代エジプト考古学の研究成果が新説を生み、あのピラミッドは壮大な「農閑期の公共事業」だとする見解が広まりつつある。人々はナイル川の氾濫時に、楽しみながらピラミッド造りに参加した。あれは一種の戸山荘の小田原宿、ペテルゴフのグロッタ、だったのである。しかし、これらは単に浪費の芸ではなかった。

戸山の箱根山(現東京都新宿区)の立看板に画かれた戸山尾州邸園池全図

戸山の箱根山(現東京都新宿区)の立看板に画かれた戸山尾州邸園池全図



ピラミッドも戸山荘も、あるいはペテルゴフも、最新技術はつねに並外れた遊びを実現するために挑戦され、発展したからである。なぜなら、遊びの技術は無意味や失敗が許されるからである。もしも切実な都市造りのテーマとして水の配流が必要だとした場合、珍奇なカラクリのごとき離れ技は、危なくて試せない。遊びであるから、無意味な浪費や失敗にも意味が見いだせるのだ。そしてその水芸が窮まったあとに、水芸はとつじょとして実社会を支える強大なインフラとなる。西洋の噴水造りに使われた水力学は、水を湯に変えたとたん、蒸気機関となって産業革命を実現させた。水力学が蒸気力学に変わるところで、文化は、「金を稼げる文明」となる。

 

さて、日本の水芸はどうだったのか。徳川光友がこしらえた「飛石を踏むと洪水になる滝」を実現する技術 - のちに本当の産業技術に変化する水芸は、どの程度進歩していたのであろうか。

一つの答えは、その当時ようやく完成に向かっていた江戸の造営を見るところから導き出せる。おもしろいことに、江戸初期に家康を支えた「代官頭」は、揃ってエンジニアだった。技術屋だった。金・銀・銅の新たな精錬法を導入し鉱山開発に腕をふるった大久保長安、それに検地を手はじめに治水・利水、交通網などの整備に力を注いだ元祖ゼネコンの伊奈忠次、この二人はとくに傑出している。

伊奈忠次は三河国幡豆郡(今の愛知県西尾市)出身であり、新田開発と河川改修を実現するための工事法「関東流」を編み出した。利根川や鬼怒川の工事は伊奈の仕事である。かれの関東流をごく簡単にいえば、洪水をおこす川を大きく蛇行させて流し、あちこちに溜池を設置して水を貯める一方、これを灌漑用水に転用する方法だった。風水的にいうなら、竜を活かす技術である。

なるほど、現代地図を見ても、利根川や鬼怒川の川筋はカーヴを描いている。

これに対し、ずっとあとの八代吉宗の時代に、「紀州流」治水工事術が江戸へやってくる。吉宗が紀州藩主だった時代に地元の工事を成功させた大畑才蔵や伊沢称惣兵衛は、この紀州流をもって水と対決した。紀州流を関東流と対比的に眺めるなら、川の水をできるだけ早く海に流せるよう、一直線の高い川堤を設置することに特色がある。一直線の川、高い堤。この眺めもまた日本各地で認められるが、江戸の多摩川普請を手がけた田中丘隅(きゅうぐ)らの活動は、紀州流に負うところが多いと思う。

水を操作する方法とじっくり取り組んだ人々がいて、奇跡的な水芸を可能にした。その水芸が、ある日、熟し切った柿が落ちるかのように大産業技術へと一変する。

 

いま、わたしたちは現代の水芸と遭遇する得がたい場面に居あわせている。情報の流れを用いるIT技術である。この技術が、今、世界に誇れる水芸を次々に成功させている。たとえばソニーのプレイ・ステーション・シリーズである。任天堂も、セガもあとにつづいている。どれも今は遊びだが、この水芸はすぐに「場」をみつけ、象徴的な意味で「蒸気機関」に豹変する日も近いと思う。

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    機関誌 『水の文化』 12号,荒俣 宏,水と生活,歴史,庭園,芸,宮殿,ヨーロッパ

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