機関誌『水の文化』63号
桶・樽のモノ語り

桶・樽のモノ語り
木桶

しょうゆ蔵の宝を引き継ぐ木桶たち

瀬戸内海に浮かぶ小豆島。人口2万7000人ほどのこの島ではしょうゆ製造が盛んで約400年もの歴史をもち、さらに今も木桶が数多く使われている。しかし、大型の木桶をつくる職人は全国的に見ても消滅寸前。「このままでは木桶の伝統が途絶えてしまう」と危機感を抱き、木桶を自らつくる事業者がいる。木桶づくりの現在と未来への展望を追った。

大きな木桶がひしめくヤマロク醤油のもろみ蔵。100種類以上にのぼる乳酸菌や酵母菌が棲みつく蔵を見ようと、1年間で3万人以上が訪れる

大きな木桶がひしめくヤマロク醤油のもろみ蔵。100種類以上にのぼる乳酸菌や酵母菌が棲みつく蔵を見ようと、
1年間で3万人以上が訪れる

「しょうゆ屋が桶つくったらおもろいなあ……」

しょうゆをつくってくれる乳酸菌や酵母菌は、もちろん肉眼で見えない。だが小豆島のヤマロク醤油のもろみ(注)蔵に入ると、菌が成長した姿を目にすることができる。杉材の巨大な木桶にこびりついた、おびただしい量の菌糸体。最古で150年も経た木桶のみならず、蔵の至るところに100種類以上の微生物が棲みついている。2年~4年半かけ木桶で発酵熟成させた「菊醤(きくびしお)」「鶴醤(つるびしお)」の深いうまみは、長い時をかけてこの蔵特有の生態系を形づくった微生物のおかげにほかならない。

「醸造家の仕事とは、乳酸菌や酵母菌が暮らしやすい環境を整えてあげること」。ヤマロク醤油五代目、山本康夫さんは言いきる。ヤマロク醤油独特の味をつくる微生物は、土壁と木の柱、そして木桶からなるこの蔵の環境に適応している。ところが2009年(平成21)、生産量が増えて木桶が足りなくなった。大人の背丈より高い32石(約6000L)の大型木桶をつくれるのは大阪の藤井製桶所しかない。山本さんは借金して組み直し3本と新桶9本を発注した。そのとき同製桶所の上芝雄史(うえしばたけし)さんから「新桶の発注がしょうゆ屋から来たのは戦後初めて」と言われた。納品時には「いつまで桶づくりできるかわからんで。自分の桶は自分で直し」とも言われた。

昔ながらの木桶がなくなれば当然味は変わるし、製法も見直さなければいけない。山本さんは「まてよ……」と発想を変えた。「私の判断基準は、おもろいか、おもろないか。ちょっとしんどくても、自分がやってて楽しければ長続きします。しょうゆ屋が桶つくったらおもろいなあ……と思って」

同級生と後輩の大工2人に声をかけた。また融資を受け発注した新桶3本を使い、2012年(平成24)1月に製造法を習った。多忙な3人の日程が合い直に教えを請えたのはわずか2日半。「上芝さんがポロっと『いろんなとこへ自分で直せよと言ったけど真に受けて来たのはあんただけや』と洩らしました」と山本さんは笑う。

大工の1人は研究熱心。もう1人はセンスがある。「人生初かんな」の山本さんはできない悔しさがにじみ出ているから桶はつくれる│上芝さんの弟にそんなお墨つきをもらった。「3人のバランスがよかったんですね」と山本さん。

竹たが編み、漏れ防止、数十年後の破損を見越した底板の工夫など試行錯誤を重ね、2013年(平成25)9月、新桶は完成した。大工にとっても桶づくりは職人冥利に尽きた。あらゆる手仕事が必要で知恵を絞る余地が多いからだ。「桶屋の技術に大工の技術を入れたら精度が上がるはず」との山本さんの見込みは的を射ていた。

杉と竹を使って大型化する日本ならではの木桶づくりの技術を絶やすわけにはいかない。木桶を軸としたこの蔵ならではの製法と味を子や孫の代に受け継ぎたい―。「しょうゆ屋が桶つくったらおもろい……」と冗談めかして語る裏にはそうした壮大な決意があった。

(注)もろみ
原料と麹、水、酵母を発酵させて、まだ粕(かす)を濾(こ)していないかゆ状の酒、またはしょうゆ。

  • 木桶づくりの作業風景。編んだ竹たがで側板を締め、底板にかんなをかけるなど数多くの工程がある。「木桶職人復活プロジェクト」には120名が加入し、毎年少しずつ増えている(提供:ヤマロク醤油株式会社)

    木桶づくりの作業風景。編んだ竹たがで側板を締め、底板にかんなをかけるなど数多くの工程がある。「木桶職人復活プロジェクト」には120名が加入し、毎年少しずつ増えている(提供:ヤマロク醤油株式会社)

  • 木桶づくりの作業風景。編んだ竹たがで側板を締め、底板にかんなをかけるなど数多くの工程がある。「木桶職人復活プロジェクト」には120名が加入し、毎年少しずつ増えている(提供:ヤマロク醤油株式会社)

    木桶づくりの作業風景。編んだ竹たがで側板を締め、底板にかんなをかけるなど数多くの工程がある。「木桶職人復活プロジェクト」には120名が加入し、毎年少しずつ増えている(提供:ヤマロク醤油株式会社)

  • 木桶づくりの作業風景。編んだ竹たがで側板を締め、底板にかんなをかけるなど数多くの工程がある。「木桶職人復活プロジェクト」には120名が加入し、毎年少しずつ増えている(提供:ヤマロク醤油株式会社)

    木桶づくりの作業風景。編んだ竹たがで側板を締め、底板にかんなをかけるなど数多くの工程がある。「木桶職人復活プロジェクト」には120名が加入し、毎年少しずつ増えている(提供:ヤマロク醤油株式会社)

  • 山本さんたちが初めてつくった木桶。3年ほど前、材が乾いて上部にすきまができたものの、放っておいたら自然にふさがり、そこに菌が棲みついた

    山本さんたちが初めてつくった木桶。3年ほど前、材が乾いて上部にすきまができたものの、放っておいたら自然にふさがり、そこに菌が棲みついた

  • もろみ蔵にはそこかしこに菌がびっしり棲みついている

    もろみ蔵にはそこかしこに菌がびっしり棲みついている

  • 木の階段を上って木桶の上に出る。日あたりや風通しが異なるため、桶一つひとつで微妙に味が違うという

    木の階段を上って木桶の上に出る。日あたりや風通しが異なるため、桶一つひとつで微妙に味が違うという

  • ヤマロク醤油の五代目、山本康夫さん

    ヤマロク醤油の五代目、山本康夫さん

木桶仕込みならではのうまみを追求

山本さんによれば、ヤマロク醤油が昔ながらの製法を守れた要因は「タンクを買うお金も、協業化する出資金もなかったおかげ」。戦前まで一升瓶のしょうゆは男性の散髪代と同じ値段で、稼げる商売だった。ヤマロクが下請けのもろみ屋からしょうゆ屋に転業したのは1950年(昭和25)。ところが戦後は工業化が進みしょうゆも大量生産され、価格が下がった。「儲かったのは数年だけ」と山本さん。1963年(昭和38)には中小企業近代化促進法が施行され、しょうゆ蔵の協業化が進んだが、ヤマロク醤油は資金が乏しく、結果的に木桶仕込みが残った。

山本さんは大学を卒業するとき「儲からないので家業は継がなくていい」と父親に言われ、地元の佃煮メーカーで営業に携わり大阪と東京に転勤した。だが手間をかけた商品を売り込んでも「高い」と渋られることに疑問や苛立ちを感じるようになった。相手から「売らせてほしい」と頼まれる―そんな商売ができないか。ふと気がついたのが実家のしょうゆ屋。家業なら可能性があるかもしれない。29歳のとき小豆島に帰ったが「決算書を見て失敗した!と思いました。家族が食べていくのにやっと。これは無理やと」。

しょうゆは木桶の数しかつくれない。ならば時間をかけて熟成させた木桶仕込みならではのうまみという価値を強調し、単価を上げ直販で利益率を高めるしかない。1Lのペットボトルサイズをやめ145mlの卓上瓶サイズに変えた。メディア露出と蔵見学で直取引の顧客リストを増やした。

帰郷して3年目、父親が病に倒れ、代替わりした。それを機に、付加価値の高い木桶仕込みのしょうゆを提供する蔵元へと大きく舵を切った。

  • 高台(碁石山)から見た「醤の郷(ひしおのさと)」と草壁港。しょうゆや佃煮をつくる工場が軒を連ね、歩くとしょうゆの香りが漂う。後背地にはしょうゆづくりに欠かせない水をもたらす山々がそびえる

    高台(碁石山)から見た「醤の郷(ひしおのさと)」と草壁港。しょうゆや佃煮をつくる工場が軒を連ね、歩くとしょうゆの香りが漂う。後背地にはしょうゆづくりに欠かせない水をもたらす山々がそびえる

  • ヤマロク醤油が木桶で製造する「菊醤」(右)と「鶴醤」(左)

    ヤマロク醤油が木桶で製造する「菊醤」(右)と「鶴醤」(左)

結果はわからない次代への引き継ぎ

孫子の代に木桶仕込みのしょうゆを残そう、と山本さんが声をかけた「木桶職人復活プロジェクト」に今、全国の20近い蔵元が参加している。毎年1月に小豆島に集まり新桶づくりに挑む。

「木桶のしょうゆのシェアはわずか1%。それを奪い合わず、みんなで2%に増やそう」と呼びかけた。「蔵元が来てもらえば補修の仕方も伝えます。すると自前で修繕できるからランニングコストが下がり、空いていた桶が稼働する。消費者は木桶仕込みのしょうゆを味わう機会が増えます。桶が足りなくなれば新桶の発注にも応じる。それで職人を育成でき技術が残ります。消費者も職人もメーカーも『三方よし』のしくみをつくりたい」と山本さんは言う。

視野は海外へも。EUで「KIOKE」の商標を登録した。100万円以上の輸送費を払い2015年(平成27)のミラノ万博会場周辺で新桶を展示し、閉幕後は食科学大学に置いてもらう交渉をしたところ、ピエモンテ州のクラフトビール醸造所「バラデン」のテオ・ムッソさんを紹介された。テオさんは世界中から樽を集める樽マニア。「ぜひこの木桶でビールをつくりたい」と話がきた。「KIOKE」という字を商品名に入れることを条件に木桶を進呈。1年半かけて4000本の「XYAUYU(シャオユ) KIOKE」が生まれた。日本に輸入された売価4000円の700本余りは即座に完売。スローフードの本場イタリアから情報が広がり話題を呼んだ。2回目の仕込みが行なわれている。

2019年(令和1)、ヤマロク醤油の新蔵が竣工。木桶と同じ吉野杉と檜で建てた。「今から10年、借金を返すために働かねば」と山本さんは笑う。7本の新桶が仕込みを待つ。「隣の旧蔵の浮遊菌が新桶にうっすら付着するのに5年。旧蔵のようになるのは100年かかる。私は見られません」と山本さんは清々しい目をした。

木桶と永劫の時が醸すしょうゆは、未来へ引き継がれていく。

  • 新蔵のなかに並んで仕込みを待つ新しい木桶。1本の重さはおよそ500kg

    新蔵のなかに並んで仕込みを待つ新しい木桶。1本の重さはおよそ500kg

  • 島内で探し歩いて見つけた真竹で編んだ竹たが

    島内で探し歩いて見つけた真竹で編んだ竹たが

  • 側板には吉野杉を使う。外圧に対して「しなる」強さがあるという

    側板には吉野杉を使う。外圧に対して「しなる」強さがあるという

  • 2019年に竣工した新蔵の外観

    2019年に竣工した新蔵の外観

(2019年9月17日取材)

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