機関誌『水の文化』53号
ぼくらには妖怪が必要だ


Report1

妖怪は山で暮らす
「生活必需品」

高台から山城町を望む。

高台から山城町を望む。この険しい地形で暮らすための知恵の結晶が妖怪なのだ

徳島県の山間部に「妖怪」でまちおこしに取り組む地域がある。吉野川の上流部に位置し、名勝「大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)」を擁する三好市の山城町(やましろちょう)だ。児啼爺(こなきじじ)発祥の地であり、世界妖怪協会の「怪遺産」にも認定されている。高知県、愛媛県との境にあるこの山深きまちを訪ねると、妖怪は人々の暮らしを支えてきたかけがえのない存在だとわかった。

徳島県三好市山城町「妖怪村」

妖怪と遊んだおばあちゃん

「妖怪の話かね?妖怪はな、子どものころに一緒に遊んだよ。小学校5年生か6年生かな、弟も一緒にいたんよ。夏休みにお父さんの手伝いで、ずーっと山奥に行ったんじゃ。昼ごはん食べたあとに谷へ下りて、弟とウナギをとって遊んでたらな、山からな、履物も履かず服も着ず、蓑を羽織っただけの男が降りてきたんや。私は子どもだから遊ぼうと思って男に水をかけたんよ。しばらくして山に帰ってったから、お父さんに『あれ誰?』と聞いたんよ。そしたら『それ、ヤマジジじゃ!』というんや。いや、ふつうの人間よ。ただ長い毛がぼつぼつ生えてたな。足とかにな」

こう話してくれたのは、岡瀬シゲ女(じょ) さん(82歳)だ。ヤマジジが帰っていった山は、裸足ではとても歩けないような森だという。

徳島県三好市山城町には、こうした妖怪にまつわる話がたくさんある。妖怪と遭ったという人は岡瀬さん一人になったが、幼いころに親や祖父母から妖怪の話を聞いた人は数多い。今わかっているだけでおよそ60種、町内150カ所に妖怪や憑き物の伝説が残っている。

山城町(注1)は人口1万4000人ほどだったが、合併して三好市となった2006年(平成18)には5000人弱と3分の1に減少。このまま過疎が進めば消滅してしまう、人を惹きつける魅力がないものかと見回すと、鎌倉時代から続く山岳武士(注2)や妖怪の話があった。そこで妖怪を核に伝説を掘り起こして活性化につなげようと、町の有志が「四国の秘境 山城・大歩危妖怪村」(以下、妖怪村)を結成した。

妖怪村のプランは2008年(平成20)、農林水産省の「いきいきふるさと大計画」に採択される。民主党政権の事業仕分けに遭うまでの2年間、妖怪の彫刻づくりや妖怪巡りのコース整備などを行なう。その後も住民のボランティアに支えられ、毎年11月に「妖怪まつり」を実施するなど、活動を続けている。

(注1)山城町
1956年(昭和31)、三名村(さんみょうそん)と山城谷村(やましろだにそん)が合併してできた。

(注2)山岳武士
大黒氏、藤川氏、西宇氏の「三名士」が有名。鎌倉時代に土佐、伊予との国境警備のため来住したと伝わる。


  • 子どものころ妖怪と遊んだという岡瀬シゲ女さん。

    子どものころ妖怪と遊んだという岡瀬シゲ女さん。

  • 山城町の住民がつくった「ヤマジジ」の彫刻

    山城町の住民がつくった「ヤマジジ」の彫刻

  • うっそうとした妖怪古道の奥にある「赤子淵」

    うっそうとした妖怪古道の奥にある「赤子淵」

  • 子どものころ妖怪と遊んだという岡瀬シゲ女さん。
  • 山城町の住民がつくった「ヤマジジ」の彫刻
  • うっそうとした妖怪古道の奥にある「赤子淵」

死と背中合わせの山の暮らし

妖怪村の村議会議員を務める下岡昭一さん、事務局の平田政廣さんに町内を案内していただいた。18歳でこの土地を離れ、退職後に戻った下岡さんは妖怪話の聞き取りを行ない『こなきじじいの里 妖怪村伝説』(2009)と『妖怪村伝説 おとろしや』(2012)をまとめた人物だ。平田さんは山城町役場の職員として地域振興に長年取り組んでいた。

吉野川の支流・藤川谷(ふじかわだに) 川の流域から巡ると、目に飛び込んできたのが、そこかしこに置かれた妖怪の彫刻。「すべて住民の手づくりなんですよ」と平田さん。表情は怖いが、どこか愛嬌がある。

藤川谷川の支流を遡ると「妖怪古道」に出た。もともとお遍路の道だったという苔むした小道は昼なお暗い。岩陰から先が見通せないので何か出そうだと思ったら赤子(あかご)の彫刻が現れてドキッとする。ここは「赤子淵」。そばを通りかかると「オギャーオギャー」と赤子が泣く声が聞こえるとの言い伝えがある。足元が滑りやすいので覗き込むと淵に落ちて命を落とす危険性も……。実際に下岡さんの親戚は自転車で淵に落ちて大ケガをした。

山道で飢えや疲労、脱水で亡くなった人の霊といわれる「ヒダルガミ」の彫刻がある。住民たちは「山にいるときは水は一口、おにぎりの3分の1は必ず残しておけ」と言われて育つ。ヒダルガミに取りつかれて死なないようにだ。「山仕事の帰りに道に迷うとどうしようもないですからね」と下岡さん。

つづら折りの山道を登りきった見晴らしのよい場所に大天狗の像が立っていた。平田さんが「あれが私の自宅です」と指さす先を見ると、垂直に近い切り立った山肌に家がある。まるで天空に浮かんでいるようだ。いかに険しい地形であるかがわかる。

「山の暮らしは厳しいです。自分の家の庭から落ちて、死ぬようなケガをする。私も2回落ちています」と下岡さん。「崖のような険しい山を崩し、出てきた岩で石垣を積んで敷地をつくり家を建て、わずかな土地で農作物を育てる。畑なんてふつうの人なら転げ落ちてしまうような急斜面です。山仕事も畑仕事も、毎日が危険と隣り合わせなのです」。

山城町では、誰かが死んだり、水害が起きたところには必ず妖怪話がある。「子どもが近づいたら危ないから、あそこに妖怪話をつくって行かせないようにしよう」と大人たちが考え、語り継がれてきた。そう、危険な場所だらけのこの土地で暮らすためには妖怪が必要だったのだ。「ここの妖怪たちは生活必需品なのですよ」。下岡さんはそう語った。


  • 山城町の妖怪話をまとめた下岡昭一さん

    山城町の妖怪話をまとめた下岡昭一さん

  • 妖怪村の事務局を務める平田政廣さん

    妖怪村の事務局を務める平田政廣さん

  • 住民手づくりの大天狗の彫刻。この付近には天狗にさらわれた言い伝えが残る

    住民手づくりの大天狗の彫刻。この付近には天狗にさらわれた言い伝えが残る

  • 山城町の妖怪話をまとめた下岡昭一さん
  • 妖怪村の事務局を務める平田政廣さん
  • 住民手づくりの大天狗の彫刻。この付近には天狗にさらわれた言い伝えが残る

森は「水の源」だから妖怪が多い

山深い山城町だが、意外なことに妖怪話は水にまつわるものが半数以上を占める。「山や森は水の源ですよね。だから水にまつわる妖怪話が必ずあります」と下岡さん。

本来なら人が住めないような険しい山中であるがゆえに、雨が降ると山津波などの災害も多い。そのために「水源を荒らしてはいけない」「山の神、森の神が宿る巨木を伐ってはいけない」との意識が今も強い。

「水源がないと生きていけませんし、むやみに木を伐ると山が荒れて洪水になる。だから昔の人は妖怪話を使って、人の手を制限していたのでしょう」と下岡さんは考えている。

代表的なのが、山城町と高知県大豊町の境にある「野鹿池(のかのいけ)」(注3)だ。

二礼二拍手一礼して鳥居をくぐり、斜面を登る。さらに木道を歩くと雨乞いのため奉納された祠がある。周辺の地表にはうっすらと水がにじみ、湿地のようだ。野鹿池はこの地域の水源として昔から知られており、近隣のみならず讃岐(香川県)からも雨乞いに来ていた。

「『ここに来れば讃岐にも雨を降らせてくれる』と考えたのですね。しかも香川の人たちは雨が降ったときの姿、つまり蓑笠を着てくる。水を瓶に汲んで帰るときも『水瓶を置いたところに雨が降る』といわれていたので地面に置かず、交代で大事に抱えて帰ったそうです」(下岡さん)

ところどころに大きな切り株があるのは、過去に大木が切り出された痕跡。下岡さんは「私が幼いころ、ここの木を伐るなんて考えられなかった」と嘆く。平田さんは「お金に目がくらんだ人がいたのですよ」と言う。水源の森の木を伐った人は、不思議と事故や病気で急死する「祟り」の話がいくつもあるそうだ。

こうした祟りや民話を「時代後れ」と片づけるのは簡単だ。しかし下岡さんが「妖怪は迷信深い山里の人たちだけの話ではないのです」と口調を強めたように、エコロジーという今日的な概念が生まれるはるか以前から自然を敬い、謙虚に暮らすために生まれた知恵なのだ。

(注3)野鹿池
野鹿池山(標高1294m)の山頂付近にある。ホンシャクナゲとオオミズゴケが見られ、徳島県の自然環境保全地域に指定されている。面積は約10ha。

水がにじみ出る野鹿池。この奥に雨乞いの祠がある

水がにじみ出る野鹿池。この奥に雨乞いの祠がある

狸に化かされた話の意外な理由

妖怪、伝説、祟り……さまざまな伝説ひしめく妖怪村の活動は、行政の補助金に頼らず、独自の財源で運営している。原資の一つが「児啼爺」の商標。水木しげるの漫画『ゲゲゲの鬼太郎』で有名になった妖怪の商標をなぜか山城町がもっていた。合併後に譲り受け、今は株式会社大歩危妖怪村が管理する。同社の社長は「過疎が進んでいるので、地元の役に立ちたい」とかかわるようになった中島義憲さん。グッズ販売で利益を確保し、妖怪の彫刻づくりや視察費用にあてている。

課題はあるが解決策はユニークだ。妖怪村のメンバーで、ホテルや観光遊覧船事業を手がける大歩危峡まんなかの大平克之さんはこう話す。

「ここには日本の原風景があります。妖怪が息づいている雰囲気が今も漂う。だから私たちは行政に『妖怪を殺さないためにも、これ以上開発しないでくれ』と要望しています」

開発を望まないのは「塩さえ手に入ればあとはなんでもつくれるさ」と平田さんが言うように、ここでは皆、よそに頼らず自給自足で暮らしてきた自信があるからだ。妖怪の彫刻だってどこかの会社に発注したわけではない。お年寄りから子どもまで、町民総出でこしらえた。

さらに、狸に化かされた話がそこかしこにあるのも、強い共同体を保つ知恵の一つ。「急に眠くなって、気づいたら朝だった」と言えば「それは狸の仕業だ。災難だったね」と丸く収まる。朝帰りの理由がなんであれ、一人でも欠けたら労働力が失われ、途端に生活は苦しくなる。妖怪を介することで、相手を咎めない「許す文化」もかつてはあった。

険しい山で暮らしつづけるために必要な記憶や知恵。それを途絶えさせないために生んだ妖怪話は、これからも語り継がれていく。

  • 大平克之さん

    妖怪村の活動に携わる大平克之さん。

  • 中島義憲さん

    妖怪村の活動に携わる中島義憲さん。台湾の企業・団体と妖怪を通じた交流・連携もスタートした

  • 「児啼爺」の石像。台座の文字は水木しげるの直筆

    「児啼爺」の石像。台座の文字は水木しげるの直筆

  • 毎年11月に町内で開かれる「妖怪まつり」。住民みんなで楽しんでいる 提供:妖怪村

  • 昭和30年代の大歩危峡 

    昭和30年代の大歩危峡 提供:妖怪村

  • 見事な景観の大歩危峡

    見事な景観の大歩危峡

  • 大平克之さん
  • 中島義憲さん
  • 「児啼爺」の石像。台座の文字は水木しげるの直筆
  • 昭和30年代の大歩危峡 
  • 見事な景観の大歩危峡


(2016年4月14~15日取材)

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