機関誌『水の文化』22号
温泉の高揚

日本温泉文化史

日本 温泉文化史



神崎 宣武さん

民俗学者・旅の文化研究所所長
岡山県宇佐八幡神社宮司
神崎 宣武 (かんざき のりたけ)さん

1944年生まれ。 主な著書に『文明としてのツーリズム』(人文書館、2005)、『まつりの食文化』(角川学芸出版、2005)、『江戸の旅文化』(岩波書店、2004)、『おみやげ贈答と旅の日本文化』(青弓社、1997)、『「湿気」の日本文化』(日本経済新聞社、1992)他。

温泉の保養効果を求めるのは日本人特有の意識

日本人は本当に温泉が好きな民族です。風呂も好きだけれど、温泉には風呂とは違った魅力を感じています。温泉は火山活動が活発な場所に湧きますから、何も日本に限ったことではなく、海外にもたくさんの温泉地があります。温泉に薬事効果があることは昔から知られていましたから、ヨーロッパでは温泉を即利的というか実利的にとらえ、病人を治療するための病院付属施設として発達させました。逆に日本では、そういう発達の仕方は見られません。日本人が「温泉が好き」という場合には、必ずしも薬湯効果にかぎっていないので、海外の傾向から見ると、「なぜ?」という疑問が涌くでしょう。

清浄な水の冬版

ひとことで温泉と言っても、発達の仕方はいろいろです。その中で一番大きな要因は、日本人の「水感覚」にあるように思います。例えば、「水垢離(みずごり)をとる」とか「湯祓(ゆばらい)をする」というのは、神仏に祈願する前に水を浴びて、身を清める象徴的な儀式です。

さらに、水には浄化力があると日本人は思っている。揚子江やドナウ川を見て、水に浄化力があるとはとても思えないでしょう。最初は、急峻な岩場を落ちてくる滝のような水に、我々は浄化力を見出したのでしょう。やがてその意識は、溜まっている水や汲んできた水にも浄化力があると感じるまでに発展します。そこで、禊ぎに水を使う意味が出てきたんです。

ところが日本の冬は寒いですよね。そこで、冬場に穢れを祓う対策として、湯を使う。しかも、湯祓いは入浴だけでなく、呪術者が笹や榊を湯に浸して祓う。ここに日本人の縮小文化というか、したたかな応用力があると思うんです。宗教に拘束されない大らかさでもって、要は、夏用仕立ての水に対して、冬用仕立ての湯があるのです。

私は温泉というのは、どうも「清浄な水の冬バージョン」という意味が強いのではないかと思っています。

だから我々は、ヨーロッパのような科学的な療養ではなく、精神的な再生作用を温泉に求めています。温泉に浸ることによって穢れが消え、元の気が戻るという再生作用を託しているんだと思います。

温泉に入ると気持ちがよくなって「さっぱりした」と言うでしょう。外国人は温泉に入っても、そうは言わない。それは、日本人の水を清浄視する文化が、湯にも転じたからでしょう。したがって、水垢離の変型として温泉浴を捉えることもできると思います。

農村社会の保養

農閑期の湯治も、温泉をとらえる上で忘れてはならない重要な行事です。

民俗行事に、「泥落とし」や「鍬洗い」、「鎌洗い」という言葉があります。これは稲作文化からきた言葉です。集約的な共同作業で行なわれる稲作は、雨が降る時期に一気に田植えをするし、霜が降りる前に一気に刈入れをします。こうした共同作業は、親族や「結」や「講」などと呼ばれるような集落内の集団で行なわれたため、作業が終わって一段落した後に、今風に言えば「さあ、打ち上げをしよう」ということになり、手近な保養施設である近くの温泉に行く、というのは、ごく自然な成り行きだったのだと思います。

日本列島は火山帯の上に乗っていますから、自然の条件として、温泉が各地に分布していて、行きやすいという条件もそろっていました。まあ、稲刈りの後は祭りや冬への備えがありますから、やはり行事化するのは田植えの後になるでしょう。

では、同じ稲作文化圏である他の地域に、日本の農村のような温泉保養が見られるでしょうか。

東南アジアでは二期作が可能なため、作業の時期が少々ずれても収穫にそれほど影響がありません。そのため、日本のような共同作業の発達がなく、みんなで一斉に保養に行くという形態はありません。

また、中国の雲南省あたりは気候条件が日本と近いのですが、残念ながら温泉場が少ない。このように、日本で農事と温泉が結びついたことには、好条件がそろったという理由があるのです。

温泉場が、歩いて半日程の所にある地域では、これが大いに発達します。誰が家に残って、誰が温泉に行くかというのは家族構成により、決して家長だけに行く資格があるわけではありませんでした。家長制が厳しくなったのは、近世以降のことですから。特に冬の寒さが厳しい東北、温泉場が多い中部、四国山地、九州山地では、田植え後の泥落としが盛んに行なわれました。

温泉に行ったからといって毎日酒を飲むわけでもなく、治療のために入るわけでもない。労働を休み、共同で保養する。私の記憶でいうと、昭和50年代の秋田県・玉川温泉、後生掛(ごしょがけ)温泉ではまだこのような保養で訪れる人を見ることができました。昭和50年代といえば、つい最近のことです。

湯船はあるけれど、排水が下を流れているので、オンドル形式ですね。その上に筵(むしろ)を敷いて、みんな自炊で泊まり込んでいました。気の合った者で飲みながら、おばさんたちはごろごろ寝ている。それが一つの集落の泥落としだったりする。「若いの、こっちおいで」と、僕も何回かつきあいました。

5日も10日もそうやっているので、これを宴会といえるかどうか。つまみだって、スルメや鯵を焼く程度だし、御飯を炊いて、野菜の味噌汁と漬け物で食べている。

つまり、家から離れて、労働と休養、ケとハレの区別をつけてきたのが湯治の大きな役割です。

温泉リゾートは上層階級の転地療養

もちろん、皮膚病などの病理的な治療を温泉に求める例もあります。ただし、それはかなり上層階級に限っていたと思います。

京都の貴族が有馬温泉に行ったという伝説が残っています。水と空気がきれいで、景色も良い場所に行って気分転換するという転地に意味があり、お付きの人間がつき従って、何不自由ない生活をするわけですから、今の言葉で言えば温泉リゾートですね。それができるのは上層階級で、庶民が有馬へ行き始めるのは江戸時代からで、寺社詣でがらみの周遊旅行が登場してからのことです。

このように温泉利用の中に上層の療養と、農村の保養が長らく並行して行なわれていた、というのが日本の温泉事情だったのです。

大衆浴

それから浴槽の大きさも、温泉に魅力を感じる大切な条件の一つになりますね。日本人は、温泉というと大浴場でないと納得しません。内湯では入った気がしないのです。つまり、大衆浴と温泉が結びついている。この結びつきの背景には、日本特有の湿気と仏教の影響があります。

現在残る寺には、坊さんたちが入った沐浴堂しか残っていませんが、「一遍聖絵」などを見ると、坊さんが逗留し、人々を教化するために踊り念仏の他にもいろいろなイベントを催しています。その一つとして、湧かした湯を樋で流し、沐浴堂へ入れ、そこに信者を浸からせていた。つまり、仏教の布教の中には、念仏を唱えるだけではなく、中世までは薬事療法や入浴療法が一体となっていたわけです。その沐浴は、同時に何人も入る大衆浴でした。

去年の10月に韓国の温泉視察に出かけたのですが、お隣の国なのに日本と韓国では、大衆浴への意識がまったく違います。韓国では、他人と一緒に風呂に入る習慣は一部の社会を除いてはなく、温泉も例外ではありません。日本人の温泉好きは海外でも有名で、韓国では日本人用の共同風呂を造り、新たに日本人観光客を誘致しようと努力しているところです。

台湾は一周旅行が主流ですが、そこに知本(ちぽん)温泉をコースに組み込み始めています。こちらも、すぐにブレークするでしょう。

温泉周遊旅行の成立

江戸時代も元禄以降になると、世情が安定します。年貢の徴収率も7分3分から3分7分に逆転して、個人の所得が増えました。個人の所得が増えると使い途はだいたい決まっていて、旅行なんですね。

江戸時代は、旅館と食事とが結びついて、一泊二食の旅という概念が定着する時代です。温泉のない所で旅館をやろうとすると、水代と薪代に経費がかかって高くつく。やはり温泉旅館というのが、経営上でも都合がよかった。

ではなぜ、旅館と食事が結びつくようになったのでしょうか。江戸時代には、旅人を一括管理する制度、「宿改め」がありました。暮れ四つ(午後8時)に宿改めをしたとき、一人でも外出していると宿の主人の責任になって営業停止にもなりました。この宿改めは抜き打ちで行なわれたので、旅人を外で飲み食いさせるわけにはいかず、宿で食事を用意するようになったのです。一泊二食のスタイルが生まれ、みんなが四六時中同じ顔をつきあわせて食べることになる。そこで、「まぁ今日ぐらいはパーっとやろう」と、宴会が始まるのも自然な流れです。そして、宴会の開始時間をそろえるためにも、大きな浴槽で一気に入浴させてしまうというのは、合理的な考えだったわけです。

温泉湯治といいながら、実は温泉立ち寄り旅行が行なわれていたのが、江戸時代中期以降です。湯量があり、風光明媚、人口の集住地や主要街道に近い所に旅館街が発達します。そうなると温泉湯治も、1週間も10日も滞在するという性格ではなくなります。例えば、江戸から伊勢参宮して、帰りには中山道を通り温泉に寄っていこうとなる。温泉は1泊2日で多目的旅行の一つになり、夜にはハイライトとして宴会が行なわれました。

この当時の周遊旅行成立の裏には、「御師(おし)」の存在があります。御師とは寺社詣でを手配する総合旅行業のようなもので、自分の縄張りを持ち、各寺社ごとに系列化していました。遠隔地をまとめる頻度は少ないけれど、範囲はほぼ青森から鹿児島まで広がっていました。例えば伊勢神宮の門前には、最盛期で670人ほどの御師職がいました。つまり、今でいえば670の旅行業者があったということです。

彼らは全国に出向いて、伊勢講をつくらせました。講費を積立てさせ、講費の中から3人とか5人を輪番で、あるいは4つ5つの村を合わせて20人、30人ぐらいの団体にしてお伊勢参りを企画しました。こういう庶民の旅が発達する背景には、旅行業者の営業力があります。

関東からですと、伊勢参宮にはスムーズにいっても往復で40日かかりました。しかし伊勢まで行って、真っ直ぐ帰る人はいないでしょう。金比羅様まで足を延ばす人もいたようですが、多くは京都に行って、中山道で帰ってくる。そうすると大体50日くらいかかります。それぐらいだったら、農閑期に行って来られるわけです。

信州長野の善光寺、その参道に並ぶ店々には「全国からの参拝客を迎えるぞ」といった気構えがある。

信州長野の善光寺、その参道に並ぶ店々には「全国からの参拝客を迎えるぞ」といった気構えがある。

「宿改め」は間接管理

少し話題が逸れますが、「宿改め」は城下町では町奉行所が、小さな宿場では代官所が行ないました。時代が下ると形骸化するのですが、年に一回であっても、そのときちゃんとしていないと営業停止となりますので、宿の主人にとっては怖いことでした。

幕府の施策は、このような間接管理が上手だったんですね。宿屋の主人に責任を負わせてしまう。この他にも、村の坊さんには戸籍管理をさせ、年貢の徴収は庄屋や名主に、警察は十手持ちにさせる。江戸時代が長く続いたのは、権力者が末端まで出てこないことに一因があったかもしれません。今は逆に、全部お上任せになっているわけですが、本来、日本的な規範では、土地のことは土地で管理するものでしょう。

ですから日本社会では、「長」という役につくことは、リスクの大きいことでした。よく地主と小作の対立というけれど、言われるほどの対立はありません。もちろん地主は大きな家に住んで使用人も多かったのですが、年貢の徴収は地主が代理管理していたから、払えない者が出ればその帳尻は持ち出しで補填していました。

さらに、菅江真澄(すがえますみ)(1754〜1829)や、古川古松軒(ふるかわこしょうけん)(1726〜1807)など、当時の文人墨客の旅日記を見ると、泊まるのは庄屋や名主の家です。宿泊中の負担を庄屋は全部賄い、出立するときは簡単な路銭を渡して送り出す。だから、日本中どこへ行っても、掛け軸やふすま絵や額が残っています。今で言う企業メセナを、それぞれの土地の顔役がやっていたわけです。そういうサロンのネットワークがあったことも旅行文化の背景として考えておくべきでしょうね。

庶民は、時代劇で出てくるようながんじがらめの拘束はなく、団体で泥落としに行ったり、伊勢参宮したりということが、規模に見合った形で行なわれていました。治水家としても有名な田中休愚(きゅうぐ)という幕府の役人が書いた『民間省要』という記録があります。お上の側から建て前として書いているのですが、「旅に出てはならん、遊んではならん」と書いたあとに、「ただし回国修業として巡礼、信仰の旅に出る者多数あり」と記し、さらに「農民は労働の後の湯治あり」と書いている。結局、公に認めることはできないけれど、寺社詣でと温泉湯治は、黙認される2つの方便だったということです。

江戸時代の制度は、間接統治と連帯責任ですが、それに沿っていれば、反乱を起こさない限り旅は許された。それで閑期に団体で旅に出て、ガス抜きができたというわけです。

十四代将軍徳川家茂夫人となった皇女和宮(静寛院宮)が静養した箱根塔ノ沢の環翠楼。

十四代将軍徳川家茂夫人となった皇女和宮(静寛院宮)が静養した箱根塔ノ沢の環翠楼。銘木を使い、数寄屋をはじめ、総もたせなど建築的にも重文クラス。夏には、前に流れる早川の冷たい水を使った冷水クーラーが自然な風を送り出す。

湯女の登場

「行くの地蔵に帰りの観音」というくらいで、行く時は団体を崩さずに伊勢まで行き、帰りはばらばらで遊びたい奴は遊ぶ。宿場町は風俗が規制されていましたから、1つの旅篭に飯盛り女が2人、と決められていました。

しかし温泉地はその法規制がありませんでしたから、箱根の湯本とか有馬、諏訪といった大きな温泉宿場には垢擦りをする女性が現れました。「湯女(ゆな)」という女性が男について湯殿に入り、背中を流し垢を落とす。これも日本の特徴ですね。これは時々禁止もされますが、形を変えて、また営業が再会される。で、馴染めば当然話がそういう風にもなるわけで、膝枕でお酒を飲んだりと。

湯女が禁止されると男の垢擦りが登場し、これが「三助」です。

軍隊と宴会・温泉

温泉についてだけではありませんが、明治時代の風俗には、軍隊が大きい影響力を持ちました。

女遊びでも、お金と時間の無駄とも見える消費が粋だったわけで、江戸の遊郭・吉原の大店では、3回上がらないと手も足も出せませんでした。まぁ、ある種のお見合い期間があったわけです。ところが軍隊が客になることで、宴会の形式が変わり、宴会の手順も簡略化されました。

岡山に中島遊郭という所があり、そこの楼主が江戸時代生まれで、明治期をすごして料理屋兼置屋をやっていましたが、その日記にも「明治では、役人と軍人がいばる」ということが書いてあります。

日清・日露戦争の勝ち戦を経て、官僚閥、軍閥が力を持っていく過程で、宴会が非常に多くなりました。出兵、凱旋と、何かにつけて宴会が開かれました。無礼講というのは、礼講があって成り立つ言葉ですが、すべてが無礼講になってしまったわけです。

飲酒の習慣も、軍隊に行った人が帰郷することで全国に広まりました。もともと農村社会では酒は行事のときしか飲みませんでした。それが日常的に飲まれるようになり、さらに鉄道ができて酒の商品流通も発達します。

日本の酒造量は、明治30年代に急速に増えています。祭りのときの酒は自家醸造ですから、村人相手に酒をつくっても商売にならなかったのに、戦争を機に、全国津々浦々に酒蔵ができたのです。

ただ、こういう軍人の宴会と無縁だった遠隔地の温泉は、古くからの農民の保養場としての泥落としが近年まで残ることになりました。ですから、明治の文明開化によって、温泉地も変わる所と、変わらない所に分かれてきます。

外国人向けリゾート

温泉のもう一つの新しいスタイルは、外国人向けのリゾート地です。明治政府がつくったツーリストビューローは、「外国の要人たちを庶民社会に混入させない」ために、外国要人向けの特殊な高級リゾート地をつくって隔離する機能を果たしていました。観光立国の意味あいとは、まったく違います。当時は箱根や日光、湘南、関西でいうと堺の海岸、芦屋、宮島などが開発され、洋式ホテルが造られました。温泉で外国人観光客向けの保養地となった所に、今日でも品格を持った温泉旅行に耐えるホテルが残っています。

東京の近辺でいいますと、日光の金谷ホテル、箱根の奈良屋ホテル、富士屋ホテル。共通しているのは、国立博物館のような建物ですね。

また、ツーリストビューローは、温泉地だけでなく近辺を外国要人向けに別荘分譲もしましたから、格上の別荘地として残っているところもあります。

このように温泉は、いくつかの要素が重なって発展、変遷を経ましたが、農家の泥落としからなる温泉は連綿と続いていて、情報化時代に入ると「秘湯」として取り挙げられるようになります。その契機が、ディスカバージャパンでした。

箱根宮之下の富士屋ホテル。外国人から見た日本趣味の和洋折衷建築。

箱根宮之下の富士屋ホテル。外国人から見た日本趣味の和洋折衷建築。ホテルの周りには、古伊万里や刀剣を扱う骨董屋が立ち並ぶ。

ディスカバージャパン

ディスカバージャパンキャンペーン(1970)の特徴は、女性を動員したということです。特に箱根宮之下の富士屋ホテル。外国人から見た日本趣味の和洋折衷建築。ホテルの周りには、古伊万里や刀剣を扱う骨董屋が立ち並ぶ。若い女の子が動いたことが、温泉地を大きく変えました。

それまでも女性が温泉に行ってはいた。ただ、大らかだった江戸時代よりも、むしろ「婦人は銃後の守り」という厳しい教育がされた明治、大正、昭和の前半のほうが女性とって厳しい時代でした。

それが高度成長期に入ると、女性の動員が図られるようになります。温泉でくつろいでいる女性の写真がいたる所で目につくようになると、男性もつられて温泉地へ行くから入り込み客(注1)がものすごく増える。それで設備投資が進んで、温泉旅館の大規模化、立て直しが進みました。

また、企業の招待旅行というのは新しい形でしたね。例えば、家電メーカーが全国の小売店を招待して温泉地に行った。このように、やはり経済の高度成長は日本の温泉地をがらりと変えた大きな要素になりましたね。

交通が発達すると、ほとんどが一泊旅行になって、その日の晩に宴会を開くことが必要になります。温泉旅行イコール宴会となるのは、1970年代からですよ。温泉旅館が、どんどん温泉観光ホテルに変わるんです。

ここで指摘しておかねばならないのは、その土地における温泉の役割が変わることです。

どぼんと温泉に浸かって宴会するのは以前と同じですが、業者が儲けても、その土地への分配、還元は増えません。例えば、エンターテインメントと称して、温泉やそれにまつわるすべての商売を、自分の宿・土地の中に囲いこんでしまう。朝市までも、自分の所のロビーで開く。そういう宿泊施設の大型化の蔭で、消えていく旅館も出てきました。

飯坂温泉がいい例です。昭和60年代の調査では、100年の歴史を持った旅館で生き延びたのは約6割でした。外部資本が入り、設備投資できないところは、潰れていきました。全体の入り込み客数は増えているので、大きい所に集中しているわけです。

一方、今でも小さな旅館がたくさん残っている温泉地もあります。そういう所が生き延びたのは、不便で入り込み客が少ないからです。その理由の一つに、不便なところにはマスコミも取材に行かないということもあります。

そうなると、マスコミの付加価値に注目が集まり、マスメディアにどう露出するかが生き延びの課題と考えられるようにもなってきます。このように温泉と温泉地とマスメディアがリンクし出した、象徴的なきっかけがディスカバージャパンでした。

マスコミとつながるようになると、料理も不必要に贅沢になる。旅館であれば日常の料理よりは手がかかっていて、一汁一菜でないのは当然ですが、高度成長期の温泉旅館は不必要なまでに料理を膨張させました。二の膳が普通になり、十品以上が基準になりました。それは日本の庶民の食習慣には無かったこと。要するに成り上がっただけで、個人で泊まれば1泊2万円、3万円にもなりました。

これが、これからどう生き延びるかですが、料理のこけおどしの時代はもう終わったでしょう。飽食の時代ですから、飽食以上の料理を出そうとすれば品数と見栄えしかなかった。その意味で、味という文化は遅れをとった。温泉旅行で本当に味で売り出せる所がどれほどあるか。期待は、これからではないですか。

(注1)入り込み客
観光業界では、統計的に把握された観光客数を入込客と呼ぶ。一般には日帰り客数と宿泊客数の合計で、この入込客数を増やすことが地域観光政策の目的となっている。

温泉に対する共同幻想をどう維持するか

現在の日本の場合、薬湯というのはあまり意味がない。成分にはあまり依存しません。滞留期間が短いですから、一晩入ったからといってそれが効くとは誰も思っていません。しかし、「温泉に入って癒された」とは思っている。

日本人の温泉好きというのは、言ってみれば共同幻想です。だから湧出量よりも、むしろ「温泉という共同幻想をいかに持続させるか」が大事なことです。

江戸時代にも温泉のガイドブックがあって、その本が共同幻想を相当膨らませました。そして、科学的な情報というのはほとんど提供されてこなかったにもかかわらず、癒されたとみんなが思っています。厚生省(当時)が決めた基準があっても、温泉に行ってそれを確かめている人はいませんでしょ。つまり、癒しという意味での共同幻想は江戸時代からずっと続いており、「日本人の温泉好き」という形で今まで維持されてきたことは間違いありません。

岩が刳り貫かれた、伊豆は大滝温泉の天城荘「子宝の湯」。

岩が刳り貫かれた、伊豆は大滝温泉の天城荘「子宝の湯」。伊豆は大滝温泉の天城荘「子宝の湯」。温泉の効用の一つとして、子供が授かるようにという期待は大きかった。

温泉は非戦闘文化

こうしてみていくと、温泉という概念や現在の温泉地が、一言で語られにくい理由がわかってきます。つまり、初めに求められた機能も違えば、発展のプロセスも多様であり、それらが混じりあって今の姿になっているからです。逆に言えば、温泉そのものは変らずにあって、回りを取り巻く我々の思惑や利用の形態が変化したために、温泉の性格が多様化したということもできます。

そうした意味からいえば、温泉はこれからもどんどん変化する可能性を秘めているということです。

しかし、日本人の大衆浴文化が世界に広まるかというと、それはないでしょう。裸で他人と接するということは、非戦闘文化の賜物で、海外に目を転じれば、裸で交わるなどということはありえない。古代ギリシアやローマの例はありますが、あれは自分に敵意のないことを表示しているわけです。裸を見せあって議論をし、議会運営をする。それと、日本の温泉は根本的に違いますからね。

そういう意味で、日本人は、戦闘心とか敵愾心が少ないという、きわめて不思議な民族です。早い時代に一言語に統一されたことが大きな原因でしょう。江戸時代の参勤交代は、文化の均質化に非常に貢献しています。言語が違ったら警戒して、こうはいかなかったでしょう。

それと似た状況が現代の中国で、十数億人が一つの言語で話しつつある。脅威的なことですよ。それを日本は江戸時代に、期せずして見事にやったということです。



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