機関誌『水の文化』37号
祭りの磁力

《水の信仰・祀り・祭り》

古賀 邦雄さん

水・河川・湖沼関係文献研究会
古賀 邦雄(こが くにお)さん

1967年西南学院大学卒業。水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)に入社。30年間にわたり水・河川・湖沼関係文献を収集。2001年退職し現在、日本河川開発調査会筑後川水問題研究会に所属。
2008年5月に収集した書籍を所蔵する「古賀河川図書館」を開設。

何故、人々は年の初めに神社に参るのだろう。2011年もまた、日本の多くの人たちは家族連れで神社に参拝した。家族の無病息災、家内安全、五穀豊穣を祈った。その心底に流れる心裡は家族の幸せである。幸せになりたい願望である。

古代人は山に、川に、海に神を見ていた。太陽や月に、大樹や巨岩にも神をみた。森羅万象に神が宿る思想である。そして、人々は森羅万象の神に祈った。あるお婆さんは、起床して、先ず手と顔を洗い、口を漱ぎ、ベランダから東に向かって、日の出に手を合わせ、夕方には、西に向かって夕陽に祈った。それは太陽が上がろうが関係なく、一生涯祈り続けた。その娘さんが帰るときに、「今日は夕陽がきれいだから、拝んで帰れや」と言われたという。現在ではこういう人は極端に少なくなった。

巨岩にも神が宿る。辰巳和弘著『聖なる水の祀りと古代王権−天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡』(新泉社 2006)は、静岡県引佐(いなさ)(現・浜松市)井伊谷(いいや)地区の神宮寺川流域に巨岩群が連なり、この地における神の祭祀にかかわるその発掘調査である。巨岩群は渭伊(いい)神社の背後を護るように盛り上がった小丘陵地・薬師山のいただきにある。「祭祀場は岩の巨大な壁が屹立する側を除く三方が神宮寺川に囲繞(いにょう)されている。川の瀬音は磐座の岸壁に跳ね返り、そこで祭祀を実修する祝(はふり)らを四方から包み込む。そこが水の聖地であることが体感される」と述べる。さらに著者は「渭伊神社々前の広場から神宮寺川へ、急傾斜の細い道をくだる。川を横切る堰が設けられ、塞き上げられた水は左右両岸に築かれた用水路を経て分水され、井伊谷盆地内の過半の水田を潤し稔りをもたらす。磐座をいただく薬師山は井伊谷盆地の喉元、水分(みくまり)の地を占めている。井伊谷に住む人びとの命の源。換言すればそれは《うぶすな(産土)》の地でもある。それこそ、古代人がここを神の座と定めた第一の要素であったとわたしは結論づけた。そこに祀られた神が「水の神」「井の神」であったということはいうまでもない。…神宮寺川と薬師山からなる水分の地という空間のなかで、カミ祀りにもっとも適した場として岩群れとそれをとり巻く環境が選択されたのである」と。このように神聖な祭祀場となる必然性を分析する。余談であるが、この井伊谷地区は徳川幕府の譜代大名井伊家の発祥の地でもある。

さらに、古代人の水辺の祭祀に関する書に、森浩一他著『水とまつりの古代史』(大巧社 2005)、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館編『水と祭祀の考古学』(学生社 2005)がある。この2書は、水の祀りを治水や灌漑の土木技術から捉えており、古墳時代集落での導水施設のあり方、古墳での導水施設形埴輪のあり方、導水施設の埴輪化の意義、導水と湧水祀りの観点から論じる。古代人の神聖なる水の祀りの場に、現代にも繋がる導水施設という高度な技術力が発達していた。導水施設が農業用水、飲用水だけでなく、むしろ祀りのために敷設され、それが重要な役割をもっていたことに驚嘆する。

  • 『聖なる水の祀りと古代王権−天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡』

    『聖なる水の祀りと古代王権−天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡』

  • 『水とまつりの古代史』

    『水とまつりの古代史』

  • 『聖なる水の祀りと古代王権−天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡』
  • 『水とまつりの古代史』


水分神社について、白井永二・土岐昌訓編著『神社辞典』(東京堂出版 2005)には、水分神は、流水を司る神で、「くまり」は「配り」を意味する。この神は速秋津日子(はやあきつひこ) ・速秋津比売(はやあきつひめ)2神御子神とされ、天之水分神(てんのみくまりのかみ)と国之水分神(くにのみくまりのかみ) の2柱がある。この水分神を奉斎するのが水分神社で、葛木水分神社、吉野水分神社、宇太水分神社などがあり、朝廷より五穀豊穣を祈願されている。

菅田正昭著『日本の祭り』(実業之日本社 2007)に、生活の重要な節目で、祭場を設けて神の降臨を仰いで祀り、祭りが執り行なわれ、やがて恒常的な祭りの施設、神社がつくられるようになったとある。

日本の祭りは必ず神が中心であり、神社が場である。その神社に神がやってくる。その神の訪れを「待つ」のが「祭り」の起こりであるといい、「きよめ」「みゆき」「きそい」「わざおぎ」「おくり」で表わされる。「きよめ」は、穢(けが)れを排して清浄を重んじ、神の前に出るためである。「みゆき」は神霊が移動することである。

祭りで神輿(みこし)や山車(だし) が登場すれば、御幸祭である。「きそい」は、祭祀共同体の成員集団の吉凶を占うために行なわれる。綱引き神事は海方と陸方の競争で、勝ったほうに豊漁、豊作が予祝される。技をヲぐ(招く)のが「わざおぎ」であり、芸能で神や人の心を和ませるものである。古代人は田植えでも笛や太鼓を打ち鳴らし、唄を歌って田の神の心を弾ませ、豊作を祈ってきた。「おくり」は、神を迎えて、人との交歓が済むと、神を天や海の彼方などに帰ってもらい、神送りの儀礼で送る。「おくり」の祭りには、アイヌ民族の「イヨマンテ」(熊送りの意)がある。アイヌ民族にとって、熊は山に棲む神であり、人間に毛皮や肉を贈って帰っていくとされ、踊りを舞って別れを惜しみ、鄭重に送られる。

加藤健司著『日本祭礼民俗誌』(おうふう 2000)、岡村直樹著『とっておきの里祭り』(心交社 2008)に網羅される全国の祭りの中から幾つかを追ってみたい。

岩手県奥州市にある於呂閉志(おろへし)神社において、例年4月20日前後の大安の日に胆沢平野土地改良区主催の「円筒分水工放水式」が行なわれ、胆沢平野9300haに水が入る。円筒分水工は、複数の水路に公平に水を配分する現代の水分(みくまり)である。そこにはミクマリの神が舞い降りてくるようだ。地元の西風(ならい)神楽保存会によって、神楽が奉納され、式典は終わる。

長野県上田市の西南、別所温泉で行なわれる「岳(たけ)の幟(のぼり)」は、旱魃(かんばつ) に悩まされてきた塩田平の農民たちの雨乞い行事である。太い竹竿に青笹のついた細竹を結び反物をつけて幟(のぼり)とし、毎年7月15日に近い日曜日、別所温泉の西に聳(そび)える男神岳(標高1250m)の水神である山頂九頭龍権現に雨乞いを祈願する。

兵庫県三田市上本庄に鎮座する駒宇佐八幡神社では、慈雨への願いを一途に「雨乞いの百石踊り」が奉納される。氏子8カ村が武庫川上流の4カ村の上谷、下流の4カ村の下谷の二組に分かれ、年番交代で神社に奉納する。

  • 『とっておきの里祭り』

    『とっておきの里祭り』

  • 『日本の祭り』

    『日本の祭り』

  • 『とっておきの里祭り』
  • 『日本の祭り』


雨乞いで有名なのは、埼玉県鶴ヶ島市の「脚折(すねおり)の雨乞い」祭りである。麦の穂と竹でつくられた龍蛇は神官によって入魂され、龍神となる。長さ36m、重さ300kgもある龍神を、太鼓やホラ貝の音を先頭に、300人の担ぎ手が雷電池(かんだちがいけ)へ運び、板倉雷電神社から前日いただいてきた水を池に注ぎながら、担ぎ手と一緒に池に入っていく。「雨ふれたじゃく、ここにかかれ黒雲」の願いの声とともに、龍神は水しぶきを上げながら、池の中を数度回り、最後に解体される。このとき龍神は天に昇って黒雲と雨を呼ぶという。4年に1度の祭りであり、この脚折の雨乞いを描いた児童書に、秋山とも子文/絵『雨をよぶ龍』(童心社 2009)がある。

宮澤和穂著『戸隠竜神考』(銀河書房 1992)によれば、密教の霊場、修験の山として、神社としての戸隠のルーツはあくまで水神としての龍神であり、それは降雨の神であり、治水の神であり、即ち農業の神であったという。また雷については、青柳智之著『雷の民俗』(大河書房 2007)にくわしい。隣の韓国でも雨乞い行事は古くから行なわれている。任章赫著『祈雨祭−雨乞い儀礼の韓日比較民俗学的研究』(岩田書院 2001)では、雨乞いを仕切る王が雨を呼ぶことができなかった場合、「農民から殺される運命であった」と論じる。雨乞いの祀りは、あまりにも過酷であつた。

  • 『雨をよぶ龍』

    『雨をよぶ龍』

  • 『祈雨祭−雨乞い儀礼の韓日比較民俗学的研究』

    『祈雨祭−雨乞い儀礼の韓日比較民俗学的研究』

  • 『雨をよぶ龍』
  • 『祈雨祭−雨乞い儀礼の韓日比較民俗学的研究』


大阪天満宮文化研究所編『天神祭−火と水の都市祭礼』(思文閣出版 2001)によれば、天満宮は「学問の神様」菅原道真を祀るが、天神信仰は平安中期に成立し、疫病や凶作の流行を退散、平癒を約束する「疫神」であった。学問の上達を祈願する習慣は一般庶民が教育の必要性に目覚めて以降であるという。大阪府北区の天神祭は7月24日に宵宮、25日に本宮が執り行なわれる。午前4時、一番太鼓と一番鉦が響き渡り、本殿で宵宮祭が行なわれ、続いて白木の神鉾(かみほこ)を携えた神童と供奉人(ぐぶにん)たちの長い行列が斎場まで練り歩く。斎船が堂島川の中央まで漕ぎ出され、神童の手で神鉾が流され、祭りの無事と大阪の繁栄が祈願される。本宮では午後7時から天満橋上流大川を舞台に水上祭・船渡御(ふなとぎょ)が行なわれる。京都・祇園祭の山鉾巡行が洛中の町並みを舞台にした祭礼であるのに対して、天神祭の船渡御は水の都・大阪の都市空間の魅力を最大限に生かした祭礼である。

福岡県田川市の風治(ふうじ)八幡神社と白鳥神社の川渡神幸祭は、5月第3日曜日とその前日に、神社から約1km離れた遠賀川(おんががわ)水系彦山川で行なわれる。田川郷土研究会編・発行『川渡り神幸祭−福岡県における川渡り神幸行事調査報告書』(2000)によると、緋の旗さし物の幟山笠や、太鼓山車11台を鉦や太鼓の囃子(はやし)も勇ましく、川幅70mを渡って、川向こうの御旅所(頓宮)に行く。起源は永禄年間(1558〜1569)悪疫流行の際、御願成就の御礼に始められたという。

  • 『天神祭−火と水の都市祭礼』

    『天神祭−火と水の都市祭礼』

  • 『川渡り神幸祭−福岡県における川渡り神幸行事調査報告書』

    『川渡り神幸祭−福岡県における川渡り神幸行事調査報告書』

  • 『天神祭−火と水の都市祭礼』
  • 『川渡り神幸祭−福岡県における川渡り神幸行事調査報告書』


以上、幾つかの書により、日本の水祭りを追ってきた。想うことは、日本の自然の豊かさ、そこに古代人は神が宿ると神聖化し、それを崇拝しながら祀ってきた。幸福を願ってきた。このことが現在まで、祭りが各地域において綿々と継続されてきた根幹と、いえるであろう。

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