機関誌『水の文化』72号
温泉の湯悦

温泉の湯悦
【見て歩いて温泉街】

集中管理の「湯」が支える 浴衣で楽しむ「外湯巡り」
──昔ながらの温泉情緒を保つ城崎温泉

717年(養老元)に当地へやってきた僧侶、道智上人(どうちしょうにん)が難病の人々を救うため千日間の修行を行った末、720年(養老4)に温泉が湧き出した―それが城崎(きのさき)温泉開湯のいわれだ。西の名湯として有馬温泉とともに上位にランクされており、明治時代まで湯治客が多かった。山あいを流れる川沿いの小さな温泉街は、どのように魅力を維持してきたのか?「共存共栄」を旗印とする名湯の今昔を見る。

大谿川に沿って伸びる城崎温泉の中心部。浴衣を着た人の比率が非常に高い

大谿川に沿って伸びる城崎温泉の中心部。浴衣を着た人の比率が非常に高い

大正時代の大震災でまちをつくり直す

情緒あふれる大谿川(おおたにがわ)沿いの柳並木は、城崎(きのさき)温泉を象徴する風景だろう。JR城崎温泉駅から5分ほど歩くとこのメインストリートがあり、川の両側に古い木造建築の宿が建ち並び、さまざまな商店も軒を連ねる。川にかかるいくつもの太鼓橋では、観光客が浴衣姿で楽しそうに写真を撮り合っていた。

現在のこの街並みは、1925年(大正14)、城崎温泉に壊滅的な被害をもたらした北但大震災の復興事業によるものだ。

「震災でまちがぺしゃんこになりましたが、当時の都市計画に基づいた区画整備を行ない、防災の観点から川幅や道路を広げました。みんなで寄付し合ってなんとか木造のまちを復活させたのが、今の城崎温泉のスタートです」

そう話すのは、城崎温泉観光協会文化部長の片岡大介さん。片岡さんは創業300年の宿「三木屋」の十代目だ。城崎温泉の名が初めて文書に登場するのは『古今和歌集』。江戸時代には、医師の香川修徳(しゅうとく)が城崎を「日本一の温泉」と評価したことで、湯治場として人気が高まり、多くの客を集めたという。

片岡さんによると、城崎の湯は皮膚病に効くとされており、町内に複数あった外湯(共同浴場)は、泉質が最もよいものが「上等湯」、そして「二番湯」「三番湯」などランクがあったそうだ。江戸時代には身分の違いで入れる風呂が分かれていた、という話もある。

  • ロープウェイの山頂駅から城崎温泉を望む。山にはさまれた細長い地形だ。奥を流れるのは一級河川の円山川

    ロープウェイの山頂駅から城崎温泉を望む。山にはさまれた細長い地形だ。奥を流れるのは一級河川の円山川

  • 城崎温泉

  • 城崎温泉観光協会の文化部長を務める片岡大介さん。
志賀直哉ゆかりの宿「三木屋」の十代目

    城崎温泉観光協会の文化部長を務める片岡大介さん。 志賀直哉ゆかりの宿「三木屋」の十代目

  • 城崎温泉に7つある外湯のうち、中心的存在の「一の湯」

    城崎温泉に7つある外湯のうち、中心的存在の「一の湯」

集中管理方式で温泉を一括管理

城崎温泉の醍醐味は、それぞれ趣の異なる7つの外湯を巡る「七湯巡り」だ。そして今日、それを支えているのは「湯」を集中管理する独自のシステムである。

湧出量に限りがあった城崎温泉には、昔から温泉を共有財産と考える「共存共栄」の精神がある。各旅館には、内湯や売店を設けないのが暗黙のルールだった。内湯をつくれるのは財力のある宿だけ。そうすると格差が出てしまう。売店がないのは、観光客に街なかの商店を使ってもらいたいからだ。そのため宿泊客が宿だけに留らず、城崎温泉はいつも街なかが賑わっていた。

ところが大正時代になり湯治客が減少すると、経営にかげりが見えはじめる。他の温泉地に客を奪われないように「内湯をつくろう」という声も出た。それが当時の三木屋の当主、片岡さんの曽祖父だった。

当然まち側は反対し、1927年(昭和2)に訴訟(注1)にまで発展する。戦争をはさみ1950年(昭和25)に和解が成立。宿の収容人数に応じて浴槽の大きさに制限を設けることで、内湯の設置が認められた。しかし内湯はとても小さなものなので、「外湯中心」であることは変わらなかった。

和解成立後に新たな泉源を開発して生まれたのが城崎独自の「温泉集中管理方式」だ。湯の維持管理を城崎町湯島財産区(注2)が一括して行なうものである。

「町内にある3つの泉源から湧き出した湯を、いったんタンクに集めて温度を安定させます。そこから道路下に埋めたパイプで各旅館や7つの外湯に配湯します。使われなかった湯はまたタンクに戻るようになっています。泉質はどこも同じ。城崎は湧出量の問題もあったので、少ない資源を有効活用する目的もあったのでしょう」と、旅館「錦水(きんすい)」で20年以上店主を務める大将(たいしょう)伸介さん。城崎町湯島財産区の議員でもある。

なお、配湯パイプの通っていないエリアには、タンクローリーなど車を用いて湯を配る。2016年(平成28)、城崎に開業した「大江戸温泉物語 きのさき」もその一つだ。「当初は大手の進出に危機感もありましたが、昔からの城崎のルールを説明したところ、それを尊重してくださいました。その結果、新たな層の集客につながっています」と片岡さんは言う。

(注1)訴訟
「城崎温泉内湯訴訟事件」。当時、老舗旅館・西村屋の当主が町長を務めていたことから、西村屋を代表するまち対三木屋の形となり、戦前から戦後まで20年以上続く裁判に発展する。

(注2)財産区
財産区とは、市町村の一部で財産や公の施設などの管理を行なう特別地方公共団体。城崎温泉の場合、温泉の利用権はすべて「城崎町湯島財産区」にある。

  • 3つの泉源から集めた湯を溜める配湯タンク。180m3と100m3の2基がある

    3つの泉源から集めた湯を溜める配湯タンク。180m3と100m3の2基がある

  • 配湯タンクから湯を取り出し、配湯パイプの通っていないエリアに湯を運ぶトラック

    配湯タンクから湯を取り出し、配湯パイプの通っていないエリアに湯を運ぶトラック

  • 城崎温泉の道路にある配湯パイプの点検口。中心街には配湯パイプが張り巡らされている

    城崎温泉の道路にある配湯パイプの点検口。中心街には配湯パイプが張り巡らされている

  • 旅館「錦水」の店主、大将伸介さん。城崎町湯島財産区の議員を務めている

    旅館「錦水」の店主、大将伸介さん。城崎町湯島財産区の議員を務めている

「浴衣」や「文学」で城崎らしさの創出

城崎ならではの仕掛けの一つに、「浴衣でのまち歩き」がある。宿にチェックインしたらまず好きな浴衣を選んでもらい、それに着替えて外湯を巡ることを推奨している。カラフルな浴衣姿で歩く人を多く見かけるのは、このためだ。

これは女性が安心して滞在できる温泉地を目指し、30年ほど前から全館で始めた取り組みで、これにより日本文化を体験したいインバウンドも増えた。一般的に浴衣は館内着のような位置づけで、城崎のようにかわいらしい浴衣でまち歩きができる温泉地は珍しい。外国人観光客も、ここならみんな浴衣だから堂々と歩ける。

しかも浴衣の柄で宿がわかるようになっており、仮に財布を忘れて飲みに行っても、部屋番号を申告すればツケが効くらしい。なんともアットホームだ。

2013年(平成25)には、「本と温泉」という地域密着の出版レーベルを立ち上げた。城崎温泉といえば冬場のズワイガニ料理が名物だが、カニ以外でPRできるものを、と打ち出したのが「文学」だった。城崎は作家の志賀直哉がケガの養生で訪れて以来、生涯にわたり足を運んだ場所だ。かの有名な『城の崎にて』は、三木屋の一室で執筆された。

「本と温泉」からは4冊が出版されている。毎回城崎温泉に縁のある作家が、城崎をテーマに書き下ろす。実際に足を運んでもらいたいので、販売は城崎温泉限定。いずれの作品も、また城崎の街を歩いてみたいと思わせる内容だ。

こうした仕掛けを中心となって考えるのは、片岡さんや大将さんなど各旅館の若手経営者で構成される「城崎温泉旅館経営研究会」(通称「二世会」)のメンバーだ。片岡さんは次のように話す。

「決して豊富ではない温泉を共有財産と考えてきた城崎では、無理に旅館を大型化しませんでした。昭和の高度経済成長期やバブルのころ、みんな本心では建て替えて規模を拡大したかったと思うのですが、共存共栄を守ったから今がある。無秩序な開発をしなかったことで希少価値の高い木造3階建ての温泉宿が多く残り、それが魅力となっています。これからも、つなぐべきものはつないで、新たな価値も打ち出していければ」

城崎の街を歩いていると、カランコロンという下駄の音が心地よく耳に響く。訪れた際は、浴衣でそぞろ歩きを楽しんでほしい。

  • 三木屋が宿泊客に貸与している色とりどりの浴衣。宿によって柄が異なる

    三木屋が宿泊客に貸与している色とりどりの浴衣。宿によって柄が異なる

  • 「本と温泉」が発刊した書籍。作家の万城目学や湊かなえなどが城崎温泉を舞台にした小説を執筆。凝った装釘も楽しい

    「本と温泉」が発刊した書籍。作家の万城目学や湊かなえなどが城崎温泉を舞台にした小説を執筆。凝った装釘も楽しい

  • 志賀直哉が『城の崎にて』を執筆した旅館「三木屋」の古写真。北但大震災以前のもの 提供:三木屋

    志賀直哉が『城の崎にて』を執筆した旅館「三木屋」の古写真。北但大震災以前のもの
    提供:三木屋

  • 志賀直哉が好んで泊まった三木屋の一室

    志賀直哉が好んで泊まった三木屋の一室

(2022年8月29〜30日取材)

Column
奇跡や奇譚を求める人の心と開湯伝説

齊藤 純さん

天理大学文学部教授
齊藤 純(さいとう じゅん)さん

1958年京都府生まれ。1986年筑波大学大学院修士課程修了。兵庫県立歴史博物館学芸員などを経て2006年から現職。専門分野は博物館学、日本民俗学。

城崎温泉は道智上人が開いたと伝わっていますが、道智上人そのものは実在したのかはっきりしないそうです。城崎温泉と同じように日本各地に開湯に関する伝説・伝承があります。人物としては弘法大師(空海)や行基、北陸では親鸞といった高僧、武将では源頼朝、武蔵坊弁慶などが挙げられます。

開湯にまつわる人物に共通するのは、身分や立場が上の人で、しかもその土地の人ではないこと。どこかからやってきて、どこかへ去っていくんですね。柳田國男は「もともとは神様だったのだろう」と考えます。それが、時が経つにつれて忘れられ、ちょっとただならぬ雰囲気をもつ旅の人に置き換えられたのではないかと。

一方、「動物」に導かれて温泉を発見したという伝承も多いです。これに付随するのは、傷を負った落人が白いサルやシカに導かれたという話。誰も通らない山奥で温泉を見つけるのは普通の人ではない、戦に負けて逃げていた敗残兵だ。そう考えたのでしょう。

導いた動物の多くが「白い」のも興味深い。普通のサルやシカでいいのに、わざわざ自然界では希少なアルビノにするのは、どこかで神秘性をもたせたい、もたせなきゃいけないという気持ちが働いている気がします。

温泉に限らず湧き水や井戸もそうですが、人びとはやはり奇跡や奇譚を求めているのだと思います。特に温泉の効能については、外科治療はさほど発達していない時代に、薬ではどうしても治らず「もう温泉に行くしかない」という切実な気持ちがあった。それゆえに合理的な効果以上のものを温泉に求めたのかもしれません。

たしかに、地の底から温かい水が湧いてくる現象というのは理解しがたいものです。温泉をレクリエーションの一つと思いがちな現代の私たちとは違って、かつては「水に関係した別世界が地の底にはある」という考えを、昔の人たちはみんなもっていたのではないか。そんな風に私は考えています。

(2022年6月16日/リモートインタビュー)

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