機関誌『水の文化』37号
祭りの磁力

古賀市ふるさと見分け

ワークショップの様子

12kmの大根川(だいこんがわ)の流域を歩いた〈ふるさと見分け〉。翌日は市役所2階のホールで、ワークショップが行なわれた。
フィールドワークで現場を見て、ワークショップで学びを深める。こうした地に足をつけた活動が、地域の宝を発掘する。
中央で挨拶しているのが阿部友子さん。

「ふるさと見分け」とは、さまざまな立場の人たちが、一緒に現場を歩いて、多角的な側面から地域の歴史、風土を見直そうとするフィールドワーク&ワークショップです。福岡・博多から快速電車で20分、玄界灘に面した古賀市では、哲学、宗教学、河川工学、生物学、歴史、環境、市民運動などの専門家、活動家が一同に会して、古賀市のふるさと見分けを行ないました。

ふるさと見分け実行委員会代表
里川を愛する会事務局
阿部 友子(あべ ともこ)さん

福岡・古賀市で生まれ育った私にとっての里川は、清滝(きよたき)を源流とする大根川(だいこんがわ)です。西山(鮎坂山)から西に流れ、花鶴丘(かづるがおか)で谷山川と合流し、花鶴川と名を変えて玄界灘に注ぐ、わずか12kmの川です。

大根川という名の川は全国にあって、石がゴロゴロしていて、普段は水が地中に捌(は)けてしまうような川をいうそうで、古賀の大根川にも、水が干上がることを説明するような逸話があります。

諸国行脚の途中に筵内(むしろうち)に立ち寄った空海(弘法大師)が空腹になったとき、老婆が大根を洗っているところに行き逢わせました。空海は大根を分けてほしいと頼みますが、みすぼらしい格好だったために、その老婆はひどい対応をしてしまうのですね。見た目だけで人を判断してはいけないと、空海は戒めのために杖を地面に三度突き、大根川の水を干上がらせたというのです。

ところが今の大根川は、昔とは少し様子が違っています。アズ(泥)が川底に溜まって、河川敷いっぱいに雑草が茂り、水が滞留して見苦しい景観なのです。九州大学名誉教授の小野勇一先生によれば、30年前に川を遡って調査したときには15種類ものカエルが見つかったのに、今では1種類ぐらいになってしまったということ。景観的にも生態的にも、とても貧しい川になっているのが残念で、2004年(平成16)に〈里川を愛する会〉を立ち上げました。

川は古賀市の景観を考える上でも、まちづくりを考える上でも、重要な要素です。多くの人が「なんとかしたい」と考えています。蛍の幼虫を飼育して古賀の川に放流したり、水辺の学校などの活動をしている〈ほたるの会〉もありました。

2009年(平成21)には、美しいまちづくりプラン(景観基本計画)への取り組みの一環として、10名の市民からなる〈景観まちづくり市民会議〉が開催され、これが〈古賀美観(みかん)の会〉へと発展しました。さまざまなところで活動していた、景観や環境、まちづくりに興味がある市民が〈古賀美観(みかん)の会〉にまとまってきたのは、みんなが「ふるさと古賀を良くしたい」という思いで結束しているからだと思います。それで「なんとかしたい」という気持ちを形にするために、まずは古賀に住む人が、古賀がどんな町なのかを認識することから始めようと考えました。その上で、この土地に合った川づくりをしていこう、ということで、川の現状と古賀の歴史資産をみんなで見て回りました。

  • 大根川中流域の様子

    大根川中流域の様子。

  • 図表:地図

    国土地理院基盤地図情報(縮尺レベル25000)「福岡」及び、国土交通省国土数値情報「河川データ(平成19年)、道路データ(平成7年)、鉄道データ(平成20年)」より編集部で作図。
    この地図作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の基盤地図情報を使用した。(承認番号 平22業使、第689号)

  • 大根川中流域の様子
  • 図表:地図


まちづくりを盛り立てるのは「他所(よそ)モン」と「のぼせモン」と「ばかモン」。古賀市民ではない、外からの視点も大切と思って、九州大学の島谷幸宏先生に相談に行ったところ、島谷先生は、現地調査をもとに地域の空間構造を分析することで、今まで当たり前過ぎて見過ごしてきた地元のことが光ってみえてくるよ、と教えてくれました。地形を見て、古地図と比べ、集落の名称や神社の成り立ち、言い伝えといった情報を収集する。つまり、良い川づくりに不可欠な、地域の「価値」の再評価をフィールドに出て行なおう、というのです。

その後、思いもかけない展開で〈ふるさと見分け実行委員会〉を立ち上げ、2010年(平成22)12月に「古賀市ふるさと見分け」を開催することになりました。「ふるさとの見分け」とは、地域の人を巻き込み、関心を持ってもらう人を増やしていくための手法で、東京工業大学の桑子敏雄先生が考案されたものです。

桑子先生をはじめ、島谷先生、兵庫県立大学の合田博子先生と岡田真美子先生まで来てくださることになり、一緒に活動しているメンバーからは「阿部さん、本当に大丈夫なの?」と心配されたほど。しかし、ご厚意に甘えて、先生方には大いに協力していただきました。こういうときは、女性のほうが度胸が据わるのかもしれませんね。

実際のフィールドワークでは、ここも見たい、あそこも見たいとどんどん寄り道してしまい、まったく予定通りには進みませんでした。それだけ、見所がたくさんあるということで、新たな発見に驚くばかりです。

標高は57.5mと低いのですが、かつては三峰からなる三神山(三上山)だった鹿部(ししぶ)山は、古賀市のシンボルとして親しまれてきました。しかし、団地造成のために二峰が消失してしまったのです。造成された東峰、中央峰からは、二つの古墳群が発見され、調査にあたった故・長崎初男先生は、残った鹿部山は絶対に消してはいけない。ここには日本の歴史を変えるようなものが埋まっているはずだ、と言い残されています。

犬鳴山(いぬなきやま)山系に端を発した大根川は、玄界灘に流れ出ていきます。そこには新宮から古賀、福津、津屋崎までの約10kmにわたる日本有数の松林が続いています。これは人手で植えていった成果であることが、1706年(宝永3)の記録からわかっています。そして、少なくとももう少し前まで遡れるであろうことを、〈古賀美観(みかん)の会〉会員の宿理英彦さんが調べてくださいました。

こうした歴史を発掘し、私たちに教えてくれる仲間も増えてきています。地元に興味を持つ人を少しずつ増やしていくことは、古賀を住み良い町にするために必ず役に立つ、と思います。

敷地内で十三仏板碑を発見され、大切にお祀りされている高川さんは、子供のころ、ご自宅に勾玉の首飾りがあって、おもちゃにしていたら糸が切れてどこかに紛失してしまった、というスゴイ経験をお持ちだということが、今回のフィールドワークでわかりました。

それを聞いた岡田先生と合田先生は、神功(じんぐう)皇后が祠(ほこら)を建て仲哀(ちゅうあい)天皇の神霊を祀ったのが起源とされる福岡市東区の香椎宮(かしいぐう)は、実はこの地だったのではないか、という仮説を立てられ、大いに盛り上がりました。

仲哀天皇も神功皇后も、実在の人物ではない、という説もあり、そんな神話時代の話を、史跡歩きから想像するのも大変エキサイティングな体験でした(注1)。

岡田先生と合田先生はまた、仲哀天皇は三韓征伐に反対したために暗殺されたのだ、とも。武内宿禰(たけうちのすくね)が仲哀天皇を葬ったとされますが、古賀には至る所に「スクナヒ(ビ)コナ」を祀った神社があります。スクナは宿禰とも書くのですね。「スクナヒ(ビ)コナ」は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の前の皇祖神であった神産巣日神(かみむすひのかみ)の手からこぼれた小さい神で、大国主(おおくにぬし)と共に国づくりをした神です。

「スクナヒ(ビ)コナ」は「ヒ」のつく地に多く祀られていて、「ヒ」の国のひとつ「肥」の国には「古賀」の地名が集中しています。その古賀群の一番北の入り口が大根川流域の古賀なのです。

「古賀市ふるさと見分け」をしたことで、思いがけない発見がたくさんありました。大根川を里川と思っていた私自身、この川に秘められた力と可能性を再認識することができたと感謝しています。

(注1)
日本武尊(やまとたけるのみこと)の次男である仲哀天皇は、仲哀8年(199年)熊襲(くまそ)討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴くが、神懸りした妻の神功皇后から住吉大神のお告げを受ける。 西海の宝の国(新羅(しらぎ)のこと)を授けるという神託だったが、仲哀天皇は、これを信じず住吉大神を非難したため、神の怒りに触れ、翌年2月に急死した、といわれている。そのとき神功皇后が仲哀天皇の神霊を祀ったのが香椎宮の起源とされる。椎の木は良い香りがするから、腐敗した遺体の匂い消しの役目をするとされ、「香椎」の名は、仲哀天皇の遺体を立てかけた椎の木、「棺懸(かんかけ)の椎」が敷地内に立っていたことに由来する。
神功皇后は住吉大神の神託に従い、夫の死後、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵し、新羅を攻めた。『日本書紀』には、新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗(こうくり)・百済(くだら)も朝貢を約束した(三韓征伐)と記されている。

  • フィールドワークの様子

    フィールドワークの様子

  • フィールドワークの様子

    治水上、重要な箇所には必ず神社や大木が立っている。地図を片手に、その地の歴史や由来に思いを馳せると、1000年、2000年はあっという間に飛び越えてしまう。いつもと違う自分に出会える。

  • フィールドワークの様子

    十三仏板碑をお祀りされている高川さんのお話に聞き入る参加者たち。

  • フィールドワークの様子
  • フィールドワークの様子
  • フィールドワークの様子


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