機関誌『水の文化』55号
その先の藍へ

藍
藍ミニ図鑑

日本の藍・藍染め略年表

今号の特集に関する史料・資料および取材時に見聞きしたことから、日本の藍・藍染めに関する略年表と天然染料による「藍染め」についてまとめた。なお、藍・藍染めの歴史に関するまとまった史料・資料がないうえ、記述が異なる点も多いので、あくまでも参考程度としてほしい。(徳島県の藍染めにまつわる歴史については、「藍住町歴史館 藍の館」のご協力で同館の展示パネルおよび資料を参考とした)

編集部

時代 西暦 和暦 出来事 ※紫アミ部分は国外の藍染め動向
紀元前
2000年
エジプトの古代都市テーベの古墳から出土したミイラの麻布が藍染めとされる
紀元前
3世紀
中国の荀子(じゅんし)が「青ハコレヲ藍ニ取リテ 藍ヨリモ青シ」と書き残す
紀元前
2〜3世紀
ペルー中部の太平洋岸で栄えたパラカス文明の遺跡から、藍染めの木綿の布が出土
紀元前1世紀 中国の経書『礼記(らいき)』に藍染めを禁じた記述がある
紀元前
40〜70年
インド洋近辺の航海案内書によると、このころインドの藍は地中海方面に輸出されていた
古墳時代 4世紀中ごろ 下池山古墳から鏡と一緒に出土した赤と青の絹織物の青は、藍で染めたものとされる
400〜450 渡来人たちから養蚕や製織の技術が伝わり、絹織物が発達
5世紀ごろ 中国から紅花と紫根染めが伝来
飛鳥時代 603 推古11 聖徳太子が冠位十二階を制定。冠には紫・青・赤・黄・白・黒の6色を配する。衣服の色も冠と同じ色が用いられたが、これは染色技術が発達したため可能になったという
鎌倉時代 1248 宝治2 吉野川下流(藍住町)の見性寺の開祖・翠桂(すいけい)和尚が、「唐から輸入した藍の苗を栽培して衣を染めた」と『見性寺記録』に記す。これが阿波藍の始まりともいわれる
12〜14世紀 黒に近い濃い藍色「搗色」「褐色」(ともに「かちいろ」と読む)が「勝つ色」として縁起のいい色と見なされ、武士の服や武具はこの色で染められて「勝色」が生まれた
室町時代 1445 文安2 阿波国麻植(おえ)郡から大量の葉藍が兵庫北関(きたのせき)という港に運び出された記録がある(兵庫北関入船納帳)。1447年(文安4)という説も
1498 バスコ・ダ・ガマが喜望峰を回ってインドのカリカット(現・コージコード)に達し、東洋航路を発見。ここからインド藍がヨーロッパに持ち込まれ、「ウォード」に代わって普及していく
1532〜56 天文・
弘治年間
木綿の栽培が本格的に始まり、木綿布が織られるようになる
1552 天文年間 上方から藍染め職人・青屋四郎兵衛(あおやしろべえ)が阿波国・三好氏の居城・勝瑞(しょうずい)城下に移り住み、藍染めを始める。四郎兵衛は蒅(すくも)を使用したといわれる
安土桃山時代 1585 天正13 蜂須賀家政が藩主として阿波国に入る。これ以降、藍作を保護・奨励する
江戸時代 1625 寛永2 徳島藩が藍方役所を置く。藍の統制の始まり
18世紀初頭 ドイツ・ベルリンで「ベロ藍(プルシアンブルー)」が発見される
江戸時代中期 元禄〜享保 藍甕4つを一組として土間に埋め、その中央に「火壺(火床)」を設けてもみ殻などを燃やして染液を温めることで、冬も藍染めが可能となった
1756 宝暦6 玉師(藍師)株を制定し運上金を徴収する一方、藍作農家には葉を育てるだけで蒅に加工することすら許さなかった徳島藩に対する農民の怒りが爆発し、「藍玉一揆」が起こる
1781 天明元 犬伏久助(いぬぶしきゅうすけ)が蒅の加工技術を改良。阿波藍の質が高まる
1800前後 寛政年間 12〜13歳だった農家の娘・井上伝が藍染めの古着の色落ちを見て「久留米絣」を考案(古着ではなく古むしろだったという説もある)
1818〜30 文政年間 ベロ藍が大量に輸入され、藍色の微妙な濃淡で刷る浮世絵版画「藍摺絵」が登場
1856 イギリスの化学者、W・H・パーキンが紫色の人工染料「モーブ」を見出し、合成染料工業が起こる
明治時代 1868 明治元 このころからインド藍の輸入が始まる(主にイギリスから輸入)
1870 明治3 合成染料が初めて輸入される
1873 明治6 藍の製造販売が自由化される
1874 明治7 ロバート・ウィリアム・アトキンソンが来日。藍色の衣服を身に付けた日本人を見て「ジャパン・ブルー」と称する
1890 明治23 パトリック・ラフカディオ・ハーン(日本名・小泉八雲)が衣服のみならず、のれんなどにも濃い藍色が使われているのを見て、「この国日本は神秘なブルーに満ちた国」と書き残す
1903 明治36 徳島県の藍の生産量が2万1958トン(作付面積1万5099ha)と過去最高を記録する。しかし、同年ドイツから合成染料(合成藍)が本格的に輸入され、国内の藍作は急激に衰退していく
大正時代 1910年代 国内でも合成藍の研究・生産が始まる
昭和時代 1932 昭和7 三井鉱山(株)三池染料工業所(現・三井化学[株]大牟田工場)が合成藍の工業化に成功
1977 昭和52 ジーンズブームが中年層にも浸透。東京都内のジーンズショップが100軒を超える

用語解説
阿波藍
江戸時代、徳島藩領で生産した藍染めの元となる染料「蒅(すくも)」は、品質がよく、しかも大量に供給していたため、阿波の藍を「本藍(ほんあい)」、ほかの地方の藍を「地藍(じあい)」と呼ぶほど別格の扱いをされていた。

藍作農家
蓼藍を栽培する農家のこと。

藍師
蓼藍の葉に水をかけ、さらにむしろをかけて自然発酵させて藍染めの染料「蒅」をつくる人。明治時代になってから、自分で商いもできるようになった。

藍商
蒅や蓼藍の葉(葉藍)などを売買する人。徳島藩の藍商の多くは新町川の畔に藍蔵をもち、港まで小船で運び、さらに廻船によって藩外の市場に出荷した。また、その際に干鰯などを購入して廻船に積み込んで持ち帰り、藍作農家に肥料として貸し付けた。藍商は、蒅をつくるときに水を打つ「水師(みずし)」を養成する学校もつくった。

参考文献 (50音順)
『藍―風土が生んだ色』(法政大学出版局 1991)
『藍Ⅱ―暮らしが育てた色』(法政大学出版局 1999)
『阿波藍 豪商―奥村家と吉野川―』(藍住町歴史館 藍の館)
『昭和・平成家庭史年表(増補版)』(河出書房新社 2001)
『日本の色・世界の色』(ナツメ社 2010)
『日本の伝統染織事典』(東京堂出版 2013)
『日本民俗大辞典(上)』(吉川弘文館 1999)
「藍住町歴史館 藍の館」の展示パネル
「北九州イノベーションギャラリー(産業技術継承センター)」Webサイト
※今号の取材で見聞きした内容も一部反映している

天然染料による「藍染め」

合成藍が登場する以前、日本では蓼藍(たであい)、琉球藍などの植物の葉から色素を取り出して藍色に染めてきた。ここでは、蓼藍の栽培から染料「蒅(すくも)」に至る過程と、蒅を染液にする工程を見る。

世界の主な藍草

  • 蓼藍

    蓼藍
    タデ科の一年草。高さは60~70cmになる。日本、韓国、中国など東アジアで盛んに利用された。藍染めの染料にする場合は、花が咲く前に葉を刈り取る。

  • 琉球藍

    琉球藍
    キツネノマゴ科に属する低木状の草。沖縄、台湾、東南アジアの染織品を青に染める。藍葉を水に浸し、泥状に沈殿させて使う製法は、インドを起源とする。

  • ウォード

    ウォード
    アブラナ科の越年草。高さは約90cm。ヨーロッパの繊維の青色を染めていた。国内では北海道でも染料として栽培されている。

  • インド藍

    インド藍
    マメ科のコマツナギ属(Indigofera)の数種を指す。インドを中心に、西はアラビア、東はマレーシア、インドネシア、さらに中南米まで熱帯・亜熱帯に広い文化圏をもつ。

  • 蓼藍
  • 琉球藍
  • ウォード
  • インド藍


写真・資料提供:紺屋「日下田藍染工房」九代目・日下田正さん、藍住町歴史館 藍の館

蓼藍(たであい)から染料「蒅(すくも)」ができるまで

3月 種蒔き
かつては節分直後の2月上旬が最適とされていた。今は3月中旬の大安の日に種を蒔く
4月 間引き
苗が2〜3cmになったころ、間引きする
5月 苗取り・移植
苗が20cm程度の大きさになると、別の畑(本畑)に移植(定植)する
6月 施肥
土寄せして根元に肥料を与える。かつては干鰯やにしん粕など金肥(かねごえ)も用いた
7月 藍葉刈り収穫
苗が60cm程度に成長すると晴天の日を見計らって刈り取る(一番刈り)。7月下旬からは刈り株から伸びたものを刈る「二番刈り」を行なう
8月 藍こなし
葉の乾燥や茎と選別する「藍こなし」を行なう
9〜11月 寝せ込み・切り返し・ふとんかけ
9月上旬、一番刈りの葉を寝床(土間の作業場)で発酵させる「寝せ込み」を行なう。9月中旬から12月上旬は、4〜5日ごとに積み上げた葉を崩し、水をかけて混ぜ合わせては再び積み上げる「切り返し」を約20回行なう。10月中旬以降は一定の温度で発酵させるために「ふとん(むしろ)」を掛ける
12月 蒅の完成・出荷
12月中旬以降、染料となる蒅が完成。むしろの袋に詰めて出荷する

資料提供・撮影協力:藍住町歴史館 藍の館
参考資料:阿波藍製造技術保存会『阿波藍だより』(平成28年3月31日発行)

  • 苗取り

    苗取り「阿波藍紙人形」(河野 操さん制作/藍住町歴史館 藍の館 蔵

  • 蒅づくり

    蒅づくり「阿波藍紙人形」(河野 操さん制作/藍住町歴史館 藍の館 蔵)

  • 乾燥させた蓼藍の葉

    乾燥させた蓼藍の葉

  • 苗取り
  • 蒅づくり
  • 乾燥させた蓼藍の葉

蒅を「染液」にして染める

1 蒅
蓼藍の葉を発酵させてつくる土状の染料。ただし、このままでは染められないので、「藍建(だ)て」と呼ばれる作業が必要
2 藍建て
藍の染液をつくるには、蒅が含むインジゴ(色素)を溶解しなければならない。しかし、インジゴは水に溶けないので、アルカリ液(石灰、木灰汁など)を用いて水に溶けるようにする。発酵が進み、水面にコバルト色の泡「藍の華(はな)」が浮かぶようになると染められる。発酵を安定させるために、ふすま(小麦粉をつくるときにできるくず粉)などの栄養分も必要
3 染め
綿や絹の糸、または布を液に浸ける。数分間浸け、引き上げては空気にさらして酸化させる。これを繰り返して染めていく
4 水洗い・乾燥
染め上げた糸や布は、十分に水洗いしたあと、天日で乾かす
  • 蒅

  • 「藍の華」

    「藍の華」

  • 左から石灰、木灰汁、ふすま

    左から石灰、木灰汁、ふすま

  • 蒅
  • 「藍の華」
  • 左から石灰、木灰汁、ふすま


資料提供・撮影協力:日下田藍染工房、藍住町歴史館 藍の館、BUAISOU

藍師に聞く「阿波藍」の今昔

有限会社 新居製藍所 代表取締役 新居 修さん

苦しい時期は兼業で乗り越えた

徳島で蓼藍の栽培がこれほど盛んになったのは、吉野川のおかげです。堤防のない昔、吉野川はよく氾濫しましたが、おかげで肥沃な土が運ばれました。このあたりの家の土台が高いのは、「水は来るもの」と思って備えていたからです。

私は藍師として六代目にあたります。蒅の商売は明治6年以降です。三代目の八十太(やそた)が小さな藍商を始めました。それまでは限られた家しか商いはできなかったのです。今、藍師は私を含めて徳島県内で5軒、作付面積は15haくらい。最盛期の明治36年が1万5000haでしたから1000分の1ですね。合成藍が主流になり、その流れに乗れない小規模な藍商は一気に消えました。

蒅の需要が減りつづけるなか、それでもやめなかったのは蒅を必要とする染め屋さんがいたから。私がこの仕事を継ごうと思った昭和40年代は蒅だけでは生活できず、牛や豚を飼い、野菜を育ててしのぎました。今残っている藍師5軒は、みんな兼業で苦しい時期を乗り越えたんですよ。

蒅づくりで一番難しいのは、その年の天候です。よい状態で蓼藍の葉を刈り取って、晴天が続いて乾燥できればいい原料ができるのですが、台風や大雨は避けられません。

昔から「蒅づくりをやりたい」という人を受け入れてきましたが、続けている人はほとんどいません。自分で蒅をつくって染めるのはたいへんな労力なので「蒅を買った方が安い」と言います。また、化学薬品で藍建てする人もいますが、見る人が見たら木の灰で建てたのか、化学薬品なのかわかるようです。つまり大変だけど、それだけの価値はあるということ。昔ながらのやり方って、やはり理にかなっているんですね。今、自分で蒅をつくり、自然の素材で藍建てして染める若い人たちが出てきました。これからが楽しみです。

(2016年12月9日取材)

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