機関誌『水の文化』16号
お茶の間力(まりょく)

遊女と客がつくるサロンの一瞬 遊ぶ芸から見る芸へ

佐伯 順子さん

同志社大学文学部社会学科教授
佐伯 順子 (さえき じゅんこ)さん

1961年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科比較文学比較文化博士課程修了。帝塚山学院大学文学部教授を経て現職。 主な著書に『遊女の文化史』(中央公論社、1987)『「色」と「愛」の比較文化史』(岩波書店、1998)、『恋愛の起源』(日本経済新聞社、2000)他。

遊廓と茶屋の意外な関係

まず、遊廓の簡単な仕組みを説明しましょう。

もともと茶屋とは休憩所のことで、よしず掛け程度の簡単なものから始まりました。街道筋などにできた茶一碗だけ出すその茶屋が、団子なども供するようになり、江戸中期になると競って美人の茶汲み女などを置き、やがて春をひさいで私娼化します。これを水茶屋と呼んでいました。

一方、吉原のような幕府公認の遊廓に行く道には、編笠茶屋ができました。編笠茶屋は、遊客が遊女のもとに行くのに顔を隠すための編み笠を貸した茶屋です。客はここで一服して腹ごしらえなどをしましたが、やがて編み笠をかぶる風習が途絶えると、引手茶屋になります。

引き手茶屋はいわば斡旋業のような役割を果たし、揚屋と呼ばれる場所に、客の手を引くようにして案内し、置屋で待機する遊女を呼び寄せます。遊女が揚屋に来るまでの間、客は幇間(ほうかん)(男芸者。太鼓持ちのこと)や芸者の芸を見ながら待ちました。

引手茶屋は格式の高い遊廓を中心に繁栄したわけですが、引手茶屋を通すと、妓楼(ぎろう)に無理が利く、料金が一括で済む、遊びの手筈をつけてくれるといったメリットがありました。しかし中間マージンが取られますので、だんだんと揚屋をとばして引手茶屋が直接、客を置屋(遊女屋、傾城(けいせい)屋などとも呼ばれた)へ案内するようになりました。こうして揚屋は衰退し、引手茶屋が繁栄するようになったわけです。

茶屋というと、一般の方は水茶屋を思い浮かべる場合が多いせいか、遊廓が遊芸に関係なく色事のみの空間であったように思われるかもしれません。そのため教養の高い遊女の話が出ると不思議に思われるようですが、格式が高い官許の遊廓には、高い教養を身につけ、多芸多才の優れた美女がおり、武家や有力町人の社交場になっていたのです。

  • 京都は祇園、夜の花見小路。遠くの座敷に呼ばれたのか、置屋にはタクシーがひっきりなしに芸妓さんを迎えに来る。

    京都は祇園、夜の花見小路。遠くの座敷に呼ばれたのか、置屋にはタクシーがひっきりなしに芸妓さんを迎えに来る。

  • 置屋の玄関には芸妓の表札が並ぶ。周辺のバーが同じようにホステスさんの名前を連ねているのは、ご愛敬。

    置屋の玄関には芸妓の表札が並ぶ。周辺のバーが同じようにホステスさんの名前を連ねているのは、ご愛敬。

  • 京都は祇園、夜の花見小路。遠くの座敷に呼ばれたのか、置屋にはタクシーがひっきりなしに芸妓さんを迎えに来る。
  • 置屋の玄関には芸妓の表札が並ぶ。周辺のバーが同じようにホステスさんの名前を連ねているのは、ご愛敬。

遊女のスキル

遊女には、香や花や茶がたしなみとして要求され、さらに三味線、琴、唄、踊りなどの歌舞音曲といった遊芸全般、和歌、書道などの教養も必須項目でした。しかも、それらの優れた芸を決してひけらかさないことが求められました。遊女のたしなみを数え上げる話があって、清少納言や紫式部の古典に通じ、気の利いた台詞をさっと引用できること、教養のにじみ出る機知に富んだ会話ができること、和歌は三千首程度は覚えていること、など高いハードルが掲げられています。

つまり臨機応変に、シチュエーションに応じて客を満足させるための知的な蓄えが必要とされたのです。同様に客の側にも教養や粋であることは求められており、例えば遊女が上の句を言うと、客が下の句をぱっとつけるというような洒脱なやり取りが好まれていたわけです。

書道をたしなむというのは、恋文を書くためです。客に恋文を書くことが、営業上からも遊女の大きな仕事の一つだったため、手紙で惚れさせるようなうまい文章と美しい文字が書けなくては太夫はつとまりませんでした。

香を焚くにしても、五月雨の夜には初音という香を選ぶとか、まさに、もてなしのためのエンターテイナーです。遊廓の遊びというのは、このように遊女ペースで進みます。客からリクエストを出し、それに遊女が応えるというよりも、遊女の方がお客さんの要望を察知してさまざまなサービスを提供する。つまり、ホストが客であるゲストにサービスすべきだという主客関係ではなく、むしろ遊女が采配し、主導権を握っていたのです。客の側にも、遊女の選んだシチュエーションを楽しんで受け入れる余裕がありました。

遊女がプロの接客業であり、遊ぶお客もそれがわかる粋人ということでなければ、本当の茶屋遊びは成立しないと言えるでしょう。のちに遊廓が大衆化する過程で、このような格式を重んじた遊び方が廃れていくのですが、今でも京都・島原では、芸事のみを復活させた太夫さんがいて、吉野太夫花供養などの行事に参加されています。

【遊女の等級】
時代によって変わるが、元禄時代では上から「太夫」「格子女郎」「散茶女郎」「梅茶女郎」「切見世女郎」の5段階に分かれていた。太夫は貴族的な教養をもち、富貴に媚びず、権力に屈せず、物静かで閑雅な心の内に毅然たる態度を持つ「気質」であった。京都の吉野太夫、大坂の夕霧太夫、江戸では高尾、薄雲太夫などが有名。

式麿 今容女歌仙・若那屋私衣

式麿 今容女歌仙・若那屋私衣

芸能する神

遊女が聖性をもっていたという側面も見逃せません。もともと、歌舞音曲を見て「うっとりする」感覚が極楽に行く感覚のようだということで、遊女を「歌舞の菩薩」と表現することもありました。遊女が座敷に来ると、神様仏様がご来迎されたようだと描写されるのです。

明治になると宗教的な感覚が近代化され、理性的で道徳的にふるまうことが宗教的な規範であるという近代的でキリスト教的なものの見方が入ってきます。キリスト教は身体的な感覚を抑圧する宗教ですから、宗教的な価値と遊びの感覚が分離してしまいます。つまり、神様というのは「芸能する神様」ではなく「道徳をたれる神様」となるわけです。

むしろ、土着的な祭りで大騒ぎするような、身体的に興奮するような場には、遊廓の遊女を崇拝する感覚と似たようなところがあると思うのですが。

粋な客、野暮な客

高級な社交場として発展した遊廓は、建築も豪奢で、酒肴も趣向を凝らしたものを出したため、大変お金がかかる遊び場でした。換算が難しいですが、現在でいうと1回遊ぶと数十万から百万円ぐらいという感覚ではないでしょうか。そういう遊びができる客というのは、武士の中でも身分が高い大名クラスです。例えば仙台の伊達公と江戸・吉原の高尾太夫とのつき合いが有名です。茶屋や遊廓はなかなか庶民に手が届くものではありませんでした。

町人といっても紀文(紀伊国屋文左衛門)や奈良屋(奈良屋茂左衛門)といった元禄時代の豪商の大尽遊びですと、例えば、遊廓中のそば屋を買い切って友人だけに振舞ったとか、巨大な饅頭を作ったところ階段が邪魔になって運び入れられないため、階段を壊して中に入れ、またその階段を修復したとか、とんでもないエピソードが残っています。これらは多分、粋な客のお金の使い方の例というよりは、度を越した大尽の酔狂として後世に語り継がれたのだとは思いますが。

粋な客というのは、客の側も芸事をたしなんでいた人でしょう。客の方も、常識、教養のない人は遊廓の客にはなり得ませんでした。遊廓は俳諧の連(注1)が集う場所としても利用され、遊女も交えながら連歌をまくということも行われました。ですから茶屋遊びは客も和歌を詠んだり、遊女の三味線に合わせて歌ったりする参加型のサロンだったと捉えてもらえばいいでしょう。

最後の幇間と言われた桜川忠一さんの書かれたものを見ますと、明治、大正のころはまだ一緒に遊べる客がいたそうですが、昭和に入ると遊芸よりもいきなり色事を要求する野暮な客が増え、幇間も活躍する場がなくなってしまったと、寂しそうに書かれていますね。

俗に初対面は「初会(面通し)」、2回目は「裏を返す」、3回目で「馴染みになる」と言います。つまり初対面で色事に及ぶのは無粋で、馴染みなるまで待つことが粋とされたのです。遊芸に続く色事という枠の中で、あえて遊芸のみで終わらせることが粋であるという美意識が存在した時代があったのです。

また、馴染みになったら、遊女と客は仮の夫婦盃をかわす風習がありました。遊廓はいわば一妻多夫の世界で、もし別の遊女と浮気すると、客であっても髷(まげ)を切られたり鬢(びん)を剃られるという罰を受けました。それほど客と遊女の結び付きを重んじていたのです。

――お金を積んで床入りをするという関係は、野暮と見られたのですか。

そこが微妙な問題点ですね。お金を積まないと、そもそも太夫とは遊べない。遊女が気持ちよくつきあえるようでないと客は嫌われます。ですから、近松の浄瑠璃を見ても、「お金はあるけれど、野暮で嫌われる客」が結構登場します。お金を積まれたら会わないわけにはいかないけれど、「俺はこんなにお金がある」と威張り散らす客は野暮だと思われた。権力を誇示するタイプも嫌われますね。遊廓は「客であれば、町人でも侍でも対等」がタテマエですから。

かといって、感情が通っていればよいかというと、これもちょっと違っていて、「本当の恋ではなく、遊びなのだ」という距離感を持っている客が粋とされました。ですから、このニュアンスが難しいのですが、しょせん「遊び」ですから「本気」で惚れてはいけないわけです。本気で遊女に惚れる客は野暮になってしまう。

遊廓には独身男性も通いましたが、社会的に安定した妻子ある男性が客としてやって来た場合、遊廓の外に日常生活があり、生活とは切れた所に遊びに来るということが約束事ですので、本気で好きになって心中するのは野暮の骨頂だと見なされます。まさに、近代の恋愛観とは正反対です。

遊女はいろいろな客に平等に夢を与えてこその遊女であって、客が特定の遊女に本気で惚れるのも野暮だし、遊女が特定の客に本気で惚れるのも、近代の恋愛感覚からすると悲しいことかもしれませんが、野暮なことになります。遊廓での遊びは、現実から遊離しているからこそ「いき」で面白かった。『いきの構造』を著した九鬼周三のいう「いき」はそういうことです。遊女と仮の夫婦盃をかわすところから見ても、別世界のようです。遊女も参加する客も、限られた時間の中でしばし現実を忘れ何かを演じているのでしょう。

とは言うものの、遊女にも「間夫(まぶ)」と呼ばれる恋人はいて、代金は遊女持ちで会ったりしていました。代金は遊女持ちということは、楼主に対して借金が増え年季が明けるのが遠のくことでもありました。近松門左衛門は遊女と間夫が本気になって心中に至ったりすることを好意的に捉えましたが、井原西鶴はプロ意識に欠けるという意味で嫌いましたね。いずれにしても客が身請けして遊女を妻にすることもありましたから、本気の恋がまったくなかったわけではありません。

(注1)俳諧の連
連は「仲間、連中」を表すが、俳諧では連歌(れんが)というものがある。個人でつくる和歌とは別に、連を組んで、上の句と下の句とを交互に詠み合い連ねる長連歌、いわゆる和歌のグループ創作を行った。

  • 現存する唯一の揚屋建築として、重要文化財に指定されている角屋(すみや)。江戸幕府公認の花街として栄えた島原(現、京都市下京区西新屋敷揚屋町)で「角屋もてなしの美術館」として1998年から公開されている。

    現存する唯一の揚屋建築として、重要文化財に指定されている角屋(すみや)。江戸幕府公認の花街として栄えた島原(現、京都市下京区西新屋敷揚屋町)で「角屋もてなしの美術館」として1998年から公開されている。
    43畳の大座敷「松の間」(写真下)から「臥龍松(がりょうのまつ)」が見られる庭には(写真上)、曲木亭、清隠斎茶席、囲いの茶席と、3つも茶席がある。揚屋にとって「茶の湯」がもてなしのツールとして大きな意味を持っていたことが、実感できるエピソードだ。

  • 『守貞漫稿』では、揚屋を「客をもてなすを業とする也」と定義している。その条件は3つ。大きな広間を持つこと、その広間に面して庭があり、茶室を持つこと、そして寺の庫裏に似た大きな台所を持つこと。台所は50畳、隣接する配膳室も50畳の規模は、他に類を見ない。

  • 1600年代前半、通称六条三筋町は大いに繁盛した花街だったが、寛永18年(1641)朱雀野(島原の地。現西新屋敷)への移転命令が出る。その命令があまりにも急で、住民の狼狽ぶりがひどかったため、当時の島原の乱になぞらえて「島原」と呼ばれるようになったのが名の謂われ。
    しかし京の中心部からは徒歩で1時間半もかかるという地の利の悪さゆえ、他の揚屋、置屋は相次いで祇園へ移転した。ところが、敷地700坪建物500坪という破格の規模を誇る角屋は、移転することままならず、置屋である輪違屋(わちがいや)とともに島原に残ることになり、幕末には勤皇の志士後の、維新の元勲の多くが利用したという

色事と恋愛

明治時代になると、色事の世界も変わってきます。坪内逍遙(しょうよう)は近代的な恋愛観を持っており、根津の遊女と仲良くなって「好きになったからには色事で済ましてはいけない」と結婚します。非日常的な色事を結婚生活に結びつく恋愛としてとらえ直し、遊女を奥さんにしたわけです。近代的なお客像の嚆矢ということになるでしょう。

一方で、明治になったからといってすべての客がそういうわけではありません。例えば永井荷風(かふう)。彼の生きた時代は、太夫と遊ぶ時代ではありませんから、玉の井などの下級娼婦や芸者さんを相手にしていました。荷風は結婚が長続きせず、いろいろな女性とつきあいました。そのころの遊廓では、いろいろな女性とつきあってはいけないという規制は、もう外れてしまっています。逍遙とは対称的に、色事的な男ですね。荷風は『墨東奇譚ぼくとうきたん』で、本気で好きになったお雪さんから離れていく話を残したり、典型的な色事文化を書いた人です。

明治以降、赤線、青線が廃止される1956年までは、色事と近代的恋愛観の両方が共存していた形ではないでしょうか。

遊の機能分化

遊女の「遊」は、「芸能」という意味でしたが、贅沢な遊びは質を保つのが難しい。このため、元禄が終わり豪商も没落すると、遊びを楽しめる余裕のあるお客さんもだんだんといなくなります。

遊女は、大人になってから売られる場合もありましたが、見習いを兼ねて7〜8歳ころから「禿(かむろ)」として働くこともありました。見込みがあれば、芸を身につけるための英才教育を受けさせられましたが、太夫になるのは百人に一人と言われていましたから、遊女屋にとっては割の悪い投資です。したがって、裕福なお客さんが少なくなり投資体力が落ちてくると、遊女の質も下がってくる。そして、客もそのような芸を遊女に期待しなくなるという悪循環が起きます。結局、宝暦のころ(1750年ころ)から、太夫がいなくなってしまい、だんだん遊女は売春婦に近くなっていきます。

一方、客のほうには、お茶屋遊びをしたいという欲求が依然としてあった。そこで遊女とは一線を画した「芸者」が登場するわけです。遊女が担えなくなった芸を、芸者が代わりに引き継ぐという流れです。しかし芸者はあくまでも「芸」者ですから、お座敷に出て芸は見せるけれども、身は売らない。もし体を売ってしまうと、遊女のテリトリーを侵してしまいます。芸者は芸を売り、遊女は体を売るという、異なる役割分担で共存し、遊廓文化を支えていく時代が江戸時代の中期以降は続きます。

明治になると、遊女の存在自体を女性差別と見なす、近代的な売春否定の議論が出てきます。そこで、遊廓で芸を見るよりは、芸者がいる所で芸を見るということが始まります。東京の新橋や柳橋は、そのように発展した芸者専門の街です。

変わる遊びの意味 芸能から芸術へ

遊びとして遊廓で享受されてきた「芸能」が、近代になると「芸術」となり「文化」になります。俳句がつくりたければ、俳句クラブに行くでしょうし、茶道をしたければ、遊廓ではない所でお茶の稽古に行く。遊廓に存在した芸能活動が、「遊女は売春婦だ」という近代的な女性観の台頭と並行して、遊廓から引き上げられ別の空間に移行したということです。

したがって近代的な感覚では、茶道、華道、歌舞音曲などを「遊芸」ではなく「芸術」と捉えるようになっています。本来は遊廓の座敷が劇場であり、文化サロンであったものが、劇場や茶室など、遊廓とは独立した施設が設けられるようになる。芸者も、歌舞練場という、そのための施設で芸を見せることになります。芸者さんは今でもお座敷で芸を見せますが、東京ならば新橋演舞場などで芸を見せるのが晴れ舞台ということになります。そういう場所では、客は芸に特化して鑑賞
するのです。遊廓の場合は客の負担額も多く、そこに揚がる時点で客側にマナーが備わっているという、一種の社会的選別が機能していたのですが、劇場では匿名の観客を受け止めねばならない。飲食と芸は遊びの空間では一緒になっていましたが、近代的な芸術空間では別のものになっていきます。近代劇場で一度に大勢の人間に芸を見せるとき、モラルを守りながら飲食をするというのは難しいからです。

やはり大衆化ということが大きいでしょうね。遊廓のような緊密なコミュニケーションがとれる芸能空間というのは小規模でないといけない。しかし、四民平等になり、高度な芸能を多くの市民が平等に享受すべきだと言われれば、大きな劇場で収支を合わせるという発想も必要になってくるのでしょう。

参加するとは? 遊びをめぐる主客関係

――ただ、遊びと飲食が一緒に行われる例として、現在でもディナーショーなどがありますね。しかし、これは見ているだけで参加を要求されません。遊廓のように、互いにうまく関わらないと遊びが成立しないという楽しみが、失われてきている気がしますが。

遊廓というのはまさにサロンでして、少ないけれど見る目の厳しい観客が同じ平面にたくさんいて、お互いがパフォーマーであり、逆に観客になりというように、役割が自在に転換します。

15年ほど前に、片岡孝夫さん(現・十五代目片岡仁左右衛門)がこんなことを言っておられました。昔は、舞妓さんや芸妓さんが観に来るときが一番怖かったと。でも最近はそうでもない。なぜなら、彼女たちがかつてほど芸を理解しなくなり、同じ芸事に励む者としての厳しい目が、少なくなってしまったというのです。

――「匿名の客として見る」ことがどんどん膨らみ、逆に、「サロンとして参加する」ことはどんどん少なくなっていますが。

昔の旦那衆は、遊廓に通うためにお稽古事をするという余裕がありましたが、今のサラリーマンには金銭の問題だけでなく、時間的余裕もなくなっています。ライフスタイルも違いますし、仕事が忙しすぎる。中高年から壮年の年代が、サロンをつくること自体、難しい。では定年後の老人クラブでよいのかというと、それもちょっと寂しい。サロンは文化をつくってきたわけですから、働き盛りの人が、社会の仕事もして、お稽古事もできるくらいのライフスタイルに日本社会が変わっていけばよいのですが。

遊女の芸能は、歴史の表面から忘れられがちですが、今のように「歴史に残そう」などという気持ちがなかったからこそ、一瞬の輝きというのがあった。それこそが粋ということだったのでしょうね。そういう意味では、「一瞬」という場が少なくなった現代は、粋になれる場が少なくなったということかもしれません。



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