機関誌『水の文化』61号
水が語る佐渡

佐渡
概論1

佐渡が示す人と自然の共生モデル

人の手で道遊脈と呼ばれる鉱脈を削りとってできた「道遊の割戸」。割れ目は幅がおよそ30m、深さがおよそ74m

人の手で道遊脈と呼ばれる鉱脈を削りとってできた「道遊の割戸」。割れ目は幅がおよそ30m、深さがおよそ74m

佐渡の文化や歴史的価値をどう捉えればよいのだろうか。佐渡金銀山の世界文化遺産への登録準備が進むなか、五十嵐敬喜さんは「金山を支えた『無形なもの』にも着目すべき」と説く。市民による世界遺産登録運動の支援活動を各地で行なう五十嵐さんに、「庶民の労働が支えた佐渡文化」をテーマに話を伺った。

五十嵐 敬喜

インタビュー
弁護士 法政大学名誉教授
五十嵐 敬喜(いがらし たかよし)さん

1944年山形県生まれ。専門は都市計画、立法学、公共事業論。法政大学教授、内閣官房参与、日本景観学会会長などを歴任。不当な建築や都市計画による被害者の弁護活動に携わる。佐渡関連の著書に『甦る鉱山都市の記憶 佐渡金山を世界遺産に』(編著)がある。

文化と自然を兼ね備えた島

日本には、世界があっと驚くような島が二つあります。一つは沖縄本島です。琉球王国のグスクおよび関連遺産群で世界文化遺産に指定されているうえ、北部の森「やんばる」も世界自然遺産の登録準備中です(注1)。あんなに小さな島に文化遺産と自然遺産が共存しているところは思い当たりません。

その沖縄本島と双璧をなすのが佐渡です。佐渡金銀山は世界文化遺産の国内候補地であり、トキの復活が象徴するように自然と人の営みが共存する島です。すでに世界農業遺産に登録されています。

つまり、東京23区の1.5倍ほどの面積で人口6万人ほどの佐渡は文化遺産と自然遺産の両方を兼ね備えた世界的な存在になる可能性を秘めているのです。しかも流刑地だった歴史があり、能や鬼太鼓(おにだいこ)など独自の文化も残っています。北前船の寄港地として栄えた小木(おぎ)港を支えた宿根木(しゅくねぎ)という独特な景観を保つ集落もあります。

佐渡は不思議な魅力に満ちています。個々の文化や自然を評価するだけでなく、時間軸に沿って島全体を捉えると、別の意味合いが見えてくるかもしれません。

(注1)やんばる
沖縄本島北部地域一帯を指す「山原」の通称。やんばるは世界自然遺産候補「奄美大島、徳之島、沖縄島北部および西表島」の構成資産の一つであり、2020年夏の登録を目指している。

鉱山都市・相川の陰にあるもの

佐渡金銀山の中心地は相川(あいかわ)という集落です。戦国時代には家が十数軒しかない海辺の寒村でしたが、金銀山が発見されて1601年(慶長6)に江戸幕府の直轄地となると、代官所(のち奉行所)が相川に置かれました。江戸時代前期には4〜5万人が暮らしたと推定される大都市になり、「相川には江戸の文化がすべてそろっている」とまでいわれたそうです。

金銀山の象徴的な存在も相川にあります。「道遊(どうゆう)の割戸(わりと)」です。巨大な金脈を掘り進むうちに山が㈸字型に割れた江戸時代の露天掘り跡です。私は最初に見たとき感動を覚えました。人々が山の表面に出ている鉱脈を土砂ごと削りとり、山の形すら変えてしまった事実に、人の営みの凄まじさ、執念といったものを感じたからです。

そうした輝かしい繁栄を物語る資産がひしめく佐渡金銀山に、ある意味での「深みと凄み」を与えるものとして「寺院」「無宿人(むしゅくにん)(注2)」「遊郭」があります。相川には寺院が多く、人口比で考えると日本有数の密度。また、坑内でもっとも過酷な排水作業にあたる水替(みずかえ)人足として、幕府は1778年(安永7)を皮切りに1800人余りの無宿人を佐渡へ送り込みます。

相川には「無宿人の墓」が残っていますが、1853年(嘉永6)に坑内事故で犠牲になった28人こそ墓碑があるものの、そのほかの無宿人たちは名前すら記されていません。その無宿人と遊女の心中物語を作家の津村節子が『海鳴』で描いたように、「水金(みずかね)遊郭」など遊郭もありました。

繁栄の史跡だけでなくこうした悲劇も包み隠さず明らかにした方が、佐渡の文化の深さがより伝わると思います。金銀山はゴールドラッシュと繁栄をもたらしましたが、それは庶民の苛烈な労働によって支えられていたのですから。

(注2)無宿人
江戸時代に失踪や勘当、貧窮による離村などによって人別帳から名前を外された人のこと。18世紀後半、幕府に社会不安を起こす存在と見なされ、佐渡へ送られた。

)江戸時代の相川のまちなみを描いた『佐渡一国海岸図』(部分)。江戸と同じような町割がなされた(相川郷土博物館蔵)

江戸時代の相川のまちなみを描いた『佐渡一国海岸図』(部分)。江戸と同じような町割がなされた(相川郷土博物館蔵)

産業遺産を越える佐渡のストーリー

明治維新で佐渡金銀山は政府直営となり、宮内庁を経て民間企業に払い下げられ、大型機械による近代化で再び大増産します。このストーリーを聞くと産業遺産に目が向きがちですが、「人」が介在することを忘れてはなりません。

(たがね)だけで地下深く掘った坑道、そこから湧き出る排水の技……佐渡の、特に江戸時代までの人の営みはすばらしいし、わかりやすく残っています。まるで私たちに「人間とは何者か」という命題を突きつけてくるかのようです。

そして、明治時代以降の羽根を狙った乱獲やエサ場の減少、農薬の影響などによって絶滅してしまったトキが、佐渡で復活しました。

2008年(平成20)9月に試験放鳥が始められましたが、あのときはたった10羽です。10年経ち、野生化したトキは300羽を超えました。その陰には農家をはじめとする住民の努力と関係者の支えがありました。

トキの復活を目指し、新たに人と自然の関係をつくり直したことも、まさしく佐渡の文化です。そこには、私たちがこれから目指すべき自然との調和、生きものとの共生のモデルがあります。

人の営みを伝える鉱山や景観、さらにトキが示した未来への展望—これらが渾然一体となった島だからこそ世界遺産にもふさわしい。私はそう考えています

佐渡金銀山関連の略年表
西暦年号出来事
平安時代末 『今昔物語集』に能登の人(砂鉄採取集団の長)が佐渡で砂金を採取したと記録される
室町時代 世阿弥が佐渡に配流となり、小謡集『金島書』を著す
1460寛正元西三川砂金山で本格的に砂金採取が始まる
1542天文11越後の商人により鶴子銀山の採掘が始まる
1601慶長6鶴子銀山の山師たちによって相川金銀山が開発される
1603慶長8大久保長安が佐渡代官になる
1604慶長9鶴子の代官所(陣屋)を相川に移す
1618元和4代官所を佐渡奉行所と改称する
1621元和7佐渡で小判の製造が始まる
1636寛永13洪水で相川の割間歩(わりまぶ=民間請負の抗)が冠水、260艘の樋が水埋りとなる
1637寛永14京都から水学宗甫が来島し、水上輪のつくり方を伝授
1663寛文3割間歩の稼ぎを中止し、これに反対した山師や町人総代を投獄。多くの人が職を失い、3000人以上の餓死者が出る
1696元禄9総延長およそ1kmの南沢疎水道が完成
1778安永7初めて江戸から無宿人60人が出雲崎を経て小木へ到着。相川金銀山で水替人足として働く
1783天明3オランダ水突道具(フランカスホイ)を排水に利用
1825文政8金銀山に献金した町人に苗字や屋号を名乗ることを許可
1869明治2佐渡金銀山が明治政府直営の「佐渡鉱山」となる
1872明治5西三川砂金山が閉山
1887明治20高任選鉱場と大間港を日本初の空中ケーブルでつなぐ
1892明治25佐渡鉱山専用の相川大間港が完成
1896明治29佐渡鉱山が三菱合資会社に払い下げられる
1900明治33新潟県初の水力発電所「高任発電所」が稼働する
1929昭和4相川で浜石の採取を始める
1940昭和15相川北沢に東洋一の浮遊選鉱場が完成
1946昭和21鶴子銀山が閉山
1989平成元佐渡鉱山が操業を休止する

参考文献
『佐渡金銀山展 図録』(2009)、『黄金の島を歩く―佐渡金銀山の歴史と文化―』(2010 )、『再発見!佐渡金銀山』(2018)など(いずれも新潟県&佐渡市が編集・発行)

(2018年12月18日取材)

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