機関誌『水の文化』61号
水が語る佐渡

佐渡
棚田

江戸期の記憶留める 棚田

上から見た岩首昇竜棚田。棚田の向こうには海が広がり、天候がよければ新潟県の弥彦山や飯豊連峰も一望できる

上から見た岩首昇竜棚田。棚田の向こうには海が広がり、天候がよければ新潟県の弥彦山や飯豊連峰も一望できる

江戸時代初期、金銀山の発見で人口が急増すると米が足りず、島外からも運んでいた佐渡。山間に広がる美しい棚田の多くは、この時期に拓かれたとされる。急斜面に天水(雨の水)を巧みに巡らせる工夫を「岩首昇竜(いわくびしょうりゅう)棚田」で見た。

竜が昇るように拓かれた棚田

落葉広葉樹の森の間を縫うように、大小さまざまな形をした水田が連なっている。下から見上げると、まるで天に向かって竜が昇っているかのよう――。ここ「岩首昇竜棚田」は、小佐渡山地の東側の海沿いの集落・岩首にある。江戸時代初期から一度も途絶えることなく稲作を続けている。

「慶長年間(1596-1615)の検地帳によると、この集落は22軒から始まったそうです」と言うのは、廃校を活用した交流拠点「岩首談義所」の代表で、佐渡棚田協議会の会長も務める大石惣一郎さんだ。

岩首集落は56戸、126人が暮らす。12~13haほどの棚田は海抜30mから470mと標高差が大きく、佐渡でもっとも急勾配といわれる。上から眺めると棚田の向こうに青い海が広がっている。

「昇竜と言ったのは最近ここに遊びに来た学生なんだ。それで『岩首昇竜棚田』と呼ぶように。私にはどうってことない景色だけどね」

大石さんはそううそぶいた。

岩首昇竜棚田を案内してくれた大石惣一郎さん。言葉の端々にこの土地への愛着が感じられる

岩首昇竜棚田を案内してくれた大石惣一郎さん。言葉の端々にこの土地への愛着が感じられる

集落の総意で植えなかった杉

岩首にはダムも溜池もない。森が蓄え、山からしみ出てくる沢の水だけで米を育てている。

「上の田んぼに水を入れて、そこから下の田んぼに落とす『田越(たご)し』です。昭和50年代に基盤整備をする前はすべてそのやり方でした」

今も部分部分で田越しは残る。しみ出る水は冷たいので、じかに田へは入れない。「江」を通った水を「そ江」(注)で巡らせ温めてから入れる。大石さんは、「水を融通し合う田越しは人間関係を密にするものでした」と言う。

昔も今も岩首の棚田の水を支えているのは落葉広葉樹の森。地名からわかるようにもともと岩だらけの土地に広葉樹の葉が降り積もり、そこに木が生えている。杉など針葉樹はほとんど目につかない。

「岩首では米のほかに木炭と竹が収入源でした。戦後、杉の植林が推奨されましたが、杉から木炭はつくれない。集落で話し合って杉を植えるのはやめたのです」

その英断が江戸時代からの棚田中心の暮らしを維持させた。

「でも、8月になるとカラッカラに乾くこともあってね。そのときは雨が降るのを願うだけです」

(注)そ江
田んぼのなかにまるで寄り添うようにあるため、漢字をあてるとすれば「添江」だが定かではない。

  • 落葉広葉樹の蓄えた水がほとばしるように流れる岩首の沢

    落葉広葉樹の蓄えた水がほとばしるように流れる岩首の沢

  • 冷たい山の水が流れる「江」

    冷たい山の水が流れる「江」

  • 「江」を経た水は「そ江」で温めて田に入れる

    「江」を経た水は「そ江」で温めて田に入れる

ゆがんだ田に残る先人たちの心

見事な棚田の風景と暮らしに惹かれて、岩首を繰り返し訪ねる人たちがいる。首都圏の大学生たちも毎年400人ほどやってくる。十数年前、大石さんが一人で始めた棚田散策ツアーがきっかけだ。

「最初は『こんな田舎に人が来るわけがない!』と変人扱いされましたね。でも昔の人がつくった棚田を見て、その価値をわかってくれる人がいるかもしれないじゃないか、と考えたのです」

大石さん自身、「こんな暮らしは嫌だ」と島を飛び出し、15年ほど東京で暮らしていたことがある。

「朝から晩まで働く母は『お金がない』と嘆いていました。ここは、ホントは人が住むところじゃないんだよ!」と大石さんは笑うが、それが本心であるはずがない。

岩首には江戸時代のままの形の田がまだ残っている。その一つ、「十杯田んぼ」を見た。ゆがんだ形をした、小さな小さな田んぼだ。

「わずかな土地でも大事に、一粒でも多く米をとろうとした先人の心が残っているようだね」と大石さん。鉱山の水利技術とのつながりは証拠がなく判然としないものの、古の工夫は今も生きている。

  • 「十杯田んぼ」を案内する大石さん。その名の通り、ごくわずかな量の米しかとれなくても大事に使われてきた古い田

    「十杯田んぼ」を案内する大石さん。その名の通り、ごくわずかな量の米しかとれなくても大事に使われてきた古い田

  • 岩首集落には明治末期まで採掘されていた小規模な金山があった。川沿いの崖にぽっかりと空いた坑道がその名残

    岩首集落には明治末期まで採掘されていた小規模な金山があった。川沿いの崖にぽっかりと空いた坑道がその名残

(2018年11月15日取材)

金銀山を支えた鉱山水利と食糧増産

五十嵐 敬喜

佐渡市世界遺産推進課 係長
宇佐美 亮さん

佐渡島の特異な点は、旧小木町以外のすべての市町村で、金、銀、銅、鉛、砂鉄などの鉱物がとれたことです。400年近い鉱山の歴史があるため、採鉱、製錬、排水の新技術が次々に入ってきます。

排水は、当初は釣瓶(つるべ)を用いました。その後、スポイトの原理を用いた「寸法樋(すぽんどい)」が導入されますが佐渡には合わず、「水上輪(すいじょうりん)」が登場します。

水上輪は100年ほど使われますが、その後、水田にも転用されます。鉱山で水上輪が使われなくなって仕事が減った職人たちが農業用につくりさらに普及したとも言われています。水上輪は国中平野を流れる国府川(こくふがわ)でも多く用いられました。以前は納屋の軒先に吊るされた古い水上輪を見かけましたし、平成10年ごろまでは水上輪をつくっていた職人もいました。

一方、江戸時代初期に人口が急増したので、食糧の増産が課題でした。大久保長安は石見国から3人の漁師を呼び寄せて鑑札を与え、彼らがどの浦でも漁をすることを許します。漁師たちが移り住んだ漁村「姫津(ひめづ)」は今でも石見姓の方がたくさん住んでいます。

もちろん米も重要ですので、新田開発が行なわれました。くわしい記録はないのですが、相川に近い「鹿伏(かぶせ)」と「小川」は相川金銀山のために開かれた棚田とされています。それでも足りず、米やその他の食糧は島外から仕入れていました。それほど当時の佐渡は栄えていたんですね。

海沿いの段丘上につくられた小川の水田。圃場整備を終え、方形状の田となった

海沿いの段丘上につくられた小川の水田。圃場整備を終え、方形状の田となった

(2018年11月15日取材)

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