機関誌『水の文化』63号
桶・樽のモノ語り

城下町と水の聖地
島原城下町を「水の聖地」から読み解く

日本には古代以降に成立した城が数多く存在し、その数は4万ともいわれる。「城フェス」なるものが開かれ、城好きな女性たちが「城ガール」と呼ばれるように、今も城そのものへの関心は高いが、城を拠点に発達した城下町を地形や地質に基づく「水への精神性」の視点から読み解こうとする人はいない。「水から読み解く城下町」を調べている法政大学デザイン工学部教授の髙村雅彦さんの研究について、長崎県の島原城下町を舞台として紹介する。

髙村研究室提供の資料および『カシミール3D』をもとに編集部作図

髙村研究室提供の資料および『カシミール3D』をもとに編集部作図

髙村 雅彦

法政大学デザイン工学部教授
江戸東京研究センター プロジェクトリーダー
髙村 雅彦(たかむら まさひこ)さん

1964年北海道生まれ。法政大学大学院博士課程修了。2008年より法政大学デザイン工学部建築学科教授。専門はアジア都市史・建築史。1999年前田工学賞、2000年建築史学会賞を受賞。2013年上海同済大学客員教授。主な編著書に『水都学Ⅰ~Ⅴ』(法政大学出版局、2013年~2016年)、『タイの水辺都市―天使の都を中心に―』(法政大学出版局 2011)、『中国江南の都市とくらし 水のまちの環境形成』(山川出版社 2000)など。

「水の聖地」から探る都市の成り立ち

日本における城は、時代とともに山城から平山城、平城へと変化していった。これらの城はいずれも往時の為政者が地形や地質に基づき選んだ場所である。そして武家が政権を握っていた鎌倉時代以降、領主が居住する城を中心に家臣や商工業者が住み、城下町が生まれた。その最大のものが江戸、すなわち今の東京である。

古来、人々は飲み水を確保できる場所を選んでは移り住んできた。それはもちろん城下町も例外ではない。髙村さんは、城が置かれ城下町となって栄えた理由を、水にまつわる神社や祠など聖なる場から探ることで、現在の都市の形成につながる構造が鮮明にわかるのではないかと考えている。

「私が長年取り組んでいる水の都市、いわゆる『水都』を読み解く研究には、河川や運河、港湾、防災などさまざまなテーマがあります。しかし、水が本来備えている精神性が水都の成立にどう影響しているのかという視点はないと思います。そのアプローチの一つとして、日本の城下町を対象に神社や祠など『聖なる場所』に着目したのです」(髙村さん)

城下町という都市空間に対して、水に依拠する聖地がどのように成り立っているのか。髙村さんは次の三つの特徴を見出した。

  1. 為政者が自然環境に対して秩序を見出し、都市の枠組みを「環境領域」として定める。
  2. 自然と都市の境界に水の聖地を祀り、その分布から「都市領域」を設定する。
  3. 湧水などの水場が「水神」など民衆の信仰の対象となり、同時に共同体を支える求心力となる。

これらを通じて、自然や古代中世の基層構造のうえに近世の生活文化が形成される。この研究の一端を知るため、島原城を擁する長崎県を髙村さんと訪ねた。

  • 「水の聖地」概念図 髙村雅彦さん提供の資料をもとに編集部作図

    「水の聖地」概念図
    髙村雅彦さん提供の資料をもとに編集部作図

  • 1616年(元和2)に大和(奈良県)五条から島原に移封した松倉豊後守重政が1618年から7年ほどの歳月を費やして築いた島原城

    1616年(元和2)に大和(奈良県)五条から島原に移封した松倉豊後守重政が1618年から7年ほどの歳月を費やして築いた島原城

「環境領域」を半島の洞穴に見る

まずは「環境領域」だ。

昼なお暗き参道を歩くと、大きな洞穴の前に祠があった。「岩戸神社」の本殿だ。しかし髙村さんは「こちらに来ていただけますか?」とその右手にある窪地へと誘う。小さな洞穴が二つあり、祠もある。これが、岩戸神社がこの地の「環境領域」である証なのだと言う。

「奥の洞穴には山の神『大山祗神(おおやまづかみのかみ)』が、手前の洞穴には水の神『水波之賣神(みずはめのめがみ)』が祀られています。環境領域の特徴は二つあって、一つは水が出る場所ということ。ここが水源となって人々を潤すので水の神様を祀ります。二つめは、水が出る場所は山との境界でもあるので山の神様も祀るのです」

髙村さんによると、東京ならば練馬区の三宝寺池(さんぽうじいけ)、杉並区の善福寺池などにも山と水の神様がいる。つまり江戸の環境領域だ。

ただし、岩戸神社は島原市の隣、雲仙市瑞穂町の環境領域となる。

「ここはわかりやすい場所なのです。実は、島原城下の環境領域を示す神社は度重なる雲仙岳(注1)の噴火で地形と地質が大きく変わったため、まだ見つかっていません。ただし都市領域は残っていますので、次はそこに向かいます」

(注1)雲仙岳
長崎県南東部の島原半島中部にある火山群の総称。活火山で常時観測火山。温泉岳とも書く。普賢岳(1359m)、国見岳(1347m)、妙見岳(1333m)などから成る。

右が山の神「大山祗神(おおやまづみのかみ)」、左が水の神「水波之賣神(みずはめのめがみ)」が祀られている岩戸(いわど)神社の洞穴。洞穴からは水が流れており、縄文時代以前からの住居跡と推定される

右が山の神「大山祗神(おおやまづみのかみ)」、左が水の神「水波之賣神(みずはめのめがみ)」が祀られている岩戸(いわど)神社の洞穴。洞穴からは水が流れており、縄文時代以前からの住居跡と推定される

島原城下を潤した「都市領域」の神社

島原城下の都市領域を示す場所のなかで「温泉熊野神社」を訪ねた。1618年(元和4)から7年の歳月をかけて築かれた島原城のそばに、下士(かし)をまとめて住まわせた武家屋敷が残る。この武家屋敷は1669年(寛文9)に松平忠房が藩主として入封してから街路に水路を引いたのだが、その水源が温泉熊野神社。訪問時、あいにく湧水は見られなかったが(注2)、重要な水源であることに変わりはない。

「武家屋敷に水を供給していたため、水奉行が管理した場所です。天照大御神(あまてらすおおみかみ)と氏神の二神が祀られていますが、氏神とは水の神『水波之賣神』ではないかとにらんでいます」

温泉熊野神社と同じく島原城下の都市領域を示すのが水神を祀る「江里(えさと)神社」だ。御神木の大楠の根元から水が湧き出し、苔むした石組みが下方へと水を導く。

「江里神社はずいぶん調べましたが、いつどのようにして建立されたものなのか判然としません。しかし、このような山の出っ張りの縁から水が出ている場所には水神が祀られているケースはとても多いので、私たちの研究室ではこうした場所を『縁(へり)理論』と名づけています」と髙村さん。

温泉熊野神社も江里神社もはっきりしたことがわからない。しかし、裏返せばそれほど古くからあったという見方もできる。

(注2)温泉熊野神社の湧水
島原市しまばら観光おもてなし課によると、温泉熊野神社の湧水が乏しくなったため、今、武家屋敷の水路には別の水系から水を引き入れているという。

  • 町筋の中央を水が流れる島原城の武家屋敷。温泉熊野神社を水源とし、水奉行の管理のもと飲料水として使っていた

    町筋の中央を水が流れる島原城の武家屋敷。温泉熊野神社を水源とし、水奉行の管理のもと飲料水として使っていた

  • 武家屋敷から北へ約2kmの距離にある温泉熊野神社と水のない水路。開発が進んだ関係で数年前から湧水の量が減っている

    武家屋敷から北へ約2kmの距離にある温泉熊野神社と水のない水路。開発が進んだ関係で数年前から湧水の量が減っている

  • 雲仙岳からの湧水が湧く江(恵)里神社。湧水量は1日1万3000トンとされる

    雲仙岳からの湧水が湧く江(恵)里神社。湧水量は1日1万3000トンとされる

移動する水神と変わらぬ信仰心

縁理論に合致し、また湧水が信仰の対象になっている場所は、島原城下に数多くある。

江里神社から海の方へ下った「宇土出口湧水」は、崖下にありまさに「縁」だ。豊かな水が湧き出しており、まるで池のように溜められた水場の中央に「韋塚(いづか)」と彫られた石碑が立つ。

宇土出口湧水のすぐ脇にある本村商店のおかみさんによると、この水場は今でも町内の人たちが定期的に掃除し、献花もしているそうだ。さらに本村商店の敷地内にも水が湧いており水神が二つ祀ってある。じっと見つめていた髙村さんは、水神の一つに「水神社」と彫られていることに気づいた。

「これは珍しい!ふつうは『水神』の二文字だけですから。かつてはお社もあったのではないですか?」とおかみさんに尋ねる。

「もともとここは川のようになっていて、真ん前に水神さまが二つありました。道路の移設が決まりつぶされそうになったので、水神さまを少しだけ移動させていただいたのです」とおかみさんは言う。

宇土出口湧水の南側にある「生穂神社」は、1991年9月の「平成3年台風第19号」によって社が壊れたため崖の上から下に移したそうだ。石の鳥居には1773年(明和9)と刻まれている。古くから雲仙岳の伏流水が湧く場所で、昔も今も住民によって維持されている事実を示す。湧水が「水神」として信仰され、その維持活動が共同体も支えているという構造がわかる。

  • 石碑が建てられている宇土出口湧水。かつて野菜を育てる農家の人たちがここで水を汲んでは軽トラックに積んで畑まで運んだという

    石碑が建てられている宇土出口湧水。かつて野菜を育てる農家の人たちがここで水を汲んでは軽トラックに積んで畑まで運んだという

  • 本村商店の敷地内にある湧水と水神の石碑

    本村商店の敷地内にある湧水と水神の石碑

  • 石碑の1つには「水神社」と刻まれている

    石碑の1つには「水神社」と刻まれている

火山活動による自然の脅威と恵み

島原城下の湧水は雲仙岳の伏流水だ。例えば、武家屋敷には熊野温泉神社から湧く水のほかに、「御用御清水(ごようおしみず)」がある。すぐそばには髙村さんが調査時にお世話になった松本邸から湧く水が「量石(はかりいし)」から南北二方向に分水されており、南側の水路は今も雑用水や農業用水として使われている。

こうした豊かな湧水を語るうえで避けて通れないのが、雲仙岳の火山活動だ。島原の湧水群の多くは、1792年(寛永4)の噴火に伴う群発地震および城下町の背後にそびえる眉山(まゆやま)が崩壊(眉山崩れ)した「島原大変」(注3)で生まれたもの。眉山からの土石流は城下町を直撃し、12.4km2を埋め尽くして海中になだれ落ち、津波まで引き起こす大惨事となった。陥没した土地に雲仙岳の伏流水が満ちてできたのが上水道の主要な水源「白土湖(しらちこ)」。また、島原全体の氏神である猛島(たけしま)神社も、海に浮かぶ陸繋島(りくけいとう)から地続きへと変貌した。

「島原大変前の図面を見ると、猛島神社から続いて東照宮があり、さらに松島弁財天宮もあります。これらは島原城が築かれる前から水が湧く聖地でした。猛島神社には水神様が10体ほど祀られていて、地形的にはバリ島にあるタナロット寺院(注4)と似ていますね」

島原大変の土石流は、城の南側にある町人地の大半を埋めてしまい、海辺も陸地化するなど城下の地形を大きく変えた。地質も変化したことで、雲仙岳の山頂付近に降った雨が伏流水となり、市内各所に湧き出すようになった。

「眉山崩れで溶岩が流れ込みました。溶岩は非常に重いので、その下にあった地下水脈に圧力がかかり、地中の割れ目から水が噴き出した。つまり、島原城下は災難と恩恵の両方を受けたまちなのです」

髙村さんたちは島原大変の前後の古地図を見比べ、また現地を歩いて「眉山崩壊ライン」を設定。土石流に覆われた地に湧水が多いことを確認し、図面化もしている。

自然の脅威と恵みという相反するものを受け取っているからこそ、住民は水神を祀り、供え物を欠かさないのだ。

(注3)島原大変
崩壊した眉山の土砂が流れ込んで起きた津波は、有明海を挟んだ肥後国(熊本県)に押し寄せ、また再び島原に戻ってきたとされ、およそ1万5000人が犠牲となった。「島原大変、肥後迷惑」とも呼ばれている。

(注4)タナロット寺院
バリ島中部タバナンの海沿いにある寺院。海のなかに立つ大きな岩の上に建ち、水が湧いていて、蛇を祀っている。

  • 島原城下の噴火の履歴と海岸線の変遷 髙村研究室提供の資料および国土地理院基盤地図情報「長崎」をもとに編集部作図

    島原城下の噴火の履歴と海岸線の変遷
    髙村研究室提供の資料および国土地理院基盤地図情報「長崎」をもとに編集部作図

  • 藩主・松平忠房が武家屋敷一帯の生活用水として設置した御用御清水。三の丸の用水として建設されたもの

    藩主・松平忠房が武家屋敷一帯の生活用水として設置した御用御清水。三の丸の用水として建設されたもの

  • 湧水を南北の二方向に分けるために設けられた「量石」。南側(左)に流れる水は今も使われている

    湧水を南北の二方向に分けるために設けられた「量石」。南側(左)に流れる水は今も使われている

  • 島原大変で生まれた窪地に多量の地下水が湧き出してできた白土湖。湧水量は1日あたり4万トンと推定

    島原大変で生まれた窪地に多量の地下水が湧き出してできた白土湖。湧水量は1日あたり4万トンと推定

  • 猛島神社に祀られた水神。猛島神社は島原城が築かれる前からこの地にあり、地元の人々に崇敬されていた

    猛島神社に祀られた水神。猛島神社は島原城が築かれる前からこの地にあり、地元の人々に崇敬されていた

  • 雲仙岳の一つである眉山とそのふもとに広がる島原市の風景

    雲仙岳の一つである眉山とそのふもとに広がる島原市の風景

水への認識を変えた豪商たちの湧水庭園

髙村さんの研究室では、かつて「島原プロジェクト」と題して、江戸時代から続く漁師町、明治時代に石炭の輸送拠点として栄えた湊新地、昭和初期から発展した商店街の三つのエリアでフィールドワークを行なった。このうち、城の南側にある万町、堀町、中堀町からなるアーケード商店街は、建物と町割の変化を実測も含めて詳細に調べた。島原名物・かんざらしを提供する明治期からの「しまばら水屋敷」、医師の別荘として大正期に建てられた「湧水庭園 四明荘(しめいそう)」などで湧水を利用した庭園が公開されている。

しかし髙村さんによると、「湧水を家庭に引き込む」という行為は、近年まで避けられていたそうだ。

「明治・大正期までは木造建築だったため、木が腐ることを恐れていたからです。ただし、豪商たちが庭園に湧水を取り入れるとイメージが変わり、湧水庭園は庶民の『憧れの庭』となっていきました」

商店街を歩くと各所に湧水があり、水神が祀られている。その一角にある湧水庭園のある屋敷で、生田忠照(いきたただてる)さんとお会いした。髙村さんの紹介だ。建設会社を営む生田さんは、取り壊しが決まっていた湧水庭園を屋敷ごと買い取り「湧水亭」と名づけた。「つぶしてしまったら二度とつくれない、この雰囲気ある庭園と屋敷をどうしても残したかったので、借金をして購入しました。いずれは島原の宝になるはずです」と生田さんは語る。

水の流れる庭園は眺めているだけで心落ち着く。当初は家のなかに水を引くことに抵抗があったものの、豪商たちが湧水庭園を愛でることで次第に人々の認識が変わったという話は、水の文化の移り変わりを考えるうえでも興味深い。

  • 湧水亭の見事な庭園。かつて呉服屋「長池屋」の店舗兼住居だったものを生田忠照さんが購入し地域活性化のために用いる

    湧水亭の見事な庭園。かつて呉服屋「長池屋」の店舗兼住居だったものを生田忠照さんが購入し地域活性化のために用いる

  • 湧水を活かした島原のまちづくりについて語る生田忠照さん

    湧水を活かした島原のまちづくりについて語る生田忠照さん

  • 清らかな水で満たされた四明荘の庭園。四方(東西南北)が風光明媚で明るいためこの名がついた。敷地内には1日3000トンほどの水が湧く

    清らかな水で満たされた四明荘の庭園。四方(東西南北)が風光明媚で明るいためこの名がついた。敷地内には1日3000トンほどの水が湧く

  • 1978年(昭和53)、まちおこしで鯉を水路に放った四明荘の周辺は「鯉の泳ぐまち」として知られる

    1978年(昭和53)、まちおこしで鯉を水路に放った四明荘の周辺は「鯉の泳ぐまち」として知られる

「皆で一緒に」使う漁師町の湧水

湧水庭園のある商店街から車で数分の距離にもかかわらず、まったく異なる意味合いをもつ水場がある。それは漁師町である。

島原大変で海岸線が大幅に変わったため、漁師たちは集落そのものを移さざるを得なかった。その後、幾度もの埋め立てを経て今の漁師町が形成された。「浜の川湧水」はその一角にある。用途によって四つの区分を使い分けている現役の洗い場だ。

「大変前の地図を見ると、ここは陸地の先端でした。大変後、どういうわけかここから水が湧き出しました」と髙村さん。そこに地元の女性が洗い物を抱えてやってきた。管理方法を髙村さんが聞くと「町内の7班が週替わりで毎週掃除しています。年に一度は一世帯一人以上が参加して大井戸掃除です。ここから海の方までずっとね。水路の蓋を外して中も掃除します」とその女性が教えてくれた。

その後、今回同行してくれた法政大学大学院の加藤智也さんを先頭に漁師町の公共の井戸を三つ巡る。いずれも水神は立派な屋根付きの社に祀られており、恵比須様が祀られている井戸もあった。奇異に感じたのは、曲がりくねった細い路地に家々が隙間なく建ち並ぶなか、井戸の周りだけが広々としていることだった。

「私たちの調査によって、これらの井戸はかつてすべて海沿いにあったことがわかりました。水揚げした魚は真水で洗わなければならないので水場が必要です。漁師という生業は共同作業が多いので、漁網の手入れなどをしつつ相談事や情報交換をする場でもあったのです。かたや町人地(商店街)では『流れる水をどう使うか』を考えていますから、おのずと水場の意味も変わってくるのです」と髙村さんは言う。島原は、水に起因する人の暮らしの多様性が同時に見られる稀有な地域だった。

  • 地域の人たちの手で大切に管理されている浜の川湧水。水が湧く部分を塞がないように注意しながら、数年前に洗い場を改修した

    地域の人たちの手で大切に管理されている浜の川湧水。水が湧く部分を塞がないように注意しながら、数年前に洗い場を改修した

  • 浜の川湧水に祀られている水神

    浜の川湧水に祀られている水神

  • 法政大学大学院の加藤智也さん。ヨーロッパの「水の聖地」を研究している

    法政大学大学院の加藤智也さん。ヨーロッパの「水の聖地」を研究している

  • 恵比須様が祀られた漁師町(元船津町)の共同井戸。上水道が普及する前は広い範囲から人が水を汲みに来たという

    恵比須様が祀られた漁師町(元船津町)の共同井戸。上水道が普及する前は広い範囲から人が水を汲みに来たという

島原から学ぶ畏怖と崇拝の両面性

島原大変以降、城下町は様変わりしたが、平成時代の噴火でも変わったことは多い。1991年(平成3)6月3日、雲仙岳(普賢岳)で大規模な火砕流が発生して43人が死亡、数千世帯が避難を余儀なくされた(注5)。この噴火によって水の聖地=都市領域も変化した。その代表例が「折橋神社」だ。

「大山祗神と彌都波能売命が祀られています。山の神と水の神が揃っていますから、ここも水源の神様です」と髙村さんが見抜いたように、折橋神社ははるか昔に山を鎮め、水を治めるため建てられた。しかし、噴火から市街地を守るため砂防ダムの建設が決まり、数百m離れた場所に遷座された。

島原の人たちにも大きな影響を与えた。髙村さんの知人である北村正保(ただやす)さんは、噴火が終息する1年前、島原の水環境を守るために水資源を調査し、また水を活かした文化の発掘・継承を目的とする「げんごろう倶楽部」を立ち上げた。湧水亭の生田さんがまちづくりに携わるようになったのも平成の噴火がきっかけだ。

かつて人々は、災いと恵みをもたらす山や川、海など人智が及ばない存在に対して畏怖と崇拝の念を抱いていた。水が枯れては困るからと水神を祀り、供え物をするのはその一つの表れだろう。各地で災害が頻発するなか、雲仙岳を脅威に感じつつ、湧水という恵みには感謝の念を抱く島原の人たちから学ぶべきことは多い。

(注5)平成の噴火
1996年(平成8)6月3日に噴火終息宣言が出されるまで、島原一帯では火砕流や土石流などの被害が続いた。

  • 移転した折橋神社のそばにある湧水

    移転した折橋神社のそばにある湧水

  • 平成の噴火によって遷座された折橋神社。自然災害によって「水の聖地」が移動した例

    平成の噴火によって遷座された折橋神社。自然災害によって「水の聖地」が移動した例

  • 当時の町民住居図から、かつて折橋神社があったと思われる場所

    当時の町民住居図から、かつて折橋神社があったと思われる場所

  • 湧水を活かした島原のまちづくりについて語る北村正保さん

    湧水を活かした島原のまちづくりについて語る北村正保さん

全国の城下町の魅力高める新手法

今回は島原城下町を例にして、都市の枠組みを定める環境領域、自然と都市の境に神社や水神を祀って設定する都市領域、そして水場への信仰と共同体ごとの差異を見つめた。神社や祠を「水の聖地」とみなしてつぶさに回ることで、地形、地質と水脈の変化、さらに水の聖地そのものを動かすといった営みが明らかになったし、都市形成に至る基層構造のうえに災害や生業などの要因が重なって、水への意識や生活文化も変わりゆくこともわかった。

都市を包む空間に着目し、山の上から低地まで見渡して神社や祠といった「水の聖地」を探し、その意味を確認していく髙村さんの研究は、近年見えづらくなったまちの成り立ちや水の道など今の暮らしに至る根底を深く理解することにつながる。これは全国の城下町で応用可能な新たな手法であり、また城下町のこれまでとは違う魅力を引き出すものだと思う。あなたの気になる城下町を、「水の聖地」から読み解いてみてはどうだろう。

(2019年3月18~20日取材)

参考資料
『人づくり風土記42(長崎)』(農文協 1989)
『島原 歴史都市の復権』(法政大学デザイン工学部 髙村雅彦研究室 2010)

現代文明を見直す人と水の精神性

陣内 秀信

法政大学特任教授
陣内 秀信さん

古来、人は水のある場所に居住地を定めてきましたが、水をどのように用いて都市を形成してきたかはあまり研究されていませんでした。そこで私や髙村さんを中心に「水都学」を進めたのです。すると、日本の都市構造およびその都市を支えるシステムに、水が重要な役割を果たしていることがわかってきました。

日本は災害大国です。自然は恵みであると同時に災いでもある。洪水や高潮などの危険があっても、人はあえて水が入手できる土地に都市を築きました。その時代の為政者が意思や理念を反映させてつくった城下町に着目し、水をクロスさせることで日本の都市づくりのセオリーをあぶり出そうとする髙村さんの研究は興味深いものです。

日本は湧き水が豊富です。清らかな水には精神性が生まれやすい。西欧の人たちもローマ時代以前は水との精神的なつながりをもっていましたが、今は忘れてしまっています。そこには「都市の領域性の違い」も影響しています。

西欧は城壁で都市を囲み、内と外を切り分ける発想が強いですね。しかし湧水から発した川が数多く流れる日本では、水を都市に組み込んだからこそ内と外を完全には切り分けられませんでした。その代わりに地形を踏まえて神社を配置し、「環境領域」や「都市領域」を定めたと考えられます。こうした日本ならではの都市の領域と水の聖地の捉え方は、西欧の近代主義にはない発想でしょう。

とはいえ、西欧をモデルに近代化を推し進めた日本もそれを忘れていました。今、都市と人と水の精神性を取り戻すことは、人間中心に突き進んできた文明のあり方を見直すことになります。日本独自の価値観を世界に発信するうえでも、髙村さんの研究はとても重要だと思います。

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