機関誌『水の文化』65号
船乗りたちの水意識

ひとしずく
ひとしずく(巻頭エッセイ)

海を道に変えた祖先たち

台湾を出航して与那国島を目指す丸木舟 撮影:海部陽介(2019年7月7日)

台湾を出航して与那国島を目指す丸木舟 撮影:海部陽介(2019年7月7日)

ひとしずく

人類進化学者
海部陽介(かいふ ようすけ)

1969年生まれ。東京大学総合研究博物館教授。東京大学大学院理学系研究科博士課程を中退して、1995年から国立科学博物館人類研究部に勤務。2020年より現職。2016-2019年に「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」を代表として実施。著書にその活動を記録した『サピエンス日本上陸 3万年前の大航海』(講談社)などがある。日本学術振興会賞などを受賞。

地上を歩くとき、私たちは誰かが整えた道の上を歩く。しかし海に道はない。海上では、船乗りが自分で道を定める。

陸上の道は、どこかの目的地へと続いている。対照的に、海は世界のあらゆる陸地とつながっている。

しかし多くの陸上動物たちは、そんな海を渡れない。人類にとっても、700万年におよぶ進化史の大半において、それは同じだった。海は障壁であって、道ではなかった。

そんな海と人の関係が、旧石器時代のある時期、5万年前頃に変わりはじめた。それまで無人だったオーストラリア大陸やニューギニア島に、人類が移住してきたのだ。やがてフィリピン諸島や日本列島にも、人が渡ってきた。さらに時が経ち、新石器時代の数千年前に帆つきカヌーが発明されると、移住の波はハワイ諸島など太平洋の中心部にまで及んだ。人類の海洋進出の歴史は、こうして幕を開けたと考えられている。

しかし不思議だ。手漕ぎの小舟しかなかったはずの旧石器時代に、人々はどうやって危険な海を越えたのか?中でも、日本列島へ渡る経路の1つである沖縄ルートは、最大の謎だ。そこは今も昔も、世界最大級の海流である黒潮が行く手を阻み、隣の島が見えないほど広い海峡が存在する、難関だからだ。そんな琉球列島の全域で、3万5000~3万年前にさかのぼる遺跡が見つかっている。

祖先たちはこの海をどう渡ったのか。そもそも、それはどれほど困難なチャレンジだったのか――考えるだけではわからない。そこで私は研究者と探検家の合同チームをつくり、この海を自分たちで渡ってみることにした。考古学や民俗学の証拠から当時の舟を推定して復元し、それに乗って実験航海をするのだ。

ありがたいことに多数の支援者が現れ、必要資金はクラウドファンディングと寄付で調達できた。こうしてはじまったのが、前職の国立科学博物館で実施した「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」だった。

ところが、2016年から当初3年間の実験は、失敗の連続。最初に試したのは、草を束ねた舟。安定性と浮力に優れていたが、スピードが出ないため海流に流された。次に試したのは、竹のイカダ舟。これも黒潮を越えることができなかった。

こうした失敗を重ねながら「祖先たちが成功したわけ」を追求し、1つ1つプランを修正した。そうしてたどりついたのが、丸木舟という選択。私たちは2019年7月に、石器で作った丸木舟で、台湾から与那国島へ渡る実験航海に挑み、成功した。

男女の漕ぎ手5人は途中交代することなく、海上で二晩を明かし、黒潮を越え、水平線の彼方の見えない島へ、自力でたどり着いた。途中で海が荒れ、夜は雲で星が見えず、昼間は熱中症の危険にさらされたが、あきらめずに島を目指した5人が、やり遂げてくれた。

3万年以上前にはじめて日本列島へ渡ってきた人々の航海も、多かれ少なかれ、このようなものだったに違いない。そうやって海を道に変えた祖先たちがいることを、私たちは素直に誇っていいと思う。

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